歴史

2009年10月 2日 (金)

「火天の城」を観に行ったわけで。。

Img_119614z 金石と大野とを一緒に廻った友人とは、共に城マニア。朝には「火天の城」を観に行ってました。
金沢ではサティでなくコロナでやってるということで、初めて現地へ。日中の時間を有効にと思ってみたら、なんと第一回の時間は8時だって。そんな早朝の映画も初めてでした。

安土城築城のエピソードを綴ったこの映画は、総棟梁の西田敏行が主役。城づくりには大掛かりなセットや迫力あるCGをふんだんに使って魅せる作品になってました。ところどころ突っ込みたくなるポイントはあったけど、でも本格的な築城映画は初めてのはずでとても興味深いストーリーに仕上がってました。

作り手としては、西田敏行の岡部又右衛門の家族愛とか職人集団の団結とかをテーマにしたかったみたいだけど、あまり人間人間とした深みは伝わってこなかったかな?
エンドもラストエピソードが解決したら、あっというまに終わってしまったんで締りがなかったし。
それでも、大竹しのぶは味のある、たおやかな演技はすばらしかったし、緒方直人はかっこよかった。椎名桔平の信長はイマイチだったかな。

まぁあまり語るとネタバレになるといけないので。でも戦国時代など歴史好きには必見ですよ☆

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2009年10月 1日 (木)

金沢の沿岸の隠れたスポット☆

Img_119564z 21日は友人と早朝から映画を観た後、そこが海に近いとこだったので銭屋五兵衛記念館に行ってきました。
近くは何度も通ってるのに入るのは初めて。
銭屋五兵衛とは江戸後期、金沢近郊の港町、宮腰(今の金石)にあった豪商。はじめ質屋から北前船で財を築いた金沢では知らぬ者のいない有名人です。
Img_119568z 北前船とは江戸時代に日本各地を寄航しながら土地土地の物産を転売していった船で、主に蝦夷地から日本海沿岸を巡りながら大坂に至るルートを本拠としていました。
展示室では北前船の大型模型や当時の文物の実物が多く並べられていて、子供のころ学校の歴史の時間で習って以来おぼろげにしか覚えてなかった銭屋の生涯を、久しぶりに体感できてよかったです。
Img_119573z わずか一代で巨万の富を築き上げた五兵衛でしたが、加賀藩にその点で尽すも密貿易の疑いがあり、幕府の嫌疑を恐れた藩によって河北潟干拓工事の疑惑から陥れられ獄死するという悲劇のヒーローでもあります。


Img_119582z しかしシルバーウイーク中といえども、こういった地味な記念館には来客が少ないのか、どの地方から来たかわからないお年寄りの団体が風のように過ぎ去ったあとには、僕らだけが取り残されましたw。

五兵衛の旧家の一部と土蔵を移築した「銭五の館」では昔ながらの古い家の造りが保存されていますが、数年前まで住んでた自宅も大正時代に建てられたものなんで、共通点が多くて懐かしい思いに耽ることが出来ました。
Img_119556z 外は庭園のような公園になっていて、お台場が保存されています。

えっ、お台場って。そう、ここ金沢でもお台場があったんですよ。
ご多分に漏れず、幕末には金沢でもお台場が数箇所設えられ、特にここは寺中台場と言われ、敵上陸後の攻撃をするための珍しい内陸の台場でした。
Img_119560z 台場の内側から、ここに大砲を設置して敵に備えたもんなんでしょう。そのときの大砲はどんなものなのか、うまく伝わっていません。
しかしこんなところに固定の台場を設けても、なんの対策にならなかったでしょうな。品川台場ですら役に立たなかったろうと言われているし。
Img_119585z そしてもう少し足を伸ばして金沢港まで来て、大野の「からくり記念館」にきました。
大野とはあのTBSアナの安住伸一郎氏も興味持ってる、日本の五大醤油産地で有名。さらにここには[からくり師弁吉]という大野弁吉でも有名です。
東芝の創業者の[からくり儀右衛門]と並び称される幕末の科学者で、例のお茶運び人形やらエレキテルの改良器やらたくさんの実績があります。
Img_119600z ここは銭五館と打って変わってたくさんの来場者でにぎわってました。いろんなパズルなどの体験からくりも豊富で、久しぶりに頭をひねらせて苦心し、正解を紐解けたときは最近忘れてた爽快感が呼び戻ってきてうれしかったですね。
エントランスでは江戸時代のからくり人形の実演で大人たちも感心しきり。
Img_119590z 底の歯車とカムの仕組みで、ちゃんとUターンする距離を調節できるようになってます。経年劣化の歪みを防ぐため、木材は当時から合板が使われてそうでとてもオドロキました。

ゼンマイの動力で動くわけで、浄瑠璃などでもその材料に鯨のヒゲが使われてるのを知ってたんだけど、誰も館長の問いかけに言わないので僕がこの後もいろいろ答えてしまった。
Img_119606z このアクロバット人形は、バク転しながら階段を下りるけど無動力。そのココロは中の水銀柱の移動で重心が動いてくるくる廻る仕掛け。
江戸時代のこれらの代物は、もう同じ材料と水銀量の調整が不可能に近いので、ベンツ並の価格がするし、今でも車や家電の大企業メーカーの技術者が研究に来るって。
Img_119608z 童心?に帰って充分楽しんだ後は、その隣の「大野お台場公園」へ。

えっ、ここもお台場?
ここは海岸がすぐで、海に向かって築かれた台場跡ですよ。


Img_119611z しかし台場そのものの丘ははっきりせず、公園の外側を廻ってやっとモニュメントを見つけました。
しかしここにある短い砲身の大砲では、決して防衛の役割に適さないのは一目瞭然だし、当時としては付け焼刃で、それはどこでも一緒だったんでしょうね。

海沿いを昼ゴハンも食べずに駆け足で廻ってみました。けど楽しかったですね。

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2009年9月28日 (月)

梅のない、暑い偕楽園でした☆

Img_119463z 水戸駅前で簡単に食べるところも見つからず、このまま偕楽園に向かうとしましたが、なんとバスが1時間に1本。バス会社2社でようやく2本といったところ。しかもルートも不案内で、時間かかるの覚悟したところすぐに来た茨城オートのバスに飛び乗りました。すると街のメイン通りをぐるっと通った後、偕楽園入口バス停へ。

入口??

それらしきものが見当たりません。県立歴史館ってあるけれど、それとは違う? ちょっとした偕楽園→の看板を見つけ、観光客数人と狭い路地を進んで数分、やっとこさたどりつきました。偕楽園御成門だって。
Img_119464z 中に入って園内地図と市街図を見たら、いわゆる表側でなくて裏側にたどりついたようです。
そしたらまっすぐ表側に行かずに、ぐるっと廻ってみようじゃないかい。
うっそうとした竹林や松林を抜け、坂を下ると常磐線沿いの開けたところに出ました。
Img_119470z ここまで来て気づきましたが、偕楽園って無料なんですね。兼六園も僕の子供のころまで無料でしたが、園内整備の費用を観光客にも負担してもらうことになって、300円掛かります。水戸は弘道館が190円で、幾分リーズナブルに市内観光できると思いました。
今の季節、梅園も緑一色で、なにか特別見るものがあるのか?って感じで観光客も少なめでしたが・・・。
Img_119475z この日は9月13日、夏復活を思わせる日差しで、久しぶりにとても暑くて大汗かきました。水戸城めぐりしてるときからタオルが手放せなかったんですが、偕楽園の外周を廻ってる今が疲労もピーク。
園内から常磐線が撮れるすごくいいアングルも列車が来ないとタカをくくってたらいつのまにかフレッシュひたちが通過。追いかける元気も出てきませんでした。
Img_119485z 偕楽園もこんなもんか・・・と思ってて、最後にきつい坂を上ってどうにか正面側に出たら、なんとそこはとても開けた広場になってました。そして観光客もたくさん来ていて、家族連れとかも大賑わい。のどかな日曜昼下がりに一変です。
そしてなにやらあの奥が騒がしい??
Img_119483z 行ってみるとそこには、あの有名な集団が・・・w。

そう、水戸といえばコレ! 水戸黄門ご一行様たちです。観光客一人一人の、ご希望者と記念撮影に納まってました。もちろんテレビに出てる俳優本人たちではありませんが、無料でご当地でこんなサービスしてくれるなんて粋ですね。
この暑い中役者さんたちもお疲れ様です。
Img_119487z ここは高台にもなっててすごく見晴らしもよく、思わず疲れもふっとびました。
なんだ、偕楽園っていいとこじゃないの。ここにいたるまでいったい何を見てたんでしょうねw。

日本三名園の二つ目にようやく来れましたが、しかしここはマイカー前提の観光地ですかね。もう少し駅から便がよければいいんですが。
Img_119489z 向こうには水戸市街地と千波湖が見えます。シーズンには桜並木とつつじが美しいそうです。
偕楽園といえば梅ですが、今回は全くの季節外ですね。でもシーズン真っ只中で混雑してひどい思いするよりよっぽどのどかでよかったですわ。
Img_119498z さて正面側の東門を出ると、常磐神社がありました。徳川の三つ葉葵の紋を拝むのは意に反しますが、水戸家ならヨシとしますか。
徳川光圀・斉昭が祀られています。黄門さんといえば葵の印籠。それを模した印籠お守りがあったんで思わずゲットです。

友人たちの予定がつかず、今回は全くの一人旅となってしまいましたが、いつも自由時間がなくて関東をあまり回れなかったんで、意外と充実した関東めぐりでしたよ。

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2009年9月27日 (日)

水戸城跡は学校の中?

Img_119413z では水戸観光を駆け足で。
まずは水戸駅前から正面の小高い丘の上、水戸城敷地内三の丸にある、藩校「弘道館」
幕末近く天保12年(1841)に徳川斉昭によって創建。光圀から始まる流れを汲む水戸学の精神を教える総本山です。
この正門と正庁、至善堂が国の重要文化財として残っています。
Img_119416z 正庁の中に入って諸役会所の間。いきなり「尊攘」の掛軸で圧倒されましたw。
天皇(神)を尊び日本古来の倫理道を基本とし、儒教をあがめた水戸学の真髄が早くも篤く伝わってきました。



Img_119419z 正席の間では、大きな拓本の掛軸が。弘道館では藩の精神を謳う各種の石碑を拓本にした掛軸が多く掛かっていました。その石碑の一部は偕楽園でも見かけることが出来ました。
これは弘道館記という弘道館建学の精神と教育方針を記したもので斉昭の筆によるもの。
Img_119423z 奥に入って至善堂御座の間。絵が掛かっているように、大政奉還して江戸城から引き上げた慶喜が恭順謹慎していた部屋です。
決して暗くないですが、質素な空間は当時の状況を想像させて凛とした気持ちにさせてくれました。
Img_119428z 徳川慶喜の写真です。右は光圀の肖像。
水戸家は慶喜の兄弟が跡を継ぎ、現在も15代目斉正氏がご存命ですが、慶喜は宗家別家として明治になってから徳川慶喜家を創立。今は4代目に写真家の徳川慶朝氏がいます。慶喜も晩年、写真を趣味としていました。
Img_119432z 弘道館を出て、本丸に向かいます。元の空堀?をまたいで大手橋。女学生が歩いてました。





Img_119435z 渡りきると徳川斉昭公の銅像が。







Img_119436z 土塁の跡があって、水戸城の案内看板がありました。
水戸城はそのほとんどの史跡は存在せず、空襲その他で焼けてしまったようです。この本丸・二の丸・三の丸も現在公立学校になっています。さっきの弘道館も一部は旧県庁・県立図書館と、三の丸小学校になっていました。
Img_119439z 戦前までは、二の丸に三階櫓が残ってて、これが天守の代わりをしていました。今は櫓台もはっきりとはしていません。





Img_119442z こういった全くの文教地区。水戸二中に水戸三高が両側にあるここが二の丸。この通りが水戸城跡通りと呼ばれてます。





Img_119443z 本丸に向かう橋の下には水郡線が通ってました。ここも空堀だったようです。列車が走ってる瞬間が撮りたかったですが、1時間に一本では待ちきれませんね。




Img_119446z しかしこの橋を平気で渡れたわけではありません。
橋の向こうは水戸一高。学校に用がある人だけが通れるってわけですが、そこは水戸城本丸。城跡見学の人も通ってヨシ、だそうで。校門?前には城を案内する看板が。


Img_119455z 水戸一高の入り口には、移設された水戸城の薬医門が。この門を見学に来た人だけが唯一校内に立ち入りを許可されます。
旧領主佐竹氏時代のものらしいですが、明治維新後あちこちに移され、最終的にここに移設されたようです。
薬医門というと本来寺院にあるものと思ってましたが、城にもあるんですね。
近代的な校舎とはうらはらで、とても異質に感じましたし、門をくぐるとすぐに、コレより奥は立入禁止の看板が。隣のテニスコートで学生たちが汗を流してるし、観光客はいずれにしても来にくい場所ですね。
Img_119459z 水郡線沿いに坂を下りて水戸駅に戻ってきました。なかなか鉄撮りにいいロケーションなんですが、いかんせん本数が少ないので走ってるところが撮れません。時間がないのでこれから偕楽園に向かおうと思うんですが、これもちょっと難儀するとは。

続きは次回で。。。

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2009年9月23日 (水)

日本の水準はどこにあるのか?

Img_118680z その後は永田町へ。週が明けて水曜には新しい内閣が出来る、今一番ホットなスポットを目前に、一体何しに来たんだ?というと別に国会議事堂に用があったわけではありません。
しかし新政府誕生を前に、なにやら工事してますな。

Img_118684z 僕が用事あったのはここ。国会議事堂前庭の、憲政記念館がある側に、あったありました。
地図マニアの聖地のひとつ、日本水準原点標庫
水準原点とは、日本全体の標高を決めるために、その元となる高さの基準を設けたもの。この国会前の、国土地理院の前身、旧陸軍参謀本部陸地測量部のあった安定した台地の上に、明治24年に竣工設置されました。
Img_118687z 安定した、というくせに、関東大震災で地盤がわずかに沈下し、設置時点の標高(東京湾平均海面T.P.)24.5mから現在は、24.414mになっています。
原点はこの建物の中にあり、これはそれを保護するための標庫。石造りのローマ風神殿建築のすばらしさから、千代田区の特別登録有形文化財として登録されています。
「點原準水」というレリーフと、扉の菊の御紋が厳かですね。
Img_118691z 小雨がきつくなってきました。予定してませんでしたが、隣接する憲政記念館に入ることにします。今ちょうど国会が盛り上がることになるでしょうしね。
土曜午前では来場する人もまばらで、ゆっくり静かに落ち着いて見ることができましたが、それでいいんでしょうか?
Img_118694z 中は基本的に撮影禁止でしたが、一部OKのところだけちょっと。
国会議事堂の現在の模型です。左脇の衆議院の一部が現在工事中でしたね。自民党・民主党の議員控室のレイアウト変更にも関係してるんでしょうか。


Img_118695z 議場の中の模型です。展示では、国会開設からの歴史がつぶさに紹介されてましたが、もちろん教科書以上に貴重な写真映像や書物、肖像画などもあって大変興味深い。これも国立で当然運営されてるわけで、もっと外向けにアピールしてほしいですね。

Img_118697z 撮影OKのブースに模擬議場がありました。7/10のスケールでコンパクトですがモノホンに近いです。





Img_118701z どっかの町議会議場にピッタリかも知れませんが、雰囲気は出てますねw。






Img_118703z 実際、このモケットに座ってみました。テレビではあんな狭いとこに・・、とか思ってたんですが、意外に余裕ありました。
ふっかりしてても90度なんでシャキッとしますし、居眠りなんてね・・w。
名札は出席時に立てて退場時に倒すようになってます。賛成票の白票、反対票の青票は机に数枚ずつ用意されてるんですね。

数日後には新しい日本の政治が始まる時に、タイムリーな体験ができて面白かったです。

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2009年9月22日 (火)

今回の江戸は加賀の名残りから・・。

Img_118508z 最近の多忙で、ブログを書かないのに慣れてしまいました。しかし活動してなかったわけでもなく、ネタはたまってしょうがないです。この連休も最終日まで動いてて今まで書けなかったんですが、なんとかこれからまとめてアップしていこうと思います。

まず、先週末に江戸へ行った話から。連休を目前にしてか、わりと遅くなった寝台「北陸」のBソロ予約も久しぶりに空いてたんでラッキーでした。
Img_118510z 寝台で眠れないという人はよくいますが、その非日常に興奮したり、車両の揺れや狭さに落ち着かないなど理由はいくつもあるでしょう。この「北陸」は金沢駅発車が22時18分。上野着が6時19分。車内で楽しむ時間的余裕はなく、すぐに寝てしまわないと早朝の準備に遅れる恐怖?からあせってしまいます。日ごろの疲れからかこの日も富山に着く前にどうやら寝てしまったみたいですw。
Img_118527z このアングルの写真もだいぶたまってきましたw。この日もたくさんの撮り鉄に取り囲まれて、いつまでもこういう図柄が残されてほしいものですが、翌日の上野駅ではこの比じゃなかったのもオドロキです。それはまたのちほど・・。


Img_118547z 運転士さんも撮られるのにはもう慣れっこのようで。
願わくば金沢駅のホームはもう少し明るい空間ならいいんですけどね。




Img_118550z さて、朝江戸に着いたら今回まず行きたかったのは、板橋区の加賀地区です。
この一帯は加賀藩の江戸下屋敷のあったところで、地名や建物などに、加賀を思わせるよすががたくさん残されてます。



Img_118553z この橋も「金沢橋」。このあたりは加賀1丁目です。
都営三田線の新板橋駅から北側の住宅地に下りたところにこの地区があります。金沢ではここらのガイドがあまりないので、下調べは大変でしたが、まぁ探訪してみましょう。

Img_118554z 金沢橋のたもとに板橋区立加賀公園がありました。ここは加賀藩下屋敷の庭園、築山があったところで、広大な屋敷地の名残がわずかにここに残されてるだけのようです。



Img_118556z 板橋区史跡、加賀前田家下屋敷跡の石碑があり、左側の碑は板橋区と金沢市の友好交流都市締結を記念して今年建てられた、尾山神社神門のステンドグラスを模したものです。



Img_118558z この一帯にあった加賀藩下屋敷は、21万8000坪にも及ぶ広大なもので、徳川御三家を含む江戸中の大名屋敷地の最大のものだったようです。
下屋敷とは藩主が常駐する上屋敷、隠居藩主などの住む中屋敷とは別に、藩主の別荘的役割・参勤交代の休憩地などとなり、農地や森林・庭園などが備えられたもので、この加賀藩下屋敷では常時50人の藩士が管理に就いていました。兼六園の七倍にも相当する屋敷地には、石神井川もその一部となり、鷹狩りや花火なども興され、宴に招かれた松平容保は「桃源郷のようだ」と評したとか。
在番していた藩士たちは、地元の名主たちとも交流し、寺子屋の師匠などもして地域の教育にもあたるなど、地元の発展に密接に関わった歴史があります。
Img_118581z 屋敷地の一部は明治以降、板橋火薬製造所になり、後に陸軍の造兵廠になりました。その名残は公園敷地を走るトロッコ列車の軌道跡もあり、現在も旭化成の流れを汲む野口研究所が隣接しています。
石神井川は昔の自然の流れとは想像もできないくらい、深い人口用水と化しているようです。
Img_118567z 公園にかわいいねこにゃんがいました。
このへんのノラは人を見てもなんの反応もしませんねw。





Img_118591z さて住宅街をしばらくそぞろ歩きします。
すると見えてきました、「金沢」「加賀」の名前が。これは板橋区立加賀児童館。





Img_118595z これは金沢小学校。ほかにも加賀小学校に加賀中学校もあります。
今は住宅地なのも下屋敷地だったわけで、子供たちが住んでるところも屋敷地だったことから、興味をもったある小学生がレポートした作文が、都知事賞を取ったことがなにかに載ってました。
Img_118596z このマンションにも加賀の名があります。
観光するところがあるわけではないですが、地元金沢からも、こちらへたくさん訪ねに来てほしいですね。僕が住宅街を早朝からカメラ持ってぶらついてても、僕自身は違和感なかったですが、気がつけばこの日は普通の土曜朝。子供たちや近くの帝京大学・高校の学生たちがやおら登校。ちょっと危なかったかもw。
Img_118601z ひょんなことから江戸の都心の一地域と金沢の交流があることを知り、思わず訪ねたくなった今回の探訪でした。








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2009年6月22日 (月)

「升形」発掘調査現場。

Img_113478z 以前から見たかった、「升形」の発掘現場に行ってきました。
升形とは、藩政期の金沢で、主要な放射路と、土居と外堀からなる「惣構」とが交わる交通の要衝に設けられた防御施設。
数箇所が存在した中で、ここ本町1丁目の「升形」は西外惣構と旧宮腰往還(現在の金石街道)が交差したところにあったもので、先日の報道では明治期に水路を工事した跡が確認されたということです。
Img_113483z 升形の堀の幅は本来約10mもあり、18世紀末に約半分に狭められた記録があります。しかし幕藩体制の崩壊で、明治初期の早いうちから堀が埋められ、周辺で急激な宅地化が進められた証左のようです。
それでも、堀を全く埋めるのではなく、わずか数十センチでも水路として活用し続けたことがわかって、なるほど早く全貌が解明されたいですね。
手前の石垣の水路跡、右側が明治期に築かれたものです。
ここも発掘後、公園整備が予定されています。

この日はこの後、金沢市立玉川図書館の近世史料館に初めて寄ってみました。なにも準備してなかったんで軽く複製図と現代書物を閲覧するだけでしたが、ここは誰でも本物の古い史料をそのまま閲覧できる貴重なところです。暑くて汗拭き拭きで訪れたので、汚してもいけないんで、後日ちゃんと目標のもの下調べ準備してから再チャレンジすることにします。

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2009年5月17日 (日)

金沢「神明宮」あぶりもち神事

Img_112296z 16日はじっくりPCを触ろうと思ってたら、前日母親が入院してしまいました。腸炎で微熱がずっと続いてたってことで、大事をとって一週間くらいなんで大丈夫と思いますが、まぁ高齢だからだいぶ弱ってましたね。これ幸いと甘えの部分もあるでしょうがw。それでちょうど行こうと思ってた神明宮のあぶりもち神事に見舞い前に訪れましたよ。
Img_112298z 金沢五社のひとつで、室生犀星で有名な雨宝院のすぐそばにある「神明宮」では、毎年5月と10月の15・16・17日に「あぶりもち神事」というのがあります。悪事災難の厄除けとして、300年以上の歴史がある全国唯一の神事で、四角く小さく切った餅を御幣のように串に刺して、玄関の高いところに供えるお守りとして、また火にあぶって食べることで、一年の厄除けを祈ります。
Img_112300z 中原中也の「サーカス」の舞台だったり、樹齢1000年を超える大けやきがあり普段は神聖で静かな空間の境内も、前田利長が始めたというこの神事の期間は、早朝から大勢の参拝客でにぎやかです。10時前なのにあぶりもちを買い求める人の列が早くも長蛇に。
一人で家族分など何十本も買われる方もあり、この裏では氏子のおばさまたちが待たせないよう一心に大量の餅を焼いてました。飾るほうはこのように、焼かないまま神棚に飾ったり玄関につるします。
Img_112301z 僕も病気の母のためや、永いことそう遠くない場所に住んでるのに祭りのときに来てなかったんで、いっぱい買い込みました。
買った人には小さい焼きたても振舞われ、これは生姜だれが利いてておいしかったですね。


Img_112302z 正月の左義長の、金沢での始まりもここからだったそうで、金沢城内の注連縄などは、寺社奉行立会いでここで焼かれたとか。
元和年間の伊勢踊りは、江戸の神田・浅草の三社祭に匹敵するほど盛大に、犀川大橋を渡って金沢城まで練り歩かれたといいます。今はまったくの街中で、そんなよすがは感じられないほど境内も狭くなってしまいました。
Img_112304z 行列が拝殿の上まで連なってしまいました。僕はまだ早めだったんで10分くらいの待ち時間で済みましたが、伝統と祈りを大切にする方たちが廃れず多くいらっしゃるのはうれしいですね。



Img_112307z さぁチャリで自宅に戻って早く病院へ行こうと思いましたが、目の前に模様替え完了した犀川大橋の勇姿が。そういえば、銘板の塗装も終わって掲げられたんでした。中央上部に燦然と輝く「橋大川犀」の文字。



Img_112306z 縁取りにきらびやかな金沢金箔が施されました。しかし橋そのものは国道上にあるので国の管轄、もしくは石川県だと思うんですが、この金箔にした費用は地元住民が負担したといいます。そういうとこもオールラウンドで官庁が負担してほしいものですが、なにかオプションすると決まって地元に重荷がかかってきます。新幹線にしたってそうですよね。
さぁ、病院へ急ぎましょう。

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2009年3月30日 (月)

歴史家「加来耕三」氏講演会「歴史に学ぶ」

Img_108546z 今日はマスコミでも有名な歴史家・作家の加来耕三氏の講演会に行ってきました。以前土曜の朝のラジオに出演されてたのをよく聴いていて、人柄や考え方が好きでしたので、いつかは講演を聴きに行きたいと思ってました。
「歴史に学ぶ」歴史家としては、単に過去をなぞるだけでなく、現在や将来にその史実の経験を生かす必要があると。日本人は歴史をドラマとして捉えて、夢とロマンを追い求めすぎであると。
実際の歴史はそんなにドラマチックじゃないのに、小説などによって美化された歴史の偉人の出来事をすべて信じ込んでしまう。篤姫は小松帯刀に逢ったことないのに・・。

僕も歴史の真実を知りたい方で、家康がなぜ天下をとりえたか、利家がなぜ生き残れたか、美談ではなく必然な真相が知りたいものです。
伝え聞く歴史の資料や伝記書物などもまず疑ってかかり、必然の積み重ねと数字を重視、客観的・合理的にそのものに対すると、正しい答えが見えてくるといいます。秀忠が関ヶ原に遅れたのは、誰もが一日で決着が付くと思わなかった戦に、家康が次善の策として中仙道に張り付かせていた、と見るのが自然だと。
現代の混乱した世相も、アメリカを見れば近い将来の日本もどうなるかわかるといいます。衰退に気づかなかったイギリスが、やっと目覚めてサッチャー政権で改革したのを日本も学べると言い、数々の官庁やシンクタンクなどで講演してきた氏の言を誰も信じなかった結果が今に来てると豪語します。バブル崩壊後1ドル100円になるって予言とかも。

いちいち納得なんですが、なぜまだ彼の考え方がスタンダードにならないんでしょうね。同じように既存の歴史観を逆説に捉える井沢元彦氏も好きで著書をたくさん持ってますが、本来の見方であるべき両者の思想が一般的にならないところが、日本人の連綿と持ってきた処世観なのかも知れませんね。そういう見方がずっと前から出来てれば、幕末の混乱や太平洋戦争なども、もっと違ったものになったと思えます。もちろん今の政争とかもね。
Img_108543z さて関係著書にサインももらって、まだ陽も高い時間に終わったんで、表通りに出て久しぶりにバス撮りを。
やっとコカコーラバスをゲットしました。毎朝通勤時に寺町通りで見かけてたんですが、運転中に撮影するワケにも行かず、ずっと指くわえて眺めてましたw。これであと撮ってないのはめいてつエムザバスだけとなりました。全部で10種類です。


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2009年2月26日 (木)

「惣構堀」→「惣構」に!

Img_78330z 金沢市の公文書などに記されている「惣構堀」の表現が、「惣構」に正されることになった。
金沢城を取り囲むように築かれた内外二重の惣構は、広い堀と高い土居で敵の侵入を防ぐ構造となっており、「惣構堀」では一部分を示しているにすぎず、金沢市は市内各所に設置されている標柱や案内板の修正も検討する。
[北國新聞2月26日付記事より]
Img_78333z_2 写真は金沢市役所裏の西外惣構跡で、比較的良好な状態で遺構が残っている。江戸初期には堀の幅が約13m、土居も幅が約12m、高さは5m以上あった。
江戸初期には二代利長が高山右近に命じ、また三代利常が篠原一孝に命じてそれぞれ内・外の惣構を造成させ戦時に備えたとされるが、次第に戦のない平和が続いたことから堀は狭められ土居も削られていった。
Img_85559z 土居は多くが消滅していったが、堀は用水として残っており、一般的に「惣構堀」と呼ばれることになった。「惣構堀」の呼称では、「用水のまち金沢」を象徴する側面があるが、土居の存在が薄れ惣構の威容が正しく伝わらないこともあって、昨年金沢市がまとめた惣構発掘調査の報告書でも指摘があり、今回の呼称見直しに繋がった。
Img_87592z 昨年12月には内外の惣構が「金沢城惣構跡」の名称で金沢市史跡に指定された。
市内には東西、内外の計4箇所の「惣構堀」の標柱があり、今後の検討で「西内惣構」などと変更も考えられている。
しかし写真のように、市役所裏の西外惣構跡は土居もよく残っているが、その他はせいぜい堀が用水として昔のよすがを伝えてるだけ。
Img_87480z 惣構は同様の構造は、京都などにもその名を換えて存在しているが、たとえば京都は土居の方こそ残っているし、それがため大部分が削られ保存されているのはわずか。
一方金沢は、たとえ用水としても、その堀部分は約7割が残されている。だからこそこれを文化資産として、金沢市以上の団体に史跡に認めてもらいたいですね。




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2009年2月21日 (土)

病明け、「百万石の大名展」へ

Img_107403z 「一週間のごぶさたでした。玉置宏でございます」ってどれくらいの人が覚えているでしょうかw。
先週から咳が止まらず、医者をハシゴして何日か会社も休んだんですが、風邪でなく結局喘息の気があるようで。でももしアレルギーだとしたら、ようやく思い当たるフシも出てきましたんでそれは後日にでもお話します。
今日はあちこち行きたかったのですが、時間も惜しかったので?ずっと歩きとおししてしまいました。
Img_107404z 最初は母が先日入院した金沢大学病院の前で。エントランス道路がまだ工事中なんですが、その中央分離帯のところに、工事開始以来撤去されていた金沢まちしるべの石碑が再設置されました。
[河内町(かわちまち)No34]加賀藩の老臣禄高一万七千石の奥村氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の当主が河内守に任ぜられたことがあり、明治の初めこの名がついた。
これで事故撤去されてる[同心町]以外の、219種制覇済みですw。
Img_107409z お目当ての石川県立美術館へ行くのに、寒い中つらつら歩いていたら、「金沢くらしの博物館」前へ来たので、せっかくだから入りました。今は古い「雛飾り展」をしています。江戸時代から明治・大正・昭和期の、七段飾りから御殿飾りなど、とても豪華なおひなさまがたくさん展示してあります。お内裏さまが左右まちまちに置かれていたので、正確にはどっち側なのかよくわかりません。
明治32年に、石川県立金沢第二中学校の校舎として建てられた古い木造の洋風建築は、石川県有形文化財の指定も受けています。入場は無料なのに、静かな空間だからか、来場は僕一人でしたけど・・。
Img_107410z さて、石引通りを兼六園に向けて歩くと、木曜にお世話になった国立病院の前に。今風で言うと独立行政法人国立病院機構金沢医療センターって長ったらしい名前。
加賀八家のひとつ奥村宗家の屋敷地に建てられたので、板塀がそのまま残されています。
ここは十数年前以来腎臓の病とかでもお世話になっています。姪が看護婦で勤めてる縁浅くない病院です。
Img_107413z_2 ようやく石川県立美術館に。お目当ては県立美術館のリニューアルオープン記念「百万石の大名展」[前田育徳会・尊経閣文庫の所蔵品から]です。
加賀藩前田家が保有していた文化財の管理をしている前田育徳会が所蔵している名品が、ここまで大規模に展示されるのは昭和38年以来46年ぶり。初代前田利家から5代綱紀のころまでの、加賀藩の歴史を伝える貴重な文物や、藩主から手厚く育成・熟成された幅広い美術工芸品の文化が、余すことなく公開されています。
ちょうど着いたころ、県立美術館館長の島崎丞氏のギャラリートークが行われ、一緒について廻って解説を詳らかに伺えたのでラッキーでした。
利家の若い頃の肖像では、剣梅鉢ではなく梅鉢紋だったとか、菅原氏でなく平氏を名乗ってたとか。陣羽織の模様はアップリケでなく象嵌であったり、後水尾天皇からの「忍」の御宸翰は、妻を徳川家から嫁せられた同じ境遇からの深い想いからであるとか、全国の万葉集写本の貴重なものは、金沢所縁のものが多いとか、とても貴重な話でした。
工芸品で言えば、図録の表紙にもなった蒔絵の美しい弓用の鷲の羽根を収めた箪笥や、足利義輝から紆余曲折あって信長から秀吉、そして利家の手に渡った有名な茶入、金箔で飾られた利家の甲冑、建物の金具類を保存整理していた百工比照など、数え上げればキリがないほどの素晴らしい作品が展示されました。
国宝22点、重要文化財76点もある、尊経閣文庫のまだほんの一部ですが、この貴重な機会にぜひみなさんにも見てもらいたいです。3月22日までです。

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2009年2月13日 (金)

前田家墓所が国史跡指定に決定!

Img_50771s 金沢市の「前田家墓所」と高岡市の「前田利長墓所」が、12日に一括して「加賀藩主前田家墓所」として国史跡に正式に指定され、文部科学省が同日付の官報で告知しました。
複数の遺産が県境を越えて国史跡に指定されるのは石川・富山両県では初めて。
Img_102213z 金沢市野田山にある前田家墓所は加賀藩の歴代藩主や正室・側室らの墓80基が残っており、指定範囲は市有地と私有地を合わせた約86,300㎡。二代藩主利長の墓所は高岡市関にあり、市有地と私有地の合計33,400㎡が対象になっています。

全国の近世大名の墓所でも有数の規模で、墓所の成り立ちや変遷などを知る上で貴重として、国史跡に指定するよう文化審議会より答申されていたものが、今回正式に指定されたものです。
春になって気候がよくなったら、坂が急で山中にある野田山の前田家墓所をまた一通り巡ってみたいと思います。
[北國新聞2月13日付記事より]

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2009年1月23日 (金)

金沢、「小京都」を脱退!!

Img_85601z 金沢は城下町であることから、公家文化のにおいのする地方都市を「小京都」と呼ぶのに、相応しくないと常々思い、それに喩えられるのに反感を持っていましたが、すいません、金沢はどうやら「小京都」だったようです。
「小京都」と呼ぶに相応しい(と思われる)全国50都市が、京都を中心に「全国京都会議」なるものに参加していて、金沢も発足の1985年から3年後に入会していました。
京都市の観光協会のHPにある「小京都MAP」には、堂々と金沢の観光名所などが紹介されています。
Img_87668z しかしとうとう、金沢市当局が、今年度末をもって、この「全国京都会議」からの脱会を決めました。
やはり各方面からは、武家文化の金沢が小京都を名乗るのは不自然、という指摘も多々あったようです。そして今回「歴史都市」に認定されたこともあり、その5都市の連携による協議会設置も検討され、「小京都」と袂を分かつ決意に至りましたw。
Img_85665z 元々ここ近年、金沢市は全国京都会議の総会に出席せず、共同事業の物産展などにも参加しておらず、年間数万円の会費を納めるだけの疎遠な関係になっていたようです。観光交流課は、さほど効果はなかった、と小京都の意味が実効性がなく、「歴史都市」認定による「城下町」としての歴史遺産を生かした街づくりを明確にすることからも、今回の脱会届の提出となりました。

また、14年度の北陸新幹線開業や、昨年全通した東海北陸自動車道の効果を生かすためにもと、長野市や松本市、高山市や岡崎市・豊田市、高崎市や東京都板橋区と相次いで結んだ交流協定が重視されています。
これでなんだかすっきりして、へんなしがらみから開放されたみたいw。改めて、魅力あるわが国最大の"城下町"をアピールしていきたいですね。

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2009年1月22日 (木)

惣構、国史跡に一歩前進☆

Img_78330z 金沢市は、市内の歴史遺産の文化財指定推進の一環として、金沢城の惣構の国史跡指定の申請を、2012年度にも目指す方針が示されました。2014年度の北陸新幹線開業を見据え、また先日認定された「歴史都市」の国財政支援を活用することで、少しでも予定を早めようとの動きからです。
Img_78333z 惣構とは堀と土居で敵の侵入を防ぐ防御施設で、金沢城は内、外の二重の惣構に囲まれていました。現在でも幅を狭められながらも、堀部分は全体の七割がた残されており、土居の内側の内道とあわせて、昨年12月には金沢市史跡に指定もされています。
写真の右側が城下の内側で高い石垣が積まれていますが、土居の跡と言われ、高いところで5mほどの高低差があったようです。
Img_78328z 昨年度策定した金沢魅力発信行動計画を今回見直し、鈴木大拙記念館など7事業を追加して、ひがし茶屋街資料館を、取得を予定してた町屋が民間に転売されたのを機に削除しました。
北陸新幹線開業を前にして、金沢をいかに魅力的な街にするかという事業が、急ピッチで進められています。


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2009年1月20日 (火)

金沢が「歴史都市」第一号

Img_72899z このたび国土交通・農林水産・文化の三省庁からなる、「歴史まちづくり法」においての「歴史都市」に、金沢市など5都市が第一号の認定を受けました。
歴史まちづくり法では、認定した歴史都市の「歴史風致維持向上計画」に基づき、文化財保全や文化財周辺の景観向上に国が支援していくことになります。
金沢市のほか、岐阜県高山、滋賀県彦根、山口県萩、三重県亀山の各市が第一号の認定都市となりました。
Img_78349z 金沢市の歴史的風致維持向上計画には、今年度から10年間で実施する60事業が盛り込まれ、そのうち3事業の今年度採択を即日国交省に申請しました。
西外惣構の升形復元事業、西内惣構の緑水苑復元事業、にし茶屋街と寺町寺院群を結ぶ連絡路修景整備事業で、採択されれば補助率の高い支援を活用できます。
Img_85416z そのうち「升形」とは、城下を堀と土塁で囲った惣構の交通要所に設置された防御施設で、四方を土居で囲って升のような空間を作り敵の侵入を防ぐためのものでした。現在の金石街道である宮腰往還の入口に設置された升形跡地の敷地の一部を取得していた金沢市は、これを機に本格復元を目指してさらなる用地取得を目指します。
Img_89845z 金沢の歴史的風致維持向上計画では他に、主要な歴史景観道路の無電柱化や、坂道、用水沿いの修景整備など。また、2013年度までに本多町に金沢出身の世界的仏教哲学者、鈴木大拙の記念館を建設し、2012年度以降に土清水塩硝蔵跡の復元を目指しています。
特に費用のかかる無電柱化には大きな助けとなり、今年度末から来年度にかけてかなりの距離の無電柱化が進む予定です。そして無くなる予定の電柱には、いつまでに無くなるという予告シールも貼られることになりました。
電柱のないすっきりとした空の見える、400年以上戦災に逢ってないいにしえの情緒たっぷりな金沢の歴史的景観を守るための、またひとつ強力な援護ができましたね。

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2008年11月26日 (水)

前田家墓所も国の史跡指定に

Img_102209z 雨を突いて、そのあと野田山に登り、「加賀藩主前田家墓所」にやってきました。
このたび文化庁文化審議会で、金沢市の前田家墓所と富山県高岡市の前田利長墓所をまとめて、ひとつの国史跡に指定するよう、文部科学相に答申されました。早ければ来年1月にも指定されることになります。
これを機に、家からすぐ近い野田山でしたが、まだ訪れたことのなかった前田家墓所に来てみたわけです。
Img_102221z 野田山は江戸期から墓地が営まれた土地で、歴代の加賀藩主とその正室などが葬られるだけでなく、多くの武家や町民、そして現代でも新たに造営される区域もある、一大メモリアルパークとなっています。でも、僕の一族は別のところに墓があるため、野田山は近くても縁のないところでした。前田家墓所も前田家私有地と思い、各墓地を訪れることができるようになってるとは思ってもみませんでした。
Img_102213z まず入口に一番近い、前田利長の墓です。野田山の前田家各墓地は神道様式で、正面に鳥居があり、三段方墳の姿をしたまるで古墳のようになっています。
藩主と正室・側室の墓が80基もあり、全国の近世大名の墓所でも異彩を放つ有数の規模で、深遠な森の中と相まって江戸時代最大大名の風格もただよっています。
Img_102216z 柵の中をライブビューで撮りました。先年より、国の史跡指定をにらんで、巨木の伐採・柴刈・掘割の発掘など、一部調査や整備がされ、想像よりはすっきりしてましたが、この落葉で墓や地面は一面に覆われ足元は雨にすべるほどでした。
墓石はなく墓碑が墳墓の正面に建っています。「贈正二位行権大納言兼肥前守菅原朝臣利長之墓」と読み取れます。
Img_102225z 前田家の家紋は梅鉢紋。菅原道真と同じく、その子孫を名乗ってましたから、墓碑には菅原氏の名前が刻まれいてるわけです。
芳春院、すなわち利家正室、「松」の墓です。見る人がみると、赤い落ち葉に覆われてキレイとなるんでしょうか。巨木の根が残されてますが、せめて墳墓についた木は、そこまで大きくなる前に取り除けなかったのかと思います。
Img_102229z 藩祖前田利家の墓です。この墓地だけは柵があって正面に行けませんでした。利長や他の墓よりかなり巨大で、その偉大さをつぶさに感じました。高尾の天皇家の墓所の厳かな雰囲気に負けないくらいとは言いすぎかも知れませんが、そのくらいスケールの深さを思わせる威厳があるようです。
しかし史跡として訪れる人を誘うのならば、もう少し足元を歩きやすくしてほしいですね。
Img_102237z 野田山の高い斜面に連なっている墓地群は、下の墓に下りる坂はかなり急で、今日は雨の落葉に滑りそうです。
そんな中やはり利家の墓は上の方にあるわけですが、一番最上段にあるのは、織田信長の娘で利長の正室「永」、つまり玉泉院の墓です。主君の娘を下にできないわけで、さらにその隣には、利家の長兄「利久」の墓があります。信長の命で家督を利家に譲り、後に客分として金沢に来て城代ともなった利久の、墓を最初にこの野田山に造営したのが始まりでした。
高岡にある利長の墓所と一括して国史跡指定される予定で、県境を越えてひとつの史跡となるのは全国で16例目だそうです。その利長の墓所は昨年訪れましたが、これも巨大な墓地で、大名個人の墓としては全国最大級の規模です。
米沢の上杉家墓地や、仙台の伊達家廟所など、大名の墓所は案外に史跡として訪れられるようになっていますが、金沢では整備されてませんでした。前田家の私有地の部分もあり、あまりおおっぴらには立ち入れませんが、ここも歴史を偲ぶ金沢のひとつの名所としてより広く認知されたらと思います。

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2008年11月25日 (火)

最新まちしるべ「あかり坂」完成

Img_102196z 連休最後の日は、おとなしくしようと思いましたが、これを逃すとまたいついけるか判らないので、冷たい雨の中市内を何箇所か廻ってみます。
まずは「あかり坂」。主計町の裏路地の小坂で、隣にある「暗がり坂」にあわせて、作家の五木寛之氏が命名しました。命名というか、小説にされたんですけどね。8月に、11月にまちしるべ標柱を建てると新聞記事にあったので、今か今かと待っていました。そしてこの20日に序幕され、五木寛之氏も来県して式に参加。この機を逃さず早めにチェックです!




Img_102200z 石碑は今までのと違ってさまざまな特徴が。まずは命名の由来が五木寛之氏自身の文章で書かれ、「あかり坂」の文字も氏の手によると思われます。また、碑の上部には、この主計町にゆかりのある泉鏡花の文学賞の正賞である「八稜鏡」がはめ込まれています。
「暗い夜のなかに明かりをともすような美しい作品を書いた鏡花を偲んで、あかり坂と名づけた。あかり坂は、また、上がり坂の意(こころ)でもある。 平成二十年秋 五木寛之」






Img_102203z_2 この「あかり坂」に通じる道は、主計町の茶屋の路地でもことのほか狭く、そぼ降る雨を突いて出てきたんですが、傘が家の壁や庇をつつくようで、やむなく閉じて歩いたくらいですw。
小説になるくらいに金沢の情緒がほのかに宿る、この狭い路地をみなさん、探しにきませんか。
小説「金沢ものがたり 主計町あかり坂」も探してみてくださいw。



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2008年11月23日 (日)

日々進む景観整備

Img_101196z 先日の寒波で、北陸でも早い目の積雪があってあせりました。冬の準備はまだ誰もしてなかったくらいで、車もこの連休にスタッドレスに換えなくちゃ。けどミゾがつぶれてるので新たに買う必要があり、ここんとこの資材高騰でタイヤも例外なく、結局なんやかやで5万近く掛かってしまいました。22日は他に、通院で1万、書籍で6000円、そして某PCで35,000円と、10万ほど出費。またも江戸が遠くなりましたw。
Img_101290z それで23日はおとなしくしてるんですが、先日来のことをあれこれ。金沢城石垣回廊が、現在尾山神社である金谷出丸との間の鼠多門周辺の市道の部分まで完成。最初の写真の玉泉丸石垣の下部にも歩道ができたようです。ようですというのは、まだ行ってないからで、金沢の天気もいよいよ冬モード、冷たい雨続きで外歩きは思うにまかせません。
だもんで先月に城歩きしたときの写真で濁してますが、尾山神社の前の用水を開渠化したあとの写真を。戦後にここ一帯はかなりの距離ふさがれたんですが、最近のこまちなみ保存事業の一環で、金沢の歴史的景観のひとつである各地を流れる用水を再び見えるようにしようと開渠化工事が進んでいます。
しかし結局数メートル分のわずかな長さ。橋というほどのこともありません。
Img_101288z そこでこの用水についての解説板があります。しかしこれも、尾山神社に向けて正面にあるわけでなく、尾山神社側からしか見ることが出来ず、さぁ今から、と尾山神社に来られる人には気がつきません。
そして、「辰巳用水」と表記してあるのも問題視され、物議をかもしました。
用水が出来たときは、「西内惣構堀」とされ、辰巳用水完成後は、その水の一部がここに流されたことから、辰巳用水の分流扱いになったわけです。
Img_102109z 結局、「西内惣構堀」跡、と修正されることになり、先日の南町探訪会のときに確認しました。写真は一緒ですが、説明文はかなり変更されてましたよ。

それと、主計町から登る小さい坂に、「暗がり坂」と「明かり坂」がありますが(作家の五木寛之氏が命名)、暗がり坂だけだったまちしるべの石碑が、明かり坂にも先日設置されました。これも近いうちにチェックしに行かねばなりませんw。金沢の歴史的景観保護のための整備は、日夜進んでいるんですよ。

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2008年11月20日 (木)

新「南町」探訪会

Img_102084z フォーラムが終わったあと、参加者を半分の50人にして、南町探訪会に出発しました。前石川近代文学館長の香村幸作氏を先生に、新しい南町を一周します。こういった歴史探訪のイベントに常に参加されてる方も多いようで、先生は「私が解説しなくても充分ご存知の方の顔も何人もいますなw」。僕のようなサラリーマンの若輩者には真似できませんな。
Img_102090z 南町とは、金沢城が加賀一国を治めた一向宗の拠点「尾山御坊」のころからの寺内町で、御坊の南にあったことからついた名です。前田利家が入城し金沢城になり、城の西側に移転されても「南町」の名は残したまま、城下の中枢を形成する町の格付け最高位の「本町」のひとつであった最も古い町のひとつでした。
天保年間・大正時代・昭和初期の古地図のコピーを見ながら、狭い路地を大集団でそぞろ歩く探訪会です。
Img_102093z 文化ホールの裏です。明治期になって、このあたりにはりんご畠が作られ、長野、青森に負けないくらい古い栽培地になる可能性があったそうです。しかしうまく育たず断念。このお宅に唯一、カイドウリンゴという2~3センチのかわいい実がなる当時からのリンゴの木が残されていました。
江戸期の金沢の古地図、特に今回参考にした天保年間の金府大絵図は、その縮尺の正確さも一級品で、長い距離間でも数メートルしか狂ってないそうです。江戸期から太平洋戦争にかけても一度も戦災に遭ってない金沢では、古地図と近代・現代の地図を重ねても、道路がそのまま残っているのが多く、かつての場所が特定しやすいのです。
Img_102094z 表通り、国道157号線に出ました。今も昔も商店・事業所のビルが建ち並ぶ、金沢のビジネス街の中心です。なぜここに企業が集まったのか、実は正確な理由は定かではないといいます。南町交差点ですがしかし、このすぐ北側はもう上堤町(予定地)です。
Img_102097z 南町バス停です。バス停があるので最近までてっきり南町の町名は現行だと思ってました。金沢のバス停は古い町名を名乗っている箇所がたくさんあります。それも町名復活の呼び水になっているかも。
そんな金沢でも、実は2エリアほど、昭和30年代の新住居表示に反対して旧町名が残った区域があります。当時の政治力もあったんでしょうか。片町の隣、大工町から池田町・水溜町・里見町・杉浦町あたり一帯と、日吉町・折違町・柳町・玉井町・木の新保町など金沢駅周辺です。
Img_102099z 尾山神社の前、「南町」のまちしるべに来ました。[旧]の字が埋められ、新しく「南町」だけとなりました。先々週埋めた部分にカバーされてたやつです。旧町名が復活しても、「旧」文字を埋めただけで、しかも色も違ってわりと目立ったままなのが不自然に思ってましたが、単に予算をケチっただけでなく、「旧」だったのがなくなって復活したんだぞ!というのをアピールするためだという、市長の深謀遠慮の結果だそうで、それは恐れ入りましたww。
ここんとこ、取材に来てた北國新聞のカメラに写され、新聞に写真が掲載されてしまいました。フォーラムの写真とともに、僕の後姿が載っかっていますw。
Img_102102z 尾山神社の境内で、ひととおり解説後解散です。小一時間ほどでしたが、気がつくとあたりはもう薄暗くなってきました。北陸の晩秋は日が落ちるのが早いです。
この尾山神社は、正確には旧金沢城内であったここ金谷出丸に、明治6年に藩祖前田利家を祀るために建てられました。なので江戸時代にはなかったのに、よく小説で書かれることがあるようです。
Img_102105z 写真の神門は、明治8年に造立され、オランダ人による設計ですが津田吉之助によって建てられた、和・洋・唐様混在の珍しいデザインです。
見えるように、避雷針が立てられた日本最初の建造物で、重要文化財に指定されています。城の出丸ですから一段高いところにあり、往時は海からの灯台代わりになったともいいます。
夕方5時にちょうどなりました。ステンドグラスの中から明かりが点ってきましたよ。







Img_102106z_2 数分で明るくなりました。水銀灯でも入ってるんですね。こんなちょうどいいタイミング、偶然でも初めて見ることが出来ました。
曇ってますが、一日なんとか降らずにもってくれましたね。充実した、金沢の再発見のできた休日でした。












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2008年11月19日 (水)

「南町」町名復活フォーラム

Img_102057z 今月1日に金沢で9例目となった復活町名「南町」を記念して、フォーラムと探訪会が15日に開かれ、今年新しくできた地元「北國新聞」の交流ホールへ行ってきましたよ。
講演会場は100人ほどしか入れない大きさなので、出席応募には往復ハガキの抽選。前々日にやっと当選案内がきました。
この新しいホールは演劇のできる、創始者の名を採った赤羽ホールも併設。初めて入りました。
Img_102063z 新しくて明るいホール入口には「南町」の古い写真も展示。明治期から金沢のビジネス街の中心部として栄えた「南町」の発展の様子が残されていました。
今日の基調講演は作家の村松友視氏が50分カツカツ話してくれました。


Img_102066z ところが開会してまず、もりのみやこ少年少女合唱団の合唱でスタート。3曲もすがすがしい歌声を披露してくれて、心が洗われましたが、しかし唐突の場違いさ?にビックリ。テーマがテーマだけに、出席者はお年寄りが多く、子供たちの純真な歌は心に響かせる効果大なんでしょうか。
Img_102069z それでは早速村松氏の講演です。
氏は泉鏡花賞受賞後には、現在は審査員も勤め、毎年のように金沢を訪れて知己も多く、さまざまな縁から今年、金沢の茶屋街合同の「金沢おどり」の新曲「金沢風雅」の作詞もされ、金沢に深いかかわりを持たれた作家のお一人です。
氏の育った静岡での面白いエピソードを交え、地元の町のよい点の価値は気づきにくく、エトランゼ(異邦人)の視点こそその価値の再認識を喚起させてくれる、と教えてくれました。
Img_102070z 今回の南町は、その前の8町と違い、200社を超える一般事業所、特に全国組織の金沢支社が多く、単身赴任者の支店長などもいらっしゃる。まさにエトランゼが南町の町名復活のカギを握っていたわけですが、困難と思えた意見集約がみごと成し遂げられたのも、この金沢の魅力あればこそでした。
Img_102074z パネルディスカッションに移り、山出金沢市長なども出席。
昭和30年代の新住居表示法にともない、約300もの由緒ある町名がなくなりました。今般の町名復活は、単にノスタルジックだけでなく、地元への意識が離れていっていることから、地域への誇り、コミュニティの参加意欲などの回帰を目指し、その町の価値と魅力を再認識する意義があります。
しかし復活への道のりには課題も多く、費用や手続きも嵩む上、住民の総意が必要なのは言うまでもありません。
Img_102075z その中でポシャった町も少なく無いようですが、山出市長が最初に選んだ?主計町(かずえまち)と飛梅町(とびうめちょう)は、町の規模は決して大きくなく、意見集約に負担が少ないだろうという戦略?によるものでした。その考えは功を奏し、今では茶屋街や住宅地8町が復活してます。
そこで今回の南町は、初のビジネス街への挑戦。住居表示が変わってから40猶余年経っている今、昔日を知っている方が残っているうちに運動しないと、今後の復活はままなりません。
Img_102076z 200以上の事業所の説得にあたった商工会長の白尾歯科の白尾氏は、多かったであろう労苦を口にせず、復活運動という波風を立てたことで、南町の歴史や魅力を掘り起こせたと喜ばれていました。
町名復活による住民負担は、住所変更の各種手続や登記がありますが、市からの助成として、個人世帯には15,000円、事業所には100,000円が払われます。また、住民・印鑑登録、登記簿謄本の表題部、各種保険証などは、市が自動的に変更し、免許証・車検証、金融機関の口座や商業登記簿は、必要なときやなるべく早め、の届出でいいようです。
Img_102079z 金沢学院大の情報デザイン学科、高屋准教授は、南町は南北の商業繁華街、香林坊と武蔵が辻から、ぜひ歩いて訪れたいが、そのためにはちょっと休むところも必要。そういったサロンの場が、ビジネスマンにも憩いとなって、街を想う活性化のきっかけになるのでは、と提案。
金沢の街は歩きと自転車が相応しいとは、山出市長の主張でもある。エコも絡めて、新幹線後の市内交通のあり方は、ぜひガソリンバスにのみ頼る方法から脱却してほしい。
Img_102080z 旧町名復活の動きは、今のところ金沢独自のもの。郵便効率優先で国から推し進められた新住居表示に、率先して実施した金沢市だが、改めて町の歴史と文化の価値に気づき、町名復活による新たな刺激で魅力を高める活動が続けば、来る新幹線ルネッサンス?にも対応できるまちづくりができるでしょう。
ところで質疑応答の時間は取れなかったが、ぜひ山出市長に言いたかったのは、こうやって金沢の「まちしるべ」などblogやネットで採り上げるのは、僕と友人の2人だけ?なのが現実なので、ぜひもっとIT最先端の若者向けにも大いに発信し続けてほしい、ということですw。

次回はこのあと、新南町エリアの探訪会の様子を。。

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2008年11月18日 (火)

初の山口へ出張旅行4

Img_101920z さて山口のレポートも最終回です。萩では松本川の東岸、松下村塾一帯に来ました。松下村塾のホントすぐそばに、伊藤博文の旧宅があって国の史跡になっています。その隣の敷地は公園で博文の像が建っています。これは萩焼でつくられたいわば[陶像]。とても珍しいですね。小振りにも見えますが実際これくらい小さい人だったそうです。
Img_101922z こちらが旧宅。茅葺の小さな家ですが、7室もあります。ただの古い民家なのに、国の史跡にまでなるのは、初代総理大臣の家だからでしょうが、にしても萩は偉人の生家や旧家が多いですね。生家が残されるというのは、単なる歴史上の人物というより、先時代の権力者という部分も多分にあると思います。指定が昭和7年という戦前であることもそう思えるフシのひとつです。
Img_101925z [長州ファイブ]という案内板もありました。
文久3年(1863)に長州藩の後押しでイギリスに密航留学した若い5人を、現在イギリスでも顕彰してそう呼ぶそうです。
伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤勤助ですが、何人知ってますか?
クールファイブみたいな呼び方も初めて知りましたが、この密航が秘密裏に許可されたものなら、吉田松陰の捨て身の密航未遂はいったい何だったのか!と無念に思いますね。
Img_101931z 伊藤博文旧宅に隣接して、明治40年に東京に建てた別邸の一部が移築保存されています。広大なはずの別邸すべてでなく、玄関、大広間、離れ座敷の3棟を改造接続したものですが、その造りは有名な宮大工の手によるもので、精緻な造りや意匠が施されていました。
ここのボランティアガイドのおじいさんが、わりと熱心に解説されるので有名らしく、ガイドさんたちは常にここで時間オーバーを気にしなきゃいけないそうですw。
Img_101938z さて松陰神社の敷地です。ここには松下村塾もあります。
松陰の有名な辞世の句?である、「親思ふこころにまさる親ごころ けふのおとづれ 何ときくらん」の歌碑があります。
松陰の短くも波乱に満ちた一生はそれだけで大河一作にも匹敵しそうですが、みなもと太郎「風雲児たち」愛読者としては、早く松陰のクライマックスを読みたいものです。
Img_101942z 松下村塾全景です。「風雲児たち」で予備知識はありましたが、わずかの小屋を改造したところから始まったといいますから、想像のとおりとても小さく質素な建物です。ここのわずか2年半の間に、明治維新の立役者や新政府に活躍した多くの逸材が出たわけですからオドロキのものです。
Img_101945z この8畳の講義室からすべては始まりました。こうやって外から開け放しで見通せるわけで、今日は天気がいいからいいようなものの、悪天候だと中の畳や調度が湿気でやられないか心配です。
ここでガイドさんも言わなかったエピソードを、「風雲児たち」から引用。この建物は、門下生が増えたので増築したわけですが、松陰が門下生とともに増築工事中、屋根上から漆喰塗りしてたある門下生が、あやまって土を上から落とし、下を通りかかった松陰の顔を直撃してしまいました!
しかし松陰は怒るどころか、「ホントに師匠の顔にドロを塗った!」と大笑いしてウケたそうです。その後事あるたびにそのことを言いふらして、真面目一辺倒の松陰唯一の愉快な出来事として記録に残っています。
Img_101949z 隣接する松陰神社です。というか松下村塾を含む広い敷地が、松陰を顕彰して山口県から神域として奉納され、明治40年に伊藤博文他の手によって神社として祀られました。やはり日本人は、偉人となったら神として祀られるケースが多いですね。東京の東郷神社や乃木神社も行ってきました。往時はこのあたり畠だけだったらしいですが、今や一大観光エリアです。
Img_101956z さてそろそろ萩を離れますが、山口県のガードレールはそのほとんどが、こういうオレンジ色に塗られていました。注意喚起のためと思ったら、特産の夏みかんをイメージしたものらしく、条例で県管理の道はすべてこの色になってるようです。
今度山口に行くことがあったらぜひ注意してみてみてください。
Img_101960z ようやく丸二日間の長旅も終わりが近付いてきました。といっても帰宅まではまだ5時間以上かかります。旧小郡新山口駅まで来ました。ここから新幹線に乗って新大阪まで戻ります。新幹線ホームから広い在来線ヤードが一望なので、思わず撮りまくりです。
Img_101963z 新山口は山口線の基点の駅。山口線用のキハ40系も集結してるようです。
今回は山口市内は行くことが出来ませんでした。山口線はSLやまぐち号でも有名で、SLにも一度乗ってみたいものです。


Img_101986z N700系のぞみ44号が入線してきました。小郡時代は重視されてなかったこの駅も、県庁所在地の一部になったとたん、のぞみが12往復も停まるようになって、山陽新幹線沿線の各県に必ず停まってるわけで、山口県の面目も施されたことでしょう。

Img_102048z 薄暮の中、入線してきたN700系のえも言えぬ先頭車の微妙な曲線フォルムが、屈曲した光のラインも鮮やかに描いて、神々しくも美しく見えたのはひいきスギでしょうか。今回0系を見ることあたわずだったので、せめてこの未来の車両を堪能することにしましょう。
あぁ、言い忘れてましたが、行きで広島から新岩国まで100系こだまに乗り換えましたが、あの旧グリーン車の深いシートにはビックリしました。ぐっと沈み込むあの感触は、長く乗っていたい、という落ち着き感をかもし出しますね。かなりいいです。全シートあれにすればいいのに。
Img_102052z 帰りの車窓から、徳山でのコンビナートの夕景です。失敗しました。全く準備してなかったのでシャッタースピードを設定できませんでした。
今回の狙いのひとつに、工場を撮る!というのを想定してて、製紙工場は内部撮影禁止で、宇部の夜はセメント工場では光ってないだろうしと、半ばあきらめでしたが、ここでこんなシチュエーションが用意されているとは。徳山のコンビナートは美しいと思ってましたが、新幹線の車窓ではいいロケーションないだろうと思って心積もりしてませんでした。肉眼では夕闇せまる瀬戸内と、金属がライトに輝く構造物とのコントラストが、北陸ではなかなか見ることの出来ない情景となって、この旅行最後にプレゼントしてくれたおみやげに思われました。しかし撮れなかったのはザンネンな心残りです。

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2008年11月17日 (月)

初の山口へ出張旅行3

Img_101853z まだ13日です。山道をくねくね通って、やっと昼には萩に到着しました。橋本川と松本川に挟まれた、狭い三角州に築かれた萩の街は、関ヶ原で敗北?した毛利家が入城してから、広島から共についてきた約10万人の武士や町人で栄えました。藩政期の古い建物や路地も数多く残っている、典型的な城下町です。
写真は藩校の萩明倫館。当時の建物をまだ萩市立明倫小学校として使われてます。萩明倫館といえば小山ゆう「おれは直角」ですねw。その意味で見て感動しました!
Img_101856z 中心部には中央公園が整備中で、そこでバスが駐車できます。徒歩で細い路地を歩くと、幕末のままの家並みが続いてます。すると当たり前のように、青木周弼木戸孝允の旧宅が建っていました。
今でも一般の方が住まわれてるのも多く、最近まで無料で中を覗けましたが、10月から最低でも100円徴収するようになったそうです。
Img_101861z こちらは重要文化財の「菊屋家住宅」です。城下の真ん中にド~ンと2000坪もある敷地が残されてます。ここに見学に入りましょう。
藩政期初めから萩藩の御用商人として栄え、藩の用宅にも使われたことから、400年近くにわたりその体面と建物を大切に維持してきたそうです。
Img_101878z 見た目は金沢にも似たようなものはありそうですが、金沢は意外に古すぎる建物は少ないです。寛政11年(1799)の地震などで城下は火災や大破したからですが、萩は火災も少なかったでしょうか。すごいですね。



Img_101887z 高杉晋作の旧家に来ましたが、ここも一般の方が住まわれてます。華道の家元さんのようですが、写真の絵図は菊屋家の土蔵に大きな屏風でありました。その複製画を300円で売ってるってことで、受付のおばさん(この人が家元さんじゃないよねw)に買いにいったら、今品切れ中だって。夕方にはって言われてもねぇ。ザンネン。萩城は雲で隠してあります。サスガ。
Img_101889z 部屋はだいたいこうやってパネルとかが展示してあります。下の写真は高杉晋作ですが、光に反射してよく見えませんね。
駆け足で見るにはフラストレーションの溜まる充実ぶりです。この菊屋家や各旧宅のある一帯が萩城下町界隈として国の史跡指定を受けてます。
Img_101892z このあとお昼ごはんに行くんですが、バスは一旦、指月山のふもとで駐車、料亭?のマイクロバスに乗り換えです。
しかし街中からでもよく見えるはずの指月山を捉えるチャンスがなかなかありません。バスの中で橋本川を渡るときにやっとの思いで撮りました。今回は城跡に行く時間はありませんでしたよ。経年で崩れた石垣の修復現場も素通りしただけなので、撮りそこねてしまいました。
Img_101895z 「城下町」の中にある「北門屋敷」が昼食の場でしたが、一見和風の中、玄関内は洋風にアレンジされた宿泊施設。でもテーブルで和食のコースをいただきました。いちおう、山口に来たんだからカミングアウトしときますと、えぇ、[ふく]はいただきましたよ。昨晩とここでね。しかし、直径10cmほどの小皿で申し訳程度w。
写真はここにあった1mほどのでっかいカマキリの置物。
Img_101900z バスは今度は松陰神社などに向かうため、海沿いを走ってくれました。やっと指月山のナイスビューですw。しかし萩って沖合いにたくさん小島を従えてるんですね。天気もよくて、ものすごく綺麗に見えます。



Img_101903z 人が住んでる島には当然ながらフェリーも渡ってるとか。すごく行ってみたくなりますねぇ。石川は舳倉島とか能登の奥だし遠いしなにもないし、なのであまり経験無い、島へ渡るってのにあこがれますねw。あっ、どっかの島には2度ほど行きましたよ、ええ。


Img_101906z この島は相島ですね。海岸はほとんど岸壁。SAで買った地図によると、それでも人は住んでるようです。興味そそりますねw。





Img_101911z 松本川に架かる萩橋には、街灯が夏みかん。萩は夏みかんの産地だそうで、おみやげにも夏みかんを入れたものが多かったですね。後付で鳥害防止のピンが立ててあるのがわかりますか?



Img_101913z 川を渡ったところに東萩駅です。観光地にある山陰本線の駅ということで、1面2線の堂々の有人駅です(たぶん)。今回は団体行動なので、おとなしくしてますが、山陰本線なんてメッタにお目にかかれないですからじっくり探検したかったですね。でも最後新山口駅ではたっぷり撮ってしまいましたw。


つづきはまた明日にしましょう。

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2008年11月 8日 (土)

金石・大野にもまちしるべ

Img_101380z まだ先週末です。
姉を送ってから、母が用があるからと、母の実家の墓がある金石(かないわ)に連れて行かされました。
金石の街を通っている間、おやっ、と道角にあるなにかを発見。よく見ると[まちしるべ]の石碑じゃないですか。金沢のまちしるべより白くて小振りですが、明らかに旧町名の石碑です。
Img_101381z 石碑にも彫ってあるんですが、平成5年に、金沢市に編入されて50周年を記念して、金石の旧23町にこのまちしるべを設置したようです。隣接している大野町も同様です。
帰ってから金石町公民館のHPを調べたら、全23町の町名と謂われが載ってました。しかし設置場所の地図がないので簡単には探せません。いずれかの機会にゆっくり探訪したいと思います。
Img_101385z 母に結構待たされたので、この間に少し金石の住宅地を歩いて、いくつか石碑を見つけられました。厳密に見るとやはり私有地に建っていますね。
金石の街は金沢から真っ直ぐの道を延ばした先の、日本海に面した港町。昔は宮腰(みやのこし)と言い、江戸末期の豪商、銭屋五兵衛を輩して栄えてました。現在は約8,000人以上が暮らすひっそりとした漁港の住宅地。
Img_101387z 石碑の左右には設置年と町名の謂われが彫ってありますが、謂われは不明、というのがいくつかありますw。
それに、やはり金沢同様、ゴミステーションの脇にあるのも多い。設置から15年経ってるので、今現在の街の人からの扱いもぞんざいになってるのかも。

Img_101391z それに、金沢と違って(ここも今や金沢市内だけどね)、石碑が白いので、彫ってある謂われも正直読みにくいです。たとえば[下越前町]に町名と全然違うことが書いてあるので見間違いかと思いましたが、HPによると正解なようです。

Img_101394z_2 金石の街の中心部、金石公民館の前に来ました。中心部だからか、ここの石碑は[金石町]です。この前の道が、細いながらもメイン通り。金石には、太い道は全くなく、昔ながらの入り組んだ小路ばかりなので、初めて来た者はゼッタイに迷いますw。
この左枠外には、ご近所の数人が井戸端会話してましたが、公民館を外側からビシバシ撮ってるあやしげな男は注目の的ですww。
Img_101395z 海岸まで出ましたが、このあたりは今埋め立ての造成中。木塀の隙間から覗き見です。





Img_101399z いやもうちょっと先に行ったら、塀の外へ出られました。先日にも地元の新聞に載ってましたが、かなり広大な埋立地です。しかしまだ、用途は検討中ということで、用途を決めてないのに埋め立てるとは、順序が逆じゃないかと思いますw。
この日は白山のふもとから海まで、往復100kmも車を走らせてとても疲れました。
Img_101415z 金石と隣接してる大野にもまちしるべはありました。いくつか撮りましたが、いずれ再チェックしたときにでも紹介します。大野は全国にも知られた醤油の町。公開中の映画[しあわせのかおり]のロケ地です。
金沢港にも隣接しています。対岸の大浜埠頭は地元重機メーカーの[コマツ]が進出し、大深度岸壁として13mに掘り下げられ、大型貨物船も受け入れられるようになりました。金沢港の貨物取扱量も数年来で格段に増えています。この不況の波がなかったら今後とも順調なんでしょうけど。

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2008年11月 2日 (日)

[上堤町]復活予定で[堤町]のまちしるべ

Img_101304z 「南町」に続いて来年には、すぐ北側に位置する「上堤町」が復活の予定だ。上堤町の町会がこのたび総会で復活を決議。市長に申し出て手続きが開始される。
現在、下堤町は消えずにあり、両町あわせての「堤町」の標柱がこのたび設置されたので撮りに行った。
[堤町(つつみちょう)]藩政期以前にできた寺内町の一つで、掘り上げた土の堤上に町地ができたことからこの名がついた。寛永十二年の火災を機に西内惣構堀の内からこの地に移された。
Img_101308z この上堤町も南町同様ビジネス街にあり、復活にはビル所有者やテナントの協力が不可欠。しかしここも町会の努力もあり順調に復活の準備が進んだ。正式には現地調査と市議会の議決を経て旧町名復活となる。ここの交差点名は新聞によると[下堤町南]と書いてあるが、現地を見たら既に[上堤町]になっていた。新聞より先にレポートできた!特ダネだww。
この[上堤町]で市内の標柱は222本目(旧北国街道は4本あるので219種)。現在工事などで撤去されてる2本を除いてすべて制覇している。今月はまた主計町の裏手の[暗がり坂]の隣に[あかり坂]が設置されるはず。逃すわけには行かないw。
あっとそれと、来年[上堤町]より先に尾張町に[下新町]が復活の予定、10例目と11例目となる。

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2008年11月 1日 (土)

復活!「南町」

Img_101297z 旧町名復活運動の盛んな金沢で(金沢唯一かもしれない)、9例目の「南町」が本日11月1日復活した。
昭和40年ころの新住居表示制度で消滅した「南町」は由緒ある町名で、一向一揆で有名な一向宗徒が金沢を治めたとき、今の金沢城に位置する尾山御坊を創建後、寺内町として永禄年間(1558-70年)にできた金沢で最も古い町のひとつ。当時は確かに御坊の南にあったが、前田家入城後金沢城の拡張に伴い町民ごと西側となるここに移転。藩政期は町の格付けの最高位である「本町」のひとつとして城下の憧れの土地だった。
現在は国道157号線ぞいの金沢市中心部のビジネス街。大企業の支店や地元有名企業のビルや商店が建ち並ぶ金沢の東京丸の内だ。今までバス停にのみ「南町」の名は残っていた。一口に旧町名に還すといっても諸問題は多い。登記や企業なら自社のすべての書類なども変更せねばならない。新町内になる地元の新聞、北國新聞も表紙の住所が香林坊2丁目から南町2に早速変わっていたが、各企業・住民らは町名の歴史的意義と誇りを重んじて一致協力。約120社すべての賛同を得て今回の復活となった。
写真はまちしるべの町名標柱。「旧南町」の「旧」をセメントで埋める作業後カバーで保護されている[レア]な状態だw。来週末の8日に記念セレモニーがあり改めて除幕される。
ビジネス街初の旧町名復活も、これを契機に街あげて活性化に向けて協力する金沢ならではの動きに、全国からも注目を浴びている。来年はここのすぐ北側の「上堤町」が待っている。

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2008年10月21日 (火)

倶利伽羅周辺の上と下

Img_101127z 源氏と平家の倶利伽羅峠の戦いとは、寿永2年(1183)、木曽義仲が10万の兵を率いる平維盛と激突。耳に松明を燃やした500頭の「火牛」で突撃した義仲軍に、驚いた維盛軍は夜半の奇襲に逃げ惑い、地獄谷に軍馬もろとも落ち重なって、過半数が死亡。あとは散り散りになって大敗したという有名な戦い。これで平氏の命運が決まった一戦。
Img_101109z 火牛の像もありました。しかし500頭もの牛を、気づかれずにこんな山の上まで連れてきたとは考えにくいですが、源平盛衰記にもはっきりと書かれている史実?のようです。



Img_101111z 倶利伽羅峠は旧北国街道でもあり、参勤交代や、芭蕉の奥の細道でも当然往来され、「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」という句碑もあります。
舗装されず、江戸時代の原状をとどめる旧街道も、付近に約3kmも残っており、このたび地元の津幡町の文化財指定を受け、将来石川県の指定へ格上げも期待される。道本体の文化財指定は特に珍しく、距離も長く、往時の面影を残す学術的価値が極めて高いと評価されています。
Img_101088z 峠から東方を望むと、遥かに富山県の砺波平野が見られました。
晴天でも、遠くが霞んでいて、立山連峰はさすがに見られません。しかし往時のひとたちは、峠越えのたびに、こういう眺めを満喫できてたんですね。

Img_101120z 拡大してみました。ユニーがはっきり見えますw。砺波といえば、散村平野と習いましたが、今でもしっかりとその様子が窺えます。以前医王山からもよく見えてました。




Img_101144z さて、峠を戻ってきました。ここまで来てここに来ないわけにはいきません。
JR倶利伽羅駅です。津幡町でも富山県境に近いこのあたりは、駅はあるものの利用客がそう居るとは思えません。昔ながらの駅舎には見えますが、造りはそう古くないと思われます。
Img_101145z 中を覗くと、無人ではあるものの切符の自販機がありました。いや、さっきゴミを出してた人がいたので、管理する人は居るようです。改札があるとは思いにくいですが、入場はともかく、出るときはどうするんでしょう。北陸本線では、車掌が切符回収しないと思いますが・・。
左の各駅停車の時刻表を見ると、デイタイム一時間に1~2本です。これでは北陸鉄道となんら変わりませんね。
Img_101148z 駅の駐車場から、本線を撮るアングルが案外にいいです。島式1面2線のホームですが、その両側に待避線がある意外に広い構内に、架線柱がそんなにジャマしません。
この日はロケハンも兼ねてるつもりなので、いずれたっぷりと撮りに来ましょう。

Img_101153z 少し金沢寄りに戻ると、道の駅「倶利伽羅 源平の郷」の立派な施設が。歴史資料館や、飲食・温浴・宿泊・研修施設もある、いたれりつくせりの建物です。真新しく、近年に国交省と津幡町とで作られました。
しかし、国道8号線は今年バイパスが完成し、この前の道は県道に格下げ。往来する車も遠方からのは極端に減ったと思われます。
Img_101159z 今となっては僕のような物好きが、ちょろっと金沢から来るだけで、だいたいが近在の方の社交場になってる感があります。売店も地元の物産よりもコンビニに並んでそうなものがほとんどで、掛かる費用を考えると、また自治体の負担になるハコ物ということなんでしょうか。

静かな源平の里を後にして、陽の落ちるのが早くなったので、急いで残りの高架を撮りに戻ります。。

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2008年10月20日 (月)

倶利伽羅不動尊

Img_101073z 13日に倶利伽羅方面に行ったのは、富山県境にある、日本三大不動という、倶利伽羅不動尊に行くのも目的でした。
倶利伽羅駅付近から旧国道を右に曲がって山道に。エンジン吹かしながら、かなり急な3kmの坂道を登り続け、いつのまにか一気に200mも標高を稼いでいました。
不動尊付近からの眺め。
Img_101074z 200mm望遠で、眼下の国道を捉えます。前の写真の中央部です。あそこからわずか10分程度でここまできました。





Img_101080z 駐車場から階段を登りつめると、いきなり本堂です。以前から超有名なこの不動尊も、どれだけのモノかと一度来てみたかったわけですが、案外に伽藍はコンパクトです。
この時期は奥の院の御開帳で、なにか条件がそろうのが30年ぶりとかで、たくさんの方々が本堂の中で講話を聴いてました。
Img_101081z_2 僕は別にお不動さんを信奉してるわけでないので、護摩を焚くとか、御開帳を見るのに札を納めるとかしませんでしたが、いろいろ見学?はさせてもらいました。
千葉の成田不動尊、神奈川の大山不動尊と並んで、日本三不動といわれます。「倶利伽羅」とは、インドのサンスクリット語で福徳円満の黒い龍を意味するそうで、約1300年前の養老2年に、元正天皇(聖武天皇の前の女帝、だから奈良時代ですね)の国家安穏の祈願にて創建されました。
Img_101082z








Img_101083z 倶利伽羅といえば、源平の合戦でも超有名な舞台ですね。この旧北国街道ぞいに、古戦場があります。不動尊のあとに見に行きましょう。





Img_101086z














Img_101091z 倶利伽羅不動尊の前には、「倶利伽羅そば」という蕎麦でおもてなしがあります。
お茶の入った緑の麺が特徴で、これを食べるのも目的のひとつでした。




Img_101092z しかし味はいまいち深くなかったですね。
ちょっと茹で上がりすぎ?しかし人気の茶そばは、15時くらいなのにもう売り切れで、どうやら僕のが今日の最後だったみたいw。

さて、古戦場へ向かいます。


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2008年8月14日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」27 達成!

Img_90239k 東山周辺へチャリを飛ばすのに、先日の被害のあった浅野川を跨いだ。川の水は普段どおりの少なさになったのに、まだまだ濁ってたので、それで上流域を見に行こうと思ったわけで・・。主計町中の橋の橋げたの木製の覆いがかなりひどくはがれていた。ひと月前来た時には美しい姿だったのに。
主計町も復旧して営業再開の店がほとんど。夏休みなので客足も早く戻ってほしい。
Img_90240k [旧金屋町(かなやちょう)]No155 もと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造したのでこの名がつけられ、元和の初め、この地に移されたという。金谷町とも書いた。


Img_90243k 森山の路地裏に入って。
[旧大衆免(だいじゅめ)]No157 この付近は昔、神宮寺の大衆の免田で、税が免除されていたのでこの名がついたといわれ、明治初年には大衆免を冠する町が十八あった。
ここは大衆免竪町。18町を代表してここだけ石碑が置かれた。
Img_90248k 東山寺院群の中に入って、来教寺の前。
[旧小川町(おがわまち)]No154 藩政時代は、川(河)端町、西養寺前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治の初め、上、下小川町に改められた。
東山寺院群はさまざまな宗派の寺があり、ここは天台真盛宗。神社は興味があっても、お寺にあまり興味もてないのは、宗派が乱立してるからだろうか。キリスト教でも、カトリックがプロテスタントの教会へ行くことはないだろう。日本はそのへんがあいまいなのがどうかと思う。
Img_90249k さらに自転車がやっとの路地を通り抜け、結構奥まできましたよ。
[鴬町(うぐいすまち)]No152 この地はかつて幽谷で、鶯が多く、鶯谷と呼ばれていたことにちなみ、明治になってこの名がついた。
この上は松尾神社です。「夏子の酒」でもあったように、酒蔵が崇拝するお酒の神様、「松尾さま」ですな。
Img_90252k まだ11時ごろだと言うのに、ここまで登ってきて汗だくだく。鳥居前は朝顔のトンネルを作って少しでも涼の気分を、ということだろうが、それにしてはまだ貧弱だった。こんな暑い日に誰も訪れる人は居ないw。



Img_90255k 東山界隈でのラスト。宇多須神社の裏を廻って坂の途中から入った。
[子来坂(こきざか)]No325 慶応3年卯辰山が開拓された時、作業に出た住民多数が子供が来るようににぎやかに登ったのでこの名がついた。今はこらい坂と呼んでいる。
町名も今は[こらいまち]。この坂を登りきったらまだまだ寺や景観などみどころはあるようだけど、そういうのは今度別のテーマで廻ろう。今日はなんせ暑い!
Img_90272k 東山からチャリで午前のうちに一度家に戻って一服。午後から車で浅野川上流へ向かう。その前に現在建ってる石碑のラストをいよいよ撮ることに。錦町にある
[大瀧坂(おおたきざか)]No307 かつてこの坂の脇には、辰巳用水から台地下の田畑を潤す流れが、大きな滝のように流れ落ちていたことから、この名がついた。
今は瀧はないですな。
これでとうとう[まちしるべ]全制覇!216種219箇所。あとは現在歩道工事中や破損中で建ってない[河内町][同心町]だけ。復活したら撮りに行かねばならないね。
また、この後もいくつか建てられるだろうから、チェックは必要。けどこれで、金沢検定に出ても、どの町がどこだったかしっかり頭には入ったから大丈夫。

あなたも、金沢へお越しの際は、この細長いグレーの石碑を探してみてください!

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2008年8月13日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」26

Img_90188k さて、長かった「まちしるべ」のレポートもあと2回ほどです。今年の夏は毎日暑いですが、なんとか午前中、しかもチャリで廻るぶんには前回より楽です。ホントは秋にじっくりと思いましたが、S氏も制覇されたので急いで達成することにしました。
長町武家屋敷の端のほうに来ました。
[旧穴水町(あなみずまち)]No94 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。
Img_90189k 穴水公園の中に石碑があったんですが、ここは昔の女学校があったところ。ばぁちゃんもここを出たようですが、それを記念した石碑が建ってます。平成になってから、こういう記念碑が多くなったような気がします。昭和は遠くなってるんですね。

Img_90192k 玉川公園の北側、金沢玉川図書館の脇です。
[旧宗叔町(そうしゅくちょう)]No99 元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。
以前は専売公社の工場だったんですが、敷地のほとんどを市に開放し、その後残ったJTの事務所も今、玉川こども図書館として工事中です。西金沢に移ったたばこの工場も先日閉鎖が決まり、たばこ離れの勢いは激しいですね。能登にはたばこの有名な産地もあるんですが、時代の趨勢です。僕は吸わないのでいいんですけど。
Img_90195k 金沢文化ホールの裏です。
[高岡町(たかおかまち)]No82 越中高岡に隠居していた二代藩主前田利長が、家臣を高岡からかえし、この地に住まわせたため、この名がついた。
ここにあった高岡町中学校は、郊外の神田に移転したけれど、校名は約そのままの高岡中学校ですw。
Img_90199k 尾山神社の前へ来ました。この前を流れる辰巳用水は暗渠にされていましたが、先日から開渠化する工事が始まり、今月中には完成です。
様子はかねがね気になってましたが、だいたい想像どおり。しかしもう少し幅広く開けてほしかったですかね。初詣のときに落ちないように気をつけてくださいw。






Img_90205k 江戸時代から続く老舗料亭大友楼の敷地にあります。
[旧松原町(まつばらちょう)]No87 もと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち御門前松原町といった。
大友楼は金沢駅の駅弁を作った最初の店でもあり、4月の金沢駅開業110周年イベントでも、特製駅弁を売ってました。江戸時代の弁当箱など、古い伝統ある道具なども多く所有され、よくテレビで紹介されたりしてます。
Img_90206k 金沢城の丸の内駐車場の脇です。
[旧西町(にしちょう)]No86 金沢御坊の西にできたのでこの名がついたといわれ、のち尾山城(金沢城)になってからできたという説もある。佐久間盛政が金沢御坊を攻め取って西町口を城の大手とした。
写真の建物は金沢商工会議所です。市からの説明会を聞きに何度か訪れています。
Img_90209k 50mほど北へ行くと目的の坂ですが、ガイド本の地図だと坂の途中にあるはずの石碑を覗こうとしたら、写真のガードマンに一般立入禁止といわれました。たしか県の施設があったはずです。「石碑を探してるんで・・」と言って坂の下にあるのをすぐに見つけました。
[甚右衛門坂(じんえもんざか)]No321 天正八年佐久間盛政の攻撃をうけたとき、本願寺方の浪士、平野甚右衛門が奮戦、討死した坂なのでこの名がついた。

さてここから、一気に東山まで走ります!

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2008年8月12日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」25

Img_90163k では石碑を追ってチャリで駆け抜けよう。目標はやはり2時間、午前のうちに廻りきること。
犀川鉄橋からすぐの長土塀町内。
[旧竹田町(たけだまち)]No90 加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた。
全くの住宅地の中で、朝からカメラで道を撮ってると、あやしいことこの上ないですねw。ちゃっちゃっと済まして次いきます。
Img_90168k 北陸本線の高架脇に来ました。
[旧藺田町(いだまち)]No102 古くから、金沢地方でも広く藺(い)草を栽培して畳表を作っていたが、慶長以前頃から小松表を用いるようになったので、城下の作付は廃止された。当時このあたりは藺田であったため、これを町名としたという。
Img_90171k 北陸本線南側には、新幹線の高架建設の真っ最中です。金沢駅から白山車両基地までの用地買収も進み、市内でもこのように工事が始まりました。
この金沢駅から犀川橋梁までの区間は、在来線が平地を走っていたころの土地なので、収用の必要はなく、高架の工事も本格化していますが、一転犀川以西はまだ住宅が細かく密集。まだまだ時間はかかります。
Img_90173k 三社町の通り。ここから市中心部へ戻ります。
[旧蔦町(つたまち)]No101 加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治の初めこの名がついた。
いまさらですが、この旧町名碑を建てる基準を。大正13年以降の金沢市編入地域は当分の間除く。明治25年の改訂区画を基本とする。昭和38年に、新住居表示制度が施行された、以前の町名。
なので、まだいくつかこれからも新たに設置されると思います。
Img_90180k そこから狭い路地に入りました。
[旧七曲り(ななまがり)]No95 藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった町筋であることからこの名がついた。三社七曲りともいった。


Img_90183k 県の女性センターの横へ出ました。
[旧三社五十人町(さんじゃごじゅうにんまち)]No98 藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことからこれを冠称にこの名がついた。
ここ一帯は三社町以外に十町が三社を冠していたので、代表して五十人町に石碑が置かれました。
Img_90186k 昭和大通りに出ました。
[長土塀(ながどへ)]No91 藩政時代、この付近に長、村井、今枝などの武士の下屋敷があり、外囲いの土塀が長く続いていたので、この名で呼ばれている。
石碑の隣に、なにやら碑が建っています。「金澤市長 徳田与吉郎」とあるので、かなり古いと思いますが、車道側になにか書いてあるだろうという意識までなかったので、確認せずにやり過ごしてしまいました。後日再確認ですかねw。

では、明日に続きます。

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2008年8月 7日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」24

Img_90049k じゃあ、片町周辺の残した石碑を片っ端から踏破します。
片町ラブロ裏の、木倉町と小路ひとつ隣。
[旧大藪小路(おおやぶしょうじ)]No63 藩政前期、加賀藩士、禄高七百石の大藪勘右衛門にはじまり、以降代々の居邸がこの付近にあったので、この名がついた。
今は飲食店が多い路地裏の一つです。
Img_90051k 香林坊109の表へ出ました。ここも前回見逃してましたね。
[旧石浦町(いしうらまち)]No66 もと石川郡石浦庄下石浦村であったが、慶長年間、町地となりこの名がつけられた。城下町の本町の一つに数えられた。
今は旧県庁や市役所もある金沢の中心地。かつては金沢城の裏手にあたり、石浦神社があるように、一帯は石浦庄でしたが本町のひとつ「石浦町」となり、戦後まで栄えました。今も町名復活にふさわしい場所だと思うのですが。。
Img_90054k 若者の街タテマチ通りを横切り、街中なのに閑静な旧家の並ぶ路地に入りました。
[里見町(さとみちょう)]No52 加賀藩士、禄高千二百石の里見氏の屋敷があったことから、この名がついた。
この家も立派な門構えですが、表札など確認しませんでした。なにしろ暑くて余分なことする気力はなかったですねw。
Img_90055k さらに犀川大通りに出て、飲食店の入っている大きなビルの前。
[旧大工町(だいくまち)]No51 寛永の大火のあと、ここに拝領地を受けて藩の御大工衆が住んだことからこの名がついた。
金沢のバス停は、以前にも言いましたが旧町名のついてるものも多いです。100円の「ふらっとバス」の停留所に[大工町]が付けられ、ここがそうだと知りました。いっそ、バス停を全部そうしたらどうでしょうか。
Img_90059k 飲食街の路地に入り、犀川大橋に近付いて、さっき見つけられなかったのをやっと探し当てました。
[旧河原町(かわらまち)]No48 この付近は、もと犀川の河原で、藩政初期、犀川の改修に伴って新たに作られた町の一つであるところから、はじめ、後河原町と呼ばれたが、のち、この名がつけられた。
江戸初期の犀川はこのあたり、流れがふた筋に分かれていました。一筋を改修して陸地にし、町割りをしたんでしょうね。
Img_90061k 犀川大通りに戻って、少しずつ上流へ向かいます。
[池田町(いけだまち)]No45 蔵宿業の池田屋長右衛門が居住していた池田屋小路を、明治4年、池田町一番町と改名したことからこの名がついた。
この路地裏一帯は、古い町名のままの町が続きます。石碑は二つしかないんですけどね。まだまだ増える余地があるということですね。
Img_90062k その路地裏です。車がやっと進入できる幅しかありません。
[水溜町(みずためまち)]No38 犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名がついた。元禄年間、60メートル余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った。
今はなんの名残もありません。
Img_90066k [杉浦町(すぎうらまち)]No35 藩政初期、加賀藩士、杉浦仁右衛門の預り足軽の組地であったことからこの名がついた。
古い町名は結果、人の名前が多いことにもなります。このへんが金沢検定でもポイントですよ。


Img_90073k さて、本多町の遊学館高校の裏に来ました。ここの坂を忘れてました。
[大乗寺坂(だいじょうじざか)]No313 慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。
野田山墓地に今はあります。
金沢の橋や坂をモチーフにした、金沢出身の作家「子母澤類」の短編小説が、地元新聞が出してる月刊誌に毎月掲載されています。この大乗寺坂を舞台にした、学生のほのかな恋ものがたりはちょっとお気に入りでしたね。
Img_90074k やっと本日最後の石碑を探し当てました。一度チャリで来たとき見つけられず、市のHPの地図はホント見づらいし場所もいい加減ですw。
[旧手木町(てこまち)]No31 藩政時代、城中の露地方として庭造りをしたり、藩主の行列の際に荷物を運搬する手木足軽の組地であったので、お手木町、御手木ノ町と称され、明治4年、手木町となった。てこのまちとも呼ばれた。
近くを流れる用水の勘太郎川にかかる橋の名も手木橋でした。車に倒されることもあると言うので、こんな電柱のそばだと安心ですね。

ここまで目標どおり、2時間で廻りました。暑い昼ではこれが限界ですw。
あと残り20箇所(そのうち二つは現在建ってない)となり、終わりがやっと見えてきました。来週末も、暑さに係わらず踏破してみたいです。またレポートをお楽しみに。

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2008年8月 6日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」23

Img_90004k 先週の浅野川の被害は思いのほか甚大だったけど、ここ犀川も中州の森が壊滅状態。大木も林立してたこの島も、根こそぎ倒されてる。28日(月)は早朝通った時はそれほどでもなかった。午前のうちに一気に水かさが増してここ下菊橋も一瞬警戒水位に達したそうだ。ダムが出来てから洪水はないけど、何度も氾濫した犀川、これからも気をつけていきたい。
Img_90022k さて日曜は、暑いのをわかってて12時から石碑めぐりに出かけた。同好のS氏がほぼ制覇してて、なんとか夏のうちに達成したいと思い、中途半端に残ってる自宅から南のエリアや片町周辺をチャリで短時間に廻ることにした。
犀川対岸の法島から寺町台地に登る坂。別の地蔵堂のある坂を登っていきなり間違えてムダな汗をかいてしまったw。
[御参詣坂(ごさんけいざか)]No301 藩政時代、法島村から祇陀寺の向こうへ至る坂と、今一つ崖の下から桃雲寺手前の野田往来へ至る坂をこう呼んだ。野田山墓地に参詣することからこの名がついた。
かなり急な坂を自転車曳いて登る。上部は車両通行止めの人道だ。金沢の小さい急な坂は、この御参詣坂のように半分以下のスペースが階段になってるのが多い。街の見晴らしもいいよね。
Img_90030k 登りついた平和町から、寺町通りを下る。3丁目あたりで、地図の位置から移されて公園に建てられた石碑をようやく発見!
[旧桜畠(さくらばたけ)]No11 もと泉野村の地で、城からの眺めをよくするため、桜の木が多く植えられたので、この名で呼ばれたという。
実際は元の地図どおり、寺町台地の崖沿いでないと城から桜なぞ見られなかったはず。石碑はたびたび移設を余儀なくされたり車がぶつかって破損したりするようだ。
Img_90035k 野町小学校の裏道を抜けてやっと見つけた。これも元の公園から100m近く離れた広場入口に設置しなおされたもの。S氏に教えてもらわなきゃ、見つけられないよなぁ。
[旧桃畠町(ももばたけまち)]No8 もと泉野村の地で藩政期に桃の木が多く植えられたので桃畠と呼ばれたという。また、古くからこの地に桃畠があったからともいわれる。のち、民家が建ち、明治4年、町名になった。
Img_90036k では六斗の広見から広小路方面へ次を目指すと、忍者寺で有名な妙立寺の前を通った。中に入ったのは30年ほど前か?
寺の中にさまざまなカラクリの仕掛けがある部屋があり、まるで忍者の住処という。金沢城からここまでの抜け道が仕込まれている、とまことしやかに謂われて観光地になってるが、僕は3畳(4畳?)の切腹の部屋が思い出に残ってるかな。
Img_90037k 広小路から蛤坂を下る。犀川を台地の上から望める位置で一枚。手前の変な鉄塔はとりあえずムシして、川の水はまた普段より少なくなったようだ。鮎釣りはいつ復活できるのかな。


Img_90040k [蛤坂(はまぐりざか)]No306 加賀藩前期に妙慶寺坂といったが、享保18年の火災後、蛤が口を開いたようになったのでこの名がついた。
奥が犀川大橋。


Img_90041k とうとう塗装色変更の工事が開始された犀川大橋。15年ぶりにカラーリングを替えます。1924年架橋の国の登録有形文化財に指定されたワーレントラス橋。
もっと深い青になるんだったっけ?秋にお色直しが完成したら、またレポートします。

Img_90047k さて、やっと片町へ出ました。なんせ暑くて、この手前でコンビニで氷水を買って冷やしながら走りました。ここは旧大和百貨店の、やはり金沢一番の繁華街。
[片町(かたまち)]No56 藩政初期、この地は犀川が分流し河原になっていたが、片側に掛作りしてすまいをしたためこの名がついた。はじめこのあたり一帯を河原町と呼んだ。
河原町の石碑はまた別にあります。それ含めて明日は一気に10箇所紹介です。

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2008年8月 5日 (火)

夏の江戸探訪、表編4 江戸東京博物館

Img_90766z 午後に夕方の予定まで中途半端な時間があいたので、M氏と思案して江戸東京博物館へ行きましたよ。僕は4度目くらいですが、通常展示は2度目なので付き合いました。1階で開催されて見た特別展は、水木しげる展大江戸展だったかな。去年開かれた大徳川展は超満員で、篤姫展も大盛況だったよう。行けなくてザンネン!
Img_90763z 写真の変な形の外観の建物を、3階から一気にエスカレーターで6階まで上がると常設展の入口。日本橋中村座などが復元されています。展示を劣化から守るためとはいえ、あまりに館内は暗く、撮影OKの一部展示もシャッタースピードが得られません。
夏休みに入ったなりだからか、かなりの入館者で溢れてました。でも東洋人の顔してるハングルや中国語も飛び交ってます。
Img_90759z 越後屋、つまり三越の模型です。駿河町にあったこの店先の道から、まっすぐに富士山が見えたのが浮世絵にもありますが、先日出たCGの本でそれが間違いないと確認されました。昔はどこからも見通しがよく、富士は江戸の風景の一部だったんでしょうね。
さてしかし、歳からか疲れた二人は、明治の展示を見ずに椅子に身を委ねて休憩です。
Img_90843z 外に出ると雨が降ってきました。小雨ながら湿度の高い日にはいやな雨です。最後の目的地の四谷では、不覚にも方角を間違え反対方向へ歩いてしまうし、さんざんでした。それでも間に合って外で待っていると、防衛省の空は異様な色に染まって不気味でした。翌日の大雨や浅野川の被害を予告するかのように・・・。

とりあえず今回の江戸探訪記はこんなところ・・w。

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2008年7月27日 (日)

「金沢市歴史のまちしるべ」番外編

Img_89929z 河北潟へ行った帰りに、北部で一つだけ残ってた石碑を撮りに行きました。
[七ツ屋町(ななつやまち)]No146 もと石川郡下安江村の地内で、民家七軒があったので堀川七ツ屋と呼ばれていた。のち、七ツ屋と称され、明治の中ごろ町名になった。
麩屋さんの敷地内にありますが、もはや木に隠れて接近しないと何と書いてあるか判りません。わりと新しいはずなんで、石碑の色は標準と違ってますが、木に隠れるように建てるのはどうも・・・。

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2008年7月23日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」22

Img_89822z 鳴和の先、大樋町まで来て、159号線の大樋口交差点です。旧北国街道はここから旧道になり歴史街道として整備されています。
[旧北国街道(ほっこくかいどう)]No601 古代には北陸道(ほくろくどう)と呼ばれ、日本海側の主要道路であった。加賀藩主の参勤・交代では、ほとんどこの道を通行した。
参勤交代は加賀からは北周りで13~15日かかりました。
Img_89829z 北国街道を市内に戻りながら、[大樋町(おおひまち)]No165 昔大きな樋(とい)で水を引いていたことから大樋の名がついたという。この地はもと大樋村の村地であったが、藩政後期に町奉行支配地となり町地となった。明治の初め、この名が町名になった。

Img_89832z 旧北国街道の石碑は、この通りに3箇所、袋町に一箇所あります。春日町にあるこの石碑には、教育委員会の解説板があります。アスファルトも石畳に換えられ、歴史を偲ぶ通りになっているんですが、この暑い日に、近所の人以外そりゃ見かけませんよね。

Img_89836z [春日町(かすがまち)]No164 古くからあった山上春日社(小坂神社)の付近にできたまちなので、春日社門前、六町春日町とも呼ばれていたが、藩政後期この名に改められた。
石碑の「春」の字がまるで「寿」にも見えるようです。わざとでしょうか。
北国街道はまだまだ続きます。
Img_89841z_2  この北部の北国街道の出口(159号線との合流地点)は山の上町です。いまだ現役の火の見櫓には半鐘が乗ってますね。うちの近所の菊川消防団にも、数年前の建替え前までは、ここよりは高くないですが火の見櫓と半鐘がありました。最近はかなり減ってしまいましたね。







Img_89845z さて、車を元町まで飛ばして、親水公園となっている脇に石碑があります。
[小橋用水(こばしようすい)]No416 元禄年間、城下町の防衛などの目的で築造された用水で、旧水車町では、精米、製油などの水車をまわしていた。かつては、小橋上流付近に、竹製の蛇籠に石を詰めて造られた瀬木が設けられていた。
先日、浅野川の小橋で見た取水口からこの用水が引かれています。浅野川の用水のわりには、かなり水量が豊富で流れが速いですね。流域も広く、JRの金沢総合車両所の下も通っています。
Img_89851z さらに昌永橋の脇まで来て、[中島用水(なかじまようすい)]No415 元禄11年、藩命により完成されたといわれる用水で、かつては旧中島町の浅野川岸から取水していたのでこの名がついた。
この用水も北部の農地を潤しますが、浅野本町の城北水質管理センターの脇を通るのに、浅野川に面しているそこには用はないのでしょうか?
これで用水の石碑はコンプリートですw。
Img_89855z その昌永橋です。浅野川七つ橋めぐりのひとつです。なんだかずっと黙って巡らなければならないらしいですが、浅野川のことはよくわかりませんw。
昭和28年に木造橋が流出してから、鉄道でよく使われるワーレントラス鉄橋が翌29年に架けられました。しかし当時の交通事情にあわせたので、かなり幅は狭いです。
Img_89857z 浅野川ではじめて見たアオサギです。梅雨も明けてしまって、金沢は空梅雨でしたね。犀川もそうですが、流量はかなり少ないです。犀川などは、あまりに少ないので、犀川ダムの貯水湖のドロ水を流して、何週間も濁った流れとなり、鮎釣りがストップしてしまいました。

Img_89858z さて気を取り直して、袋町の[北国街道]です。去年建てられたので、解説書や金沢市のHPにも記載されてませんでした。それで、先月S氏と2人でこの前を通ったのに、全く気づかなかったという曰く付きのものです。こうやって商店がしっかり懸垂幕でアピールしてるのにw。
これで現在の[北国街道]4箇所制覇しましたが、まだ南部にも旧道があるので、そこにもいずれ石碑が建てられるでしょう。
また、この付近にさらに二ヶ所、旧町名復活の動きがあります。[下新町(しもしんちょう)][上堤町(かみつつみちょう)]ですが、[新町]は石碑があるので、[上堤町]はいずれ新たに石碑が建てられるだろうということです。まだまだ旧町名や坂があるので、これからも増えるでしょうね。
Img_89863z さて本日のラストなのですが、S氏からもらった地図によると最初の旭用水の位置から登る人道の坂にも石碑があるようで、郊外の石碑を逃したままだと気分が悪いので、また車で最初の場所まで戻ってきました。これが迂闊だった見落とし、のことです。
[鶴間坂(つるまざか)]No312 坂の上からの眺望がよく、加賀藩時代から詩歌を好む人が訪れ、ここを鶴舞谷と称していたのでこの名がついた。
ところが、かなり長い坂でこの暑さからヒーヒー言って登ったのに、現在では森に挟まれ全く眺望がありませんw。下にエンジンかけたまま残した車も気になりますし、やっと見つけた石碑をさっと撮って、駆け足で降りました。
短時間でしたが10箇所(北国街道加えると13箇所)。これで計182箇所となり、あと36箇所です。中心部も残しているので、また近いうちに暑くてもゆっくりと廻りましょうか。

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2008年7月22日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」21

Img_89788z 梅雨も明けて熱波がやってきたので、さすがに連休でも、部屋の整理とかで中でごろごろしようかと思ったのに、もう同好のS氏がほぼ制覇したというので、最終日の午後、郊外の用水とかを車で廻ることにしましたw。
しかし車の中にいても暑かった。汗かきなんでエアコンがんがんにかけても汗拭くとはどうなんでしょうw。
旭町の[旭用水(あさひようすい)]No405 浅野川左岸から取水している唯一の用水で、旭町に通じているのでこの名がついた。かつては一帯が牛坂村だったことから牛坂用水の別名もあった。連休とは言え通行の少ない住宅地なので、路肩に停めながらの撮影です。しかしここで重要な見落としをしてしまいました。明日の最後に報告します。
Img_89789z そこから田上まで登って、ここを通過したのに石碑に気がつかず、ぐるっと一周してしまいました。
[金浦用水(かねうらようすい)]No414 藩政期からある用水で浅野川から取水し、旧金浦郷と呼ばれた地域一帯を潤していたことからこの名がついた。
旧金沢でもここははずれもはずれ。しかし外側環状道路が出来てから、付近も交通の便がよくなり、まだまだ発展しそうです。
Img_89793z 土清水の永安町まで来ました。ここは永安寺。境内はかなり広くて、地蔵菩薩の旗が階段の左右にひしめく、由緒あるお寺のようです。その脇を縫うように流れるのは[寺津用水(てらつようすい)]No404 寛文5年、藩命により完成されたといわれる用水で、犀川最上流に位置し、末町・土清水辺りの台地を灌漑していた。今は水力発電や、上水道としても利用されている。
犀川ダムの下流に上寺津ダムがあり、そこで全国でも珍しい、市営の発電所があります。またそこの取水口から流れる寺津用水は、金沢市民の喉を潤す末浄水場に水を供給する、大切な水源です。浄水場を通過後、ここを流れてからいくつもの畑作地を潤し、ついには浅野川へ流れ着きます。
Img_89804z 山側環状を西に飛ばして長坂小学校の裏へ来ました。
[長坂用水(ながさかようすい)]No401 寛文11年、藩命により完成されたといわれる用水で、犀川支流の内川から取水し、旧泉野村など寺町台地一帯を灌漑していた。この用水の完成により、旧泉野村での米作が可能になったといわれる。
小学校は、今新築工事中のようです。祭日でも、工事の槌音がやかましいくらいで大変ですね。しかし用水脇は、草ボウボウでザンネンです。隣の公園に長坂を開いた来歴を、供養碑として顕彰してるのですが、こちらも半ば草に埋もれて手入れされてませんね。
Img_89810z さて、用水脇の道を南に走ると、花畑が見えました。この辺は用水より上にも農地が広がる、のどかな山すその風景です。ちょっと一服して花でも撮るとします。




Img_89817z ヒガンバナを畑で見るのは初めてです。鮮やかな赤が見事ですよね。金沢市内は新盆なので7月に済みましたが、縁辺の地域は旧盆のところも多いです。まだまだ活躍の出番を待ってる、っと言ったところでしょうか?

さて、次は一気に市内を走りぬけて、旧北国街道を通って見ましょう。


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2008年6月18日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」20

Img_88025z 忍者寺で有名な妙立寺の先、鶴来街道の起点ともいえる、六斗の広見に来ました。
[六斗の広見(ろくとのひろみ)]No501 広見というのは藩政時代、延焼を防ぎ大火としないための町づくりの一つとして設けられたものであり、金沢のあちこちにあった。地名は、加賀国住人林六郎光明の郎等六動太郎光景に由来し、ここから六動林、六斗になったといわれている。
Img_88030z この広見に立派な鳥居があって、泉野菅原神社と銘もありますが、境内に入るとなんと、プレハブ小屋がポツンとあるじゃないですか。本殿はどうも、火事で焼けたみたい。小学校の真横ですが、再建のメドは立ってないみたいです。そんな姿は初めて見ましたね。びっくりしてちょっとさみしいですね。
Img_88032z 六斗の広見のもう反対側の角、鶴来街道の先に
[旧六斗林(ろくとばやし)]No13 平安時代の末に六動太郎光景という武士が住み、その付近に樹木が生い茂っていたので六動林と称され、転じてこの名になった。
まだ石碑のない町名はたくさんあるのに、六斗の由来の石碑は一つあれば充分と思うのですが・・。
Img_88034z 鶴来街道から外れて、寺町の地内に入ってきました。細い路地が入り組んでて迷路のようで、チャリで廻るのは正解です。
[旧笹下町(ささかまち)]No12 もと泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いた。
鬼子母神のある興徳寺の門前です。寺町は日蓮宗の寺が多く、一向宗を尾山御坊(金沢城の前身)から追い出した織田勢力であった佐久間、のち前田家の配慮があったからです。
Img_88036z [旧沼田町(ぬまだまち)]No9 もと石川郡泉野村の地内であったが、文政6年町立てされた。もとは沼地であったことからこの名がついたといわれる。
鶴来街道の新道は、寺町通りからは、元この道が引かれていました。桜橋から真っ直ぐな道が新たに出来たので、この道は住宅地の単なる生活道路となってしまいました。
沼田町はバス停にも名があり、北鉄バスは、案外に旧町名のバス停をたくさん、今に残しています。
Img_88039z さらに細い道を探し回ります。
[旧茶畠(ちゃばたけ)]No6 この地はもと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。
寺町台地の寺町からすぐ南は、江戸時代は金沢でなくほかの村で、明治期前後までに町地となって金沢に組み入れられたところが多いです。石碑は、少なくとも明治前期に金沢エリアだった町に順次建てられているようで、有松が南限というわけです。
Img_88044z [旧桜木小路(さくらぎしょうじ)]No4 もと泉野村の地で藩政期末までは越中屋小路・玄光院前通りと呼ばれていたが、このあたりから犀川河岸にかけて、桜の木が多く植えられていたので、明治の初め、この名がついた。
この石碑も完全に民家の敷地内ですw。
○○小路というのも町名なんですね。
Img_88045z 実は犀川沿いの寺町台の崖に沿って、高級住宅地が建ち並び、その入り組んだ小路に石碑があるはずなんですが、とうとう見つけられませんでした。後でS氏にもらった詳細な見取り図を見たのですが、その位置にも確かになかったはずです。
少々後ろ髪をひかれながら、本日の最後
[寺町(てらまち)]No10 加賀藩初期、城下町整備のため前田利常の命により、主に犀川周辺の寺をこの地に集めたので、この名がついた。

さて、ここまで172箇所達成。現在あと46箇所となりました。金沢市のHPの地図に載ってない石碑もリストにあり、既に廻ったエリアでも残したところがポツポツとあります。この先梅雨で週末も雨の可能性があり、到達ペースは落ちるでしょうが、今後も根気よく続けたいと思ってます!

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2008年6月17日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」19

Img_87974z 百万石行列の翌日、金沢旧市内南部をチャリで廻りました。
上菊橋から寺町台を登ってきた坂[不老坂(ふろうさか)]No302 細く急な坂道であったが、明治の中ごろ上菊橋とつながり、のち拡張整備され縁起の良いこの名がつけられたという。近くに風呂屋があり、不老長寿によいというので、この名で呼ばれたともいう。
そういえば昔、坂の下に「法島湯」という銭湯がありました。
Img_87977z 坂を上がり切った道路を挟んで、祇陀寺というお寺がありました。およそ寺とは思えない民家のような建物に、「三十三観音の寺めぐり」の幟と「第十一番札所」の札が。
三十三観音めぐりは知らなかったので、後で調べてまた廻ってみようかな?金沢には、まだまだ奥深いヒミツがあるようです。

Img_87980z さて、石碑を探しに泉が丘まできました。地黄八幡神社には、長い参道がありますが、神社本殿のすぐ手前で新道にスパッと切られています。参道の始まりは、鶴来街道の旧道にありました。ちょっとした石垣もあり、由緒ありそうですが、鳥居の内側の大木の跡が、ちょっとさみしそうです。
Img_87981z その鶴来街道に石碑があります。
[旧地黄煎町(じおうせんまち)]No2 藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついたという。
今の旧道はまったく住宅地の普通の道。後でその発端の場所へ行きます。
Img_88007z 現在も交通の大交差点、有松へ着きました。国道157号線が屈折するところ。石碑の1番です。
[有松町(ありまつまち)]No1 もと石川郡有松村の地内で、享保のころから次々と家が建ち、文政4年その一部が有松町と称され、金沢町奉行の支配となった。明治12年、金沢に編入された。
石碑は特有の茶色です。
Img_88009z 有松交差点から、片町へ向かう国道157号線です。
[旧芦中町(あしなかまち)]No3 藩政時代からの町名「足半町といふは並び短く、尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のち芦中町と書いた。
この付近に昔、自衛隊機が落ちました。僕は記憶がありません。
ここから路地に入ったところにある石碑は、この日は見つけられませんでしたよ。
Img_88013z 国道から西に外れて、旧北國街道に
[泉町(いずみまち)]No7 もと泉野の地で、このあたりが北国街道筋であったため藩政の初めころから次第に家が増加し、この名で呼ばれた。明治22年泉町と泉新町に分けられ町名となった。
泉八幡神社は1502年創建。付近の末社を従えた大きな神社で、今日たまたま総代会とかやってますね。
Img_88020z 157号線に戻って、
[野町(のまち)]No14 藩政の初め、松林や雑木林などの地であったが、城下町の拡大に伴い町地となったので、はじめ泉野町といわれ、のち、略されてこの名で呼ばれるようになった。
北陸鉄道の現在の起点「野町駅」があり、野町広小路は主要な交差点、犀川大橋で街中心部と繋ぐ重要な町名ですが、「泉野町」の略とは知りませんでしたw。
Img_88021z さて、そこから路地に入ると、落雁で有名な諸江屋の本店があります。看板に「菓子」と「らくがんや」。小さい表札のようなものに「諸江屋」と記されてます。
嘉永2年(1849)創業の落雁にこだわった老舗です。金沢駅や百貨店にもお店があるのでぜひ立ち寄ってみてください。

さてこのあと、六斗の広見へ向かいます。


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2008年6月13日 (金)

「金沢市歴史のまちしるべ」18

Img_87625z 卯辰山の登り口の車道とは別に、
[帰厚坂(きこうざか)]No323 加賀藩主、前田慶寧が慶応3年卯辰山を開拓したときの坂で、「藩主の厚き徳に帰する」の意味から名づけられた。
横に公園があり、やわらかい新緑の光に包まれたおだやかな空間です。しかしもう足が痛くて、坂の上まで登る元気は全くありません。
Img_87628z 東山界隈に入って、寿経寺です。「心の道」卯辰山山麓寺院群のひとつ。
幕末、安政5年(1858)に大地震があったとき、米価暴騰に苦しんだ庶民らが卯辰山から大声で藩主に直訴。暴徒として5人が処刑され2人が獄死しました。

Img_87630z 彼らの供養に稲穂を抱いた「七稲地蔵尊」が建立され奉られています。
これらが第一回の金沢検定に出ましたが、当時は知らなかったので間違えてしまいました。

Img_87633z その奥です。[観音坂(かんのんざか)]No324 観音院の門前の坂で、加賀藩初期、同院の参道として作られた。明治42年北側に新しい坂路ができた。
観音院はこの階段の坂を登りきったところにありますが、ヒザ痛は登りより下りが折れるように痛いです。今日はここでガマンです。Img_87638z
すこし浅野川方向へ戻って、[旧御歩町(おかちまち)]No148 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた。
この板塀も立派です。向かいの家も武士系建築がよく保存されているとして、金沢市が「こまちなみ保存建造物」として指定したプレートが玄関に貼られ、保護されています。
Img_87641z 浅野川まで来ると、徳田秋声記念館がありました。最近作られ、これで室生犀星・泉鏡花、と金沢三文豪の記念館が揃いました。
今日は入りませんでしたが、犀星には以前入ったので、あとの2人は検定対策もありいずれチェックしましょう。
Img_87645z その目の前に「梅の橋」です。3月に修繕された人道橋ですが、外観は木造でも、橋脚や基礎はしっかり鐵骨製でした。それが修理ではっきりと判明したというので、昔の架橋時の資料はなかなか残らないものですね。
しかし欄干など、早くも大きなヒビだらけになっています。大丈夫でしょうか?
Img_87661z 梅の橋を渡って並木町に入ると、泉鏡花の名作、「義血侠血」のヒロイン、[瀧の白糸]像です。この像はなんと水芸よろしく、スイッチで扇子の先から水を噴射します!
春に行われる浅野川園遊会では、川の流れの上に演台を設け、水芸が再現されます。この悲劇の物語は、戦前から6度も映画化され、京マチ子や若尾文子が瀧の白糸を演じました。
Img_87664z そのすぐ隣に石碑はあります。
[並木町(なみきまち)]No100 藩政時代、浅野川の護岸のために川沿いに植えられた松並木にちなんで、この名がついたという。
平成17年に旧町名が復活しました。このあたり、昔は川沿いに映画館が並び、モダンな雰囲気もあったんですが、今は高層マンションが建ち並び、卯辰山からの甍(いらか)の波の眺めがかき消されてザンネンです。
Img_87668z 観音院の前の道に戻り、ひがし茶屋街のそば[旧観音町(かんのんまち)]No149 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。
この旧涌波家は、金沢市指定文化財。藩政期の町屋建築を復元し公開されています。しかし天井が低く床の間も省略されたコンパクトな造りでした。
Img_87694z さてそろそろ疲れてきたので、主計町再訪もはしょり、対岸の住宅地にポツンとある石碑をこの日の最後にします。
[関助馬場(せきすけばば)]No511 加賀藩初期、佐賀関助が開いた長さ約300メートル、幅約24メートルの藩士の調馬場があったのでそれを地名にした。
このうしろ、公園の前に不自然な広い真っすぐな道があります。これが馬場の跡の一部だったでしょうか。道路と道路の間にあり、ここが見つけにくかった要因です。銭湯から出てきたおじさんに教えてもらい、ようやくわかりました。
あとこの日はS氏の初めて石碑を周り、武蔵が辻で打ち止め。一日で50箇所は廻ったでしょうか。とてつもなく疲れました。足がよく最後まで保ったものです。
次回8日に13箇所チャリで廻ったのはまた後日にします。

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2008年6月12日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」17

Img_87582z 遅々として進まないので、石碑に集中しますね。
[旧九人橋下通(くにんばししたどおり)]No88 九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていた。十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。
兼六元町の光誓寺前の通りです。今は橋の面影もありません。
Img_87592z 天神橋前の通りです。
[旧東外惣構堀(ひがしそとそうがまえぼり)]No412 慶長15年、三代藩主利常が篠原出羽守一孝に命じて掘らせた金沢城の外堀で、城の東側にある。八坂から始まり材木町を経て浅野川まで、長さ約1,400メートル、城側に土居を盛り、竹藪を配していた。
水量は現在極限まで少ないです。
Img_87593z 材木町小学校のそばまできました。
[材木町(ざいもくちょう)]No83 元和2年、紺屋坂付近にいた町民が城郭修築用木材を宮腰港から運搬した功で材木を与えられ、この地に移転したためこの名がついたといわれる。
ずっと現役の町名です。市内中心部は、旧町名のついた小学校は多いですが、ここはいまでも現役。
Img_87600z その材木町小学校の北側。
[旧又五郎町(またごろうちょう)]No84 加賀藩士、横山又五郎の邸地があったので、明治の初め、この名がついた。
例によって、ゴミステです。ここのは折りたたみ式ですね。こういうスチール製は、10万クラスするそうで、町会で出費するかしないかで、導入が決められるみたいです。うちの町会はネットだけですw。
Img_87603z すこし南へ向かい、横山町児童公園へ。
[横山町(よこやまちょう)]No77 加賀藩の老臣横山氏が、下屋敷のあったこの地に元禄から藩末まで代々家臣とともに住んでいたので、この名がついた。
加賀八家のひとりです。そういや奥村町ってのだけ聞いたことありません。
公園ではお年寄りが、似つかわしくないPCの話をさかんにされてました。XPの保証期間がどうのこうのとw。
Img_87606z もう一度材木町に戻って、やはり地図と位置が違うここを探します。近所の方に尋ねましたが、やっぱり石碑など知らない方も多いようです。
[旧備中町(びっちゅうまち)]No85 加賀藩士、岡島備中の下屋敷があったところで、元禄ころは備中上地町といいい、のち、この名となった。
Img_87609z ここでちょっとだけ寄り道。材木町、裏が浅野川という静明寺に、徳田秋声の墓碑がありました。わが犀川沿いは、圧倒的に室生犀星にまつわるものが多いので、徳田秋声や泉鏡花は埒外です。文学の点も勉強しないと、金沢検定中級はなかなか合格させてもらえないでしょう。
Img_87612z_2 天神橋の前近くです。
[旧玄蕃町(げんばまち)]No93 加賀藩重臣、津田玄蕃の下屋敷があったところで、明治の初め、この名がつけられた。



Img_87615z これが天神橋です。浅野川にかかる鉄橋でちょっと有名ですね。
卯辰山に登る玄関口。昭和28年に洪水で、鉄道橋以外の浅野川の橋はすべて流され、昭和30年に今の鉄橋が架けられました。以降、この橋の下に測水所が設けられ、昭和50年にはここから上流の田上地区に浅野川放水路が造られ、洪水時に犀川へ河水を分流して被害を防ぐ方法がとられました。
Img_87618z おとこ川と言われる犀川に対して、おんな川という浅野川のおだやかな流れです。
6月6日の百万石まつりでは、ここから下流の浅野川大橋に向けて、灯籠流しが行われました。金曜の夕方なので、なかなか見ることができません。

Img_87620z 天神橋を渡りました。
[旧豊国町(とよくにまち)]No147 観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた。

今日はここまで、明日はこの日の最後、東山界隈を歩いたのをレポートします。



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2008年6月11日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」16

Img_87503z さて、兼六坂の上から、石碑を探しました。当然尻垂坂に石碑があるものと思ったらそうではなく、脇から細い坂が湾曲して降りていく道にありました。
[小尻谷坂(こじりたにざか)]No319 藩政期の中ごろ尻谷坂(汁谷坂・尻垂坂等)より小さいところから、この名がついたといわれている。
僕も今日まで坂の存在に気づきませんでしたw。
Img_87510z 兼六園下交差点まで降りてきました。
[旧胡桃町(くるみちょう)]No78 この地の東外惣構堀にかかる橋を、橋詰の染師黒梅屋の名によって黒梅橋といったが、俗にくるみ橋と呼んだことから、明治4年この名で町立てされた。
金沢に観光に来られた方なら、必ずこの交差点に降りられたことでしょう。正面に石川門隅櫓が見えます。
Img_87519z 石川橋を渡るために、兼六園側のみやげ物屋の前の坂を登ります。
[紺屋坂(こんやざか)]No320 加賀藩初期に藩の御用染商、館紺屋孫十郎が坂の付近に住んでいたので、この名がついた。
兼六園と金沢城入口のピークです。この石碑をご覧になったことありますか?
さて、では金沢城に入りましょう。
Img_87529z 工事中の河北門二の門石垣です。だいぶ高くまで積まれました。金沢の石工だけで仕上げられている美しい切込みハギです。
急ピッチで積まれている石垣造りの現地説明会が、いずれかのタイミングで開かれるはずですが、まだ情報がありません。

Img_87540z 大手門側の新丸に降りるのに、従来の河北門一の門正面の通路は閉鎖されていて、この裏側から造られた木道を通ることになりました。でもここからの工事現場と五十間長屋の見晴らしはかなりGoodです!


Img_87548z 木道の先端まできました。手前の石垣は一の門の石垣。工事前はでかい松の木が生えていました。そういった植生や経年で、石垣はかなりズレが生じています。それを直すと、新しいものにも負けないくらいのピチッとした切込みハギが戻るはずです。
再来年の完成が待ち遠しい!
Img_87564z 新丸に降りて大手門から城外に出ます。大手門はよほど用がないと通らないので、まるで初めてのように本日まじまじと石垣を観ましたが、藩政期のままの大きな石垣造は、ここが城の正面にふさわしい、というのを充分に体現していました。城の中で一番大きな石もこのあたりで使用されています。
早くに櫓や長屋などを焼失しているので、史料など少ないですが、ここにそれが再現されると間違いなく、内外の注目に値する巨大建造物となるでしょう。
Img_87567z その大手門を出たなり、現在金沢城唯一の水掘、大手掘があります。
[大手町(おおてまち)]No92 藩政時代は金沢城の大手口であったのでこの名がついた。大手先、小坂口とも呼ばれ、大身の武士が住んでいた。

Img_87568z 大手門を出て次の石碑を探していると、金沢の名士、科学者の高峰譲吉博士の家がありました。明治期の人ですから、今のこの家がそうだとは思えませんが。
高峰博士は醸造学者として消化薬の「タカジアスターゼ」や手術に用いる「アドレナリン」の発明者で、医薬会社の「三共」の初代社長でもあります。
Img_87571z その向かいあたり。
[旧梅本町(うめもとちょう)]No96 廃藩直後、加賀藩の老臣一万八千石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという。
どうも旧町名といえど、明治初期に町割された名前が主に石碑になっているようです。
Img_87577z 裁判所の前の道まで出ました。
[旧味噌蔵町(みそぐらちょう)]No89 藩政初期に軍用の味噌蔵が建てられていたところから、この名がついたという。
正面は味噌蔵消防派出所です。

今日は城のレポートもあったのでここまでとします。明日は石碑に集中しようかな。



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2008年6月10日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」15

Img_87473z 兼六園下へ繋がる大通りの主要?交差点
[賢坂辻(けんさかつじ)]No505 久保市乙剣宮と椿原神社の氏子の地境であり、また丘陵地の先端でもあることから昔は剱先が辻と呼んだが、明治4年、賢坂辻と改めた。
昔は氏子の境とか、そういう土着なのものってはっきりしてたでしょうね。石碑は見にくいですが、対面の電柱脇にあります。
Img_87470z 次の御小人町を探していたら、また地図どおりではありませんでした。すると成瀬町の近く、東外惣構堀沿いの石垣がまだ健在でした。小路との角、小さな祠もずっと守られているようです。上の家は以前はお寺であったろうか、というほどです。
橋の名前は賢坂橋

Img_87465z しかしこの辺の東外惣構堀の水はあまりにも少ない。この溝をわずかにチョロチョロと流れています。
コンクリートで升形に仕切られ、以前は洗い場として利用されてたでしょうか。








Img_87477z ようやく見つけました。[旧御小人町(おこびとまち)]No71 藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた。
地図の印は小路の側についてましたが、大通りに面しています。移動でもあったでしょうか。不可解ですw。
Img_87480z もうしばらく兼六園側に進んで、小将町中学校あたりまで来ました。[旧東内惣構堀(ひがしうちそうがまえぼり)]No410 金沢城防備のため、二代藩主利長が慶長4年に高山右近に命じて掘らせた東側の内堀である。旧小尻谷町から始まり橋場町を経て浅野川まで長さ約1,300メートル、城側に土居を盛り竹藪を配していたが、今はその面影は殆どない。 とあります。
内はまだ水の流れは用水のようです。概して東側は、西の水量の豊富さに比べたら(犀川の水が元になっている)、少々おとなしいですね。



Img_87482z 小将町中学校の前まで来ましたが、石碑の前にお地蔵さんを。
金沢市内で三十三観音めぐりというのがあるようですが、地蔵もあるでしょうか。第二十九番札所と書かれてます。
子供の病気など、祈れば治していた地蔵も、江戸初期には橋の下に埋もれていて、地上に引き上げ安置しようとした藩老の夢枕に立ち、「自分は橋の下にて踏まれて通る人を済度する」とお告げがあって、更に多くの信仰を集めたそうです。
Img_87484z そのすぐ隣、小将町中学校で[小将町(こしょうまち)]No73 藩政時代、藩主の身辺を護衛する小姓頭や小姓組の侍がここに置かれたので、御小姓町、小姓衆町、小姓町などと呼ばれた。加賀藩では小姓を小将とも書いたので、明治になって小将町となった。
Img_87486z このあたりは由緒ある寺も多く、古い静かな住宅地が続きます。こんな和洋折衷のモダンな雰囲気のある家も珍しくありません。



Img_87487z かと言えば、このしゃれた建物はこれでお寺です。真宗大谷派 法旬寺とあります。
加賀は言わずと知れた一向一揆の百姓の持ちたる国でした。そこに織田信長の勢力が入り、前田利家が入城したわけですが、そのため金沢を防備する目的も併せ持った「寺町」には、日蓮宗の寺が多く、真宗の寺は分散されたのです。
それでも後年、本願寺別院が東西あるように、真宗の信者は根強く金沢中に広まり、今でも僕らを始め、石を投げたら真宗信徒に当るくらいでしょうww。
Img_87491z 藩士の屋敷地の土塀がありました。今では逆に珍しくなった、トタンで覆われた土塀です。
長町武家屋敷の通りでは、観光地化整備が進み、景観保護のため土塀も修理復元され、冬は塀面保護のため「こも」と言って藁を編んで吊るしたもので覆っています。しかし実は以前はこのようなトタンで覆って年中保護していました(僕の記憶では)。
Img_87494z さて東兼六町、国立金沢医療センター下の坂まできました。
[八坂(はっさか)]No317 昔、付近に木こりが通う八つの坂があったのでこの名がついた。のち、一つが残り、宝憧寺坂、伊予殿坂とも呼ばれた。
かなり長く急で、息があがってしまいます。自動車もいちおう通れるようになってますね。
Img_87499z 上から見た図です。急に見えるでしょう。右は奥村家上屋敷を利用した国立医療センターです。
左枠外は今では兼六坂といって、兼六園の脇を通る金沢で一番長い坂です。昔はあまりに長いので尻垂坂と言いましたが、現在石碑は置かれていません。

先はまだ長いので、今日はここまでw。

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2008年6月 9日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」14

Img_87422z さて、6月1日には、歴史好きのS氏とまた待ち合わせて、一日中市内を歩きました。この日は「ふらっとバス」に乗って小立野台まで登り、そこからスタートしたものの、坂のアップダウンも多く、わりと早い目にヒザ痛が始まりました。後半は足を引きずるか、ムリヤリヒザを上げて歩いてかなり苦しみましたw。もう長距離歩けない身体になってしまったでしょうか??
Img_87425z さて、今日の最初は[木曽坂(きそざか)]No315 金沢大学病院の北西脇から、木曽谷を降りて行ったところ。
木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。
小立野台の中に、さらに谷があるとは知りませんでした。そして前の写真の右から登って、左の写真で降りていくのが木曽坂です。このあたりは鬱蒼として、昼なお暗しです。夜は通りたくありませんね。





Img_87432z 扇町に降りて上手(かみて)に戻り、今度は馬坂を登り返します。
[馬坂(うまざか)]No316 昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた。
自動車は登れない歩道になっています。見晴らしもいいです。この背中には不動尊もある寺域になっています。
Img_87434z 掟として、石碑の写真は必ず載せたいのですが、曲がりくねって登りきったところにそれはありました。生垣に全く隠れて・・。かろうじで「馬」の字が見えるでしょうか? これでは意味ありませんねw。



Img_87438z 降りなおして天神町の住宅地の中を探しました。
[旧品川町(しながわちょう)]No54 加賀藩士品川氏の邸地があったところなので。
左枠外には、天神町緑地という大きな公園があります。住宅地の中に突然巨大な空間があると、なにやらいわくを知りたがるものですが、見つけられませんw。山の上には近代的なビルとなった"金大"病院が。
Img_87441z 兼六園下から桜町へ至るこの大通り沿いに、いくつか石碑が連なっています。
[旧吹屋町(ふきやまち)]No64 もと石川郡田井村の地内で、鋳物師や職人が住んだので、この名がついた。
大通りに建っていると、この町名は果たしてどっち岸の町なのか、古地図があってもわからない時がありますね。
Img_87445z [旧銀杏町(ぎんなんちょう)]No65 藩士本多家の家士であった茨木氏の邸地が当地にあり、同所にはイチョウの古木があったことに因むという。
しばし続けましょう。



Img_87446z [旧火除町(ひよけまち)]No69 藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた。
そういったところを「広見」とも言いました。近所にも「川上広見」というのがあります。
Img_87449z 途中路地にも入りながら、大通りを兼六園下に向かって歩いています。
[旧馬場崎町(ばばさきちょう)]No75 藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた。
実際、江戸期からの町名というより、それを元にして明治初期につけられた町名が多く石碑に表されています。
Img_87451z 大通りに戻って[旧九枚町(くまいまち)]No68 加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた。



Img_87460z 扇町の住宅地にまた戻ってきました。
[旧柿木町(かきのきまち)]No61 三代藩主前田利常のときに火除地として城下の各地に柿木畠が設けられた。柿本人麻呂をもじり、柿の木のもとでは火が止まるに因んだといわれる。この地にも柿が植えられたが、後に町立てされてこの名がついた。
この話って知ってました?
Img_87464z さらにすぐそば、ミミズクガーデンという公園に、[旧板前町(いたまえまち)]No57 藩政の初めころ、藩の台所奉行に属する板前足軽組地であったので、この名がついたといわれる。
自宅の近所は台所付足軽組地で台所町でした。
Img_87468z 東兼六町に入って、[旧成瀬町(なるせまち)]No60 加賀藩重臣、成瀬氏邸地があったのでこの名がついた。昔は高石垣の上に楼門、長屋などがあり、俗に加賀の小城と呼ばれた。
それに相応しいと思える場所は、賢坂辻に向かう常福寺の隣にありましたが、今では悲しきかな石碑がゴミステーションになっていますw。
本日はとりあえずここまで・・。

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2008年6月 5日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」13

Img_85740z 一本松周辺の小立野台の崖下には、細くくねった生活道路で行き止まりが多く、ようやく崖にへばりつくように建っている菅原神社まで登ってきました。
[旧欠原町(かけはらまち)]No32 崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。
細くて車が通れるのか?ってくらいです。
Img_85744z 崖をつたって北西に向かい、崖を横切る坂を下りてきました。
[新坂(しんさか)]No310 加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた。
ここも左枠外はゴミステーションです。道は広いですが、後ろの坂上から狭い道になっています。ここいらは自宅からそう遠くない場所ですが、用がないので一度も来たことがありません。
Img_85748z その嫁坂です。小立野台の崖は街からもよく見えるので、崖から見る街の眺めは素晴らしいと思ってました。この方角はどうしても住宅しか見えませんが、坂上の公園からは、新緑がジャマしなければこの角度右外側の、街の繁華街を一望できるはずです。









Img_85750z_2 そうそう、石碑が必要でしたね。特に坂になると、石碑が建っている位置でその坂の特徴を撮るのが難しい箇所もあります。
[嫁坂(よめざか)]No311 加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。
Img_85753z 小立野台に登り返しましたが、この石碑も地図の位置と違ってました。結局幼稚園の敷地内です。
[旧鷹匠町(たかじょうまち)]No36 寛文の初めころから、藩の鷹匠の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた。

Img_85756z 小立野台の先端、石川県立歴史博物館のところまで来ました。
[出羽町(でわまち)]No49 藩政初期、藩の重臣、篠原出羽守一孝とその一族、家臣などが住んでいたので、この名がついたといわれる。昔は出羽殿町とも呼ばれていた。
県立歴博は、陸軍兵器庫から、戦後金沢美術工芸大学に使われていた赤煉瓦造りの明治後期の建物。横浜の赤煉瓦倉庫にも負けない90mもある左右対称の三棟もの建造物は、国の重要文化財にも指定されています。
Img_85761z 歴博から坂を下りてきました。右が兼六園、左が石浦神社です。正面の通りの名にもなってるこの坂が
[広坂(ひろさか)]No318 坂道の幅が広いのでこの名で呼ばれているが、加賀藩時代から明治中期頃までは安房殿坂、作事坂ともいわれていた。
今となっては、決して広いとは言えません。ちょっと急で、観光客が多く通るのに危ない気がします。
Img_85762z 広坂通りを、旧石川県庁前まで来ました。大正時代のこの石造りの県庁も、今保存作業中です。
[堂形前(どうがたまえ)]No503 加賀藩初期、京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場があり、これを堂形と呼んだ。のち、そこに米倉が建てられた。
ここは金沢城本丸の正面。いもり堀も段階的に復元工事が進められる予定です。
Img_85765z その隣、かつて金沢中警察署があったところです。今は広く広坂緑地として、町名同様の石碑が建ちました。
正面の森が本丸。右端が辰巳櫓跡です。ここに同面に破風が複数の種類ある全国的にも珍しい辰巳櫓を復元しようと計画中です。街から一番目立つ位置になり、市民が大いに期待しています。
Img_85768z さて、広坂から本多町を桜橋に向かって鱗町交差点に来ました。
[鱗町(うろこまち)]No39 藩政初期からの町名、新立町末うろこ町、犀川うろこ町、いろこ町などとも呼ばれた。当地に魚商が多く、鱗がよく見受けられたことによるとの伝承がある。
この名も現役です。ここから片町に向かって古い町名がいくつも、現役で活躍?していますよ。
Img_85771z 桜橋から犀川上流を望みます。この左岸に僕の自宅があります。おだやかでいい街だと思うんですが、いつもいると当たり前でありがたみが薄れますがね。




Img_85773z 対岸の清川町を下菊橋に向かって走ります。途中、お百度参りをする祠がありました。写真ではよく見えませんが、大木の両側の階段を上り下りしてお参りするようです。昔はそういった方が多くいたでしょうね。僕はもう、すぐにヒザが痛くなってムリですね。

Img_85778z まもなく下菊橋の犀川沿い[旧仙人町(せんにんまち)]No5 明治3年の町立て、町名の由来は不詳だが「こんな荒れたところに住むのは仙人しか居ないから仙人町としたらいい」と命名されたという。
すぐ近所なのに寂しい話ですw。たしかに右枠外は、すぐに寺町台の崖がせり出してます。
Img_85780z さて、いよいよこの日の最後、下菊橋の寺町側たもと[長良坂(ながらざか)]No303 旧長良町へ上がるのでこの名がついた。犀川のがけふちにあり、川風が吹き上げてくるので、吹上とも呼ばれていた。
昔は正面のこの坂、ちゃんとした車道で下りる一方通行でした。今はこの左側に立派な片側2車線の坂道が出来たので、階段を道幅半分使った生活道路にしてしまいました。
ここまでちょうど、目標どおりチャリで3時間、20箇所巡りました。
6月1日には、またS氏と"まちめぐり"しましたが、半日で新規36箇所。S氏の新規分混ぜると約50箇所も巡って日焼けとヒザ痛がひどかったです。でも残り約60箇所となり、俄然早期の全箇所制覇の意欲が涌いてきました。そのレポートはまたこの後お伝えします。

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2008年6月 4日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」12

Img_85686z 18日(日)は、昼3時間!と区切ってチャリで出かけました。
犀川を上って近所の城南1丁目から、[旧藤棚(ふじだな)]No19 この地はもともと成福寺・白山社の旧地で成福寺門前といわれていました。境内に大きな藤棚があったので、通称藤棚とも呼ばれていたが明治4年町名になった。洪水で神社は流され今はもう少し下流にあり、白山藤棚神社として立派な藤棚もあります。以前にもご紹介しましたね。
Img_85692z 次の石碑を求めて小立野台に登る前に、勘太郎川の水源でもある大清水(おおしょうず)を探しましたが、下調べなしだったので見つけられません。後にパレットの裏とわかりましたから後日再訪します。
三口新町をうろつくと、複数の日吉神社に出くわしました。日吉神社や住吉神社など、金沢にいくつもあるので、全踏破をいずれ目論見たいと思いますw。
Img_85698z いよいよ小立野台に登ります。[善光寺坂(ぜんこうじざか)]No308 そのまんま、善光寺という寺があったから。右の坂の下から来ました。




Img_85702z そこから僅か後ろに[旧上野町(うえのまち)]No20 もと石川郡上野村の村地で、馬坂や牛坂など坂の上の野であったことからこの名がついたといわれ、文政4年に町地に加えられた。



Img_85703z [旧上弓ノ町(かみゆみのまち)]No24 天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治になって、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地が下弓ノ町となった。
さてここも、地図の位置とはだいぶ違って探しました。金沢商業高校の敷地内でしたが、ここいらも今まで用がなかったので来たことがありません。姉は金商出身でしたが。
Img_85707z 三代藩主利常の正室、二代将軍秀忠の娘「珠姫」を奉る天徳院です。寺内は藩政期もっと広かったそうですが(今の真っ直ぐな石引通りは、元々天徳院への参詣道)、今でもその静謐な寺域の奥は深遠としています。ここから先有料なので入りませんw。


Img_85708z 金沢大学病院まで来ました。[旧土取場(つちとりば)]No37 藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった。
ガードレールがジャマして、病院をバックにいい画が撮れません。左手前から病院の駐車場進入口です。父は僕の物心ついてからずっとこの大学病院で入退院を繰り返していました。学校帰り、自転車で新聞を届けるのが日課のときもありました。
Img_85713z 病院の前を横切って、[旧百々女木町(どどめきちょう)]No42 藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。
公衆電話をはさんで向こうの石碑は、紀元二千六百年(昭和15年)記念舗装とあります。余談ですが、零戦とは零式艦上戦闘機。零は紀元2,600年の末尾0を指し、昭和15年に開発されたことを意味します。
Img_85715z [旧大音町(おとうまち)]No41 藩政時代、加賀藩士大音主馬の下屋敷があったので、大音家中と呼ばれていたが、明治の初め、この名がついた。
これも探し辛かった。ここへ来るまで、ものすごい狭い路地を入って、さらに右へは行き止まりなので、なぜこんなところに石碑を建てたのかわかりませんw。
Img_85717z 大学病院へのエントランス道路ですが、この位置に[旧河内町(かわちまち)]No34 の石碑があるはずですが、工事中のため外されたと見受けます。改めて建てられたときに紹介します。



Img_85727z 小立野台の崖近くの入り組んだ路地に侵入します。突然、辰巳用水から分流した勘太郎川の崖が現われました。急傾斜地崩壊危険区域とあります。なんとも住宅地の脇に危険な場所でしょう。



Img_85728z そこからすぐ、ふらっとバス通りに[旧二十人町(にじゅうにんまち)]No33 鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。ここを後ろに下ると二十人坂ですが、坂の石碑はありません。


Img_85733z 一本上手の坂[旧白山町(しらやまちょう)]No28 藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。
左に波着寺があります。救急車の降りていく坂が白山坂ですが、やはり石碑はありません。
Img_85737z ふらっとバスの登る二十人坂に、一本松陸橋のバス停があり、右奥に見えるその陸橋の下[旧一本松(いっぽんまつ)]No27 もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる。
陸橋の上から探しましたが、やっと見つけた古い住宅地の路地にポツンと建つのは、ちょっと違和感ありますね。
今日はここまで、明日続きです。

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2008年6月 3日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」11

Img_85636z この週末も、S氏と"まちあるき"してきました。しかしその前に5月17日18日のレポートがまだなので、それを3日間に分けてお伝えします。
土曜午前まで仕事のあと、中村町のアピタ金沢に車を停めて、白菊町周辺から廻りました。
瑞泉寺の前で[旧五十人町(ごじゅうにんまち)]No16 足軽五十人組が住んだので。近くには室生犀星記念館があります。
Img_85639z [泉用水(いづみようすい)]No402 藩政初期からある、犀川から取水する農業用水で、旧石川郡米丸村増泉、三馬村泉・西泉の田畑を潤していました。
本支流とも細かく枝分かれしていて、今でも街中を流れています。

Img_85643z [旧助九郎町(すけくろまち)]No15 本間助九郎または葛巻助九郎の邸があったから。この石碑が地図の印と違う位置にあって探すのに苦労(九郎)しましたw。なんのことはない、西インター大通(野田専光寺線)に面してました。

Img_85644z [白菊町(しらぎくちょう)]No18 藩士前田平太夫の下屋敷があり、その定紋[菊一文字]にちなんで。
今でも白菊町ですが、以前石川線の北陸鉄道は、この白菊町まで線路が延びていました。この日は探しませんでしたが、近年まで線路や駅の跡が想像できる遺構がありました。
Img_85647z [中村高畠用水(なかむらたかばたけようすい)]No403 泉用水同様、犀川から取水する農業用水で、石川郡米丸村中・高畠を灌漑していたが、大正7年に二つの水路が合併されました。
敬栄寺の敷地内に建っています。橋も裁断橋と名が付いてます。左の木も謂われがありそうですが、先を急ぐのであまり読みませんでした。興味のある方は調べてくださいw。
Img_85655z 新橋を渡って中央通に来ました。[旧塩川町(しおがわちょう)]No70 藩士塩川安佐衛門の屋敷があった。
植え込みのある歩道前の住宅の人は、どうしてなんでも私物の鉢植えとか平気で置くんでしょうねw。

Img_85657z 大野庄用水沿いに、長町武家屋敷に向かいます。右の建物は「前田土佐守家資料館」。利家とまつの次男、利政を祖とする加賀八家の前田土佐守家に伝わる貴重な資料を主に展示しています。僕も古地図を観に、何度か訪れました。

Img_85660z その向かいは老舗記念館。南町にあった老舗薬舗「中屋」の建物を移築しました。中屋は20年ほど前まで、今はオフィス街となった南町のビル群に囲まれていましたが、取り壊すのは惜しまれここに保存されることに。"な・か・や~の混元丹!"と、今もCMソングがTVに流れています。

Img_85662z [長町(ながまち)]No72 この一帯は全て藩士の邸地で、長い町筋だったことからや、加賀八家(ちょう)氏や山崎長門の名にも由来するといいます。
このあたりは観光地化するためかなり再整備され、武家屋敷の土塀や用水の開渠化など、古(いにしえ)の姿に美しく復元されました。用水の水を屋敷の庭に取り入れるための開口部もあります。
Img_85665z さらに先に進むと[大野庄用水(おおのしょうようすい)]No409 藩政期からある用水で、犀川から取水し、旧石川郡大野庄の灌漑、物資運搬、市街地の防火防ぎょ、融雪などのための多目的用水で、御荷川、鬼川、オホノヒ川の別名があり、下流は木曳川といいます。前回は鞍月用水との合流地点を紹介しましたね。
右の武家屋敷、野村家は内部を公開しています。
Img_85666z 一本わき道に入ると、「長町やすらぎ緑地」と出くわしました。近年、街中で住宅など空地ができると、市が買い取って突然そこを緑地化・整備して市民に開放することが増えてきました。意外なところにポツポツと緑地ができるので、戸惑うこともしばしばです。そしてまちしるべ石碑を真似して色の違う碑なども建っています。
Img_85669z もういちど中央通に出て[旧宝船路町(ほうせんじまち)]No74 寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれ、明治4年、宝船路町に改められた。


Img_85672z 元車交差点まで来ました。[旧富本町(とみもとちょう)]No76 文政6年に法船寺町から分立し、町内には鍔屋小路も含まれていました。明治4年、広小路と等雲寺門前を合併してこの名に。ところが町名の由来は不詳。
バス停でここは昔から富本町と心得てましたが、今は町名がありません。この緑地はずっと北國銀行で、駅からバスで正面に見えたビルが印象的でした。
Img_85674z 今の北國銀行は、奥のレンガ造りの建物。旧酒蔵で、地ビールブームのとき金沢第一号のビールを造ってレストランも営業していました。
[旧元車町(もとぐるままち)]No79 藩政初期、大豆田用水に水車を設け灯油を製造したところから、犀川油車、油車町とも呼ばれていたが、のち、この名がついた。
Img_85675z 道を挟んですぐ向かい[旧高儀町(こうぎまち)]No81 藩政前期に藩用地とし藩士の屋敷などを置いたので公儀町と呼ばれ、のち、公儀の文字をはばかりこの名に改められたという。
向かいの歩道に元車町の石碑が見えますか?
今日の石碑はここまで。
Img_85679z この12箇所を1時間で廻りました。だいぶ要領を得てきましたね。
アピタまで戻りしな、2年前架け替えられた御影大橋を撮りました。アーチが橋の片側にだけある、珍しい姿をしています。犀川の橋は架け替えが進み、自宅のそばの上菊橋も替わりましたが、一番古いのは一番交通量の多い犀川大橋ですね。登録文化財です。


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2008年5月20日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」10

Img_85575z GWレポートもいよいよ最後です。この日も結局3時間、歩き回ってくたくたになりました。
橋場町緑地の前は浅野川大橋。金沢市都市美文化賞のレンガのプレートがあります。川沿いの道は[泉鏡花のみち]と称されています。この写真の左側の道をこれから辿ります。
Img_85579z 金沢三茶屋街、主計町(かずえまち)の入口です。大きな石碑は「乃木将軍と孝子辻占売少年、今越清三朗翁出生の地」とあります。雪の広坂通り、乃木将軍来訪の折、健気に辻占を売っていた少年が励まされ、後に立身したという金沢では有名な逸話です。東京の乃木旧宅の庭にも銅像がありました。
Img_85582z [主計町(かずえまち)]No109 大阪夏冬の陣に功をたてた富田主計の邸地があった。
平成11年10月、復活町名第一号として、その名は燦然と輝いています。



Img_85587z 川沿いのこの趣が、京都を題材にした映画のロケで、京都のつもりで撮影されたという曰くつきです。京都より京都らしい一角。あまりうれしくありませんがw。




Img_85600z なかなか次が見つからないので、先に普通の路地に入ります。[旧母衣町(ほろまち)]No115 利家も若い頃信長に仕えていた「母衣衆」の金沢版の武士たちが住んでいたから。
また主計町に下りなおします。
風情のある園地や、木橋があり、写真もたくさん撮りましたが、時間がないのですっ飛ばしますw。
Img_85601z ホントに狭い路地に入って、暗がり坂の下にきました。お茶屋街に来たのって先日と今回が初めてのようなものですが、こういう情緒が観光客の心をくすぐるのでしょうね。住んでてなかなか入ろうとまでは思いません。


Img_85603z [暗がり坂(くらがりざか)]No322 日中も陽があたらない暗い坂だから。
正面の坂を登ると、久保市乙剣宮があります。泉鏡花の小説に出てきそうなロケーションです。



Img_85609z 久保市乙剣宮です。泉鏡花の生家が近く、子供のころ境内で遊んでいたそうです。昔は金沢の中心だったようですね。





Img_85610z ほど近く[彦三町(ひこそまち)]No118 加賀藩の重臣、不破彦三の屋敷地があったから。
ここ彦三町は昔大火があり、その近辺は早くから大きな通りが作られ、彦三大通りと言われていました。今は先に続く道が作られ、ただの通りですが、ずっとその太い道が数百mだけあって不思議でした。
Img_85614z [旧桶町(おけちょう)]No117 藩御用の桶職人たちが住んでいたから。
このあたりはずっと、尾張町と彦三町の内側の狭い路地をうろついています。




Img_85617z 彦三大通りに出ました。[袋町(ふくろまち)]No114 去年復活したばかりの、新しい旧町名です。
道の両端がまがって袋のようだったから。藩政期はこの町筋が北国街道で、主要な町[本町]のひとつでした。
正面の柵で囲われてるのは、旧ダイエーで取り壊され更地になっています。
Img_85620z 袋町を走る「ふらっとバス」材木町ルートです。菊川ルート・此花町ルート、と3ルートあります。15分ごとに狭い路地とかも巡る100円の循環バスです。




Img_85622z [旧博労町(ばくろまち)]No112 馬を売買するかたわら、藩士の稽古用の賃馬を飼育する博労たちが住んでいたから。
うしろは老舗、精進料理の壽屋です。こんな建物が今でも当たり前にあって違和感ありません。


Img_85626z 尾張町通りを渡って近江町市場の裏に来ました。[十間町(じゅっけんまち)]No103 今でも現役の町名です。寛永の時代からあり、当時の戸数が10軒だったから。
同業某社のあるところですw。



Img_85628z 道路の反対側は、高級料亭「浅田屋」です。しかしこういうところに、一度も入ったことありません。金沢人のほとんどはそうじゃないですかねw。




Img_85629z あと3つです。エムザの裏通りに来ました。[旧榮町(さかえまち)]No105 明治の初め、諸藩士の邸宅が商家となり、繁栄を願って栄町とした。
周りは商店だらけです。栄えてるでしょうか?今は通称「武蔵スタジオ通り」となってるみたいですね。

Img_85632z そのエムザの真裏ですが、[佐古市場跡地]の石碑があります。これは金沢市が建てたものでなく、近在の有志企業や商業組合が建てたようです。このような石碑もいつくかあるようで、公式な数にはくわえません。


Img_85634z その裏路地を入って[旧石屋小路(いしやしょうじ)]No113 もと安江町横丁といわれていた。藩御用の石工たちが住んでいたから。
やっと終わりました。この日は3時間で27基。ここまで4日間で91基巡りました。GWのレポートに長く費やしてしまったので、これからしばらくは別のテーマをお送りします。
しかし味をしめて、17日・18日も石碑めぐりしてしまいましたw。現在計123基制覇。なんとか次の金沢検定までに、全制覇したいものです。この分野はだいぶ身についてきましたよ。そのレポートはまた後日といたしましょう。。

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2008年5月19日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」9

Img_85542z 6日のパート2です。[旧淵上町(ふちのえまち)]No144 浅野川の淵の上にできた町で、藩政期には堀川川除町、堀川淵上町と呼ばれていたが、明治の初めにこの名に改められた。
右が中島大橋です。この時間になるとかなり暑くなって、スーパーでアイスを求めました。さらにアイスで物足りなくて、500mmペットのジュースもお供に。長時間の歩きは久しぶりなので、今回のような探索はとても健康的ですw。
Img_85545z [堀川町(ほりかわまち)]No145 路地に入りました。元和期に浅野川のこのあたりを掘り開いて、粟ヶ崎・大野などの港から舟で物資を運び込み、大いに賑わったそうです。
金沢駅東部の現町名で、石碑がまだないのは此花町だけです。なぜだかわかりません。
Img_85558z 堀川町から「ふらっとバス」此花町ルート彦三緑地まで来ました。藩士遠田氏の屋敷跡で、園内にあふれるさまざまなツツジのちょうど見頃でした。
江戸時代からの古木もあるらしく、蔵づくりのツツジ資料館もあったのですが、目的は石碑。ちょっとの中休みだったので先を急ぎますw。
Img_85559z ほど近くに[旧西内惣構堀(にしうちそうがまえぼり)]No413 二代利長の時代に高山右近に命じて掘らせた1,600mにおよぶ内堀。城側に土居を盛り、竹薮を配してたけれど今はその面影なし。
どころか、多少の側溝はあるけれど、堀というにはあまりになにもない。内側のこの石垣が往時を思わせるのか?それともこれほど遺構はなくなったということでしょうか。
Img_85562z [旧新町(しんちょう)]No108 次に行く尾張町に町屋が増え、新しくこの一帯を町立てしたため。
今の尾張町通りの北裏一帯を今廻っています。


Img_85564z [尾張町(おわりちょう)]No106 表通りに出ました。前田利家は尾張の人。そこから連れてきた商人たちを住まわせたから。大手門から北国街道に続くいわゆる藩政期の金沢正面。経済の中心地はここでした。
この黒い建物は明治40年建築の旧金沢貯蓄銀行金沢町民文化館として開放されています。
Img_85566z 大手門に向かってちょっと歩いてみました。[旧中町(なかまち)]No104 大手門からの本通りに位置していたので中町という名がつくほど重要視されていました。今はNHK金沢放送局がありますね。


Img_85567z 少し東に入ります。[旧殿町(とのまち)]No97 元は十間町の地内だったが、その中の武家地を昔は殿町と呼んだことから。
今ここは大手町の一角です。後ろの建物も風格がある塀ですね。


Img_85570z 橋場町の交差点まで来ました。ここは北国街道、金沢の基点です。以前にも書きましたが石川県の里程元標の碑があり、ここが金沢の表玄関でした。江戸へ行く場合も北回りが基本で、それは今でもそうですが、市内の中心部は広坂や香林坊に移り、県庁は郊外に出てしまいました。
賑やかだった江戸時代の頃を想像すると、そんなCGでも誰か作ってくれませんかね。
Img_85572z 浅野川大橋のたもと、橋場町緑地に来ました[懸作(かけづくり)]No506 ここで掛作の仮屋を設けて商売するものがいたことから。
29日に訪れた橋場町の石碑のところです。この石碑を撮るのを忘れてました。同じところに2つ以上石碑が建ってるのがたまにあります。また、こういう町名でないのが字名(あざめい)として区別され、番号も500番台です。
Img_85573z 29日の夕暮れの写真を反対から見ると、この日のこんな感じ。この緑地に橋場町懸作二つ見えますか。
金沢市では、橋のたもとを主に、こういった緑地整備するのが増えてきました。規模の大小あれ、わが上菊橋・下菊橋にもあります。

さて続きはまた次回。

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2008年5月18日 (日)

「金沢市歴史のまちしるべ」8

Img_85512z 5月6日、GW最終日に、よせばいいのに天気に誘われまた出てしまいました。24日の江戸の切符も買わねばならなかったので、金沢駅周辺から西に向かって3時間、早く来た暑い陽気の中、じっくり廻ることにしました。
[旧田丸町(たまるまち)]No129 加賀藩士田丸兵庫が住んでいたので。日航ホテルの裏です。
後ろに見えるは白髭神社。市内をこうやって廻るついでに、神社もなるべく全て踏破したいと思っています。
Img_85517z 発心寺の横[旧弓ノ町(ゆみのまち)]No126 弓組の侍が住んでいたから。市内に数箇所、同様に弓ノ町があり、地名を冠していました。ここは後弓ノ町あるいは枡形弓ノ町とも謂われてました。
いかし地図の印と位置が違ったり、向こう側から通ったのでなかなか見つけられませんでした。
Img_85520z 笠市の商店街の通りにやってきて、[旧象眼町(ぞうがねまち)]No135 地子町のひとつで、象嵌師が住んでいたから。地子町(じしまち)とは、町人居住地の区分のひとつで、土地に対する税である地子銀を払っていた町で、金沢は22町ありました。
象嵌(ぞうがん)とは、たとえば木製の花器の表面を彫って金属をはめ込む伝統工芸で、今では京都・熊本、そして金沢でしか造られていません。
Img_85523z [旧荒町(あらまち)]No138 此花町の光専寺の前まで来ました。駅前の木ノ新保の新しい町という意味で[あらまち]・・荒町となった。



Img_85527z [旧鍛冶町(かじまち)]No143 もうひとつ隣の路地、乗善寺の前です。三代利常から刀鍛冶で宅地を給わった者が住んだことから。
石碑は道路や公園という公共の土地より、寺社地や宅地など私有地に建てられることも多そうです。そういったとき、どういう依頼や費用の話が出るんでしょう?ちょっと気になりますね。
Img_85530z [旧巴町(ともえまち)]No133 加賀藩士伴八矢の下屋敷があり、その家紋「左三つ巴」にちなんで。これは道路の広見にありましたね。
下屋敷のある藩士の家紋にちなむ町名も多いです。下屋敷と言ってもそれは[家中町]といい、その藩士の家臣の住居が連なっているのをイメージしてもらうといいです。
Img_85531z [瓢箪町(ひょうたんまち)]No136 29日に寄った塩屋町の南側です。塩屋町の一部でしたが名のとおり瓢箪を作る者が住んでいたから。
ここは以前は瓢箪町小学校。3校が合併して明成小学校となりました。新しい校舎で新しい歴史が始まるのでしょう。明成とは味気ないですが、ここは今でも瓢箪町です。
Img_85538z 浅野川まで出ました。[堀川揚場(ほりかわあげば)]No510 藩政期から大正初期まで、浅野川を川舟で運んできた物資を荷揚げした場所だったから。
向こうに見える鉄橋は中島大橋です。浅野川は犀川と違って川原があまりありません。

Img_85539z [旧五宝町(ごぼうまち)]No141 真宗本願寺金沢西別院の前です。西御坊町とも呼ばれていたことから。
カメラを構えていると、近所のお年寄りから、「御坊の中入って撮りゃいいがいね」と謂われましたが、「いや、この石碑が目的なんで」と応えたら、はぁ、とちょっとあっけにとられてしまいましたww。

つづく・・。

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2008年5月16日 (金)

「金沢市歴史のまちしるべ」7

Img_85379z さて、現在の宮腰往還です。[中橋町(なかばしまち)]No130 宮腰往還を横切る3本の用水に架けた橋の中央の橋を中橋と呼んだことから。
北陸本線が高架になる前は、線路を越える陸橋があり、中橋陸橋と呼んで、空いた空間が遊び場になっていたり、勾配のゆるい地下道などもよく通った思い出があります。またちょうどこの位置に、金石まで行く北陸鉄道の線路が通っていました。起点の中橋駅もこの付近です。
Img_85381z 宮腰往還をまた西に跨ぎました。藩政期で言えばこのあたりから、いよいよ町地から北部の農地へと農業用水としても大いに活用されていた鞍月用水です。
[旧古道木揚場(ふるみちきあげば)]No509 藩政期には、宮腰(金石)から舟で材木を運搬し、陸揚げしたところなので。

Img_85384z ここはちょうど、鞍月用水大野庄用水が合流し、また右手樋俣用水と左手木曳川に分かれていく場所です。ふた筋が合わさるので水量も豊富で、往時は水のおかげで繁栄したところと容易に想像できます。そんなことを思い偲ぶのも楽しいですね。

Img_85389z 古道木揚場の写真の対岸、正面反対から見ると[旧大隅町(おおすみちょう)]No127 加賀八家のひとつ、(ちょう)大隅守の家臣たちが住んだ新たな屋敷地だったので。
鞍月用水、左大野庄用水の合流地点です。こんなダイナミックな場所だったとは知りませんでした。今でも舟を浮かべられそうですね。
しかし石碑が、ゴミ集積所になっているのはどうかと思いますww。
Img_85395z 再び線路をくぐって街中に向かいます。主要道の内側は入り組んでいて、地図の印はあまりあてにならなくなってきました。
[三社町(さんじゃまち)]No110 は、中央郵便局の裏でようやく見つけました。結局豊田白山神社の前でした。旧石川郡戸板郷三社村で、三社とは、この豊田白山神社の祀る白山神・菊理媛、八幡神・応仁天皇、春日神・タケミカヅチのことを指します。
Img_85403z 郵便局の前を渡って、また細い路地を巡ります。鞍月用水の前に高巌禅寺があります。[旧三構(みつがまえ)]No111 もと高巌寺前といいましたが、これを光岩寺前とも書き、のちに光岩前と略して「みつがんまえ」と呼んだことから。
ここもゴミ捨て場のそばです。。

Img_85409z ここは地図どおりでしたが、この位置では見落としてしまいがちです。[芳斉町(ほうさいまち)]No116 上杉景勝、松平忠直に仕え勇名を馳せた青木新兵衛芳斉が三代藩主前田利常に5,000石で招かれここに住んだことから。
後ろは旧芳斉町小学校です。金沢もドーナッツ現象で中心部に子供がいなくなり、4つの小学校が統合して中央小学校となり、伝統ある名の学び舎はいくつも消えていきました。
Img_85411z 表通りに出て、陽もそろそろ暗くなってきたので駆け足で参ります。
[旧英町(はなぶさちょう)]No123 もと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があり、文政4年、町名改めのときにその一字「英」を使ったことから。

Img_85412z [旧白銀町(しろがねちょう)]No119 英町同様、安江木町の一角で、白銀細工師がいたことから。
十数年前まで、武蔵が辻と金沢駅を結ぶ直線の道路がなく、バスは全てこの交差点を通りました。以前は「白銀町」バス停でしたが、いつからか味気なく、新町名の「本町」になっていました。
Img_85416z 白銀町から武蔵へ行く途中、[升形(ますがた)]No508 宮腰へ繋がる道の要衝で、門と堀と石垣が配された「升形」(城の枡形門のようなもの?)があった。枡形は他にもあったが、ここだけが地名として残った。

Img_85418z とうとう暗くなってきました。本日の最後[武蔵辻(むさしがつじ)]No507 藩の重臣中川武蔵守の屋敷があったり、家柄町人武蔵庄兵衛や矢師の武蔵が住んでいたとか。
藩政期初めから現代に至るまで、交通・商業の要衝の地です。戦前までこの後ろは大きな田守呉服店があり、今はめいてつエムザです。左奥は丸越百貨店の覚えがありますが、その後ダイエーになり、閉店更地になってしまいました。武蔵は今は大規模な再開発中で、左枠外はでかいマンション、右奥は近江町市場が大規模な商業ビルとして工事中です。あと数年で様変わりする武蔵が辻は、新幹線開業に向けて準備OKです。

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2008年5月15日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」6

Img_85344z まちしるべを訪ねる散策も、興味のない人には飽きてきたかも知れませんが、まぁ自分の記録や日記でもあるので、もう少しお付き合いくださいw。
5月4日は、夕方になって思いついて、音楽祭を聴きに金沢駅へ向かいました。S氏との五社めぐりで最初自宅のあるここ[菊川町(きくがわちょう)]No21 で当然カメラを構えましたが、なんと電池が入ってませんでした。やむなく引き返して後日撮影。んでこの日です。
菊川町小学校の敷地内にありますが、小学校時代よく聴かされたのが、ここは昔菊川松之助一座の芝居小屋があったからと。犀川の雅名を菊水川と言ったからともありますが、芝居小屋の方が赴きあっていいですよね。
Img_85357z 金沢駅前の音楽堂でベートーベンを聴いた後、隣の全日空ホテルに[旧玉井町(たまのいまち)]No137 5,000石の藩士玉井氏の屋敷地一帯があったことから。
周囲の歩道全体の石質にあわせて、この石碑は茶色い石が使用されています。時折、そういう景観配慮がされるようになっています。
Img_85361z 六枚町交差点に向かって歩きます。このあたりは石碑が集中しています。写真の奥にも一つ見えますよ。
[旧島田町(しまだまち)]No125 元禄のころまで島田勘兵衛の屋敷があったが後に返上。すでに江戸時代、享保のころには島田町と呼ばれていました。

Img_85364z その奥の石碑。反対向きから駅前に向かって撮りました。全日空・日航両ホテルが見えます。
[旧柳町(やなぎまち)]No124 かつて伊予西条城主だった一柳監物の預所があったから。付近は駅前からの道で近代化され、旧町名を偲ぶものは何もありませんね。島田町とともに早くから面影がなく、僕もこの石碑を観るまで知りませんでした。
Img_85367z 交差点まで来ました。[六枚町(ろくまいまち)]No121 この町の宅地税である地子銀が年間6枚だったことから。ここも平成16年6月に復活した旧町名で、石碑の「旧」の字が消されています。バス停も六枚町の名でずっと残っているほどの、アーケードのある商店街でしたが、老朽化と商店の多様化で数年前に取り払われてしまいました。
Img_85368z 宮腰往還(金石街道)を避けて石碑が林立します。[旧古道(ふるみち)]No120 元和2年に宮腰往還が出来るまで、この道が街道でしたが、その後新道に対して古道と謂われました。
右から写真真ん中奥に向かう道のことです。高架になるまで、金沢駅に程近いので大きな踏切がありました。
Img_85371z ここは地図の印とおりの位置になく、探すのに難儀した[折違町(すじかいまち)]No122 古道のすぐそばでした。
この近くを流れる鞍月用水に斜めに橋を架けたので、すじかい橋と呼んだことから町名になりました。

Img_85372z 宮腰往還と線路を跨いで、金沢駅寄りに来ました。[旧日吉町(ひよしまち)]No128 近くの広岡山王社への山王道が日吉町と謂われましたが、今は鉄道高架下になって消滅してしまいました。
石碑は明らかに放生寺の敷地内ですよねw。

Img_85375z 放生寺のすぐ裏の公園に、二つの石碑がありました。[旧広岡町(ひろおかまち)]No132 平安末期から、平岡野・弘岡と呼ばれ、藩政期には北広岡村となったようです。
公園で写真を撮っていると、小さい女の子が寄ってきて、「何を写してるの・・?」。お母さんと思しき人が遠巻きに見ているので、変な人と怪しまれないように、「石碑を撮ってるんだよ。金沢にいっぱいあるんだよ!」と大きな声で説明してあげましたw。それでも普通の人からすると、充分変なことしてる人に違いありませんww。
Img_85377z その公園の反対角に、[旧醒ヶ井町(さめがいちょう)]No131 北広岡村の請地で、前田土佐守家の下屋敷があった。目の醒めるような綺麗な井戸があったので。
「前田土佐守家資料館」へ行ったときに、その屋敷地一帯の古地図が展示してありました。
この日はこの後も含め、夕方からだったのに、長くなった陽が翳るまでの1時間くらいの間に、一気に20基の石碑を発見できました。続きは明日の日付で。

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2008年5月14日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」5

Img_85297z 5月3日は石浦神社の祭りと金沢城菓子百工展を観にいくのにチャリで出かけました。家の近所から未到達の石碑を潰していこう。
[旧長柄町(ながえまち)]No22 参勤交代などのとき、長柄の槍を持つ人たちが住んでいた。地元菊川校下の各町会に、こういう旧町名が他にも残っています。道路の向かいは菊川郵便局。
Img_85299z [旧台所町(だいどころまち)]No23 台所付足軽の組地があったことから。
菊川1丁目の内側の小路で、短冊形に細かく区分けられた一帯が古地図でもはっきりとわかります。そこが台所町でした。


Img_85303z 犀川大通りに出て、思案橋バス停のところ[川御亭(かわおちん)]No502 付近は藩老本多安房守の御亭があり、近くに鞍月用水が流れていたことから。
道路の向かい側は、加賀八家筆頭、本多家の屋敷地一帯でした。詳しくは本多町の項で。
Img_85305z その向かい側、思案橋に来ました。[勘太郎川(かんたろうがわ)]No406 この用水は辰巳用水からの分流で、石引町で分かれるところに勘太郎という人が住んでいたからというが定かでない。笠舞の湧水、大清水(おおしょうず)も水源になっています。
思案橋の名は、この地の主、本多の殿様が歩きながら酒にしようか茶にしようかと思案したことからだって。
Img_85308z また菊川の方に戻って、幸町との境の小路[旧早道町(はやみちまち)]No26 足軽飛脚が住んでいた組地だったことから。飛脚のことを早道と言ったそうです。
この石碑も堂々と、個人宅の敷地内にデンと建っています。正面は僕の愛機の「爽」です。誰かさんに名をつけてもらいましたw。
Img_85310z 少し菊川側に戻って[旧主馬町(しゅめまち)]No25 鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので、主馬殿町から転じて。
ここは細い小路が三叉集まって広見になっています。空襲のなかった金沢で、江戸期からの城下町の街並そのままのこういう路地が、たくさん残っています。街に歩いて出る道として、僕もよくここは通っています。
Img_85311z 幸町の県庁分室の前まで来て[旧山田屋小路(やまだやしょうじ)]No30 山田屋という魚屋が、数代に亘って住んでいたから。




Img_85316z 幸町のバス停まで戻って[旧百姓町(ひゃくしょうまち)]No29 石川郡石浦村の農地だったのが町立てされた。農民が多く住んでいたから。
わかりにくいかも知れませんが、厳密に言うとこの辺、行ったり来たりしています。それは石碑がなかなか見つからなかったから。金沢市のHPにも地図は載っているんですが、これがプリントすると薄くて何が書いてあるか読みづらいし、印の位置も微妙にずれています。金沢城までのこの近辺でも、結局2箇所はこの日あきらめて逃しています。
Img_85319z 鱗町交差点を過ぎて、中警察署の裏あたりに来ました。[油車(あぶらぐるま)]No46 油屋与助という油屋が、この地に水車を設け灯油などを製造していたから。
頭に「旧」のつく町名は、今は違う名なわけですが、ここはつまり今でも油車というわけです。入り組んだ境の古いままの町名も多く残っています。
Img_85321z 油車に程近いここもそうです。[茨木町(いばらきちょう)]No43 加賀藩士、禄高2,050石の茨木氏の屋敷があったことから。藩士や家老の屋敷地で、その名が付いた町名が残っているのが多く今でもあります。


Img_85323z 本日の町名碑最後は[本多町(ほんだまち)]No47 加賀八家筆頭の本多氏は禄高5万石。並みの大名以上あります。その屋敷地は上屋敷・下屋敷、家臣の組地など広大で、城下町の中の複合城下町の体を成しています。それは本多氏に限らず金沢に30ものそういった構造があったと言います。
今は本多町と言えば主にこの北陸放送MRO会館が有名です。ここの石碑は珍しく、横型になっていますね。
Img_85326z 金沢城に入る前に、氏子になってる石浦神社の祭りに奉賛金を納めに来ました。
飛鳥時代創建の由緒ある神社で、その間社地は転々としながらも、一環して領地主に崇敬され、金沢城に近いこともあり藩主前田家や地内の本多家から篤く守られていました。僕の家まであるように氏子地域も広大なものでした。
今も兼六園と21世紀美術館の隣で、一番目立った位置にある神社と言えましょう。

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2008年5月13日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」4

Img_85159z さて、29日のラストをお伝えします。森山へ向かって[旧上田町(うえだまち)]No161 山ノ上町から分立して、用水の上方にある田地だったことから。




Img_85163z 五社のひとつ小坂神社の参道口まで来ました。[山ノ上町(やまのうえまち)]No162 室町期からある名ですが、河北郡小坂庄山ノ上村の一部だったことから。
ここにちょうど、五社めぐりの案内板と卯辰山山麓寺院群を巡る「心の道」地図があります。寺院群はまたいずれかの機会で。
Img_85189z 小坂神社から内側の道は意外に険しく、東山へ向かうのに結局159号線へ降りてきました。
[旧高道町(たかみちまち)]No158 藩政期には、北陸道はもう少し西側にあり、ここは山側ですこし高いところにあったのでこの名がついた。

Img_85192z [旧森下町(もりもとまち)]No153 馬場小学校の目前です。森下村の郷士亀田大隅の子孫が染工になって住んでいたから。
馬場小は、泉鏡花、徳田秋声がOBとしている歴史ある学校です。


Img_85196z 五社のラスト、宇多須神社の前まで来ました。[旧八幡町(はちまんまち)]No151 旧宮名が卯辰八幡宮だったので。
だいぶん陽が翳ってきました。そろそろラストスパートです。



Img_85265z 東廓を廻ったあと、円長寺の前にて、[旧木町(きまち)]No150 材木問屋が集まっていたので。最初卯辰ノ木町、四丁木町などと呼ばれていた。
石碑は、寺の表敷地内に建てられることもよくありました。この後多く見かけます。

Img_85269z さて、この日最後は[橋場町(はしばちょう)]No107 天正年間に、懸作(かけづくり。仮屋のこと)を作って商人がこの浅野川の川原で商売をしていた。藩政期に橋爪町・橋端町とも呼んだことから。
浅野川大橋のたもとです。実はこの園内にもうひとつ、字名で[懸作]の石碑があったのですが、やり過ごしてしまいました。後日GW中に訪れてちゃんとゲット。後にレポートします。
Img_85275z これが浅野川大橋。3連アーチも美しい古い石橋です。以前にも書きましたが1922年建造の国の登録有形文化財です。

やっと29日のレポートが終わりました。次からは5月GW中です。


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2008年5月12日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」3

Img_85097z 金沢大学病院の裏の急な坂を下りたら、五社のひとつ椿原天満宮なんだけど、その坂は[天神坂(てんじんざか)]No314 昔は田井天神って言ってたそうで。
小立野から桜町は、10年ほど前の小立野トンネル開通までは、この急で危険な坂が唯一のルート。しかし古くからさまざまな人の思い出や曰くがありそうで、懐かしい坂のようです。
Img_85112z さて、桜町に下りてから、一気に金沢駅前までバスで来ました。安江八幡宮へ行くためですが、新しい金沢駅東口は、これでも旧町名の宝庫。大きな構造物は、本来複数の町名に分かれていました。
[旧木ノ新保(きのしんぼ)]No139 藩政初期の金沢城西側にあった石川郡石浦庄木ノ新保村がこの地に移されたことから。
Img_85114z なんと今確認したら、金沢市のHPでここが抜けてました。[笠市町(かさいちまち)]No不明 したがって現在総数は218箇所、踏破は92箇所です。Tadashiさん、あの本でNoわかりますか?
このあたりに笠問屋が並び、加賀の菅笠と諸国に広まった笠の市が開かれたことから。
Img_85133z 笠市から小路の住宅地を入って、浅野川沿いに上ります。[旧塩屋町(しおやまち)]No142 は、なんと民家の敷地内に石碑がありました。ガーデニングに隠れて、下までよく見えませんw。この先もこういった石碑がときどきあります。
藩政初期には、塩問屋が大手門付近にあったが、この地に移転してきたため。そういう移転した類の町名がたくさんありますね。
Img_85138z 小橋の堰のところの公園に、[旧岩根町(いわねまち)]No134 藩政初期、馬術の名人岩根十蔵が開いた馬場があったので。
この下に、辰巳用水の浅野川への放水口があります。

Img_85143z 兼六園の手前で二筋に分かれた辰巳用水は、ひとつは西外総構堀となって鞍月用水と柿木畠付近で合流します。もう一筋は広坂通り・尾山神社前・近江町市場を流れて、ここに到達します。
対岸から放水口を撮りましたが魚道と重なって判別しにくいです。ここまで全長16.5km。犀川の水がまちなかを潤しながら、浅野川に注ぎます。
Img_85150z [小橋町(こばしまち)]No156 浅野川のこの橋が小橋です。藩政時代には、犀川大橋・浅野川大橋とともに、金沢の三ツ橋と呼ばれていました。
付近には江戸期からの老舗、飴の俵屋さんがあります。

Img_85155z [旧水車町(みずぐるままち)]No159 松任から来た油屋が用水に水車を掛けて灯油などの製造を行っていました。
小橋からここまで、新しい道路が出来て判別しにくかったのですが、S氏が持っていた古いガイド本には、この後ろの個人宅が名前入りで載っていたのでわかりました。個人情報保護にこだわる現在では考えられませんねw。
Img_85157z 森山へ向かってその新しい道の交差点。[旧御仲間町(おちゅうげんまち)]No160 元禄のころは御馬屋町と呼ばれ、藩の馬の世話をする仲間(ちゅうげん)の組地があったことから。

今日はここまでとします。次回はいよいよ東山へ向かいます。


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2008年5月10日 (土)

「金沢市歴史のまちしるべ」2

Img_84998z 香林坊から、広坂と片町の間の裏道に入ると、[柿木畠(かきのきばたけ)]No53 
江戸初期の火災の教訓から、ここ一帯を火除地にするため空地とし、柿の木を植えたことから。金沢検定に理由が問題になりました。ここも復活町名として平成15年10月にこの名に戻りました。石碑の上の部分、「旧」の字が消されているのがわかりますか?
向かいには老舗の書店があって、鞍月用水や広い歩道など、一帯は街中にあって明るい広場のようになっています。
Img_85016z 四高記念館に寄ったあと、香林坊大和との間に[旧仙石町(せんごくまち)]No67 千石町とも書いたようですが、藩政初期から、どうしてこの名になったか由来はわからないそうです。そういうこともあるみたいですね。

Img_85018z 尾山神社の前まで来て[旧南町(みなみちょう)]No80 前田利家以前、佐久間盛政が城主のころ、ここが城の南だったことから。
町名は消えましたがバス停でずっと名前が残ってました。ここも町名復活の予定があります。次に訪れたときには「旧」の文字は消えてるかな?
Img_85024z せっかくなんで、尾山神社の境内に入りました。前田利家を祀る尾山神社は、嘗ては金沢城内。初詣は行列で賑やかになりますが、そんなときのたまにしか寄ってないので、出店もなにもないこういう空間は初めてですw。
利家の金鯰尾兜の像です。フランス人(勝手にそう思ったw)の親子もカメラに収めています。
Img_85051z 金沢城をひと回りして、兼六園脇から石引通りまで登りました。僕も入院したことのある出羽町の国立病院(今は医療センターって言うんだっけ)は、加賀八家の奥村宗家の屋敷跡。病院を囲むように板塀が続いています。こういうのも珍しいですよね。
板塀の外側は辰巳用水が流れています。

Img_85054z 石引通り、奥村家の屋敷地の隣には、[飛梅町(とびうめちょう)]No50 加賀八家前田家長種系の下屋敷があったところで、同家の家紋「角の内梅輪」にちなんで。
ここも平成12年4月に、隣の下石引町とともに町名復活しています。

Img_85057z [石引町(いしびきまち)]No44 (下)石引町として町名復活しています。
金沢城築城の際、石垣に適した郊外の戸室山から戸室石を切り出し、引いて運んだ道筋だったことから。
現在は片側2車線の立派な真っ直ぐな道が、三代藩主利常の正室で徳川家から嫁いだ珠姫の菩提寺「天徳院」まで続いています。国立病院・松原病院・金沢大学病院、と病院が連なっているし、父はよく大学病院に入院してたし、僕も国立に何度もお世話になったし、そんなイメージがある通りですねw。
Img_85060z [辰巳用水(たつみようすい)]No407 
何度か当ブログで紹介している辰巳用水です。石碑のある位置は、もうすぐ兼六園という最後の方ですが、犀川上流旧辰巳村から約10km、長いトンネルなども掘り、寛永年間(1632ころ)に短期間で作られました。火事の多い金沢城の上水としても利用され、現在でも兼六園や市内中心部を潤しています。工事指揮にあたった板屋兵四郎はサイフォンの原理で城内に水を引き込んだなど、金沢の偉人に今はなっています。
Img_85064z さらに石引通りを上がると[旧安藤町(あんどうまち)]No40 鉄砲組頭 安藤長左衛門の組地があったことから。
このあたり、南北の台地下への下りには、由緒ある坂が数多く、石碑もたくさんあるのですが、この日は五社めぐりがメイン。そのルートに沿うのを優先にして、坂はいずれかの機会にします。