2009年9月29日 (火)

シルバーウイークの金沢城周辺☆

Img_119358z ようやっとシルバーウイークの話ができますw。しかし遠出はしませんでしたが、金沢市内をいろいろと廻ってそれなりに充実。久しぶりの金沢城レポートから。

宮守堀の工事現場では、鯉喉櫓台石垣の積み上げが佳境に入ってました。水面より5~8m上段まで積むという石垣は、実際あとどれぐらいの高さになるのか興味しんしんです。鉄の足場で見えにくくなってますが、広坂の交差点から金沢城方面の正面に見える石垣は、金沢の新しいランドマークにふさわしいものになるでしょう。
Img_119361z 石垣の内部は栗石で埋められてますが、土をかぶせてないのが気になります。堀は当然水も入るというのに、石垣は崩れてこないか、将来がちょっと心配ですw。




Img_119366z 堀の裏側にもこうやって石垣が積まれてますが、鯉喉櫓とはどんなだったでしょうか。早くから史料がなくて櫓台だけになってるんで、ここに立派な櫓があれば、石垣だけとの比ではなく注目浴びるんですけれども。



Img_119371z 宮守堀の復元堀です。ここに水を湛えるのに、あと半年となりました。県庁跡地も再開発内容が決まり、半年後にはここら一帯は新しい観光スポットとして目立ちますよね。どんな風になるかとても楽しみです。



Img_119373z 玉泉院丸の発掘現場に廻りました。ここもかなり発掘が進み、庭園の池の跡などの全貌が次第に明らかになってきています。
2014年度末の北陸新幹線開業に間に合わないとして、暫定整備の仮公園化が計画されてますが、新幹線の開業がひょんなことから不透明になってきて、もしかして14年度には開通してないかも知れません。
Img_119376z そしたらあわてず、発掘を確かなものにして二度手間掛けずに庭園の完全復元も期待したらいいと思いますが。





Img_119381z シルバーウイーク初日は仕事で、日曜20日でしたがすごくいい天気に恵まれましたよ。
金沢市内の観光客も大勢いらしてて、高速道路1,000円の効果もあって県外ナンバーが数珠つなぎでした。レポートには書きませんでしたがここに来る前に石川県立美術館と歴史博物館に寄りましたが、石川県の職員が来場者にアンケートを配って、どこからどんな手段で、何を目的に来ましたか?などと調査してました。
ジモなんでそのまま書きましたが、ジモの意見はあまり参考にならないかも。しかし設問が多くて観光客にはうざったく思われたかも知れませんよ。
Img_119390z この後は例によって河北門の工事現場に。久しぶり(3ヶ月ぶり)に来たらもう屋根の鉛瓦葺きはほぼ終わってました。
土壁の斑直しもほとんど終わり、あとはいよいよ漆喰を塗る段取りでしょうか。先端の剣梅鉢紋も神々しいです。
この日はまた寄進記名会の日のようで、出席者には正面からの見学が許されてるみたいでした。
Img_119395z いつもの見学台からはもうあまりこれ以上の工事の様子は当分伺い知れないでしょうが、正面からこの段に入れるとなるととても興味深いでしょうね。そういや10月3日にまた見学会があるんですが、その日は仕事で行けません。またメディア付いてしまうキケン?があったですが回避されましたww。
Img_119400z 新丸側に廻って河北門の一の門の様子を。ここはもうほとんど出来上がったようなもので、この上の屋根もあらかた出来てるはずです。
両側の海鼠塀の平瓦も埋められ、それには僕ら寄進者が記名した瓦ももう使われてると思います。どの位置にあるかは端末が用意され検索できるようになるらしいです。今からとても楽しみですね。
Img_119403z さて石川門から城外へ出ます。ご覧のように観光客でひきもきりません。石川門のこの二の門はまだ外側は修復工事の覆いがしたまま。このあと有名な櫓の方も修復に入ります。姫路城同様、今から数年は石川門は工事の覆いがかぶされますが、河北門の方は来春いよいよ完成ですよ。
Img_119409z 広坂に戻って21世紀美術館です。とってもいい青空になって撮影日和ですね。今年の週末の秋はこうやって晴れてくれるといいんですが。

さて、シルバーウイークのレポートはまだまだ続きます。



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2009年6月18日 (木)

金沢城河北門復元工事見学会3 下巻

Img_113177z 後半は、鯉喉櫓台石垣の加工現場へ。金沢城は江戸時代の藩政期を通じて再建・増改築・修理が続き、年代ごと、工事責任者ごとのさまざまな石垣が見られ、石垣の博物館とも喩えられています。
この二の丸西数奇屋敷北空堀縁の石垣も、布積み、金場取残し積みの典型で美しい景色です。
Img_113182z さて現在、石垣加工の現場となっている藤右衛門丸に来ました。ここは普段石川県職員以外は立入禁止で、初めて立ち入れる貴重な経験です。かなり広い敷地で驚きました。
ここでこれから石切の実演をしてくれるというので楽しみです。
Img_113187z 金沢城の石垣は、ほぼすべてが金沢郊外の戸室山の石が原料。約40万年前の噴火で出来た、小さいながらも立派な火山で、古いため表面の岩が崩れ地中に埋もれた安山岩の塊を、掘り出して石材にしているというわけ。戸室石と名づくその石材は、江戸年間数次にわたって切り出され、長い石引きの道を曳いて金沢城まで運ばれました。城内には推計、15万個もの戸室石が石垣を形作っています。
Img_113185z 石を割るための道具類です。大きな石を石垣にふさわしい大きさまで割るのに、タガネで割れ目を入れてからクサビを打ち込みますが、昭和40年ころまではその方法で。後年はドリルで穴をあけてからの打ち込みで、掛かる時間は1/3になったそうですが、基本的に穴にクサビを打ち込んで割るのは、何百年の昔から現代になっても変わらないのにビックリしました!
Img_113194z まずは先時代的実演です。現在はほとんどこの方法をとらないというのですごく貴重です。表面にクサビを打ち込む穴を等間隔につくり、大きなかなづちでそのクサビを均等に打っていきます。この道の熟練ならではで、クサビの頭を確実に捉えるのに感動しました。
Img_113202z この大きい石で、この面の8つのクサビだけで割れるんです。一瞬パキっと音がして石にヒビが入りました。これで割れたみたいです。




Img_113204z 戸室石は金沢城の五十間長屋など最初の建物復元時にも、当時新たな切り出しが見込めず不足となると危惧されてましたが、県の石材組合や地元企業の尽力で大量の採掘・切り出しに成功。復元の安定供給はもちろん、金沢の名産として各種の公共施設や道路、庭石にまで幅広く使われるようになりました。
Img_113209z 現代の工法です。ドリルで穴をあけた後に打ち込むと中で開くクサビをハンマーで打ち込みます。確かにこちらの方が短時間で割れました。
石質は斜方輝石を含む角閃安山岩で、石英、黒雲母の斑晶も含有。凍寒や耐火性も強く、圧縮強度はコンクリートの2~6倍あります。
Img_113221z 中を重機で開いてみると、ひとつの石で違った色が。溶岩噴出の温度と酸化作用の違いで赤と青の違いが出るようで、赤戸室・青戸室と言われています。今は赤戸室のほうが多いようです。
今では数多くの加工品も発売され、庭の敷石や縁石、工芸品もあるようです。思わずほしくなってしまいました。
金沢城は当分、復元工事が続きます。金沢では、不況知らずの業種がここにありましたよ!!

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金沢城河北門復元工事見学会3 上巻

Img_113063z 土曜は第三回の、金沢城河北門復元工事見学会があり行ってきました。雨予報だったのに曇りから晴れ間も見え、晴れ男の面目躍如でした。しかし気温はさほどでないものの湿度が高く、二の門の覆いの中で汗びっしょりに。これが後で効いてしまいました。
城に入る前に歴史好きの友人S氏と合流。宮守堀の現状を確認。
Img_113069z 水堀の底は土がつき固められ、およその水深は1.5mか2mといったところ。しばらくは土手の芝生の養生にかかるでしょうか。
一転、堀の南東端には鯉喉櫓台石垣の復元工事中。芝土手の堀部とも土盛りで今は塞がれてます。この底面ともレベルは同じと思えないので、下部は少し埋められるのでしょうか。ここからまだ5段ほど石垣が積み上げられる予定です。思ったより高くならないんじゃ。
Img_113072z 積まれる予定の石垣です。発掘した石垣をそのまま使うのです。向こう側が外側。内側はこのように細長く、永久歯のような形をしています。端がギザギザになってるのわかるでしょうか。後で出てきますが、石を割るときのタガネの跡です。


Img_113107z さて城内に入って、見学会がスタートです。今回も大勢の予約者で、100人弱が集まりました。だんだん増えて、TV各局も取材に来てるので、注目度が高まっていくのはいいことですね。
壁板に名前を書く寄進の枠がまだ余ってて、さかんにアピールしてましたが、そこに見慣れた苗字が並んでてビックリしました。しかし親戚でもなんでもありませんw。
Img_113108z いつものように、まず外で説明。約100人を二班に分けて、別班は鯉喉櫓台の石垣加工現場を先に見学するそうです。後半は楽しみですね。
僕らは河北門へ向かいます。



Img_113147z  二の門の二階の現場に入りましたが、全体が覆われてるので湿度でムッとします。だからか、中央部の床板が外され吹き抜けになって、工事現場用扇風機が大回転してました。
今日は主に屋根瓦の説明。金沢城は他藩と違って屋根瓦に鉛板を使います。いろいろ説があって、有事に鉄砲玉に使うからだとかありますが、どれもはっきりしません。しかし緩やかにサビて白っぽくなった屋根は、陽に光って美しく輝くことになります。
Img_113150z 瓦と言っても鉛の塊ではなく、胴などを混ぜた合金の2mmの鉛板を、能登ヒバの板に貼っていくわけです。雨水が中に入らないように下から1/3ずつ重ねていきますが。平板も真ん中が少し反るようになっていて接合部に雨がなるべく入らないよう工夫されています。上部までそうなのが河北門の復元での特徴で、菱櫓のときは下部だけだったそうです。鉛と相性のいい胴のクギで止めていきます。
丸瓦の梅鉢紋が加賀藩の証。上ではTVカメラがにらんでますw。
Img_113167z 鬼瓦を加工しているところ。実際に触らせてもらいましたが2mmとはいえ鉛は非常にやわらかく、またよく伸びます。そこで鬼瓦も表面に鉛を打ち出し加工。若い職人たちが丁寧に打ち上げてます。時折先輩の厳しい指導がw。


Img_113168z 正式には剣梅鉢紋の加賀前田家の家紋。内側の剣の再現は難しいようですが、ベテランは手早く披露してくれました。

ここでまた突然のことが! 横で取材してたNHKの若い女性レポーターが、僕にマイクを向け「感想はいかがですか?」と抜かしましたw。
「屋根がもうほぼ鉛瓦で覆われ、とても壮観でした。地元の誇りですから、完成がもうじきのようでうれしいですね。」みたいなこと言ったはずなのに、適当に切られアナウンサーの声とかぶって何言ってるかわからんくらいになってましたが、なんとまたNHKに出てしまいましたよww。蒸し暑い汗で首周り濡れてましたがw。
Img_113174z 石川テレビではカメラを構えてるところを撮られてるし、やっぱり今年もマスコミづいてますな~。

平瓦用の鉛板です。特殊に胴とかを混ぜた合金で貴重な材料で高いので、形を整え端を切ると、捨てずに再利用してました。

河北門は、そのほぼすべてが覆われてて、その他の工事現場がなかなか見えないんでザンネンですが、土壁の斑直しが終わった今年後半、白漆喰塗りのときにまた公開されるでしょうか。

後半は石垣加工現場を直撃です。

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2009年5月30日 (土)

金沢城の各工事現場、今日のレポート

Img_112704z 久しぶりに金沢城、宮守堀(いもりぼり)復元工事現場に来ました。ここでは、堀の兼六園側の端にあった櫓、鯉喉櫓(りこうやぐら)の土台であった石垣の復元積み増し工事が進められています。
明治末期に石垣上部が取り崩されで埋められ、6年前の発掘で発見された後、上部の石垣約240個は近くに展示されてました。このうち約200個を、今回の積み増しに再利用します。
写真の石垣にスジのように見える部分がわかるでしょうか。先年までその下は土で埋め戻され、今回以前の発掘した深さまで改めて掘りなおされました。
Img_112713z これが再利用する石垣の石材です。6月下旬から積み増し工事を始め、先ほどの高さからさらに3mほど高くなる予定です。
広坂という、21世紀美術館や兼六園の入口になる金沢の観光の中心部。そこに突如巨大な石垣の威容が姿を現すことになるので、新しい名所になるのは間違いないところ。
Img_112717z そのすぐ脇の、宮守堀、水堀化工事現場です。向こうの土壁の奥が鯉喉櫓台石垣になります。
だいぶん工事が進みました。この様子では、このむき出しの底部が堀の底になるようです。向こう岸の芝生を貼りつけてる面から想像すると、とても浅いですね。こんなもんなんでしょうか。
Img_112720z 首を右に振ると。実際の宮守堀はもう少し長く、旧消防署跡地近くまであったはずです。今はその手前を道路が横切ってるんで、社会資本を優先にしたんでしょう。
この水堀化復元は来年3月ころ完成予定。対岸の旧県庁の再利用工事とあわせて、来年度には新しい金沢の顔になる予定です。
Img_112722z さて城内を進むと、玉泉院丸ではもう埋蔵文化財調査の掘り起こしが始まってました。玉泉院とは二代前田利長の正室、織田信長の娘「永」のことで、利長亡きあとこの地の御殿に住んだことから玉泉院丸と称し、玉泉院亡き後は大きな泉水のあった庭園であったとされています。
多様な石垣群を借景にし、辰巳用水の水を引き入れたとする伝説の庭園の遺構を解明し、北陸新幹線開業前に暫定整備を目標に進められる埋文調査。都度の見学会などがとても楽しみです。
Img_112732z 河北門の工事の様子も見学しようと三の丸に足を進めると、先日から報道のあった石垣の雑草取り清掃の様子に出くわしました。この時期一気に伸びる雑草も、そんなに目に付かないと思ったら、こんな努力が裏にあるんですね。お疲れ様です。


Img_112736z 河北門復元工事の上屋の中に入ってきました。もう鉛瓦の葺き工事がここまで進んでいます。
前回GW中に見た屋根板は、その上に瓦を敷くんじゃなくて、半円形の棒を間隔を置いて這わして、その間に鉛板をはめているわけです。

Img_112741z ここでは金属を扱うので、板には平気で釘を打ち付けてます。大きく平たいタガネのようなもので鉛の形を整えていました。





Img_112738z このあと、半円形の棒状の板にも鉛を這わせて完成です。先端には加賀前田家の梅鉢紋があしらわれています。

6月中旬の見学会が楽しみです。
この後、夏に向けて土壁も斑(むら)直しが進み、今年中には白漆喰に壁面が覆われるでしょう。

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2009年5月16日 (土)

復活!金沢レポート

Img_112224z 長いことごぶさたしました。実はPCが壊れて、GW期間中新しいマシンの構築やリカバリーに追われて時間がとられてしまいました。思わぬ出費で結局どこも出かけてません。やっとこの週末になってPC設定も落ち着き、ようやくブログ再開です。
ハードディスクが突然クラッシュして、大事なデータがすべてパーになって、やむなく新しい筐体を買いました。Core2Duoは初めてで、なにしろ調べたら6年ぶりの購入だったからSATAも初めて。XPもそろそろ買えなくなるんでちょうどタイミングはよかったですが。早いマシン環境を得るのに潮時だったんでしょうが、ハードディスクのリカバリーに新マシン以上費用が掛かったんでどこも出かけなかったのに散々な散財です。当分身動き取れないでしょうねw。
Img_112250z それでその間、4月からのブログへのトピックがいろいろあったのに載せられなかったんで、これから順次お伝えします。
GWスタートの5月2日には、氏子である石川県の県社「石浦神社」の祭りに奉賛金を納めに、次いで金沢城の河北門工事の現状を確認に行きました。

Img_112235z もうすでに二の門の櫓には屋根板が敷き詰められていて、壁には荒壁土塗りの下地がもう完了してました。あっという間ですね。今年度末には完成の目標なんで、ちょっと目を離すと進捗が早いのが驚きです。



Img_112237z 白木の瓦板です。この上にさらに鉛板を貼った瓦が乗っていきます。軒付には銅版が貼られています。





Img_112232z 土が塗られている壁がよく見えるところまで降りてみました。塗るための土は荒壁土といってワラなどを漉き込み、1年ほど発酵させたものを使います。乾燥すると当然こんな割れ目ができるので、この後割れ目を埋め込む斑直し(むらなおし)という作業があり、ぶら下がっている縄は下縄伏せ込みと言いそのときに伸ばして埋め込みます。
Img_112244z 一の門へ通じる土塀の屋根部(あるいは一の門)は土居葺きが完了してました。たしか能登ヒバを薄く裂いた板を使ってたはずです。
このように木地がまんま見えているのもわずかな間だけなんで、これからも毎月ちょくちょく見学に来ないといけませんね。そういえば、宮守堀(いもりぼり)の水堀化工事で、喉鯉櫓台(りこうやぐらだい)の石垣を発掘当初の下部まで掘り下げる工事が始まりました。さらに発掘済みの石垣の積みなおしで、広坂側に高台となる石垣の威容がもうすぐ復活します。堀を掘り込んだ残土は、城内の新丸広場に積み上げられ、起伏を残した広場に再整備するというのでそれも面白いですね。
まだまだこれからも逐次工事の様子をお伝えするのでこれからもよろしくお願いします。

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2009年4月13日 (月)

金沢の桜を満喫しまっし! 2

Img_110570 兼六園は相変わらずたくさんの人出。最近は特にハングルや中国語が賑やかで、おじさんに僕たちもどこから来た?みたいな顔をされてしまった。ジモティなのにw。
園内の桜は人だらけでいいアングルで撮れないんで、卯辰山に面した崖沿いの桜はいい撮影スポットになってます。
ちょっと人酔いしそうだし、夜景の兼六園は飽きてるんで、早々に金沢城へ向かいます。
Img_110587 お約束?の観光写真。背中に夕日を浴びた石川門二階櫓。近いうちにこれも修復のため全体が覆われることになります。今のうちだよ~。




Img_110602 石川門への入口、石川橋の上から百間堀通りを。ここは一年で一番華やかになりますね。
右下の広場は城内なのに、花見宴会の場所取りのブルーシートでいっぱいです。無料で無断で花見のできる城跡って他にないと思うんですがどうかw。

Img_110603 このあたりも、実は僕の周りでは東南アジア系の人たちでいっぱい。国際都市にもう充分なってますね。新幹線が開通したらいったいどうなってしまうんでしょう。




Img_110610 河北門の建設現場も久しぶりです。もう18時なんで中には入れませんでしたが、よく見るとニラミ櫓台には、上に登る階段が設えてました。あれを実際登れるのかイマイチ不明ですが、ぜひ登れるようにしてもらいたいです。あのアングルから撮るのもいいロケーションになるはずです。

Img_110617 このあたりを歩いていると、谷本石川県知事に出くわしました。軽く会釈すると、「おっ、ご苦労さんっ」と、カメラを提げてる僕らに声をかけられました。確かに撮影は骨折りですがねw。人出を視察して廻ってたのか、単に桜を愛でたのかw。


Img_110651 さて今日のメインエベントです。数日前、地元新聞にも載ったこの撮影スポットは、堀の水面にライトアップされた桜が反射して美しく映し出されて注目間違いなしでした。場所に着くとそれの張り紙とかもあって、人が殺到することが目に見えてたんで、まだ明るいうちに三脚立てて頃合をじっと待ってました。
新聞ほどまでは行きませんでしたが、まぁまずまずのできばえでしょうか。








Img_110675 このあと金沢城内のライトアップされた桜を満喫してください。






Img_110678 石川門二階櫓の裏側です。







Img_110690 大手門の石垣と。







Img_110694 そこから見る菱櫓と桜。
NHK金沢放送局からいつもオンエアされるアングルもこっちからですよね。





Img_110697 このあと東山茶屋街で越中八尾おわら踊りがあるというので、2人で歩いていくことにしました。

つづく。

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2009年3月 3日 (火)

金沢城復元工事見学会 石川門の今

Img_107592z 河北門の次は、数年にわたって櫓・土塀の修復工事が進んでいる石川門の様子を見学。石川門右方の土塀は、去年の見学会のときよりかなり作業が進捗しているようです。
垂直の控柱が堂々と据えつけられ、土塀には竹小舞がみっちり括られ、屋根の角には銅板が貼られていつでも土壁塗り準備OKのようです。
Img_107597z と思ったら、土曜なのに土壁塗りの作業をされてました。河北門のところで触れませんでしたが、この荒壁土はワラ屑も練りこんで1年発酵させ熟成するので、近寄るととてもクサイです。しかし適度に水分を含み、乾ききらないうちに上塗りを重ねます。この職人たちは、手でこねながら直に塗りたくってます。
Img_107601z 荒壁塗りが終わったところ。屋根の部分までゆるやかにカーブを描いています。
このあと乾くとどうしても割れ目が発生するので、それを埋める斑直しと、中塗り、漆喰塗りという工程を経て、白く美しく輝く壁面となるのです。

Img_107602z 土を塗っている職人に、見学者のおじさんが、「右から塗ってるんじゃ、左官じゃなくて右官やがいね。」「右から作業が進むんやから、しょうがないげんわ。」
右利きには左から塗るほうが塗りやすいことから、土壁職人を"左官"というのはホントのようです。知りませんでしたww。

Img_107609z 養生がはずれてて、全貌を現した控柱と控貫です。修理前は、陸軍が施工したとされる大正時代に、コンクリート製の控柱が地面から斜めに壁を支えてましたが、藩政期の資料の調査から、地面から垂直の控柱であったことを忠実に復元することにされました。しかも材木製です。
しかし腐食を避けるため、地面に触れる部分は石材にされ、木材保存処理剤「エコアコール」を含浸する処理が施されました。
このように木材の多くは取り替えられましたが、腐食してなかった部材や、今見える範囲では狭間など、前回修復の昭和33年の部材がそのまま使われている部分もあります。その年の刻印の入った焼印があったのでわかりました。

Img_107611z 工事現場に、見慣れない石碑が建ってました。平成6年に、金沢大学がこの金沢城内から、郊外の角間に移転するのを記念した石碑のようです。荀子の「学は以って已むべからず」(学問は永遠に続けていかねばならない)という言葉とともに。
こういうのがあるとは知りませんでした。工事が終わったら、多くの方がわかるように目立ててほしいですね。
Img_107617z 石川門の、工事のまだ始まってない土塀、附属左方太鼓塀です。控柱が斜めなのがわかるでしょうか。
一口に石川門と言いますが、門本体だけでなく、附属する櫓や櫓門、左右の土塀なども総称して石川門、と呼称されます。石垣の上に、このように左右に長く白漆喰の土塀が残るのは、全国でも姫路城に次ぐ長さと言われます。他の城では明治維新後、城内を秘匿するもの、と真っ先に破壊され、代りに松や桜などが植えられました。石垣の上に松などがズラッと並ぶ姿は、明治に入ってからのものがほとんどなのです。
この石川門全体が順次修復工事に入っており、最後にこの附属左方太鼓塀の修理が終わるのは平成25年度の予定です。北陸新幹線には間に合いますねww。

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2009年3月 2日 (月)

金沢城河北門、復元工事見学会2

Img_107524z 二の門内部から、一の門の工事の様子を見ることが出来ました。かなりもう進捗してるようです。天蓋の幕が張られてるので外部から見えないので貴重ですね。
もう屋根葺きをしています。屋根板の上に薄い板材を葺くのですが、奈良の国宝とかだったら、ヒノキの皮、つまり檜皮(ひわだ)が定番です。しかし檜皮は超貴重。国宝の修復にも足りないそうです。
Img_107526z それでか、ここでは能登ひば(アテ)を薄く手で割って、3分の厚さにするそうです。
それを焙煎して硬くなった竹釘を口に10個ほど含んで、次から次へと手早く打ち込んでいきます。竹釘は触らせてもらいましたが、かなり硬いです。これなら鉄釘に負けず、薄い板何枚も貫通できますね。
今日は土曜なのに工期が押してるからかそれとも僕らに見せてくれるためか、かなりいいポジションで仕事されてる方が多かったですw。
Img_107558z 櫓内部を離れ、屋根の様子がわかる場所まで登りました。逆光に映えて屋根材の白木が美しいですよ。
長さ27m、幅約10mの広い屋根にしては、軒反りがゆるいかなとの指摘がありましたが、寺社に比べて城とはそういうものだそうです。この位置まで登れるのは今しかないので、いろんな角度から撮影しまくりましたよ。
Img_107568z 今度は1階まで降りました。枡形の内部では、土塀に囲まれるわけですが、既報どおり石垣で積まれたこの上部に土壁が塗られ、石垣が隠れてしまいます。それでもこのようにキレイに積まれた職人というか石川県当局の意気込みを感じますねw。この辺が鉄筋コンクリの熊本城各復元櫓と違う、と声を大にして言っていいようですw。
Img_107572z 二の門の"門"の部分です。ぶっとい鏡柱がブルーシートに囲われ大事そうにされてます。このあたりは銅板などで装飾されるので、木肌のままなのは今しか見られないかも知れません。
頭上部を渡す970mmもある太い冠木(かぶき)は、足場などに隠れて見えません。このあたりの重厚な木組みが、金沢城の重要な表門の"門"たる貫禄を示してますね。

さてこの後は、河北門より長期に修復工事にかかってる石川門の土塀塗りをオプションで見学に参ります。

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2009年3月 1日 (日)

金沢城河北門、復元工事見学会1

Img_107451z 土曜は仕事が終わった後、急いで金沢城へ駆けつけて、河北門復元工事の第二回見学会に参加しました。
この日は素晴らしく晴れ、金沢城の白漆喰に青空がとても映えています。ホントにこの冬も結局満足に雪が積もりませんでした。

Img_107453z 河北門全体を保護する巨大な覆いです。二階建ての櫓門である大きな二の門と、高麗門である一の門、枡形を囲う土塀と、河北門を構成するそのすべてが覆われ、さながら戦艦大和を秘匿した呉のドックのようですw。

Img_107456z 現在の兼六園側からの入口になっている石川門と、構成はほぼ同じながら、石川門よりひと回り大きくなる二の門はやはりデッカイです(2階床面積、石川門180㎡、河北門220㎡)。2階外側の見学台からは何度か見られても、中に入るのは初めてです。とてもワクワクしますね。Img_107459z
今日は事前申込の案内では定員50名でしたが、多くの希望者が応募したので全員受け付けたそうです。総勢110名ほどとなりました。そんなに中に入りきるのかと思いましたが、このあと皆さん入れてしまいました。
やはり年代的にはお年寄りが多かったですが、若い人たちもチラホラ。城マニアの友人S氏と合流して(僕らも若いほう?)、これから2時間、みっちり見学です。
Img_107470z 工事現場の真っ只中なんで、ヘルメットは必須です。よく人数分足りましたね。二の門の2階部分に集合ですが、110人しっかり入れました。それだけのキャパはあるんですが、思ったほど広くは感じませんでした。
数々の太い梁が縦横に天空を覆ってて、内部にいるとやはり迫力がありますね。
Img_107476z 櫓の周囲はすでに竹小舞が仕込まれていて、壁塗直前の状態。先月に見学したときはまだ全然だったはずなので、この日にあわせて頑張ったでしょうか。今日までに進捗率は55%、某社の影響か予定より1ヶ月近く遅れてるような気はしますが。
使われてる木材は、なるべく県内産をと、能登ひば(アテ)、杉で約61%。県外産は松と欅(ケヤキ)だけど、門下部の主要な部分と太い梁群のほとんどがそう。
Img_107481z しかし職人はほとんど、石川県内の人材で賄おうと。県が誇る文化財を県内の者で創られるようにと、先年菱櫓など復元のときも、若い県内職人を集め体験させ、そして今回は彼らが主要なメンバーになったそうです。「石川の伝統的建造技術を伝える会」がそのとき設立され、大工の石川県建築組合連合会を始め9つの団体が参加。彼らが入れ替わり立ち代り毎日平均80人が工事に携わっています。
Img_107488z さて、今から詳細な解説が始まります。この日はマスコミもいくつか取材に来ています。右下のカメラは北國新聞ですね。この場面が写真載ってました。僕は後ろにいたわけですが。そして、まさにこの対面で、NHKのテレビカメラが僕を捉えていたようです。真剣なまなざしで資料をにらんで正面を見据えた顔が、地方ニュースでドアップで映し出されましたw。今年もメディア露出は頻繁にありそうです。
Img_107493z ここで2班に別れて、先に左官工程の解説を。土壁塗りは二の門ではまだ始まってないので、竹小舞の説明と、あとはパネルで。そして後で石川門の修復工事の土塀で土壁塗りがされているので、実践はそちらをレポートします。
竹小舞に荒縄を巻きつけて、土の付きをよくするわけです。縄は外側にも、あまりを巻きつけて残してあって、土を塗ったあとで補強として埋め込むのです。下部は木材に穴を開けてはめ込む現代建築様式を避け、竹を斜めに切り落として空に浮かせ、水の溜まるのを防ぐ工夫が今回されています。
よく見ると所々の竹材が、樹脂のチューブになってます。コンセント用の電源ケーブルが仕込まれてるようですよw。
Img_107505z 木工事の説明では、ほとんどの木組みでは釘を使わず複雑な継ぎやホゾで組立、伝統工法が引き継がれているということ。
丸太を使った梁でも、柱の先では角材に仕上げて通してあるなど、重厚でも細かい職人の腕が培われているのがよくわかります。
安土城の模型でも参考になることがあるんじゃないでしょうか?
Img_107519z 複雑な小屋組みのひとつひとつに、梁や柱の名前が付けてあります。資料にも細かく図説されてるんですが、よくもまぁ昔の人はここまで作りましたよね。
この小屋組みは、完成した後でも天板が張られないので、このまま中から見ることが出来るはずです。ぜひ興味もってご覧下さい。
Img_107520z 全長27mの櫓に、そこを通す牛梁は当然継がれてるんですが、その一部に、実はこの場所の石垣に先年まで植わってた松材が使われました。それが他の部材と明らかに色が違ってるこれです。上を横に渡る二重梁の一本にも使用されましたが、リサイクルというか、所縁のものを使うという配慮だそうです。
さて、レポートも長くなったんで一旦切ります。

つづく。

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2009年2月10日 (火)

金沢城河北門と玉泉院丸の今の様子

Img_107376z 金沢城内に入ると、河北門工事現場の覆いはニラミ櫓台や土居の部分にまで架かっていました。この覆いが外されるころには、石川門同様の壮大な枡形門が姿を現すことになります。



Img_107388z 見学台の中に入ると、上棟式の時よりさらに、屋根を支える小屋組みの木工事が進んで、屋根板葺き直前まであとわずかの様子です。
柱には番号が振られていて、自分が記名した十一番が手前に見えました。あの近辺にその壁板が張られるようです。完成後もその位置はわかるようにされる予定ですよ。

Img_107381z 何度かは紹介しましたが、今週の工事内容が掲出され、今どの部分が作事されてるのか、またあとどれくらい木工事が進むのかわかりやすくなっています。今は軒垂木や茅負など、軒先の部位の工事です。
木組みの専門用語もあって、勉強になりますね。今月からスタートした安土城を作るデアゴスティーニの本の作成にも参考になるんじゃないでしょうか。僕は作りませんがw。
雪対策もあって全天候型の覆いが作られてるのに、今年の金沢はほとんど積もってません。よい環境で工事もはかどってくれるといいですね。

この日は観光客もぞろぞろと見受けられ、認知してくれるのにいい傾向だと思ったんですが、ヘルメットが残ってるのに被らないで入ってきた人が目立ちました。ここは曲がりなりにも工事現場、見学者の安全第一に考え、そのすべての人にヘルメット着用を呼びかけ入口へ引き返してもらいました。地元の者としての責務に感じましたね。
Img_107393z 新丸側に回り込んで、やはり足場や覆いに囲われた一の門の様子を久しぶりに。
冠木の下の鏡柱が既にしっかりと据えつけられています。
金沢城の枡形門では、外側の高麗門を一の門、内側の櫓門を二の門といいます。
こうやって、工事の様子を逐次見られるようなのは珍しいと思いますんで、また逐一ご報告したいです。
Img_107399z 例の玉泉院丸が、とうとう更地になりました。雪が工事を滞らさせなくてよかったです。けど多分冬の間はそのままで、発掘調査は少し寒さが緩んでからでしょう。その取っ掛かりには説明会を開いてほしいですね。こうやってみるとかなり広い敷地です。ここは庭園が復元される予定、今から楽しみですよ。




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2009年2月 9日 (月)

いもり堀と旧石川県庁の今の様子

Img_107359z 犀川上流の「辰巳」地区からさっと、街中に戻ってきました。すごく天気がいいので、金沢城の現在の工事の様子も確認することに。
宮守堀(いもりぼり)の水堀工事現場です。やっと堀っぽくなってきました。金沢大学時代はテニスコートだったここも、発掘調査で深くまで石垣が積まれた部分も発見され、今回の水堀の水深も実際どれくらいになるか、
Img_107360z 気になるところですが、これよりはもう少し掘り下げられるはずです。
金沢市内のメイン道路のひとつ、広坂通りから丸見えの、ある意味金沢城の玄関側とも言える面ですから、今後この堀がひとつの象徴として見られることになるので完成が楽しみです。
Img_107362z 案内看板もありましたんで、ちょっと小さいかも知れませんがイメージとして見てください。





Img_107364z 宮守堀の東端、兼六園側では、鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)という櫓跡の石垣がありました。現在の復元露出面より、数メートル高い位置まで積まれていて、今回はそこまで復元する予定です。そのための石は掘り起こされてこの先に並べられています。

Img_107372z それがこれらです。丁度今、日曜なのにこの石たちを清掃している部隊に出くわしました。間に溜まっていた落葉などを吹き飛ばし、表面をキレイにしています。そろそろここから運び出して、鯉喉櫓台まで持っていくんでしょうか?
ご覧なってわかるように、石垣の石って奥に向かって長い、長方体をしてるのがほとんどなんですよ。
Img_107369z 金沢城側からです。ちょうど旧石川県庁の建物の裏が見えます。大正時代の古い石造りの建物の保存計画に紆余曲折あり、結局レストラン併設のサロンに大規模な改装工事をすることに。あまり軽い形態にせず、歴史を偲ばれる重厚な趣のある場所にしてほしいと思いますね。これらの工事が完成するのは、いもり堀が来春、県庁はいつだっけ?w

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2009年1月11日 (日)

金沢城河北門 復元記念記名会2

Img_105952z 1時間も前に入ったんで、受付と机では、係りの方が準備真っ最中で忙しそう。受付が始まるまでおとなしく待つことにします。
ここで午前の第一部に参加した友人のS氏と連絡。この机で平瓦に参加者全員で号令一下一斉に記名。なんだか表面がデコボコして書きにくかった、ということでした。報道の取材も来てて、かなり賑やかだったようですよ。
Img_105958z 13時が近くなったんで、来場者がちらほら。なし崩し的に受付が始まりました。僕も参加証を渡して指定された番号の席に着きます。平瓦壁板のスペースには、それぞれ番号が振られてて、どれも裏側になるので表から自分の書いたものが見えなくなるんですが、その番号で自分の位置がわかるようにしてくれるんです。完成した河北門の、そこが自分の領分みたいでうれしいですね。
席に着くと個別に説明してくれます。まず、瓦は手の脂に弱いので、決して触らず手袋をはめるようにと。ペンは二種類あって好きなのを選べるんですが、マッキーとデザインペンでした。せっかく筆ペンで練習してきたってのにw。しかし両側が筆先のデザインペンの片側がちょっと筆に似てたのでそれを選択。そしてなんと瓦の裏というのは、凸のストライプのスジが入ってて、これじゃまともに書けないじゃないですか、って表面でした。デコボコってレベルじゃないですw。
Img_105961z それでもなんとか写真のように書き上げました。「寄進之証」ももらってなんだか満足。ホッとしました。あっ、自分の名前の部分は消してあります。ヒミツですからw。
しかし第一部と違って、着いた先から三々五々、それぞれ皆さん書いてくださいってあっさり終わりました。まだほとんど来られてません。僕はこの後壁板にも書きますからって、奥へ通されましたが。静かで全然盛り上がってませんねw。
Img_105970z 奥の部屋では今度は壁板に記名するコーナー。瓦と書けるスペースは同じようなものなんですが、縦に長い板に、正方形に近いスペースを分割して書くので、斜めからの記名でかなり書きづらいです。でもまだ来場者が少なくて、周りを気にせず書けたのはよかったです。手で触っても大丈夫でしたしね。
あっ、午前のS氏の記名が見えてましたよ。親子2人で書かれてますね。仲のおよろしいことで。彼のブログを紹介しましょう。
裏・城郭さんぽ&うさぎと一緒な毎日
最近うさぎは全然出てきませんがねw。
ここでは僕は何を書いたか、ナイショですのでお見せしませんww。
Img_105978z さて、記名会も済んで明日も予定があるのでさっさと帰ります。途中、体育館解体工事で拓けた玉泉院丸の石垣を見に立ち寄り。
ここは以前から遊歩道ができてましたが、体育館がなくなってかなり明るくていい雰囲気です。この何重にも織り成す石垣の意匠は、なぜにこんなにしたのかフシギにも見えますね。この上にあったはずの構造物とも関連するのでしょう。右側の縦に長い石垣を色紙短冊積み石垣といいます。ちょっと暗いですがその右上に、V字形の石樋もあります。この下の玉泉院丸が池のあった庭園であったことからすると、そのころはこのように明るくて、複雑なデザインの石垣も映えてた華やかな空間だったでしょうね。
Img_105984z この下では、土曜というのに解体後のガレキの撤去でショベルカーが忙しく動き回ってました。お疲れ様です。
一日も早く、遺構発掘調査と、庭園の復元を期待したいですね。北陸新幹線に間に合うようにね。


Img_105985z 金沢城の外縁まで降りてくると、ここでも土曜なのに宮守堀(いもりぼり)の水堀化工事が進んでました。
この太いコンクリの管は、排水管だそうで、そうか上手からでなく下手から造ってく必要がありますよね。まだまだ先は長そうですが、冷たい雪の中、ご苦労様です!

今日は記名会を済まして、やっとひとつ肩の荷が下りた気がしました。

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2009年1月10日 (土)

金沢城河北門 復元記念記名会1

Img_105926z 今日はいよいよ河北門復元寄進記名会の日です。復元を記念して寄付によって平瓦や壁板に名前を書ける日が、やっとやってきました。
この日は「初春金沢城祭2009」と題して、河北門の上棟式を行い、みんなで河北門復元を祝って盛り上がろう! というわけなんだけど、とうとう寒波がやってくるということで元旦より寒くて人出ももちろん少ない。
Img_105928z それこそ元旦に様子を見に行ったけど、あれから10日経って上棟式ではどれくらい出来てるんだろう。と華やかな式典?の後を覗いてみる。そういえば上棟式を取材できるのかわからないけど忘れて出かけるのが遅くなってしまったw。着いたのは11時半過ぎ。
Img_105930z 式典は終わって後片付けしてるところ。小屋組みが済んだところで上棟式とは、先日とあまり変わらなかったですね。屋根葺きが少しあるのかと思いました。
でも内部で式をしてたようで、仮設階段が設えてます。一般はこの見学台まで見にこられたんでしょうか?
Img_105936z いずれにしろ、これからさらに本格的工事が進みます。全体の形が見えてきて、進み具合がはっきりするから、毎月のようにチェックしていきたいですね。
枡形の土塀の土台の石垣もほぼ完成のようです。元旦には少し雪が積もってたのでわかりにくかったですが、栗石もしっかり詰められてます。この二段の下の部分が土に埋もれてしまうようです。
Img_105940z 僕の記名会は13時からの第2部で、少し余裕持ちすぎました。着いたらちょうど外で、近江町市場協力の「ぜんざい」が振舞われてました。僕でも寒い今日の気候で、あたたかいものを戴いてちょっとホッとしました。時折小雪が舞う今日の昼の天気ですが、予報ならもっと荒れるってことでした。やっぱり金沢の街中は積もらないのかww。
Img_105941z 「金沢城祭」では、五十間長屋内部で記名会と、金沢城の手作り工作。外で太鼓演奏と、ささやかなお祭りイベントってとこなんですが、にしても人出が少なくてさみしい始末になってしまいました。元から告知が少ないって言ってましたし、なにしろ今日は寒いw。こりゃ人来ませんって。
Img_105946z んでも太鼓演奏が始まると、なんと小さい女の子たちが腕むき出しで頑張ってます。諸江町の「もろえ夢太鼓」の面々。えらいですねw。
観客はというと、この子達が始める前に上着を脱ぎだすと、見ていた奥様たちが一斉に走って取りに来ました。なんだ、みなさん身内じゃないですか。
Img_105949z しかしもう寒くてたまりませんから、まだ始まりまで1時間あるけれど、五十間長屋の中に入りました。まだ係りの方たちが午前の後始末をしている最中だったので、とりあえず工作のところへ。河北門のペーパークラフトを作れるんですが、作ってしまうとかさばるので、紙だけもらって帰ることにしますw。
Img_105951z しかし事前にチラシでも見たんですが、ペーパークラフトといってもバカにならず、かなり精密なデザインに作られてます。部品も結構細かく、こんなのこの場でそう簡単に出来ないですよ。
ここで一式もらって、記名会の受付でももらったので、後で自宅でじっくり作ってみましょう。すごく楽しみですね。

あっ、記名会が始まる前に、かなり誌面を使ってしまいました。記事を2部に分けますんで今日のところは。。
どうせ0時に続きをアップしますけどねw。

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2009年1月 4日 (日)

「金沢は"城下町"じゃ」小京都にあらず

Img_70176s  地元の「北國新聞」に2年に亘って連載してた、北陸新幹線開業後の問題提起をした「ふるさと探査2014年」が年末に終わりました。そこで今年からはその北國新聞が出版してる雑誌「アクタス」で大西巷一が連載中の漫画、「おてんば珠姫さま!」主人公の珠姫が活躍?する、「金沢は"城下町"じゃ」が今日から始まりましたよ。
戦災に逢わずに、藩政期の遺構が街並の各所に反映している城下町金沢の魅力をあますところなく伝えてくれる、新聞一面にデッカク載ってる連載コラム。第一回は金沢の街に二重に張り巡らせていた惣構堀という金沢城の外堀機構。今でもその七割方が残ってますよ。

珠姫とは、前田家三代利常に幼少から嫁いだ、二代将軍秀忠とお江与の娘のこと。漫画ではまだまだ子供でおてんば振りを発揮する元気なお姫様を演じてて、コラムでもその調子で読者に金沢の歴史を教えてくれるみたい。
珠姫が言うには、城を中心として、堀と土居で防御された遺構の残る金沢の街は、京都とは全く違う武家の街じゃ!ということ。小京都と言われる面々もいらっしゃるがお門違い。
写真の「加賀国金沢之絵図」でもその構造ははっきりお分かりいただけるでしょうか。

これから珠姫がどんな金沢の魅力を伝えてくれるのか、連載が楽しみになってきましたよ。

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2009年1月 3日 (土)

工事が進まない?、今年の元旦の金沢城周辺

Img_104756z 金沢城、本丸南面では、宮守堀(いもりぼり)の水堀化工事が始まっています。ここは金沢城内が金沢大学だったころ、長くテニスコートになってました。大学が郊外に移転して、城内が石川県に払い下げられると、早速発掘調査の上、簡易的に公園化されてました。そして水堀時代の石垣など遺構が見つかり、水堀復元への期待が高まって、いよいよ昨年下旬から工事開始となったのです。
Img_104794z 最初の写真の反対側からの図ですが、しかし工事のプロセスがわかりにくく、ゼネコン不況とあいまって進捗具合がはかどってるか不安ですね。ここに約200mの水堀と、数mの高さの櫓台が建つ予定です。また、本来の堀はもっと長く、この後ろの道路からさらに延びてもおかしくないんですが、交通の遮断だけは避けるみたいです。ザンネン。
Img_104796z さて、前の写真のすぐ左脇から始まる、金沢城石垣めぐりの新コース、鼠多門コースのスタートです。
江戸時代通じて修復が繰り返された金沢城では、さまざまな年代のいろんな姿の石垣が見られる、石垣の博物館と称されています。宮守堀(いもりぼり)脇の石垣では、初期の粗い加工石を組んで、一部刻印なども見られます。堀底から積み上げられてますが、土手の上部に石垣を巡らす「鉢巻き石垣」という形態になっています。
Img_104802z 今回のコースは玉泉院丸の外縁をめぐる部分。鼠多門はそのうち、今は尾山神社になっている金谷出丸へ通じる門と橋の名を指します。
昨年まで、その外周道路の信号の前にある南西の石垣を積みなおす、修築工事がされてました。その解説板です。玉泉院とは二代藩主利長の正室、織田信長の娘「永」のことで、ここは彼女の屋敷のあったところです。主家の娘なので、野田山の墓地も利長より上の位置にあります。没後は玉泉院丸は庭園とされ、体育館撤去後はその庭園の復元を計画しています。
Img_104807z 修築箇所からさらに北上すると、鼠多門鼠多橋があった場所に来ました。明治17年に門は焼失してしまい、その後鉢巻き石垣が積み足され、今のようなフラットな上面となりました。土手のくぼんだところが、木橋の橋脚のあった名残です。金沢城南西面の、市内中心市街地からの入口として、やはりここも近い将来の復元が期待されています。
Img_104817z さて、せっかくここまで来たので、尾山神社にも初詣に参りましょう。例年金沢市内ではここが一番人出が多いようですが、元旦の正午というのに、そんなに順番待ちしなくても参れました。人が少なめに思えるのは、天気のせいなのかはたまた不況だからか、ちょっと不安になりますね。
Img_104821z 拝殿の中ではちょうど、加賀萬歳が奉納されてました。外からでは、その軽妙なお囃子や語り口はうかがい知れませんが、400年の伝統を誇る、能楽のエッセッンスの入った舞と謡いの掛け合い万歳、という正月ならではの古典芸能です。
元旦ではこのあと、知事公舎や市長宅へ披露に行くはずです。

そんなこんなの09年元旦の金沢城周辺めぐりでしたが、今年もこんな感じで金沢の紹介をしていきたいと思います。よろしく!

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2009年1月 2日 (金)

着々と工事の進む、今年の元旦の金沢城周辺は。

Img_104751z 元旦は昼から、市内の初詣に行きましたよ。例年のことですが、隣の兄一家と母親を連れて、氏子である石川県社の石浦神社へ。石浦町は今で言う香林坊とか南町周辺にあった、主要な町である本町のひとつでした。石浦神社自体が明治になって旧本多家下屋敷地のこの位置に移転してきたわけです。社殿の控室へ行くと、複製ですが金沢市史資料編にもあった、石浦神社氏子地の絵図を見ることが出来ます。
Img_104757z それから兄一家は高校受験の甥のために、菅原道真の子孫を名乗る前田家ゆかりの、天神様である金沢神社へ[広坂]を登っていきます。
僕はといえば河北門工事の様子を見に金沢城へ。
年末の珍しい晴天だった29日の方が観光客が既に多かったですが、この日はあいにくのミゾレ。北陸らしい天気でいつものどんよりとした空に、実はお似合いの石川門の観光写真をどうぞw。
Img_104761z 河北門の工事現場に久しぶりに寄りました。河北門の枡形の一角となる土居には、発掘の史実どおり、補強の石垣が組まれています。見るからに頑丈で立派な三段石垣が積まれてますが、これらは土で埋められてしまいます。見えなくなるところにも史実にあわせて確実に復元するあたり、どこかの急造の模造櫓とはわけが違うのです(具体的にどこかを指すわけでは・・w)。世界遺産を目指す所以ですね。実際の現場を見て得心しました。
Img_104766z 河北門二の門の覆いの中に入ると、木工事がかなり進捗してるので感動しました。10日後には棟上式が待ってるからでもありますが、ここまで着実に進むと、完成もあっという間だろうとすごく楽しみになります。
見学者にも進み具合がわかりやすいように、[今週の主要工事内容]と、工事部分の図が掲示されてました。
Img_104769z 上部の木枠部分が、梁と屋根の間の小屋組みと言って、桟引・小屋束・小屋貫・二重梁・母屋・棟木、と細かく図示されています。基本的にホゾとかだけで、特別な金属補強はされないはずです。そのかわり複雑ですけどね。


Img_104770z 10日は新春金沢城祭2009として、城内でさまざまなイベントが予定されてますが、肝心なのは待ちに待った河北門寄進記銘会です。外壁の平瓦と、二の門屋内の板塀の裏に、思いの丈を揮毫できるのです。練習はまだこれからで、早速明日にでもしなければいけませんねw。
見学台はこの寒空で、人っ子一人居ませんでしたが、僕が出にかかると集団が入ってきました。なぜか一安心ですw。
Img_104779z 今日はやはり観光客も少なめですね。しかしたまに見かけると日本語を話していませんw。橋爪門をくぐるとインド人とおぼしき黒い二人連れが。会社に関係ある人じゃないでしょうねw。



Img_104783z 橋爪門一の門には、正月の注連飾りが。去年も同様に紹介しましたが、藩政時代の記録を元に描かれた絵図を参考に復元されたものです。
数の子飾りといい、5.4mもあります。これを復元した現代のワラ工芸師は御年91歳。こういうのも再現不可能になっていくんでしょうか?
Img_104787z さてせっかくなんで、このかすかに積もった雪景色を、いつものトップ画像のアングルから一枚激写。今年は寒波が来ても、金沢市内の積雪量はいかばかりか。もちろん生活するにはあまり積もってほしくはありませんが、観光とかの見栄えや、温暖化の心配も実は気になります。まぁ暖かい太平洋側の方は、あまり寒いとこ行きたくはないんでしょうけどw。
Img_104790z 本日の記事の最後に、体育館が解体された玉泉院丸の現在の様子を。ここに古くて大きな体育館があって、暗い場所でしたが、なくなってみるとこんな開放感ある場所だったとは。内縁の石垣などは木々の伐採もあって初めて露出し、またいろいろな発見がありそうです。一度整地が完了したら、発掘調査に入る前に石垣の見学会でも設定してほしいですね。
ここに庭園の復元が予定されています。

明日はいもり堀など、本丸外縁をお伝えします。

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2008年11月24日 (月)

河北門復元寄進記銘会のご案内

Img_82110s 河北門復元の寄進事業で、ようやく記銘会の案内が来ました。それによると、当初12月だった日程が、来年1月10日(土)と正式決定。その日は休みなので、頑張っていってきます。
早速平瓦壁板の寄進、合わせて10,000円也を振り込んできました。金銭的余裕は全くないのに、ですw。
平瓦は一の門とニラミ櫓台の海鼠塀のもので350口しかなく、昨年の応募以来3ヶ月で完売。しかし壁板は2600口もあるので、先日の報道でようやく52%の1344口に達したとあります。まだ半分近く残っているので、一口5,000円、県民にどんどん応募してほしいです。というか、まだまだ石川県のアピールが足りませんね。
熊本城の復元寄付は全国に募って億という額が集まったといいます。金沢城はそれに比べると募集の規模も小さいのに、集まる口数も少ないです。まだこれからも、橋爪門二の門や玉泉丸庭園、辰巳櫓に二の丸御殿と、復元計画は目白押しなのだから、寄付を大々的に募ってもいいのにと思います。
さて、当日に目掛けて、毛書の練習でもしとかなきゃいけませんねww。

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2008年11月11日 (火)

石川門、内部公開スクープ!

Img_101501z この日は石川門の内部も公開してました。次の週末まで開いてますから、みなさんも今がチャンスですw。
観光写真でも有名な石川門の、隅櫓の裏手になり、ここから進入です。
永い事住んでますが、石川門の中に入るのは今回が初めてです。
Img_101505z まずは櫓の一階です。急な階段が続いてますが、登るのは禁止でしたw。二層の櫓ですが、階段でいうと三階があるということですかね。
内部はすべて木造ですが、意外と、鶴丸倉庫や三十間長屋で匂った、ホコリ臭さというか、木の古い臭いはあまりしませんでした。
Img_101503z 石川門は現在修復工事中。門と言ってもホントの門部分だけでなく、左右の土塀や櫓、上屋も広義で門といいます。数十年前の修復の時に取り外した鬼瓦の部分でしょうか、展示してあります。金沢城はよく鉛瓦が使われますが、素焼きの瓦の代わりすべてが鉛というわけでなく、木の土台に薄い鉛板を貼っているわけで、それがよくわかりますよね。
Img_101508z 石川門の一の門の屋根です。同様の鬼瓦が見えますね。今回の修復では取り替える必要のないくらい綺麗ですね。





Img_101515z 内部はすごく暗いです。S氏は以前入ったときより暗いと言います。外側が修復工事中だからですかね。露出をあげて明るく撮りましたが、シャッタースピードが遅くてブレてますか。
屋根部の木組みも興味深いですが、建築の知識までは薄いので、今日のところは記録にとどめておきます。

Img_101527z 石川門の枡形の上屋をすべて廻ることができます。格子がジャマですが、窓からの一の門を上から撮る図はメッタに撮れません。ユニークな図柄になりました。もう少し天気がよければ、ちょうど奥に見える医王山もくっきりと映えたでしょうに。









Img_101533z 出口に戻って紅葉と橋爪門続櫓の図です。これもこの位置でしか撮れません。これも青空だったら言うことなしですが。
こうしてみると、金沢城はまだまだ見栄えのするスポットが意外と知られてない気がします。金沢市民でも何度も訪れるに値する金沢城の、北陸新幹線開通に向けて復元工事真っ盛りの様子をぜひ見に来てください!

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2008年11月10日 (月)

河北門の工事現場からお伝えします!

Img_101444z 次はS氏と河北門の工事現場へ。先日から風雪を防ぐ覆いの中に見学台が設けられたので、それに初めて潜入してみます。
昨日から兼六園のライトアップなど、深まった秋に金沢城エリアではイベント企画がたくさんありますが、あちこちに工事の足場で囲われてるのも事実。しかし今しか見られない姿でもあるので、ぜひ訪れてみてほしいですね。
Img_101446z 通路の奥には、危険防止のヘルメットが。定員25名ということで、ちょうどあります。ということは、9時から入場できるけど今は誰も中に入ってないわけで、やはり僕らの行動は一般的ではないのでしょうかw。



Img_101450z 中では二の門の上部の木工事の真っ最中。土曜だけど数人で作業されていて、その様子をじっくり見学できてラッキーでした。
大規模な石垣の積み上げと、人が通る門本体の柱も組みあがり、あとは上部の上屋部分です。来月にも予定される上棟式が非常に楽しみですが、ここまでくると日に日に進捗する姿をしょっちゅう見に来ないと、一気に出来上がってしまいそうです。
Img_101458z パネルもたくさん展示してあったので、ここで河北門とはどういうものか解説しましょう。
明治14年の陸軍による失火で焼失するまで、宝暦大火後安永元年(1772)に再建された河北門は、三の丸に繋がる実質の大手門でした。写真は明治期の河北門。右側の建物がそうで、中央は現在も再建した姿が見られる菱櫓です。
Img_101459z この写真はまさに河北門の二の門です。この古写真が残っていたので、現在復元する石垣のこの面は、この写真の石組のとおり忠実に再現したということです。




Img_101460z 復元の平面図です。観光写真でもよくご覧戴く石川門と同様、小さい門から入って左右どちらかに曲がって大きい門をくぐる、枡形門という形式です。金沢城の場合、外側からの小さい門を一の門、大きい上屋のある方を二の門といいます。熊本城の場合は逆に呼びます。
小さい門から進入した敵を、中央の枡形で足止めして、上屋の上から弓で狙い打つ、という機能があります。
Img_101461z 平面図です。大手側、今の新丸広場から上がってくる面になります。中央が一の門。門扉の控柱にも小さい瓦屋根がある高麗門という形式です。
右側はニラミ櫓台。宝暦大火以前は石川門のように二層の隅櫓が建っていましたが、安永の再建では建造されず、土塀となっています。金沢城の各場所の再建は、史実を尊重しなるべく木造で、過度に創造せず、藩政期のほとんどの時期にそうであったろう姿を再現するということから、大火以前の不詳な部分まで復元しないというスタンスが取られています。
Img_101465z 城ファンからすると本丸天守まで完全に復元してほしいものですが、多大なる費用と、時間を掛けた学術調査が必要ですから、いつになるかわからないほど未来の復元よりも、早いとこ多くの建造物を建ててほしいとも思うので、痛し痒しですね。
二の門の平面図です。広い芝生の三の丸広場に、この威風堂々の建物が来年度末にはお目見えします。
Img_101482z 復元デッサンです。右側に、二の門上屋に車椅子でも入れるスロープが用意される予定です。こうやって、バリアフリーにも配慮して常時見学できるようにする、というのも最近にないウリにもなっています。
完成イメージが掴んでもらえたでしょうか。


Img_101487z 角の柱をクレーンで吊り上げてはめ込んでいるところです。素材の保護もあり、クラフト紙を柱に巻いたまま組上げています。工事の様子をつぶさに見られてうれしいですが、この間何人かは見学に来ましたけど、興味なさげにすぐに立ち去っていきました。僕らは30分ほども熱心に見つめて撮りまくり、充分堪能しましたよw。
Img_101493z 表に出て、ニラミ櫓台の石垣です。正直、ここまで高いとは思いませんでしたが、この内側の枡形からの面は土居が築かれるので、これだけの石を見られるのは今のうちです。図面によるとこちら側に階段があり、台の上まで登れるかと思いますが、そうするとニラミ櫓台から菱櫓・五十間長屋を綺麗に撮れるいいアングルになります。楽しみですね。
しかし、河北門の寄進の払込票、記銘会の案内がまだ来ません。少し工事の予定も押してるようで、スケジュールが気になりますね。

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2008年11月 9日 (日)

金沢城本丸に、最古の庭園跡を見た!

Img_101432z_2 今日は金沢城に、発掘調査の現場説明会に行ってきました。
河北門の工事や石川門の修復と、あちこちでなにかと工事中の金沢城ですが、ここでは何の発掘かというと、本丸の北の端で、江戸時代初期の遺構が発見されたということなのです。
江戸時代中に数次にわたって造成されていたこの地点は、明治に入って陸軍の手によって写真のように切り通しにされ、弾薬庫になってました。
Img_101551z_2 そのためこの崖面を少し掘るだけで、江戸時代の造成の様子がまるで地層のように明確に判別できたというわけです。
するとここは三代前田利常のころの元和期には、庭園だったということが判りました。



Img_101426p 写真の大きな石は、その大きさやしわの景色などから庭石と予想され、一帯は池だったと見られます。
元和6年(1620)の本丸大火後に造営され、寛永8年(1631)の城下をも巻き込む大火後には再普請で埋め立てられ、わずか10年ほどの間の庭でした。
Img_101428p その後二の丸に御殿が造られたので、金沢城本丸は政庁としての機能を失い、現在は深い森になって自然保護の観点から発掘調査はなかなか進まず、金沢城の中でも特に謎に包まれたエリアになっています。早い時期に焼失した天守も、厳密に言えばどの位置に建っていたか詳しいことはわかっていません。
Img_101439z 発掘で発見された人工の石材です。落葉の季節なので横の松葉やケヤキ?の葉は大きさ比較のためではなく偶然にハコに落ちましたw。
今日の説明会の情報は地元新聞に載ってましたが、教えてくれたS氏は到着がギリギリだったので、石川県金沢城調査研究所の方の説明が一通り終わってから落ちあいました。

この後河北門の工事の様子や昨日から公開してる石川門の中を見学に行きます。

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2008年10月31日 (金)

宮守堀(いもりぼり)水堀化工事開始!

Img_9369s 金沢城の外縁部、広坂緑地との間の宮守堀(いもりぼり)を水堀化する工事が、11月4日から開始される。さらには12月に、堀の隅になる鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)の石積み作業も始まる。
金沢城の南面、広坂の中心部と相対するこの宮守堀の復元は、金沢城の第二期復元整備事業のもう一つの核。かつてはテニスコートにもなっていたこの地が、金沢城の一部として往時を偲ぶ姿を取り戻すのは、旧県庁もあった中心地に面した金沢城の風格が甦る重要な復元となろう。
写真は仮整備の状態で、ここ2~3年はこの様子。砂利で埋まってる堀を数メートル掘り下げ、長さ230m、幅16m、水深1.8mの堀を年度内に完成させる。右の石垣が鯉喉櫓台。さらに約5mほど積み増し、見学スペースとして開放もする。
史実の宮守堀はもう少し大きく、広い部分で幅が30m以上もあった。しかし堀に取り入れる水は史実のとおり、兼六園を通った辰巳用水が使われることになる。
金沢城はこの先も、玉泉院丸の県立体育館解体・庭園復元をはじめ、第三期に亘って百万石の威風と輝きを再現する工事が準備されている。北陸新幹線開業までが一つの区切りだが、関東の観光客を引き寄せる魅力を満載した史跡として、誇れる姿が間に合うのを切に願っています。

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2008年10月22日 (水)

石川県立美術館と、イベント中の金沢城

Img_101179z やっとこの間の週末のことを書けます。日曜は街に出ました。「おしゃれメッセ2008」やら、「金沢アートプラットホーム」とか、この秋は継続してるイベントがさまざまに金沢の街を彩っています。
そんな中、9月中旬に一年がかりの改修の末リニュアルオープンした石川県立美術館へ、法隆寺の名宝と聖徳太子の文化財展を見に行きました。
目玉はなんと言っても「玉虫の厨子」。皆さんも歴史の教科書とかでみたでしょう、法隆寺を出るのはめったにないこと。あれ、どれくらいの大きさだと思いますか?
Img_101181z 実は2m以上もある巨大な物体でした。その精巧な造りと大きさに圧倒されましたね。教科書にもあった捨身飼虎図は、古代の漫画図法とも言えます。直に見られて感動ですw。4千枚あまり使ったという玉虫の羽はもうほとんど失われて見えません。しかし今年、新たに2万枚もの羽を使って作られた平成版「玉虫の厨子」が法隆寺に奉納され、それを制作したのは輪島においてだそうです。
このほか、百万塔や釈迦如来像など100点あまりの法隆寺の文化財が展示されてました。
美術館のリニュアルは、エスカレータ・エレベータなどのバリアフリー化はもちろん、エントランスに我が石川の誇る世界的パテシェ、辻口博啓プロデュースのカフェ「ル ミュゼ ド アッシュ」がオープン。しかし週末ともなると、店外にまで行列がやまないようで、最初から入るのはあきらめてました。
Img_101185z また美術館の奥に出ると、木立の中を散策できる歩道が整備され、本多の森の静かな風が楽しめます。カフェの大きなガラスごしに、緑の落ち着いた外の景色を見ながら一服できたらいいですね。
法隆寺展の今日は最後の日曜。今回地元テレビでさかんに特番されてた島崎館長自ら、エントランスの真ん中で来場者をお出迎えされてました。
Img_101190z このあと金沢城内にはいり、改めて河北門の工事現場に。この23日から、見学台をこの天幕の中まで延長し、常時天候の心配なく工事の様子を間近で見学できるようになります。これは他の城でも今までにない画期的なことです。
二の門の壁板への寄進記銘が12月に迫る中、21日には石川県美容業生活衛生同業組合がいの一番で、業界団体として記銘寄進されました。僕ら一般にはまだ払込書も届いてません。
Img_101193z 二の丸広場では、おしゃれメッセの一環で、昨日からCanCamの有名モデルを呼んで、ファッションショーが開かれてます。徳澤なんとかとかw。その割には狭いステージと客席ですね。
でも始まると撮影禁止らしく、興味ないのでさっさと出てしまいました。

Img_101196z 最後に玉泉丸外の石垣です。鼠多門周辺ですが、この現在金沢城外縁のここにも、石垣見学コースが整備される予定。右上部の石垣は春に積みなおしが完成して、下部には草が植えられましたが、結局秋にこうやって刈り取るなら、最初から植物が生える前提の土盛りなどしなきゃいいのに、とも思います。
いずれにしろ、この先の丸の内駐車場の存続問題も含め、現在外縁となってるこの金沢城西側の石垣群もきれいに整備してほしいものです。

明日はバスをたくさんアップしますw。

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2008年10月12日 (日)

高岡古城公園散策

Img_100743z 記事が遅くなってしまいましたが、このレポートは先週の出来事ですw。
松任工場からその足で、一気に高岡まで来ました。JRで840円、思ったより高かったですね。
高岡ではまず、高岡市美術館。人から券をもらってた「日本近代洋画のあけぼの」展を。高岡市開町400年記念プレイベントの一環で、先日は金沢での外国の洋画展ではいまひとつピンとこなかったけど、今回は日本の洋画で名前も知ってる画家のも多いんで、すごく面白かった。
古くは江戸中期の平賀源内司馬江漢の作品も生で見られて嬉しかったし、写真にある美術館の外の幟の高橋由一「鮭」など有名な作品もいくつかあって興味深かった。有名な画家では黒田清輝や青木繁、藤島武二のもあり、写実的な洋画の技法を取り入れた黎明期の作品に、なぜか疲れてた心もピンッとさせてくれた感じがする。そうそう、徳川慶喜の小作もありましたよ。
Img_100744z その次は隣の高岡古城公園へ。高岡は父親の関係で子供のころ毎月のように来てた時期があったのに、ゆっくり城内に入るのは初めて。普段なら何気ないただの公園と化してる古城(加賀藩なので元和元年1615年の一国一城令時に廃城)なのに、来年の高岡開町400年に向けてさまざまなイベント中。
Img_100747z 大伴家持が赴任したこともある越中国府のある高岡は万葉の里とも呼ばれ、「万葉集」全20巻を朗誦するイベントが。堀に船を浮かべ当時の衣装にコスプレした老若男女(見た限りお年寄りがほとんど)が代わる代わる数日にわたり熱誦。4024番、とか言ってたから、夜通しかどうか判らないけど、ものすごい熱意ですね。観客?が少なかったのがザンネンですが。。
Img_100750z さて、本丸広場にはこの高岡を開いた前田家二代目前田利長の銅像が。隠居領として入った富山城が焼けた後、慶長14年1609年に当時の関野に、高山右近の縄張りで城を築き高岡と改名。開祖として今でも市民に慕われています。








Img_100752z 本丸の中心には射水神社がありました。奈良時代以前から二上山の麓にあったものを、明治になってから高岡城址本丸に遷座したものです。さっそくお参り、と思ったら婚礼の真っ最中。ここから先も近寄りがたい雰囲気だったのであきらめましたw。けっこう神前挙式のメッカのようで(神道にメッカとはどうかw)、HPには挙式履歴がずらりww。

さて、古城公園を後にして、次は高岡の鉄道事情を確認しましょう。

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2008年10月 5日 (日)

今年は50Dで「月見光路」を撮る

Img_100525z 今日は年に一度の、金沢工業大学生などが手がける光のオブジェのイベント「月見光路」の最終日。もう4回目くらいかな。
完全に暗くなるまでスタバで時間を潰して、いざ外へ出たら、この石川四高記念文化交流館の前でギターライブのステージがあった。オブジェの点灯前だったけど、ステージを撮ってたら撮影禁止と注意された。まぎらわしい。だったら注意書きしとけばいいのにw。
Img_100536z 隣の旧石川県庁もライトアップを撮った。正面のケヤキも名物だが、先日枝が折れたとニュースしてた。この大正期の建造物の保存利用方法はまだ論議してて、せっかくの街中の由緒ある建物なのに、決定的な集客効果のあるものを提示できてないのは寂しい。この裏面の改築形態が難儀なわけだが、いっそ道路を越えて宮守堀(いもりぼり)を藩政期の規模で復元すれば、県庁の裏まで到達する一体化した金沢城公園と化すのに。。
Img_100540z さて広坂緑地まできて、やっと点灯した「月見光路」のオブジェに囲まれました。
ここから見える辰巳櫓下石垣のライトアップが好きです。本来はこんな四段じゃなく、下からスラッと延びる二段ほどの高石垣だけど、明治時代に陸軍に壊されてしまったよう。だもんで片面に千鳥破風と唐破風のある全国でも珍しい辰巳櫓の復元が望まれるのに、藩政期と違う石垣最上段に難問が多い。
Img_100549z そういえばこの辰巳櫓の精巧な復元図が、12日まで石川国際交流サロンで展示されてるんだけど、そこがいったいどこかわからないんだな。広坂1丁目だからこのあたりのはず。金沢美大の講師末松智氏の精密なえんぴつデッサンは、1759年(宝暦9年)に焼失した辰巳櫓の往時を彷彿とさせる素晴らしい仕上がり。(この後場所はネットで見つけました)
Img_100551z 夜景を撮ってるのにその話題はここまで書きませんでしたねw。液晶が3inchで92万画素なので、暗くてもはっきりと確認できる。おかげで露出の調整もバッチリいけるので失敗コマが少なくてすむ。それは自然、心の余裕にも繋がっていいシャシンも撮れていくだろう。
しかしその割には、オブジェは去年より配置がつまらなく思えた。
Img_100563z バルブ撮影もテストしてみましたよ。いままで必要もなかったんで撮ったことなかったけど、車のヘッドライトの流れる画像。露出をうんと抑えてシャッター10秒開放ですわ。
来月出張で山口の宇部に泊まる予定で、歩いてすぐに工場の夜景が撮れる場所があると想定できるんだけど、三脚はさすがに持っていけないし、セメント工場は夜美しくないかww。
Img_100575z 氏子をしてる石浦神社にも今年はオブジェが。夕方奉納金を納めに来ましたよ。毎回祭りのとき(5月1・2・3日、10月1・2・3日)に納めるんだけど、平日だったらしょうがない。一日遅れの4日になりました。厄払いもここでしたしね。子供のころは祭りの屋台でいろいろ買い食いしたもんだけど、今の屋台は少なくて寂しいね。
Img_100584z またも夜景と関係ない話ばかりになっちゃったけどw。感度をオートにしておくと、明るさやレンズの拡大率に合わせて適したISOに設定してくれるので楽といえば楽。あとは、リュックにも入れられる軽い三脚しか使ってないから、むしろそれがネックになってきたw。でもドッシリとした重たい三脚はぶれないけどそれだけ機動力が制限されるからね。
Img_100587z 最後は21世紀美術館前。ここはいつもこの☆のオブジェ。こういう美しい画は、全国ニュースにしてもいいのになぁ、と思うよ。
右枠外だけど、美術館のラウンジでは、結婚披露宴をしてたよ。ちょうど新郎新婦が入ってきて、外から中の明かりで目だって見えたから、外でも人だかりから注目の的。撮ろうか迷ったけど、そりゃ一般の人なんで遠慮しました。

そんなこんなで、今年も月見光路は終わり。明日はJR松任工場へ!

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2008年10月 4日 (土)

50Dで写す金沢城、河北門の工事現場

Img_100478z 今日は午前の仕事が終わった後、50Dで初の夜景テストを兼ねて夕方、街に出かけた。
まずは金沢城、二の門の石垣が組み終わった河北門工事の現状を見にやってきた。すると修復工事がいよいよ門本体に移ってきた石川門の二の門が足場とシートで覆われてしまってた。一年以上はかかる修復工事で、当分はシートの掛かった石川門との付き合いになろう。
Img_100479z 振り返って河北門をと見たらビックリ!巨大な鉄骨の覆いが完成していたよ。二の門の大きな石垣の上に、いよいよ木工が始まるわけだけど、雨が降っても大丈夫なように、こんなに大きな覆いが必要なわけだ。戦艦大和の建造を秘匿するために、呉の海軍工廠のドックに特別な覆いが作られたけど、あれを彷彿させたかなw。
Img_100488z そういえば、数年前に復元された、菱櫓と五十間長屋の工事のDVDを以前二の丸の休憩所で見たけど、そのときもこんな大きな鉄骨の覆いを建設してたみたい。当時はまだ一般は中に入れなかったんじゃないかな。今は見学通路もあり、こんな間近で見ることが出来る。
この時間はもう16時30分過ぎ。夕方で反対側の見学スロープの立入は制限されて見られなかったし、工事の作業もほとんど終わって、現在の手順は確認できなかった。それでも二の門の石垣には、太い柱や梁が順次配されてたし、そのうちこの空間にも上屋の骨組みが埋まっていくのがそう遅くないだろう。12月に迫った平瓦や板塀の記名会の時には、どこまで仕上がってるかすごく楽しみだ。同時に見学会も開いてくれたらなお盛り上がるだろう!

Img_100486z カメラを右に振ると、一の門とニラミ櫓台だ。ここの石垣積みはまだ途中。二の門の石垣と比べたら、打ち込みハギもあってラフな仕上がりになっている。ニラミ櫓台には江戸末期の状態のまま、櫓は組まれない予定。ちょっと物足りないけど、土居で囲まれる枡形は石川門とほぼ同規模。構造物が次第に見えてくると、かなり広い空間だってことがよくわかる。(奥は菱櫓)
Img_100490z 一の門の石垣。これは江戸期?のままのもの。工事前までこの上に松が植わってて、その根でか石垣はかなりずれてしまってた。木を掘り起こし、石垣を組みなおしてズレを修復すると、なんと切り込みハギがここまでピッタリ!先人の技術も素晴らしいが、百年以上経っても風化しない石にも敬服だ。
Img_100501z そうこうしているうちに、一旦閉場の17時になってしまった。このあと19時からライトアップの夜間開放になる。けど今日は街中の「月見光路」の方を見るため城内はこれでおしまい。
50Dで太陽を撮るテスト。工事の鉄骨と五十間長屋に沈む夕日と雲とのコントラスト。20Dより表現できる幅は広がってるだろうか。
このあと夜景にチャレンジ。。

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2008年8月18日 (月)

白山ろくをちょっとドライブ2

Img_90425k ダムのあとは、念願の鳥越城に登りました。登ると言ってもここまで車で行けるんですが、平地から一気に山頂まで登る山道、すれ違いもしにくい急坂と聞いていたので、ちょっと怖くて敬遠していたんですが、この陽気に負けて行ってしまえと。
登ってみると実際はたいしたことなく、対向車もなく夏休みの日曜なのに来訪者は僕だけでしたw。
Img_90431k 一向一揆の最後の重要な砦だったのに、そして地元で立派に復元して丁寧な整備がされているのに、普段訪れる人が少なくてザンネンです。
一世紀近く百姓の持ちたる国として、最後まで織田勢力と戦った由緒あるこの鳥越城なんだから、もっとアピールが必要なんでしょうか。ふもとにある一向一揆歴史館は以前にも行きましたが、ちゃんとした立派な枡形門のあるこの本丸だけでなく、二の丸や三の丸が複数もあるこの山頂山城。当時としてもかなりスゴイものです。
Img_90450k 山頂標高は312m。ふもとははるか眼下です。150mほどは一気に登ったでしょうか。整備したときに城のまわりの木々を伐採したので、東西のふもとからこの城の位置がはっきりと見えます。当時もこんなふうにしっかり目印になったんでしょう。戦国時代の山城の重要性がわかりますね。
Img_90427k ひとつ山向こうに、この鳥越城の支城ともいうべき、二曲城(ふとげじょう)がありました。左端の尾根に平たい部分があるのがわかりますか?
城からの眺めもこのように鮮明で、支城との連絡もとれ、また敵の動きも逐一つかめたことでしょう。
Img_90445k それでも、尾山御坊(金沢)落城後も、3度に亘って織田方に攻略され、天正10年についに落ちたときには、300余名が磔(はりつけ)になったそうです。
歴史に長い間埋もれていたこの鳥越城も、しかしこうやって復元整備され、今や国の史跡に指定されています。山頂は涼しい風が吹いていました。ぜひ、たくさんの人に往時を偲んで訪れてほしいですね。
しかし僕はいつも、人の行かないところばかり行きますね~w。

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2008年8月15日 (金)

鶴丸倉庫の内部公開!

Img_90301k やっと会社も盆休みに入ったけど、今年は世間の皆さん同様節約でどこにも行きません。せいぜいが街中。けど元々観光地の金沢、あいかわらずの金沢城へ。
14日は国の重要文化財にも先日指定された、鶴丸倉庫(金沢城土蔵)の内部特別公開。早速朝から出かけることに。
Img_90305k 毎年夏に金沢では、「かなざわ・まち博」と題していろんな企業や博物館など市の機関がタイアップして、体験会やセミナーなどが市内各所で毎日開催されています。鶴丸倉庫の公開もその一環として本日だけ。S氏と時間を約束して朝から歩いて向かいましたが、さっきまで大雨の市内、湿度でもう早くも汗まみれです。
Img_90306k 約束の9時半になりましたが、S氏はみあたらず、そのうち来るだろうと思い先に中に入ることに。
藩政期の全国の城には、こういった土蔵が珍しくなく、金沢城内にも複数あったようですが、明治になって石垣上の土塀が破却され松などが植えられたように、新政府によって隠匿性の高い建物は次々壊されていきました。
Img_90307k 金沢城でも唯一残ったこの土蔵も近年まで、藩主が立ち去った明治初期に、代りに主となった陸軍が建てたものと理解されていました。最近の研究でようやく江戸後期のものと確認され、このたび国の重要文化財に指定されたわけです。
この種の土蔵で残っているものは全国でも数が少なく、また最大規模なもので、その文化的価値の高さが認められました。
Img_90315k 内部は2階建てで急な階段があり、壁面もすべて板が張られています。
弘化5年(1848年)に建てられた鶴丸倉庫は当初武具土蔵として使われ、陸軍時代には被服庫だったと当時の資料にあります。戦後の金沢大学時代にも、資料保管庫として近年まで使われていたそうで、本来の倉としての役割は長い年月経っても有効であることの証明ですね。
Img_90317k 格子窓から外の眺めです。なにしろ暑い日ですが、そんなときでも窓を全開にして風を通せば、中の物も保ったもんでしょうか。しかしそれでも汗は止まりません。




Img_90319k 22m×15mの、かなり広い蔵です。2間ごとに9本のかなり太い柱で支え、構造も独特です。すこし埃っぽい古い木の匂いがする暗い空間は、三十間長屋などとも共通ですね。蛍光灯やコードがむき出しで梁などに直接釘打ち付けられているのが、やむなしといえばそうですがザンネンかな。
結局S氏を待てず、暑さに耐え切れなくなって出てしまいました。
Img_90328k 鶴丸から本丸に登る途中で、石垣をくりぬいた内側を煉瓦で囲われた穴があります。
明治になって入った陸軍が、通行の便として石垣を壊して作ったトンネルです。こういう遺構も他になく珍しいですね。
河北門の石垣も最後の8段目まで積まれてましたが、暑さで撮りに戻るのを忘れました。この日はこの後鉄撮りのつもりでしたが、またいつ雨模様になるかわからず、しょうがなくバスで県庁へ本を買いに行って早々と帰途につくことにしますw。

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2008年7月14日 (月)

小雨の金沢、ひとやすみ

Img_89770z 昼からは金沢城に寄って、説明会後の河北門の石垣工事の様子を見に来ました。あいにく雨が降ってきたけど、とうとう鉄骨の基礎の上部部分まで積み上げられてました。7段でしょうか。あとは8段目の、上面が綺麗に削られフラットになったのを積むだけですね。
この面でなく右側なのですが、明治時代の古写真が残っているので、その面の石垣それぞれの大きさが忠実に再現されたそうです。先週の説明会の資料を、行ってきたS氏からいただきました。
Img_89773z その後いろいろ廻ってひがし茶屋街をまた寄ってみました。夕方雨に濡れて、暗い壁がより引き立つ光加減もいいですね。




Img_89775z 中を公開している、「懐華楼」です。金沢市指定保存建造物に登録されてます。昔の雰囲気を残したままの造りです。朱塗りの壁が鮮やかで、こういうところを金沢らしいと観光客が押し寄せるのでしょうか。
ふすまの絵とかが、なんだか現代風で意外でした。誰に描いてもらったものか??

Img_89778z 10帖の客間は群青色の壁だ。数年前まで住んでた大正時代の家の2階にも、こんな部屋があったなぁ。もう壊してしまったけど。最後は物置になったしねw。


Img_89779z 通りに面した縁側で。
ところで以前、この懐華楼の入場券は、うちの会社でカード型CDとして受注してたけど、この日もらったのは単なるレザック66の説明書としおり。まぁ費用も嵩んだろうしね。
茶屋街は、古いといっても文政3年(1820)くらいからで、もう幕末も近いころだし、この店は「越濱」の名で昭和初期まで続いてたそう。約100年間ほどのことだ。
Img_89784z この部屋は茶室。にじり口、というほどでないが、入口は狭かった。ずっと暗くしてあるのは、この下の畳が金箔で出来ているからか。お手を触れないで下さい、の注意書きも暗くて読めなかったから、しっかり触れてしまったw。金箔畳にしたのは最近だろうか。
まぁこんな感じの一日でした。


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2008年6月20日 (金)

金沢城史跡指定と「まち博08」

Img_66113z 金沢城跡が、ようやく国史跡に決定しました。
17日の官報で、文部科学省が金沢城跡を文化審議会の答申どおり、国史跡に指定する、と告示しました。世界遺産暫定リスト入りの条件の一つとして、文化庁が「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の中核をなす金沢城跡の史跡指定を課題に挙げており、その関門をひとつクリアしたことになります。
Img_82129s  また、金沢市中心部を博覧会場に見立てて行われる「かなざわ・まち博2008」が今年も夏季7月26日から8月24日まで開かれますが、6月9日に国の重要文化財に指定されたばかりの鶴丸倉庫が、今回特別に内部公開されます。
公開日は8月14日。お盆休みのはずで、絶対に見逃せません。
まち博ではこの他に、加賀友禅の体験講座や茶屋遊びの体験講座、街の老舗店舗でのイベントや体験など、60講座7イベントが予定されています。
この夏、熱い金沢に、みなさんぜひいらっしま!

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2008年6月 7日 (土)

金沢百万石まつり'08

Img_87712z 今年も百万石行列の日がやってきました。前田利家の金沢入城を記念して、今年で57回目を迎えます。金沢城を囲む市内一周ルートから、金沢駅から繁華街を廻って金沢城に入城するルートに変わって3年目。城内でもステージイベントなどが加わり、ストーリー性もあっていままで以上にかなり好評なパレードになりました。
Img_87721z 去年に続いて百間堀通りでの観覧になりましたが、午前の仕事の後、遅く着いたけどルートの最後半、まだまだスペースはありました。
時代行列の前に、小中学校や消防・自衛隊など、さまざまな団体の音楽パレード。僕らの頃あまり参加する機会はありませんでしたが(長姉は高校時代に参加)、昔より充実して大勢の子たちが加わっています。
ここまでスタートから約5km、子供たちも散々疲れたでしょう、結構演奏もへろへろ。しかし晴れがましく一心に奏でるその姿に、なんだかジーンとして涙ぐみました・・。
Img_87733z さて、毎年この時期から選考される、ミス百万石の3人です。これから一年、全国に金沢をアピールして、さまざまなイベントに駆け巡る予定です。20代前半の子がいつも選ばれますが、彼女たちの将来も気になりますねw。


Img_87740z 来年、隣の富山県高岡市が開町400年を迎えます。前田利家の長男、利長が隠居城として高岡の町を造って以来、加賀藩の重要な都市として栄えました。PR隊が行列に参加です。
高岡は最近、高岡コロッケで町おこしに成功しています。宇都宮のギョーザのようなものですが、うらやましいです。食べに行きたいですね。
Img_87774z 加賀鳶ハシゴ登りです。金沢にある49の消防団員の勇気ある演技に拍手喝さいです。
江戸で制度化された大名火消しで一番の活躍をした加賀藩。本来大名屋敷のみの消火でしたが、江戸の他地区にも応援に駆けつけ、その人気で有名になり、金沢にも凱旋したのが始まりとか。
Img_87860z 利家の奥方、お松の方です。今年から女優を呼ぶことになり、石野真子さんです。まさに、僕ら世代のアイドルですねw。
以前は金沢のデパートの店員から選ばれましたが、申し訳ないけどやはり華があります。しかし枠で囲った車の上から手を振るだけなので、少し物足りないですね。

Img_87874z 時代行列では、加賀八家という家老集団の行列も。行列が長く、流れが止まっているタイミングのときもあり、この武将?が僕の隣の、横浜から来たというおばさんたちとしばし歓談。「朝10時から駅前で着替えて、少しの弁当だけで水分の支給なし。脱水症状になるわいやw。」「このあと城の中に入ったらいいがいや、ステージで演技があるさかい。ただ歩いとるの見とってもおもしないやろw。」いやいや充分面白いですよ。。






Img_87900z さて、本日のメインエベント、前田利家公の山下真司さんです。俳優が利家公をするようになってから、もうおばさんたちがいつもキャーキャーですw。馬上で両側の観客席に近付きながら廻るので、みなさん案外よく撮れたのでは?
この後僕に向かって寄って目線も呉れましたが、ザンネンながらピンボケてしまったので非公開ですw。
Img_87922z またしばし停滞したので、金沢城をバックにたくさん撮れました。
このあと城内ステージでセレモニーですが、ここに居ると大回りしないと城内に入れないので、今日は去年に続きここまでとします。一昨年高嶋政宏さんのときは、武蔵が辻で見てから城内へ行って迎えましたが、そうでもしないとよく見れませんから。
毎年6月第一週土曜に行われる、一大歴史ページェント。隣のおばさんのように、遠くからでもぜひ観にいらっしゃいませんか?

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2008年5月28日 (水)

金沢城の史跡指定と辰巳用水は来年

Img_62379z 文化審議会は16日に、金沢城跡を国登録記念物に登録するよう、文部科学省に答申しました。ほぼそのまま答申がとおり、指定・登録が近々あります。
世界遺産を目指す「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の核をなす金沢城が、文化財未指定という課題がこれで解消され、今年度の世界遺産暫定リスト追加選定の前になんとか条件のひとつをクリアしました。
金沢城は天守など、主要な建物はいずれも火災でほとんどが失われましたが、石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫など江戸時代の建造物や、なにより「石垣の博物館」といわれる高度な技術を要する多様な石垣遺構が保存されています。
金沢城は明治になって陸軍が第九師団を置き、戦後は金沢大学キャンパスと、一環して国が一般に開放しませんでした。1995年の金沢大学移転を期に石川県に移管され、ようやく史跡公園として整備され、今「河北門」など、数々の復元工事が実施・計画されています。
そのためすでに城や城跡の国史跡指定は207件もある中、金沢城跡は全国的にみても後発となってしまいました。しかし今回の答申が、北陸新幹線開業を見据えた魅力ある街づくりの一環の中、世界遺産の指定も目指しながらの復元・整備の早い進捗と、市民のより深い理解と協力が進むことを期待したいと思います。

Img_78272z ところで、来年度の国史跡指定申請を目指す、辰巳用水について、金沢市辰巳用水調査指導委員会がこのたび、史跡指定区域を写真の東岩取水口から兼六園までの、10.9kmとする方針を示しました。
東岩取水口から末町までの上流部では、隧道や横穴だけでなく、管理通路までの土地を含めて区域とする。
Img_78294z 写真の全長260mにも及ぶ三段石垣も史跡指定の対象となります。
この上部に暗渠として流れています。




Img_70218s この末町から錦町までの中流部の水路と管理道路も対象です。
遊歩道が落ち着いた風情を演出しています。



Img_78314z 下流部では水路のみとなります。正面突き当たりは兼六園です。
辰巳用水は兼六園に曲水として流れ、また分流して浅野川まで流れていますが、この兼六園の手前までが史跡対象となります。
金沢市が今年度中にまとめる調査報告書では、4年間の測量・発掘調査の成果や、辰巳用水の歴史や文献・絵図など資料編含め、200ページ以上の大作となる予定。今からとても楽しみです。

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2008年5月26日 (月)

「金沢城 河北門」壁板・平瓦寄進申込書

Img_87416s 週末はまた江戸へ行ってましたが、そのレポートは後日として、深夜に帰ってきたら、石川県の土木部公園緑地課から郵便が来てました。なんだろう?と思ったら、以前予約していた河北門復元整備の「壁板・平瓦寄進」の申込書でした。
やっと届いたか、ってとこで、申込内容を見てみると、壁板・平瓦、それぞれ一口5,000円。記名会が第一回が今年12月頃、第二回来年5月頃、第三回来年秋頃の、3回のうち希望する時期を明記の上提出。
Img_82110s 記名会の2ヶ月前にお知らせと納入通知書が来て支払。当日壁板と平瓦に記名して「寄進の証」をもらうという段取り。
早くに申し込んだんだから、記名も早くしたいですね。12月のにしようと思います。しかし土日か平日かわかりませんが、一般の県民に広く募集してましたから、土日に懸けてみますw。
これは自治体への寄付行為の一環とみなされ、寄付金控除の対象になります。また、「ふるさと納税制度」にも該当するって。まぁ小額なんで、どうってことないですがね。やっと手続きが始まったので、いまから12月が楽しみですね。

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2008年5月10日 (土)

「金沢市歴史のまちしるべ」2

Img_84998z 香林坊から、広坂と片町の間の裏道に入ると、[柿木畠(かきのきばたけ)]No53 
江戸初期の火災の教訓から、ここ一帯を火除地にするため空地とし、柿の木を植えたことから。金沢検定に理由が問題になりました。ここも復活町名として平成15年10月にこの名に戻りました。石碑の上の部分、「旧」の字が消されているのがわかりますか?
向かいには老舗の書店があって、鞍月用水や広い歩道など、一帯は街中にあって明るい広場のようになっています。
Img_85016z 四高記念館に寄ったあと、香林坊大和との間に[旧仙石町(せんごくまち)]No67 千石町とも書いたようですが、藩政初期から、どうしてこの名になったか由来はわからないそうです。そういうこともあるみたいですね。

Img_85018z 尾山神社の前まで来て[旧南町(みなみちょう)]No80 前田利家以前、佐久間盛政が城主のころ、ここが城の南だったことから。
町名は消えましたがバス停でずっと名前が残ってました。ここも町名復活の予定があります。次に訪れたときには「旧」の文字は消えてるかな?
Img_85024z せっかくなんで、尾山神社の境内に入りました。前田利家を祀る尾山神社は、嘗ては金沢城内。初詣は行列で賑やかになりますが、そんなときのたまにしか寄ってないので、出店もなにもないこういう空間は初めてですw。
利家の金鯰尾兜の像です。フランス人(勝手にそう思ったw)の親子もカメラに収めています。
Img_85051z 金沢城をひと回りして、兼六園脇から石引通りまで登りました。僕も入院したことのある出羽町の国立病院(今は医療センターって言うんだっけ)は、加賀八家の奥村宗家の屋敷跡。病院を囲むように板塀が続いています。こういうのも珍しいですよね。
板塀の外側は辰巳用水が流れています。

Img_85054z 石引通り、奥村家の屋敷地の隣には、[飛梅町(とびうめちょう)]No50 加賀八家前田家長種系の下屋敷があったところで、同家の家紋「角の内梅輪」にちなんで。
ここも平成12年4月に、隣の下石引町とともに町名復活しています。

Img_85057z [石引町(いしびきまち)]No44 (下)石引町として町名復活しています。
金沢城築城の際、石垣に適した郊外の戸室山から戸室石を切り出し、引いて運んだ道筋だったことから。
現在は片側2車線の立派な真っ直ぐな道が、三代藩主利常の正室で徳川家から嫁いだ珠姫の菩提寺「天徳院」まで続いています。国立病院・松原病院・金沢大学病院、と病院が連なっているし、父はよく大学病院に入院してたし、僕も国立に何度もお世話になったし、そんなイメージがある通りですねw。
Img_85060z [辰巳用水(たつみようすい)]No407 
何度か当ブログで紹介している辰巳用水です。石碑のある位置は、もうすぐ兼六園という最後の方ですが、犀川上流旧辰巳村から約10km、長いトンネルなども掘り、寛永年間(1632ころ)に短期間で作られました。火事の多い金沢城の上水としても利用され、現在でも兼六園や市内中心部を潤しています。工事指揮にあたった板屋兵四郎はサイフォンの原理で城内に水を引き込んだなど、金沢の偉人に今はなっています。
Img_85064z さらに石引通りを上がると[旧安藤町(あんどうまち)]No40 鉄砲組頭 安藤長左衛門の組地があったことから。
このあたり、南北の台地下への下りには、由緒ある坂が数多く、石碑もたくさんあるのですが、この日は五社めぐりがメイン。そのルートに沿うのを優先にして、坂はいずれかの機会にします。
Img_85066z さてそうこうしていると、金沢に3ルートあるコミュニティバス、わが菊川ルートの「ふらっとバス」が来ました。100円で1周約1時間の、古く狭い昔ながらの住宅地と街中をゆっくりとした足取りで巡ってくれます。だもんでお年寄りの利用が多いですね。僕もたまに乗りますが、のんびりとしていいものです。フォルクスワーゲン製のバスが多いんですが、この車は日野自動車製の新型です。こいつのほうが広く感じます。こういうのが全国で今広まってますよね。
Img_85074z 今日の最後は[亀坂(かめざか)]No309 この付近は昔深い谷だったけど、戸室石を運ぶのに、次第に坂の勾配をゆるくしていきました。しかし亀坂の名の由来はわからないそうです。
坂自体の特定が出来ぬままきたのですが、ガイドパンフの写真からこの坂と思い、上から下まで降りたのに石碑が見つかりません。もう一度上まで戻ると、坂の上の道、あまり関係なさそうなところに建ってました。坂は写真の左の階段を下ったところから始まります。

ここまでで、29日S氏と廻った発見石碑の半分くらいです。まだまだ続きますよ!

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2008年5月 6日 (火)

金沢を歩き通した29日

Img_85000z 29日はこのほかにもいろいろなところを廻りました。町名碑関係は後日にするとして、いくつか紹介します。
香林坊にある旧制第四高等中学校本館がリニュアルオープン。以前からあった石川近代文学館を有料部分として右に、新たに無料ゾーンとして左半分が「石川四高記念館」となりました。鬱蒼として暗かった周辺の木々を、裏の中央公園部も同時に間引きして明るくイメージチェンジ。
Img_85001z 明治26年から約60年間、旧制高等学校として学都金沢の中核をなした第四高等学校の歴史を展示してあります。
今の金沢大学の流れを汲む学生たちの生き生きとした様子が、古い写真や復元模型、資料などとともに甦ります。以前の郷土資料館時代にも入ったことありますが、今回はよりすっきりして見やすくなったと思います。
Img_85006z 今流行りのレトロな空間も演出されて、小奇麗でかっこよくなりましたよ。このレンガ造りの建物は、国の重要文化財にも指定されています。
四高といえば、井上靖や正力松太郎、西田幾多郎などが有名ですね。
バリアフリー化工事もされ、中央公園側にはエレベータも設置されました。それには二階建てなのにG階というのもあります。何なのかは行って確かめてみてくださいw。






Img_85010z 2階は教室が多目的利用室として一般にも貸し出されています。往時のままに再現された、木製の机もなつかしいこの教室も、午前3時間1,800円より利用可能です。




Img_85043z この後金沢城内に入り、今一度河北門の工事の様子を見学しました。旗日でも作業は進められ、クレーンで石垣内部の丸い石(栗石)を積んでいました。
石工がノミで石垣の切り出し加工もしていて、積み上げは思いのほか早いピッチで進んでいます。掲示してあった日程表からすると、あと2月もすれば二の門の石垣積みは完了してしまいそう。その間に見学会は果たして開催されるのでしょうか?
Img_85152z それから五社と町名碑を探索するため石引から桜町へ降り、バスで金沢駅へ行ってから浅野川沿いを上って小橋へ出ました。
小橋といえば「飴の俵屋」です。江戸時代からある老舗の品は、穀物のみの原料で砂糖など使わず、素朴でなつかしい味のするやわらかい飴です。何度も前は通ったことありますが、江戸のあの人のために初めてこの本店で買い物しました。
Img_85222z 最後に東山界隈で五社目を廻ると、もう18時でしたが陽はまだ空にありました。そこで観光地化に整備されてから初めて、東廓にやってきました。
夕方だったのでもう観光客は少なく、静かな通りだったのでよかったですねw。

Img_85228z なんだか金沢にあって、金沢でないような、別の土地の観光地に迷い込んだような錯覚を覚えました。およそ自分の普段の金沢の印象と全く違う風景です。




Img_85232z 会社の昼食時間は13:30に摂るのですが、食堂で昼ドラを見ながらで、以前も紹介した今やってる「花衣夢衣」。先日もこの場所のロケシーンが映ってました。昭和30年頃というわけで、街中はもう時代にあわないでしょうから必然こことなりますが、反対側突き当りの「デザインパーマ」の古い看板の店、ロケ用かと思ったらホントに今古い看板で営業してました。
Img_85252z いつもお世話になってる印刷オペの妹さんが勤めてる金箔ショップ「箔座」です。
女性に人気の金箔アイテムで、化粧品やあぶらとり紙がほとんどだったので、臆して何も買いませんでしたがw。



Img_85271z 陽もだいぶ落ちてきて、橋場町でバスに乗って帰ります。
この日は9時から18時30分、バスも使いましたがほぼ歩き通し。疲れましたが新しい金沢の再発見の出来た日でした。町名碑もたくさん確認しましたが、後日GW中も待ちきれず探索。それらは別カテゴリーで紹介していきます。
Img_85277z 橋場町で望む浅野川の「梅の橋」。人道橋ですが、先月修理再開通したばかり。木製の欄干や梁の内側は、鉄筋コンクリートで頑丈に造られていました。安全第一ですからね。



Img_85295z 夕暮れの橋場町バス停と浅野川大橋。この石造りの橋も、犀川大橋同様、国の登録有形文化財で1922年建造の三段アーチ橋です。
同行S氏もお疲れ様でした&ありがとう。またたまに一緒に歩きたいですね。



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2008年5月 5日 (月)

金沢五社めぐり!

Img_84932z 今日は29日のレポートをします。この日は歴史好きのS氏と一緒に金沢散策。
金沢五社めぐりと町名碑探索、他盛りだくさんに、市内を15kmほども歩き通したんですが、最後はへろへろになりました。
町名碑など数多いので、今回は金沢五社を重点にご案内します。出発前に、自宅前の犀川の川原で、鴨たちがお出迎えしてくれました。ホントにここの鳥は人間に近付いても動じませんw。
Img_84944z 川原を歩いて通称W坂から寺町台に上がります。昭和の日の今日は快晴、過ごしやすい陽気に、どこかのウォーキングの団体が集団で降りてきました。回も重ねたいろんな世代が参加のイベントで、地元新聞にも告知は見なかったけどなぁ。
寺町の高台からの犀川と街の眺めは、アマ画家がこぞって題材にする風景です。犀川でもよく見かけます。
Img_84954z さて、最初の目的地、犀川大橋たもとの「神明宮」へやってきました。五社めぐりとは、藩政期の前田家の厚い待遇をうけ、藩主自ら参詣を奨励して、すべて巡れば開運招諸願成就なるということです。五社とも僕は今回初めて訪れます。
「神明宮」は全国三神明に数えられるそうです。春秋のあぶりもち神事や、金沢の左義長の元祖もここと言われます。
Img_84956z 境内には、樹齢1,000年を越える大ケヤキがあり、金沢市の天然記念物になって親しまれています。高さ33m、周囲8mほどもあります。昔は境内は大祭でにぎわい、幼年期にいた中原中也の「サーカス」の詩の元だったり、裏に住んでいた室生犀星の遊び場だったそうです。
そんな有名な社(やしろ)に、そんなに遠くないのに一度も来たことなかったとは!今日の五社は全部そうなんですけどねw。






Img_85080z さて次は、ここまで繁華街から金沢城をじっくり廻って石引通りを上ったうえでやってきた、大学病院裏の「椿原天満宮」です。
ここはかつて金沢城の出城の砦の役割もしてました。社殿の後ろの鬱蒼とした森の中に本殿があるようで、石垣の上に建つ社の前の急な階段は、威厳と隠密性を感じさせます。
Img_85093z 境内脇の急な天神坂は、かつて小立野台から桜町方面へ抜ける貴重な街道(今は立派なトンネルが出来た)。僕も昔はよく通ってたのに、やはり急な階段で上る広い境内のある天満宮の中には今日初めてでした。社殿の中には、由緒ありそうな縁起絵とかあったけど、かすれてほとんど見えませんでした。
Img_85119z 桜町からバスに乗って、一気に金沢駅前まで来ましたよ。「安江八幡宮」です。
金沢の郷土玩具「加賀八幡起上りこぼし」の発祥の地だそうです。




Img_85124z 社殿の横には、見事なサツキの花が満開!氏子総代が、樹齢100年を越えるサツキをちょうど10日ほど前に寄進したばかりだそうだ。1本で美しい紅白の花を咲かせるのはとても珍しいらしい。挙式利用が増えた神社で宮司も喜んでいる、と偶然数日後の新聞に載ってましたw。

Img_85163z さて、五社めぐりも佳境。ここまで浅野川ぞいも散策して、いよいよ東山の「小坂神社」前まできました。ちょうど[県社]の碑の横に、同時に探索している町名碑[山の上町]もありました。これも町の辻辻にたくさん建っているので、このレポートも後日報告します。

Img_85177z 小坂神社の上まで登ってきました。左右には四社の末社があり、芭蕉の句碑などもいくつもありました。末社のひとつ鳴滝社では、義経に付き従う弁慶がこの前で「鳴るは滝の水」を舞ったとか。
伊勢神宮の式年遷宮まであと5年。僕が氏子になってる県社の石浦神社でも奉賛金を納入しろと袋が廻ってきたが、ここにも幟が立ってましたw。
Img_85200z いよいよ最後の「宇多須神社」。歴史は古いがかつては卯辰神社といって、江戸時代初期には前田利家を祀っていました。
18時近くなりだいぶ陽も翳ってきました。しかしそれでも陽は長くなったね。この後は観光地化して初めて訪れる東廓とかも歩きましたが、それらは明日またお届けします。
なにせこの日は、金沢に長く住んでても、まだまだ行ったことのない地も多いのの再確認をしましたw。金沢、かなり奥が深いですよ! 五社めぐりのご利益あるかな。。

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2008年4月 9日 (水)

金沢、桜ライトアップ、春の段

Img_82245z 今日は早めに仕事を切り上げて、せっかくのチャンスなので、桜の街へライトアップを撮りに出た。昨日は雨だったけど、今日午後から晴れだして、夜は絶好のコンディションになるだろうと思ってたけど、こんなに積極的なのは久しぶりw。
家に車を停めて、チャリでひと駆け10分。兼六園へ行く前に、自転車停めるため21世紀美術館へ来たら、さっそく夜桜がお出迎え。しっかり撮らせていただきました。おや、今日も下弦の三日月がいい角度で写りに来た。





Img_82256z やっぱりライトアップは兼六園内がしっかりと照らしていたので、21時までの無料開放の中に入った。池に映って綺麗だが、坂の途中なので水平取れずにご勘弁。
夜だというのにまたいっぱいの人で賑やかしい。

Img_82258z とうとう全て満開を迎えてたが、過ぎたのもあったか、夜でよくわからないが、結構芽もでていたのもあったと思う。やはり週末まで待ってくれそうにないよ。



Img_82268z 夜なのに写メ撮るひともたくさんいたが、あまり綺麗に写るとは思えないけどね。三脚持ってうろついてたら、カップルにコンデジで撮ってと頼まれた。これもフラッシュ焚かないと人物写らないし、すると桜はうまく写らないゾ。まぁ雰囲気を楽しむにはいいか。逆に僕は雰囲気なぞそっちのけだったがねw。
Img_82281z ライトもかなり明るいところもあり、アップでも結構写せるもんだな。この下は人であふれてるんだけどw。




Img_82288z 金沢城へ入ると、まるで日曜の昼のようにたくさんの人だったよ。桜の日のライトアップって、そんなに昔からしてたわけじゃないと思うけど、今やもうあたりまえなのか。



Img_82299z まぁ行けなかった人は、このブログで代わりに楽しんでください。
城と桜と月です。典型な日本ですね。金沢で暮らしててよかったと思える瞬間ですね。
だからみんなに来てほしいんですけどね。


Img_82321z







Img_82327z 帰ってから急いでブログアップしたので、とりあえず写真をいっぱい並べましたが、週末はこんな観光写真じゃない作品を撮りたいと思いますがね、さてどうでしょうかw。







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2008年4月 8日 (火)

金沢城河北門周辺の現在

Img_82115s 金沢城でさくらを撮ってた横で、河北門の工事は大分進んでいた。もう石垣が下部から積まれ始まってた。切り込みハギでみっちり積むようだ。内側に埋める丸石もかなり密に詰めていた。芯に鉄骨が組まれていたが、これは最後には外すのだろうか?


Img_82119s 工事の内容がパネルに示されている。この石垣は二の門で、右の黄色い部分の下のところとなる。
工事の様子は平日なら、作業中をスロープの上からじっくり拝見できるようになってるが、この調子なら、来月早々にも見学会が行われるだろうか。楽しみだ。

Img_82123s 一の門の脇に、木製のスロープも出来上がっていた。バリアフリー対応で、このようになったが、まぁムリしなくてもと思う。この高い位置からつぶさに工事の中身を見ることが出来る。まだ立ち入れなかったが。



Img_82110s 河北門再建記念の寄進事業が案内されていた。平瓦と壁板に、名前を残せるというものだが、数に限りがある平瓦はもう予約締切。壁板にまだスペースがかなり残っている。僕はとっくに両方予約済みだが、裏側で封鎖されて確認できない銘板に、あまり積極的参加が期待できないのだろうか。また大々的に告知もしてないし、目標額(スペース少ない)も1,000万単位で少ない。本丸御殿の再建がなった熊本城の一口城主寄付募集と比べ物にならない。
Img_82129s 鶴丸倉庫は江戸時代末期に作られた。国の重要文化財指定に向けて答申されることになった。江戸時代の城の中に、これほど大きな倉庫が残っているのは唯一ともいえる存在のようだ。最近まででも、各種保管倉庫として利用していた。
早期の指定を期待したい。



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2008年4月 6日 (日)

観光地「金沢」の桜

Img_82073z 今日は金沢でも快晴。桜日和に、街中はピンク一色となった。お決まりのコースだが、観光客に混じって廻ってみよう。
観光ポスターにでも出てきそうな絵柄をまずは一枚。今日から兼六園も無料開放だが、実は園内の桜より、沿道の方がはるかに見ごたえがある。朝方少し冷えたがこの陽気で昼は暖かくなった。桜も満開一歩手前がまだ多かったが、明日には満艦全飾となろうかw。
Img_82105z 桜ドンピシャの週末に、これほど晴天になるのも珍しい。
おかげで観光客で超満員。兼六園から金沢城まで人人人で溢れていた。正月でも見た事ないくらい。
特に最近外国人が増えたと思う。西洋人は見た目でわかるが、しゃべらないと日本人と区別つかない、中国・台湾・韓国の人たちもかなりいるようだ。飛行機の便も増え、日本の典型の観光地、金沢へ足を運ぶ旅行者が多くなっている。





Img_82107s 石川門から石川橋をみるとこんなだw。こんな人の波、いままでで最高かもしれん。
ジモティからすると、落ち着いた日にゆっくり訪れたいものだが、休日は観光客と同じ、割り切って廻るとしよう。


Img_82085z 兼六園では徽軫灯籠(ことじとうろう)前のこの桜が人気のようだ。完全満開の前のほうが、ピンクがはっきり残ってて映りがいい。
最近はみなさん、写メやコンデジで手軽に撮ってしまうから、この脇で待ち構えている写真屋(観光地で記念写真を撮って後で送る商売)はアガッタリだw。
Img_82165z いもり堀沿いの石垣でも、城の桜といい雰囲気だ。しかしこの石垣は明治時代の造成であるw。
このあとしばし桜のアップをご覧いただこう。











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2008年3月20日 (木)

金沢3大用水の旅 西外惣構堀

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惣構堀(そうがまえぼり)は、金沢城下を取り込む形でつくられた、金沢城の二重の外堀です。慶長4年(1599)に内惣構堀が、慶長15年(1610)に外惣構堀が造られました。城中心として東西に分けられ、西外惣構堀・東内惣構堀などと呼ばれ、総延長は6.9kmにも及びます。また、堀の内側には土居が築かれ、土居上には竹や木が植えられ、防御力を一層高めていました。
Img_78328z 小立野台地、石引通りから県立美術館の裏の崖を滝のように流れ落ちていく辰巳用水の分流から、この西外惣構堀は始まり、21世紀美術館の脇を通って流れていきます。


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そしてここ、宮内橋詰遺構として整備保存されています。金沢市役所裏、石川県知事公舎前のあたりです。
堀と土居の往時の景観を今に伝える数少ない貴重な場所です。


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この先また分流され、一部は鞍月用水と合流しています。

金沢城、大手堀から北東、かつての北國街道の表玄関、里程標が建っていたあたりには東惣構堀が発掘、整備される予定です。あたたかくなったらそのあたりもレポートしてみたいと思っています。



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2008年3月19日 (水)

金沢3大用水の旅 3大野庄用水

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夕べ、ココログのメンテナンスで記事更新できなかったので、しばらく写真だけになってしまいましたw。
今日は大野庄用水犀川大橋の下流すぐの位置から取水しています。写真の犀川大橋は、大正時代からの鉄橋。国の有形文化財に登録されるほどで、このワーレントラス橋としては日本最古です。今年中に、また新しい塗装色に塗りなおされます。
Img_78342z 金沢の繁華街、片町の裏を通った大野庄用水は、一路長町武家屋敷界隈目掛けて流れます。観光客向けに景観整備され、電柱も地中化されました。
写真右の建物は、南町にあった江戸時代からの薬舗、「中屋」を保存移築したものです。前田土佐守家資料館も近くにあり、藩政期の前田家の重要な史料が展示されています。
Img_78346z 武家屋敷のほとんどは、今も一般の方の自宅に使われています。土塀が保全のため補修され、昔の美しいままの姿をみせています。
大野庄用水は、いきつくところ農業用水のわけですが、武家屋敷各々の家にも写真のように取り込まれ、庭園の水としても今でも利用されているのです。
Img_78348z 城下を流れる大野庄用水は、昔のかつての姿をよく残しています。この日も陽気や桜など、観光にはまだちょっと早いのに多くの方が城下町の雰囲気を楽しみに訪れていました。
僕としては久しぶりに徒歩・自転車で訪れた武家屋敷の観光地化に、ちょっと戸惑いましたねw。
この先鞍月用水と近接し、玉川公園のあたりで本日の探訪は終了しました。東方面はまたいずれ。しかし明日は西外惣構堀をちょっとだけお伝えします。

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2008年3月18日 (火)

金沢3大用水の旅 2鞍月用水

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今日は「鞍月用水」を紹介する。
自宅から数百メートル上流の犀川に取水門がある。水門の管理は遠隔操作のようだ。いちいち操作盤に書いてあるw。この日もこの取水門を撮影に来たフィールドワーカーのおじさんが他にいた。全国的にも珍しいと書いてある操作盤のセリフどおりに注目の的の鞍月用水はここからスタート。

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その正面の犀川、油瀬木堰だ。用水は川の水から取られることが多いが、取水口から安定的に水を送り込むためには、そこに用水堰が必要となる。
子供のころは、単に段があるだけのものだったが、大規模に改造されて中央に魚道などもある複雑な構造物となった。犀川にはここより下流に、複数の用水堰があり、それぞれが街や農地を潤している。

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カメラを左に振ると鞍月用水の取水口だ。
意外に小さいが、ここから先、金沢の繁華街を長く流れる第一歩。
「鞍月」は金沢市内でも北西部の、街中より郊外に位置するかつての小集落の名。今では石川県庁も建てられた開かれた土地だが、そこ一帯の農地を潤すのを第一義に造られた。
約1200年前が起源とされ、藩政期には金沢城下の防備のための堀の一部として、高山右近に構築を任された。Img_78324z
その後1644年頃に油屋与助に改修させたという。
しかし取水口から間近いこの城南一帯も、犀川の流下能力から洪水の危険は去ったとは言えず、そのことが辰巳ダム建設反対の意見にも繋がっているという。
写真の白山藤棚神社も、洪水で元あった位置から移ってきた。前を鞍月用水が流れているが、子供のころには開いていたが今は暗渠化されていて、道路幅が確保されている。

Img_78325z しばらくは、この菊川地区の民家の間を縫うように、折れ曲がりながら市街に向かって流れる。
自宅の庭先を流れる、という家もあり、昔から身近な存在だったろう。金沢城の防火用水としてだけでなく、かつては菜種油を絞る水車の動力だった。「元車」「油車」という地名が今では交差点名として残っている。








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繁華街を縫うように流れる鞍月用水は、一時期道路確保や安全のため、暗渠化工事が続けられたが、景観保全や街づくりとの一体化などのため、現代のデザインにもあわせて安らぎの美観の対象になっている。
複数の目的と長い歴史、何本も流れる市内の用水として、金沢疏水群疏水百選に選ばれている。
Img_78339z しかし犀川増水時には、氾濫する箇所も多く、功罪あわせて考える必要もあろうかと思う。
写真は柿木畠の蛇の目寿司。有名なはずだが、なぜ全国でも蛇の目寿司という店名は多いのだろう?
Img_78340z 香林坊109の裏。ここは柳並木も美しいはずだが、冬枯れしているw。
このあたりはきらら通りと称して、店や民家の前を流れている部分に、私製の橋やコンクリの覆いをして不揃いに美観を損ねていたのを、統一整備して見た目綺麗にしたエリアである。そういう地元の方の苦労あっての景観保全だ。
Img_78364z さらに進むと、中央小学校の脇に出た。ここ一帯、玉川町は、加賀八家の家の屋敷地で、専売公社の工場が移転した後は、玉川公園と金沢市立図書館にもなっている。長町武家屋敷の「長町」家から採られている。このあたりまで来ると、辰巳用水と、明日レポートする大野庄用水と、数十メートルほどしか離れていない。
Img_78367z 鞍月用水の碑銘柱があった。旧町名と謂れなども書かれたこういった石柱が、市内のあちこちにある。
この背中には辰巳用水が来ている。道沿いに90度、それぞれが複雑に曲がりくねってここいらは用水の街ともなっている。
このまま北へ北陸本線の向こう側に出てから、大野庄用水と合流して、目的地?の鞍月で農業用水となる。今日は雲行きが怪しくなってきたので、下流や東側の旅は後の機会に譲る。明日は武家屋敷を流れる大野庄用水をレポートします。

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2008年3月17日 (月)

金沢3大用水の旅 1辰巳用水

Img_78270z 日曜は晴れるという予報だったから車と自転車で、オフシーズンの今のうちに用水群を見ておこうと出かけた。
疏水百選にも選ばれた辰巳用水金沢疏水群を普段から当たり前に見ていたのに、ブログを書くようになってから人に見せるためにも、改めて地元の良さを見直すきっかけにもなった。
まず辰巳用水だが、犀川上流相合谷(あおたに)にある東岩取水口周辺では、もう辰巳ダムの工事が始まっていた。
Img_78272z 去年の犀川探訪では、雑木に隠れて見えなかったが、ほとんど刈り取られて地肌がむき出しで見通しが良くなったのは幸いと言うべきか?しかし周辺は自然を破壊する無残な姿に変わり果てた。
この東岩取水口は10メートルほど下流の堰で水量が確保され、今を持って現役である。幕末ころに掘削されたこのトンネルは、江戸時代初期のものと合わせ3.7kmもあり、小立野台地を開渠で流れ兼六園まで約12km、水を送り込んでいる。トンネルは幅2m近くある箇所あり、見学会がたまに開かれているが、入ったことはない。よく観ると水門の上の崖に階段状の管理用の道があり、普段はもちろん立入禁止だ。
Img_78269z 相合谷橋から工事現場を見る。向かいの崖の上に赤い標識が見えるだろうか。ダムの堤頂はあのあたりになるようだ。狭い谷に似合わず、かなり大掛かりな工事を予感させる。ここを右に折れたところが上記の取水口になる。このダムは賛否両論あったが、なかば強引に工事が開始された。
Img_78269y 去年訪れた同じ場所。崖に標識があるから同定できるでしょうか。
この日は水鳥も何羽か見え、自然の谷という印象があったが、しばらくは上の写真の日々が続くのでしょう。


Img_78275z 工事現場全景。辰巳用水から話が逸れてしまったけど、完成後もダムサイト下の誘導水路に東岩取水口は守られ、辰巳用水は引き続き現状の機能を維持できるということだ。
完成は何年後のことになるだろう。別にダムフェチでもあるので、そのときはまた訪れたい。
Img_78283z さて、下辰巳周辺の犀川の道路ぞい、清浄ヶ滝と水門だ。わかりにくいだろうが、辰巳用水は滝の裏を流れ、水門の向こう側にある。トンネルの中でも、こうやって時折水門があり、中の土砂の排出の役割をはたす。排出された水は滝とともに犀川に流れる。

Img_78294z 水門のすぐそばの三段石垣だ。雪の日にどうしても来たくてレポート済みのやつである。雪がなくなるとはっきりするでしょう。
藩政期に城の石垣に負けないほどのしっかりした石垣を数百メートルに亘って構築した。辰巳用水の重要性が見て取れる。用水はこの上を暗渠か開渠で流れているが、丁度委託業者が測量していた。ジャマになるか怪しまれるかなので、登ることはできなかった。

Img_78298z その上の部分からの分流だ。辰巳用水は当然、農業用水としても現役なので、あちこちで分水されて農地を潤している。
今は農閑期なのでこの草むらもだまって入れるが、いざ畑が始まったら失礼になるだろうか。









Img_70218s 開渠となった辰巳用水。ここは秋に訪れたときの写真で、土清水の塩硝蔵のあたり。用水沿いに遊歩道が整備されている。
この辺は虫や小動物も多く、このように辰巳用水は市民に愛されて永く利用されているところが疏水百選に選ばれた所以だろうか。まだここはのどかな田園風景の一帯だ。
Img_78314z 一気に省略してw、小立野台地の石引通りを下った。まもなく兼六園だ。右の長い塀は、加賀八家のひとつ、奥村宗家の屋敷跡。今は国立金沢医療センターを始め公立の建物が並ぶ広大な敷地だ。
この前を一路、兼六園というか金沢城に向かって突き進む辰巳用水。昔ながらの図である。
Img_78329z 兼六園もみなさん周知でしょうから省くと、園内外を下った辰巳用水はさらに、市内の目抜きを流れる。兼六園から香林坊に向けて広坂通りの真ん中を流れていく。花見のシーズンを前に、赤いぼんぼりが立てられてた。毎年の光景だ。
このルートは以前、観光客からも親しまれるようにと、歩道側に移設の案が取り沙汰されてたが、旧来に反すると立ち消えになった。当然だと思う。
Img_78371z さて、さらに街を流れていくと、しばらくは暗渠の部分も。前田利家を祀る尾山神社の前も通っているが、ここを新年度から、開渠にする工事を始めるという。金沢の用水は昭和40年代から街中でかなり暗渠化されてきたが、近年観光目的も含め、市民に親しまれるようにと、開渠復元整備が進められてきた。明日以降お伝えする鞍月用水などもそうだ。街中は自転車で駆け回った。他の用水の続きは、またあした。

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2008年3月12日 (水)

小松を楽しむ 4芦城公園

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小松市内の街中に入って、初めて芦城公園に来た。ここは加賀藩前田家三代、前田利常の隠居地小松城の三の丸跡。明治になって公園化された。
市役所や博物館に隣接、園内に図書館など、文教地区となっている。ミニ兼六園という風情だ。
この日は春を感じさせる陽気だったが、当然まだ雪吊りが張られ、カキツバタやツツジなど、まだまだ芽を出したばかり。

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園内の小高いところに、前田利常の銅像がある。兼六園下の城外に前田利家の、高岡の古城公園には二代の前田利長の像がある。偉大な加賀藩黎明期の三代が銅像にされるとはサスガである。










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椿以外は花はまだと思ったら、一本だけ早咲きの「小梅」がほころんでいた。
雪の世界から開放され、来る春を感じさせるおだやかな落ち着いた小松のこの空間は、今まで知らなかったのがもったいない。もっと県内にもよいところがたくさんあると思うので、これからも時間を見つけて廻ってみよう。
明日はラストの小松駅です。

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2008年2月21日 (木)

辰巳櫓の立体模型作成

Img_47100s 財団法人北國総合研究所の「金沢城辰巳櫓復元調査検討委員会」は来年度の活動計画として、辰巳櫓の立体模型と細密な復元画の作成に乗り出すことを決めた。
辰巳櫓跡は市内中心部から一番目立つ南東の位置の高石垣の上にあり、毎日ライトアップもされている。1759(宝暦9)年の大火で消失し、1839(天保10)年、再建のために絵図が描かれたが建設に至らず、そのときの図面を参考にする。
ただし写真のように、現在の三段構造になったのは、1907(明治40)年。当時城内に居た陸軍第九師団が上部を壊してしまった。そのため復元はそれ以前の高石垣、約27mを想定する。2種類の大きさで、細部もわかるような模型を1年がかりで造り、大勢の人が鑑賞できる場所で公開する予定。
以前金沢城菱櫓など細密な復元画を仕上げてきた末松智金沢学院大学非常勤講師が作成メンバーに新たに加わり、その実力を発揮してくれる。金沢城全体の現況の模型は、石川門内側の管理事務所で展示しているが、藩政期当時の精密な模型はこれが初めてとなろうか。大いに期待したい!

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2008年2月18日 (月)

辰巳用水の三段石垣

Img_77506s 江戸時代に辰巳用水の維持管理のために造られた三段石垣が、このたび確認された。新聞の報を見て矢も盾もたまらず、休日のこの日、雪が激しく降るさなかにも係わらず、犀川上流の辰巳町へ車を走らせた。
ここは以前、犀川探訪で上流域を訪れたときに通ったが、今でも畑の脇、辰巳用水が暗渠から開渠になるところ、普段でもむき出しのはずである。草木の茂みや土に覆われていたとはいえ、伝えがあれば今まで見つからなかったのがおかしいくらいだ。
Img_77514s 昨年11月から金沢市埋蔵文化センターが伐採を進め、全長260m、高さ8mの壮大な三段石垣がその姿を現した。
昨日からの大雪に、かなり埋もれてしまったがその重厚さがわかるだろうか?「文化6(1809)年辰巳用水絵図」にも現在と似た形状で描かれ、発表時の写真で隅石には大きな石材を使用したり構築方法が複数あるなど、城の石垣とも遜色のない造りになっている。
Img_77526s 前田家が辰巳用水を重要視していた証左だ、と埋蔵文化財センターも国史跡指定への弾みとして、今後石垣の調査を進めていく予定だ。
忽然とこの普段静かな農地の谷あいに、大規模な史跡が現れたようで、同じ犀川河畔の者として見ておかずにいられなかった。

Img_77529z 道路の反対側は犀川である。造成当時は石垣のそばまで分流してたようで、その水流から用水を守るためでもあったろうとか。
雪が激しくなってきた。この間他車に一台も遭遇せず。近在の人もこの重要な発見にピンとこないのではないかというくらい、普段も人通りは少ないところだ。
しかしちゃんと、多分今朝のうちに、市は除雪車で道路交通を確保している。でなかったらこの辺、閉じ込められてしまいそうな雪だった。

Img_77533z 上の写真の先にある「ほたる橋」の上で。この道路は最近できた立派な橋だ。
1年半前の夏の探訪では、静かでのどかな空間だったが、やはり雪深くなると住むにも厳しい土地だ。家から5kmほどしか離れてないのだが。








Img_77553z 戻りしなの犀川沿いの道で。花里ゴルフセンターの前だが、雪のないときでもいつも気になっていたお地蔵様だ。
たぶん昔の水害での犠牲を弔うとかかも。下菊橋の対岸でもお地蔵様がいるし、昔は橋が流されたとかよく水害の話も聞いた。近年はダムもあり、生まれた後めだった話は聞かないが、市の出すハザードマップでは、自宅のある一帯は第一級の危険地帯だって。
今日は雪ニモマケズ上流を探訪したよ。

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2008年2月15日 (金)

河北門、寄進の平瓦「完売」?

Img_37142s 平成22年春の完成を目指す金沢城河北門復元整備に合わせ、復元工事に使用する海鼠塀の平瓦壁板に県民が記銘する寄進事業で、平瓦の申込件数が、予定した350口に達したため受付を終了した。
1口5,000円で、昨年9月から受付を開始。僕も即申し込んだ。内訳は個人296口、団体54口。って言うか全くもって少ない。
熊本城では、1口一人城主と言って寄付を募り、何億も集まったらしいが、金沢城は今後も復元事業が続くのに、県民のみならず、広くその意義と理解を全国に深めてもらうためにも、もっと大規模に募集したらいいだろうに。
一方の壁板が、分割して2,940口用意されてるがまだ456口応募にすぎない。当然僕は真っ先に応募したが、やっと最近になって受付返事のメールが来たくらいおっとりしている。
寄進の瓦や板の裏に、自分の名前など好きな文言を記銘し、復元する河北門にはめ込むのだが、その希少性をもっと内外にアピールしてほしい。
写真は重要文化財の三十間長屋。壁に見える格子模様が平瓦だ。その間の白く盛り上がった漆喰が"なまこ"に似てるから「海鼠塀」という。
河北門は、暖かくなったらようやく石垣の積み上げが始まるだろう。5月から順次、工事見学会が行われる予定だ。今から待ち遠しい。

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2008年2月11日 (月)

金沢城・兼六園ライトアップ 冬の段

Img_76908z フードピアの後は、季節ごとにやってるライトアップの兼六園と金沢城に来ました。18時30分の開場を待って、薄暮のうちから撮影。いい具合に撮れた。この日は細い下弦の月もミックスできて、ときおりの小雨が夜になってちょうど晴れてよかった。
でも実はこの周りは大勢の人。外国語もまざって、やはり国際都市になってきたか?最近はアジアからの観光客がかなり増えてるって聞く。
Img_76921z 兼六園って言ったら、やっぱりこのアングル。雪吊りは関東の公園でもするらしいが、あっちは飾り雪吊りと言って用をなさないらしい。このように「りんご吊り」を各枝に直接縛り付けないと。しかし最近は金沢でも用なさない?
今日もせっかくなのに雪がなくて、観光客もザンネンだろう。

Img_76927z 園内のこの噴水は、サイフォンの原理を使った無動力のもの。伝えでは日本最古というが。火事の多い金沢城と兼六園に水を引いた、辰巳用水工事を指揮した板屋兵四郎の考案によるものだ。



Img_76959z やはり三脚はなくてはならぬが、雪がないと秋に撮ったときとなんら変わらないなw。
街中はフードピアもあってか、車で乗りつけたら駐車場はどこも満杯。入るのに時間かけるのもどうかと思い、自転車で出直した。家に帰るころには小雨が降り出したので、急いで撮りに回って正解だった。

Img_76964z 鶴丸土塀の前の堀は、ほとんどが凍りついてたようで、水面がにごってた。どうせなら、キンキンに寒い気温も演出できたら、雪がなくても少しは違ったものが撮れたかも。幾分今日は暖かかった。立入禁止区域を管理してるおじさんには、「あんたら素手で寒くないかね」って言われちゃったけど。遅くまで僕らのために、ご苦労様です。



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2008年2月 8日 (金)

城下に30超す「小城下」

Img_70175s 金沢市史の資料編、「絵地図」を買って久しいが、なかなか熟読できなくて。昨日の北國新聞で、金沢城調査研究所副所長の木越隆三氏のコラムが載っていたので、関連して紹介したい。
1674年(延宝2年)に製作された「延宝金沢図」である。旧金沢城下全体がわりと整然とわかりやすく把握できる、見やすい絵地図だ。
城下を縦横に流れる用水や、総構堀(そうがまえぼり)という外堀、そして犀川・浅野川の二川の位置もよくわかる。「の」の字のように城を囲む総構堀は、江戸城下をも彷彿とさせる。
さて表題だが、「加賀には殿様が九人いた」とも言われるが、百万石の前田の殿様の他に、八人の一万石以上の家老(加賀八家)が存在した。彼らは城下に、大名並みの広大な屋敷地を与えられ、多くの家臣も抱えていた。それらがそれぞれまるで金沢城下に、さらなる城下を形成しているようで、これを複合城下町とも言う。他の高禄の家臣の屋敷地もあわせ、およそ30以上もの「小城下」があった。
五十万石以上の城下町(仙台・広島・名古屋・熊本など)は、同様の構造を持ち合わせていたというが、どこも現在、都市の近代化によってあまりその姿が残っていない。しかし戦災に逢わなかった金沢は、今でも往時を偲ぶ街路や街並が色濃く残っており、この点が日本で数ある城下町の中でも、金沢がその代表として世界遺産の価値があると強調される部分なのです。
まだまだこの研究は深く掘り下げる余地があり、先日結成された、加賀八家のご子孫たちが中心の「加賀藩歴史文化護持協力会」がさらなる調査の中で、このテーマの研究も進むことでしょう。そうやって見ると、金沢の絵地図はより興味深く見ることが出来る。

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2008年1月30日 (水)

加賀藩・歴史文化護持協力会

Img_47125s 加賀藩には、前田家一族を含めた「加賀八家」という家老の重臣たちがいる。彼らは江戸時代、藩内で1万石以上の知行を得、他藩の大名相当の石高だ。
もちろん現在のご子孫たちが金沢などにご健在だが、まだまだ未整理の藩政時代の資料などがたくさん眠っているという。それら加賀藩の知られざる歴史や文化などの発掘に向けて、「加賀藩・歴史文化護持協力会」がみなさんの手で設立された。
27日に開かれた設立総会と記念座談会で、前田家18代当主前田利祐氏を迎え、八家の現当主、本多政光(15代)長昭連(34代)村井長和(16代)前田直大(14代)横山隆昭(16代)の各氏が出席した。
080130_131823 初年度の事業として、初代藩主前田利家が、佐々成政・不破光治の三人で越前府中に10万石を織田信長から与えられ、大名として歩みだした際の記録である、「不破家文書」を調査することに決めた。
村井氏は「東京で保管していた古文書が戦災で燃えてしまい、残念な思いをしている」と、古文書の収集と解読の重要性、家を継ぐご苦労を語った。(北國新聞1月28日既報)
Img_70184s 復刻した金沢城の絵図も、県内の高校で教材として活用してもらうため、100枚が寄贈された。
1万石以上の重臣が、他にも数家あった金沢城下、彼らの複数の屋敷がミニ城下町を形成し、全国でも珍しい「複合城下町」だった金沢。この点も世界遺産としてオンリーワンの価値をアピールする要素だ。
この機関がいままで不確かだった事実を掘り起こして、より魅力的だった金沢の歴史を紐解いてくれるだろう。しかし百年事業に近い仕事、生きてるうちにどこまで解明するだろう?

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2008年1月25日 (金)

江戸堪能 2江戸城探訪

Img_75973s 日本橋から大手町を抜けて大手門から江戸城に入ろう。ところがその途中に、「将門塚」があった。平将門の首塚があったところで、ここに元々神田明神が建っていた。度々祟りを為した将門を鎮めるために手厚くここに祀られ、坂東の勇者であった彼を慕い今でもその祭りが絶えない。今日も既に、黒服の3人連れが献花焼香していた。何者なのか?
そしてお年寄りたちのフィールドワーカーがここにも。今から説明にはいるところのようだが、せまい場所に大勢居るので近寄りがたく、結局墓前?まで行けなかった。



Img_75976s さて江戸城大手門前に来ました。ここは「下馬」と呼ばれ、昔ならここで、大名や高級旗本などの「乗輿以上」の者以外は下馬せねばならず、供の人数も制限されました。ここで主君の帰りを待つ家臣たちの間で、幕府内での出世についていろいろ噂してたことから「下馬評」という言葉が生まれました。
ここからさらに、二の丸に入るところで皇居東御苑となり、受付で入場札をもらいます。
Img_75992s さらに本丸に向けて入る門に、「本丸中之門」があり、その石垣の修復工事が1年前に終わり、詳細な解体・新発見の内容が説明板に書かれています。江戸時代中でも、何度も修復されていて、そのときの刻銘が石垣に彫られていました。石垣は永い年月の果てひび割れたりずれたりします。江戸城の中でも最大級の石が使われ「布積み」という技法で積まれていました。
Img_75997s 汐見坂から白鳥堀を望みます。江戸城は現在は巨大な史跡公園と言えましょうが、その外延部は取り巻くように高層ビルが林立します。そのアンバランスさは東京ならではでしょう。
いよいよ本丸に入ります。


Img_76002s 本丸内の休憩所で、グッズを買い、古いパネルを見ました。江戸城の昔の写真とほぼ現在の写真。昔と言っても江戸城無血開城後のはずで、櫓や建物、道などが荒廃している様子が窺えます。これは攻められたというより、当時幕府自体その修繕まで手が回っていないということを指すようです。
買ったグッズは写真ハガキや地図、菊の御紋章の根付など。菊御紋はハンカチ、キーホルダーなど、お土産グッズの何にでも使われ、所有権はないの?というくらいあけひろげでした。実際グッズ個々の値段もわりと安かったですしね。
Img_76005s 室内には、「大嘗宮」の模型もありました。「大嘗宮」とは、皇位継承の際に行われる「大嘗祭」のため、普段芝生だけの東御苑の敷地にそのたきだけ設営される建物群です。平成2年のときの再現ですが、覚えている方もいるでしょうか。


Img_76018s 本丸南西端の「富士見櫓」です。江戸城には、たしか18の櫓があったのですが、現在はあと「伏見櫓」「桜田櫓」の計3基が残っており、うち三層なのはこの「富士見櫓」だけです。他の2基は外側から見え美しいのですが、この富士見櫓は普段はこのように裏側からしか見られません。なぜならこの向こうは宮内庁だからです。しかも柵があって近づけません。
Img_76021s 松の大廊下跡です。このあたりで例の事件はあったわけですが、今は名のとおり松が植えられています。松の廊下とは、その襖絵に松が描かれていたからですが、廊下に並んで控の間があり、大廊下上・下とは御三家や前田家など将軍家ゆかりの大名が控える、格の高い殿席でした。その目の前で事は起こったわけですな。
Img_76037s 天守台まで来ました。江戸城の天守は慶長・元和・寛永と三期に亘って築かれ、その都度火災で焼失しました。五層の天守は天守台含め高さ59m、一階の床面積は1270㎡。姫路城の高さ1.2倍、面積2.3倍の史上最大の天守でした。写真の今残っているものは、四代目を建てようとした万治天守台で、加賀藩前田家が築きましたが、家光の弟、将軍補佐役の保科正之の進言で天守の再建は中止され、以来350年、このままの姿をさらしています。
Img_76052s さて、ようやく城外へでて、受け付けで札を返します。そこでスタンプをもらえるかと思ったら、スタンプ帳に「○○案内所」とあり、愕然としました。日本百名城のスタンプ帳を埋めるべく、今回来たようなものでしたが、スタンプおいてある案内所は、北の丸・和田倉・楠像と、皆今ならほぼ城外のような位置。ここからさらに武道館前の北の丸案内所まで500m以上歩いて疲れました。やっと室内で見つけて、丁寧に押したらまた愕然!スタンプに貼ってあるシールと上下さかさまじゃぁあ~りませんか!!
疲れがドッと出ましたが、急いで田安門出て九段下から岩本町へ行かねばなりません!既に4キロ以上歩いてヘロヘロですw。

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2008年1月13日 (日)

正月の金沢城の写真でスマン

Img_72891s ここのところ仕事も忙しく、やっと週末になったけど土曜は昼すぎ仕事から帰ってきたら、バタンと寝てしまった。日曜少し楽になったら、ようやく雪がちらついてきた。外に出る気も起こらないけど、今京都では女子駅伝。テレビ見ながらブログでも書きましょう。
写真は元旦に金沢城へ行った際に撮った、橋爪門の注連飾り。江戸時代の形を復元した。浮世絵師の巌如春(いわおじょしゅん)が描いた「加賀藩儀式風俗図絵 元旦登城」を参考にした「数の子飾り」というもの。長さは5.4mあり、金沢のワラ工芸師 松木長俊氏(90歳)が作成した。



Img_72900s 正月過ぎてから、出歩く天気も時間も金も都合とれないが、週明けると急遽大阪出張も決まった。来週末までまた時間取れないし、気になってる部分で医者にも行けない。
ちょっと投げやりな記事ですいません。元旦の金沢城でもどうぞw。コツコツとデータ整理でもしてます。

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2008年1月 4日 (金)

正月のトウキョウ1 一般参賀

Img_72936s 正月三が日はいかがお過ごしだったでしょうか。僕は昨年に引き続き、関東の友人たちと新年会+αのために、2日・3日と上京してました。2日は浅草寺に皆で初詣。その前に午前に東京駅に着いたので、思い立って皇居へ新年一般参賀に行きました。
いつかは行ってみたい、とかねがね思ってたのでいい機会に恵まれました。
朝は薄暗い小雪交じりの冷たい金沢を出たのに、この東京の抜けるような青空はどうですか?おなじ日本と思えないくらいです。
皇居外苑から大勢の警官が取り仕切り、カバンと身体検査、2箇所のゲートを物々しくくぐって、ようやく正門から二重橋へ。皇居の中は初めて入りました。二重橋から伏見櫓などもみなさん立ち止まって記念撮影とかしちゃってますが、ぞろぞろと大勢の入場者が澱みなく通れるよう、警察は立ち止まらぬようさかんに声を掛けてます。
Img_72950s 皇居宮殿長和殿。入れ替えのわりと最初のほうに入れたので、ガラガラに見えますが、すでに正面のほうはかなりいっぱい。結局正面中ほどには陣取れました。10時10分から50分おきにお出ましになる、4回目にあたり、結果雅子様はいらっしゃいませんでした。3回で体調配慮で出ないということですが、ベランダに出るだけなのにそんなに疲れるでしょうか?
Img_72971s 20分ほど待っていよいよお出ましです。皇居に入る前に、どこかの団体からもらった日の丸を皆で振りかざします!ちょっと早いタイミングで誰かが「天皇陛下万歳!」を叫びましたが、誰も同調しません。多少皆、感嘆の声は出すものの、至って静かに紙の旗の振るカサカサという音だけが響きます。しかしこういったとき、背の低い者はホントに損です。精一杯腕を伸ばしてファインダー覗かずに撮影。
Img_72995s 幾分かして、お言葉を賜ります。「新年、あけましておめでとう。今年が、良い年でありますように」といった至って簡単な内容。
防弾ガラス越しでちょっと暗いですが、ご尊顔が見えるでしょうか?いつものように、陛下がお話の間、皇后陛下は天皇陛下を向いて僅かに頭を下げられる。
このあとまた手を振られて、まもなく退席されましたが、この間約4分。滞りなく僕らも退出です。
Img_73023s 帰りは坂下門、あるいは桔梗門から。外人もたくさん居たけど、中国人や韓国?人もいたのはどうか?単なる物見ならいいけど、反感もって来られる人も中には居そう? そうでなければうれしいですが。
門外にはなんだか関連グッズを売ってるブースもあって、なんだかなぁ。
たくさんの人だったけど、意外に人の流れは早かった。
Img_73046s 車両通行止めの内堀通りには、警視庁の白馬に乗った警官が。車のこない横断歩道でみんなに取り囲まれててたけど、「みなさん通りますから、立ち止まらないでくださいね」って言われても、そりゃあんたがかっこいいからムリだって、みんなに失笑されてた。

Img_73071s 東京駅では、2012年の完成に向けて、いよいよ丸の内駅舎の工事も始まっていた!左右のドームも寄棟式の2階から、創建時の3階丸ドームに復原されるし、耐震設備もバッチリとなる。
写真左のサピアタワーは、全国の大学の事務所なども入ったインテリジェントビル。右はグラントウキョウノースタワー。14階までが大丸でその上はオフィスフロア。
Tokyo Station Cityとして、2013年までにさまざまなビルや施設が開発される東京駅周辺は、新しい情報発信の「街」として生まれ変わる。

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2008年1月 1日 (火)

初詣に金沢中心部へ

Img_72834s 新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいします。
このブログを始めて3回目の正月ですが、この年末年始の寒波と言っておきながら、また金沢は積雪がありません。気温は低く多少白いものがありますが、雪かきするまでもなく、楽は楽ですけど心配な温暖化ですね。
そんな中例年どおり市内の神社へ初詣に。氏子になってる石川県社の「石浦神社」のあと、「石川護国神社」へ。ここは毎年夏になったら大東亜聖戦祭があって小林よしのり氏もやってくる。
Img_72858s その足でとなりの兼六園へ。年末年始の無料開放ということで、大晦日でも全国ニュースで出てた。例年のことだが観光客も多い。こうしてわずかでも雪があったら絵になるだろう、喜んでもらえたろうか。しかしなぜに冬なのに、より寒いところを求めるのか? 日本人の情緒を感じる性でしょうか。

Img_72867s 続いて金沢城公園へ。河北門の工事現場では、ブルーシートが敷かれ、冬の間はお休み続きとなろう。最近起工式があったばかりだが、こうなることはわかってたはずなのに・・。
工事の様子を見学できやすいようにと、一段高い見学ステージがスロープで用意され、車椅子でも登ることができる。石垣が組みあがってきたら、反対側にも木製スロープが築かれる予定だ。ここのところ、シート掛かったところしか見てないが、春になったら繁く通ってみたい。
Img_72880s 城内に入ったところで、陽が射してきて雲も晴れてきた。このあとまた小雪が降るのだが、城の撮影をしている間晴れていた。やはり恵まれているなぁ。
河北門復元の海鼠塀平瓦や壁板に記銘寄進募集のチラシが、いまさらのように管理事務所に置いてあったが、もっと告知しないと広まらないだろうに。開始早々ネット予約したけど音沙汰なし。今は予約募集段階で5月から申込手続開始。各5,000円なのでぜひみなさんも興味があったら石川県土木部公園緑地課へアクセスしてみてほしい。
Img_72905s 金沢城の石垣めぐり、「三十間長屋コース」が先日できたので通ってみた。写真の上から下ってきたのだが、昔はもともと通れたところ、整備中に通行止めだった。この左右の薪の丸コースが先に開通し、先日の現地説明会もここでしていた。
石垣の博物館、金沢城。この左下、玉泉院丸石垣の調査工事もいよいよ石垣の積みなおしがはじまった。県の体育館が4月に郊外にオープンすれば、玉泉院丸の旧体育館もいつ取り壊してもよくなる。そしていよいよ再整備のための発掘と、まだまだ金沢城は昔の姿を取り戻すために手入れが続きます。また他県のみなさんも是非お越し願いたいですね。

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2007年12月21日 (金)

「金沢検定」バッヂ届きました!

Img_71121s 既報の「金沢検定」のバッヂが今日届きました。合格者のより高いステイタスとプレミアム性をつけるにはピッタリのアイテムです。歴代合格者に溯って呉れるのも、配慮が行き届いていいですね。七宝焼きも美しい、加賀前田家家紋の剣梅鉢紋です。
中級は兼六園の徽軫灯籠(ことじとうろう)、上級は前田利家の鯰尾形兜(なまずおなりかぶと)、がデザインされてます。
「江戸文化歴史検定」でもバッヂを呉れましたが、浮世絵の「筆を持つ女性の手」だけが意匠。アルミ製でピンも安いタイプのPP袋に入っているだけ。金沢検定はピンは着脱式、曲がりなりにもプラケースに入っています。
今年の第三回の合格者も本日発表され、年々盛んに、傾向もわかってきたか、合格率も上がってきました。初級は19.9%の401人、中級は30.05%の110人が合格。中級の方が率が高いのは、ほぼ全員が勉強してきたせい?初級は企業ぐるみとか付き合いで受けた人も多いようだ。
上級は今年もわずか47人中2人の合格者。やはり金沢観光ボランティアガイドの「まいどさん」だった。いやもう一人は「城と庭のボランティアガイド」の主婦だ。さすがにそういったものに携わってないとムツカシイようだ。リーマンの僕らではまだまだ足元にも及ばない。
でも年々関心も高くなってるみたいで、地元の歴史と環境を見つめなおす点でも、各地でもぜひ盛んになっていってほしい。来年は中級にチャレンジしたいですね。

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2007年12月19日 (水)

「江戸文化歴史検定」合格証きたよ!

Img_71119s 「江戸文化歴史検定」の合格証がやっと届きました!自己採点どおり88点です。平均点も74点と高く、3級受験者の70%の約2300人が合格。
小手調べにはちょうどいい具合ですが、2級は4800人中、16%の727名合格、平均点も60点(合格ライン70点)でした。この2級が合格しないと受けられない1級は、なんと1005名受験中、合格者はたったの2名。それも合格ラインギリギリの80点で!金沢検定以上の難関のようだ。
受験意欲もそそる内容だけど、約延べ9500名が全国から受けに来る「江戸検定」。なのに合格証書は希望者に有償だという。3,000円払わないと賞状がもらえないとは、受験料が金沢検定地図力検定より高いし受験者も多いのに、こすっからいですよね。だけどバッヂがもらえました。(これも金沢検定は、初回に溯って合格者に追加でくれるようです。)
これで今年受験の合格証が揃いました。こういうのがもらえると、来年もまたなにか受けたくなりますね。

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2007年11月26日 (月)

辰巳用水の遊歩道と塩硝蔵確認

Img_70218s 連休最終日、先日の寒波がウソのように晴れ渡ったので、やっと土清水の辰巳用水周辺にやってきた。晩秋と言うにはもう遅いが、それでも色づく木々の中、こんなにのどかな空間が近所にあるのに今まで来なかったとは。
永安町から錦町まで、延々2キロに亘って辰巳用水に寄り添う遊歩道がある。下手には梨畑や梅林があり、用水には季節になったらそれなりの虫たちもやってくるだろう。このおだやかな場所はやはり観光客ではなく、地元の人の物だけにしたい。
Img_70208s そして西に見えるは、あれが塩硝蔵の跡だろう。これを確認するのが今日の目的だったが、やはり埋め戻されているようだ。雑草の空地に、不自然に土が露出している。
来るのがどうしても遅くなってしまった。ここはあそこに建物を復元するのも場違いなほどのどかな畑地になっている。周りは住宅も多くなっているが、なにかの手入れに今日も農家のおじさんがやってきた。この風景のほうが今は長いのだろう。

Img_70222s 辰巳用水の橋を渡って塩硝坂を登る。ここは越中の五箇山から塩硝(江戸時代の火薬の原料)を担いで塩硝蔵へ運んできた人たちのルートになっている。近辺の公民館の人たちが、歴史の伝承を絶やすまいと、勉強会を開いたり、遊歩道に案内板を立てたりしている。
ここで撮影してる間、何組もの人々がこの坂や遊歩道を通った。今でも近在では、大切な徒歩の通り道になっているようだ。






Img_70227s 坂を下りて、車に戻ろうとしたら、辰巳用水から取水口を発見、農業用水として取り入れているようだ。スロープを使ってコンクリート水道になっているが、地面よりだいぶ高いところを通っている。
辰巳用水が現在でも生きている証左だ。兼六園の草木と観光客の目を潤しているだけではない。まぁこの時期、どこも使ってないだろうけど、なんだかうれしい気分になった。



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2007年11月25日 (日)

「河北門」起工式と屋敷地確認

Img_46141s 昨日はいよいよ金沢城「河北門」の起工式でした。しかし告知も少なく、さまざまなイベントがあったようですが不如意のため行きませんでした。
土台の発掘の上、戸室石の石垣の積み上げにも掛かるわけですが、これから雪の季節、今起工式しなくてもよいのにと思います。写真の位置に石川門同様の立派な枡形門が建つのはわくわくしますね。
さてこの河北門周辺の発掘調査で、16世紀末の初期の金沢城内で、後に加賀八家を形成する重臣たちの屋敷があったことが確認された。陶磁器の破片などが発見されたわけだが、これらの屋敷は順々に城外に出て、城下町の核として発展していった。この辺は江戸城と同じで、かつて徳川御三家の屋敷は今の宮殿などがある吹上の地にあった。江戸は火災が頻発して、その都度城下の再整備がなされ、江戸城内にあった御三家や重臣の屋敷も、城外に移されていった。
金沢も江戸に負けず火事が多く、たぶんそれを機会に重臣の屋敷は城外に移築されただろう。加賀八家は大名クラスの一万石以上。屋敷地も上屋敷・下屋敷などもあり、ちょっとした大名屋敷並である。
そういえば先日購入した金沢市史の資料編・絵図をやっと最近開いた。貴重な近世金沢の史料なので、折りを見てこのblogでも紹介していきたいと思う。

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2007年11月18日 (日)

金沢城復元計画の詳細

Img_19369s 先週の東京行のブログアップに一週間かかってたら、その間に金沢の動向がお留守になってしまった。しばらくいくつか取り上げてみたい。
金沢城の宮守堀(いもりぼり)の水掘化に向け、石川県は「金沢城河北門等の復元整備専門委員会」で段階整備案を発表した。現在芝生と砂利で表現している堀跡の公園を、史実に照らすための発掘調査を進めながら、復元イメージを固めてきたわけだ。
堀はこの現在の地表から約3m掘り下げて、この右に見える鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)から正面の中央消防署広坂出張所跡地付近までの延長230mに、水面幅15.4mの水堀を整備する。鯉喉櫓台も5m積み増しし、本来の高さまで復元する。水は兼六園を通った辰巳用水の流水の一部を、広坂緑地から取り入れる。水深は文献から5尺(約1.5m)に設定し、底面に防水シートを張って漏水を防ぐ。
Kahokumon 河北門の復元では、城内側の二の門の石垣を、すべて金沢郊外の「戸室石」で築くことにした。
いよいよ今月24日に起工式を行い、2010年3月の完成を目指す。今月から復元過程を見学できる常設ステージを取り付け、全体が素屋根で覆われる来年7月以降は素屋根内部に別のステージを設ける。石垣工事や左官工事などの節目ごとに、専門家や職人が説明する工事見学会を10回程度開く。
Ph_605 明治初期の写真での確認で、石垣の組み方も
◆八段の石積みとする
◆表面が5角形の石を半分以上使用する
◆中段以上に大型の石を組み入れ変化をつける
と条件をつけた。
石垣工事は来年7月までに終え、11月ごろには上棟式を予定する。門に使う木材は6割は石川県産の能登ヒバや杉とする。
だんだん具体化していく工事計画に期待が膨らみますね。
そういえば今日は「金沢検定」。みなさん頑張ってください!!

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2007年11月 5日 (月)

「江戸文化歴史検定」受験!

Img_69067s 日曜はついに「江戸文化歴史検定」ですよ。会場は駿河台の明治大学。リバティタワーはすごい立派な建物、地上13階は63m、クイーンエリザベス号と同じと廊下に書いてあった。そのフロアからの絶景。いまどきの学生たちは恵まれてますね。
それはともかく、真新しい椅子机の教室には100人位、まさに老若男女、小学生もいましたよ。この会場だけで2,000人は居る。他2会場あり、去年は3級だけで7,000人受けてるから、さすが大江戸ですね。
Img_69102s 試験は90分100問。問題は4択マークシート、各検定このバターンがほとんどですね。教本は読んだもののどの程度の問題がでるか不安だったが、ちょっと緊張したけど30分で一通り最後まで、迷った問題を片付けて結局45分で途中退出。紙袋や江戸城の俯瞰図などおみやげももらいました。
正答渡され自己採点したら88点。やはり迷ってひねった答えが間違った。素直に答えてたら92点以上も大丈夫だったのに。でも金沢検定よりいい成績だ。金沢と言えば江戸検定なのに金沢にまつわる問題もあったよ。加賀藩の焼物は?〈九谷焼〉、というもの。国宝の城は?の選択肢に金沢城も出た。さすが日本一の城下町(笑)。
これで70点以上の合格間違いナシ。レベル的には2級を選択すべきだったか。来年は考えます。しかし受験料高いんでね。3級は4,200円、2級は5,250円。1級受けるためには2級合格しなきゃいけないんで、金沢検定と一緒。これでまたひとつクリア。金沢検定中級どうしようか。

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2007年10月22日 (月)

「富山城」の現在

Img_67271s 「地図力検定」の前に時間があったので会場隣の「富山城」公園に入った。仕事やプライベートで何度も訪れている富山だが、城をまじまじ眺めたり入ったりするのは初めてだ。
富山藩は加賀藩の支藩として寛永16年(1639)成立したが、富山城の天守は実際このようでなく、今あるのは戦災から立ち直る記念に昭和29年富山産業大博覧会を開催し、そのとき建設されたいわゆる模擬天守だ。今は「富山市郷土博物館」として一昨年耐震改修工事も終わり、国の登録文化財となっている。
改修間もない、見た目に美しい模擬天守は、やはりそこに存在するだけでも都市のシンボルたりうる。金沢にも早くほしいものだが、世界遺産を目指すには史実になるべく忠実であるべきという縛りがある。ならば本丸の森林も撤去すべきと思うがどうか・・。

Img_67284s 展示では、中世の富山の成り立ちから解説があるが、隣県のことなのに今までよく理解していなかった。戦国時には信濃同様、自国に強力な勢力が存在しなかったため、神保長職よって初めて築かれた富山城も、上杉謙信や一向一揆勢、そして織田信長の勢力と、入れ替わり立ち替わりその支配者は変わっていった。
そして佐々成政が治めたあと、秀吉が征討してから一旦富山城は破却された。
Img_67287s 江戸時代になり加賀前田家の勢力下になると、一国一城令によりまた廃城、そして富山藩分藩の1639年に初代藩主前田利次が入城した。この富山藩の4代目が僕と同じ名前であるので親しみは以前からあった。前田利家の祖父も別名が同じ名前である。
この富山城下の絵図は、地図展や博物館で購入した史料本にもさまざまのが載っていたが、神通川が城の真北に蛇行している。明治時代に河道改修されまっすぐになり、現在は県庁や地図展会場の県民会館など、全くの市街地だ。
Img_67293s 天守の上から鉄門(くろがねもん)石垣を見る。近年の改修時に内部調査された石垣だ。富山城は門周辺にのみ石垣があり、あとは土塁が主だった。
それはともかく内堀がかなり改修され、水もまるでプールのような色をしていたのがちょっと人工的で気になった。まぁ城自体人工的なものではあるが。
まだこの内側の、今地下駐車場になっている内郭が耐震工事中で鉄骨がむき出しになっている。明治以来城域はさまざまな公共機関の建物が林立していた富山城だが、古の姿を取り戻すバランスをとるのはなかなか労苦がありそうだ。

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2007年10月16日 (火)

現在の「塩硝街道」と刀利ダム

Img_66883s 日曜の午後は久しぶりに「塩硝街道」を走ってみた。現在の県道10号で湯涌温泉から刀利ダムへ抜けて富山県の五箇山方面へ繋がるルートだ。[えんしょうかいどう]と読むが「援蒋ルート」ではない。
自宅から4kmほど上流の涌波町で「土清水塩硝蔵」が発掘調査され、このたび金沢市埋蔵文化財センターなどにより説明会があった。「塩硝」とは黒色火薬の原料で、江戸時代に加賀藩がもちろん幕府に内密で、越中の五箇山で製造させ、この塩硝街道を通して金沢まで運ばせていた。
Img_66959s 硫黄・木炭・塩硝で作られる黒色火薬は鉄砲には無くてはならなず、塩硝はここのものが国産最良の品質で生産量も最大だった。以前は金沢城内に塩硝蔵があったが度重なる火災で万治元年(1658)に、土清水に移設された。絵図などの史料で知られていたがこのたび、発掘の上存在が確かめられた。
街道、山奥の途中には現在、忽然と採石場が現れた。山二つがなくなるまで掘られるのか?
Img_66888s 富山県境の峠である。ずっと登りの続く細い林道を抜けてようやくたどり着いた。ここを通ったのは20年ぶりくらいだが、かつて藩政期には幕府の目を盗んで、荷駄を担いで塩硝を運んでいたのに想いを馳せると感慨深い。
途中、前後数km何も無い道に突然、古い民家が二件あったが、昔はなにか役割を担っていたのかとよけいな想像も働いてしまう。
Img_66907s 県境を越えるとそこは、小矢部川の「刀利ダム」湖が眼前に広がった。
湖岸を撮るためここで車を降りて、ダムサイトまで1.5kmほど歩く。20年前と同様満水ではなく、水際にわずかに草木も生えていることからほぼいつもこの状態なのかと思う。真ん中の島は神社のあった跡だって。

Img_66916s 刀利ダムまでやってきた。高さ101m、堤長229.4mのドーム型アーチ式ダム。アーチ式ダムといえば富山県では当然黒部第四ダムが有名だが、やはりこの姿はかっこいい。石川だと重力ダムやロックフィルダムしかなく、この垂直に切れる高度感に乏しい。
昭和35年から7年の歳月をかけて昭和42年に完成した、小矢部川を治水する多目的ダム。富山は大きな川が数多いから水力発電が豊富な県だ。北陸電力が本社を置く意義もある。
Img_66940s 吸い込まれるような高度感だが、高所が決して好きでもないのに(高速道路や閉所では目眩もする)、怖いものみたさなのかダムの高低差は魅力的だ。いずれ黒四ダムもレポートしたい。
このルートは県道ということもあって(富山県側も10号)車の往来は数度あったが、いずれにしても静寂感の深い谷、巷の喧騒にかかわりなく、この20年ほとんど変わらない自然(と重厚な建造物)の姿は浮世の憂さを忘れさせてくれる。そういうものを感じに奥地に訪れたがるのかも知れない。



Img_66965s 帰りに犀川の大桑橋たもと。夕焼けが台地のシルエットを写して綺麗だったので思わず車を停めた。少し雲が多かったが、休日に晴れる秋が少ない北陸、貴重なので何枚も撮ってしまった。
こんなことばかりしてるから検定の勉強は進んでいない・・・。

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2007年10月 7日 (日)

兼六園・金沢城ライトアップ秋の段

Img_66040s 講演会から出直して、毎年恒例の兼六園金沢城のライトアップを写しにきた。
今日は日中少し暑さが戻るくらいのいい天気。空気も澄んで鮮やかに写せた。やっぱり三脚とリモートスイッチは必需品だ。
兼六園はまだ大勢の入場者が、霞が池の水面にも映る幻想的な夜の姿に感嘆していた。ライティングの妙で意外にもいろんな色が映し出されている。
Img_66014s しかし皆さん気軽に携帯で記念撮影してるが、ブレブレ間違いなしだよ。暗い中歩きながら携帯覗き込まれると、特に女性は顔がぼ~っと携帯の灯りに浮かび上がって、ちょっとこわい・・ということになってるの気がつかないかな?


Img_66113s 金沢城に場所を移してビシバシ撮った。前年はなにかのイベントのついでに撮りにきたが、手持ちではやっぱりダメだったもののリベンジはなんとかうまくいった。しかし漆喰の壁面は唯でさえ白いのに、ライティングがきつすぎてこれ以上あけると白く飛んでしまう。もう少しシャッターを開けて空も取り入れた違った雰囲気も出してみたかったが・・。
Img_66130s 反対を向くと「河北門」の工事現場が。まだ発掘中という段階で、いつになったら石垣を積み出すのか。
夜の発掘現場にぼぅ、と浮かび上がる石川門隅櫓。ちょっといい感じかな。夜景はまたいろんなシーンにチャレンジしてみたい。






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2007年10月 6日 (土)

金沢城大学公開講座「金沢城と伝統技術」

Img_65974s 世界遺産登録を目指して、石川県の金沢城調査研究室が研究所にこの4月から格上げになったのを記念して、金沢城大学公開講座「金沢城と伝統技術」が開かれました。
金沢城大学とは、一般の人たちに金沢城の発掘や文献などの調査研究の成果を講義する、無料の勉強会なのだが、年間の登録制でしかも平日日中開講が主体。とてもリーマンは参加できなくて、リタイヤーや自営業の方たちばかり。
今日は特別の公開講座で誰でも参加できる土曜の開催とあって、広い講堂のある県文教会館に約150人ほど集まった。しかしやはり内容から御歳を召した方が多くて、若者?は僕と城好きの外部SEのS氏くらいだった(笑)。
Img_65967s それでもS氏によると、公開講座の割りに参加者は少ないらしく、テーマがいまいちぼやけていたからか。カラーの多ページのパンフももらい、講演内容はそれを読んだだけで充分、というぐあいであまり真新しさを感じなかった。やはり日本歴史研究の欠点が、この金沢城ひとつ取っても顕れたみたいで、石垣、襖絵、建築、庭などのパネラー専門分野と、江戸時代前期後期の違いなど、トータルに結びついた全体研究はまだまだこれから、という気がした。
写真は5代前田綱紀が収集した「尊経閣文庫」内の「百工比照」にある建築工藝資料の一部、柱や梁などに施される[釘隠し]の例である。二の丸御殿の復元の際には、再現のための検討材料になるのは間違いない。
Img_65949s パネルディスカッションの前、京都造形芸術大学の中村利則教授の講演の中に、先日新聞発表もあった、金沢城辰巳櫓の造形についてのレポートがあった。二層の櫓に、全国でも珍しい[唐破風][千鳥破風]の出し(出窓)が並んで設けられていたという。現存する中では、京都西本願寺の「飛雲閣」しか例がなく、城郭ではみあたらない。
新聞で見たCGではなんだかみっともない気もしたが、繁華街から一番目立つ高石垣の上に鎮座するはずで、早期の復元をしてくれたらまた名物が増えることとなるだろう。

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2007年10月 3日 (水)

石川門太鼓塀、修復は現代工法とコラボ

Img_62344s 金沢城石川門の太鼓塀修復に、控柱を江戸期の形態に復元する工法の検討に、現代的な工法と材料を採用する見通しとなった。
以前記事にしたとおり、現在は写真のように明治期の陸軍が施工した斜めにコンクリート棒でつっかえした、いかにも、という支えになっているが、発掘の結果、平行な貫を通した地面に垂直な控柱だった江戸中期の形状に復元されることになった。
しかしそのままでは、木製の柱が地面に差し込まれ根元が腐食しやすく、さらに引き抜きの力に弱いという問題点があった。
Img_37162s そこで石川県教育委員会では、控柱の根元を石製柱として上部の木製柱と金属製の心棒でつなぎ、地下はコンクリート製基礎を置いて石製柱をしっかり固める復元案を作った。史実とは異なるが、木製のままだと腐食や破損が進み、耐用年数が短くなることから維持管理費も嵩み、文化財保護の観点にも悖る(もとる)ということで文化庁にも理解を得る、としている。
写真は先年復元された鶴丸塀だが、この控柱も実際土台には石を用いて木製柱の掘っ立てにはなっていない。石川門太鼓塀の復元イメージはこれに近しくなる(貫は2本だが)。「けっして石川門の風格を損なうことはない」ということだが、当然だ。むしろこの腐食対策をどうするか注目だったが、現代工法とのコラボに落ち着き、安心している。なにしろ早期の復元完成を望む。

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2007年9月11日 (火)

河北門・橋爪門復元で寄進事業

Ph_605 石川県は、来月着工の金沢城河北門の復元事業にあわせて、壁板や平瓦の裏に県民が一口5,000円で記名する寄進事業を進める。多くの県民に復元事業への理解と愛着を深めてもらう「県民参加による城づくり推進事業」の中心事業と位置づけ、続く橋爪門の復元でも同様の寄進事業を実施する。[北國新聞より]
寄進の対象は2010年春完成を目指す河北門の「二の門」内部に使う壁板210枚と、「一の門」「ニラミ櫓台」の海鼠塀に使用する平瓦350枚。うち壁板は1枚あたり14口に分割し、計3300口、1650万円を予定しいてる。10日から石川県公園緑地課で予約を受け付け、壁板は来年5月から、平瓦は来年10月から申込手続を開始、来秋以降に上棟式など工事の節目ごとに寄進者を招いて記名会や工事見学会を開く。
Photo いよいよ県民にも寄進を募る事業がスタートを見た。熊本城や宇都宮城は県民に限らず全国から寄付を募ったが、その集まった規模も大きかった。金沢城は総額も少なく、予算不足ということより、県民参加意識を高揚する目的のほうが大きいようだ。逆に口数も少ないことから、予約も早い者勝ちなら早めに問い合わせてみたい。熊本城は寄付者に「城主」の称号と記念品も贈られたようで、金沢城もただ記銘するだけでなくなにか記念になるものをいただきたいと思う。今後全国もこういった動きになれば、復元事業も盛んになるだろう。

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2007年8月25日 (土)

金沢城石川門太鼓塀「解体修理現地説明会」

Img_62386s 石川門の土塀の解体修理の現地説明会に行ってきました。ようやくこの手の説明会に初めて参加。朝から暑い日差しの中、やはりお年寄りが多く、帽子を忘れたのが痛い。
その前に日本100名城のスタンプをやっと押せました。案内所のおやっさんは無愛想で無口でしたが、僕は地元だからいいけど、観光客にもこれをやられたら印象悪くしますね。
説明会は午前10時から。先着25人ずつから組になって順番にガイド。組数から言って100人ほど来場したでしょうか。
Img_62333s 僕はNo16で最初の組でしたが、工事「現場」とあってヘルメット着用。帽子の心配はなくラッキーです。
石川門は門一帯の部分だけでなく、左右に長い土塀の太鼓塀があり、今回外から向かって右の「附属右方太鼓塀」の解体修理についての説明会でした。
石垣の上の土塀は、明治維新で封建社会の象徴である多くの「城」が破壊される中、特に城を隠すものとして壊され、全国でもここ金沢城のように漆喰の白が美しく長く残されているのは数少ないです。
Img_62347s そんな金沢城でも藩政期から火事や地震などでたびたび土塀は再建・修理されています。文献などで天明8年(1788)再建後、寛政11年(1799)の地震で大破。右方太鼓塀は弘化5年(1848)に解体修理。明治以後でも石川門の各櫓の屋根部分の修理などを再三実施。そして太鼓塀は大正・昭和初期に、当時城域に駐屯していた陸軍の手によって鉄筋コンクリートの斜めの控柱が施されました。その後昭和32年前後に石川門全体の解体修理が行われ、今回写真の木の骨組の貫材はそのときに更新されています。
Img_62354s 地元新聞でも既報のとおり、今回の修理で藩政期には、木製の控柱が2本の地面に平行な貫により繋がっていたのが確認され、それに忠実に復元することが検討されています。
今回の解体修理は全体で平成25年まで長期にわたり、特に太鼓塀は土台の痛みが激しく、かなりの部材更新をするようですが、写真の柱のように能登のアテの木などが使われていた藩政期の部材は頑丈で、なるべくそのまま残して使用するようです。江戸時代の四角い釘の痕なども数多くあり、時の流れを感じさせます。真ん中を通る貫はわりと新しく見え、「昭和32年度修補」と焼印されていました。下地になる小舞竹も昭和の大修理のときに更新したようですが、腐らずわりとしっかり残っていたので再利用するようです。最近のことと思いましたが、もう50年も経っているんですね。

Img_62367s 平成の大修理とも言える今回の解体修理の説明会に、熱心な多くの参加者が説明員の話を聞き漏らすまいと終始静かに進みました。しかしやはりマスコミが我が物顔でちょこまかと動き回るのには閉口しました。工事現場で足元が危険なのに人を退けようとする態度はいかがなものでしょう。
今度は10月にシンポジウムがあるので、またぜひ参加してみたいですね。


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2007年8月16日 (木)

自治体刊行物がやっと買えた。

Img_62145s 今日も連日の暑さ・・。早朝に墓まいりを済ませて、さてどうしようかと思ったら、銀行は開いていた。もしかしたら役所って開いてるのかな。かねてから欲しかった本を買えるかも知れないと、市役所と県庁に電話してみると、業務してるって。15日なのにご苦労様だ。
早速まず、金沢市役所の2階、市政情報コーナーへ、「金沢市史 資料編18 絵図・地図」を購入に。ここは各種受付窓口の隣に、資料閲覧コーナーといった感じの一角で、大正時代の「石川郡史」なども置いてあったので思わず読みふけってしまった。「金沢市史」は昨年再編纂が完成した、通史編3巻、資料編19巻にも及ぶ壮大な市史。1冊7,000円もするので、古地図マニアとしては「絵図・地図」編を買うのがやっと。これからじっくり読ませていただくが、分厚く重たいこの本を、受付の若い女性職員が頑丈な手提袋に入れてくれて渡すとき、なんて言うかな(店じゃないからね)と思ったら、「ご苦労様です・・」だって。教師と間違えたのかも(笑)。。
続いて写真の石川県庁へ。行政情報サービスセンターは、県が発行する書籍・パンフ、行政資料全般を扱っている。閲覧だけと、購入できるものがある。ここで石川県文化財課「金沢城調査研究所」(今年、室から所に格上げ)が発刊する「研究紀要 金沢城研究1~5」をやっと購入できた。ここまで5年間の研究成果が大要されていて、金沢に限らず、日本の城郭研究においても価値ある書物だ。これは1冊数百円だから助かるが、県の発刊物はこれに限らず皆表紙が「レザック66」の平綴じ。このうちどれかはうちの社から出した紙に違いない。。
Img_62138s 久しぶりに県庁19階の展望コーナーへ。都庁みたいに4方向遠望できるスポットだ。晴れてるが今日も遠くは霞んで、白山はやはり見えない・・。丁度12時となり終戦の黙祷を案内する館内放送が。来場者は少なかったがそのほとんどの方と黙祷・・。
今年の盆休みはほとんど単独行動出来たが、暑くて動き回るのも億劫になりつつ買出しと家での作業で落ち着かない日々となった。

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2007年8月 8日 (水)

金沢城石川門「平成の大修理」

Img_25496s 金沢城の国重要文化財「石川門」は、昨年度から「平成の大修理」に入ったが、左右に延びる土塀の太鼓塀を補強する控柱を、江戸中期の形状そのままの姿に復元されることが決まった。
現在の斜めに地面に刺さった控柱は、確かにこういう形状の控柱を採用していた城もあるが、ここのは明治後期から昭和初期に、城内にいた旧陸軍に改造されたコンクリート製の柱の周囲に木の板で覆ったものだ。
世界遺産の暫定リスト入りを目指す県教育委員会は、その前提となる金沢城の史跡指定を得るためにも、今回の調査でわかった、上下二ヶ所の貫穴を介して、垂直に立てられた控柱の形状を、本来の木造構造によって復元することを来月文化庁に申請する。
Img_37162s 上の写真は今は工事中の石川門右方太鼓塀(延長148m)。来年度には下の写真の近年復元された鶴丸土塀のような垂直の控柱の構造になる(貫は3本でなく2本)。
実はこの構造の方が、能登半島地震の際に倒壊を免れる事例が多かったことがわかった。接続部分の多い組み方が揺れの衝撃を分散させるようで、文化財の耐震研究でも貴重な史料となる太鼓塀は、史実に忠実に復元することと相まって、歴史的価値が一層高まることとなった。いずれにしても金沢城の復元修復は、2014年の新幹線開業前を目標に、その全貌が序々に見えてきた。

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2007年7月 5日 (木)

ミニ玩具「日本の名城」第三章

Img_56650s 童友社の食玩「日本の名城」シリーズに第三章が発売されました。今度はちょっと多様になってます。
「安土城(夏)」「安土城(秋)」「松本城(秋)」「松本城(冬)」「彦根城(夏)」「和歌山城(夏)」の6種に、シークレットです。ためしに2個買いましたが、「彦根城」と「松本城(冬)」をゲット。国宝2点は良いほうだと思います。GWに行った彦根城は、天守閣周辺が精密に実際に行ったイメージどおり。ホントに良く出来ています。
童友社といえば、日本の城のプラモデルメーカー。城のプラモなど一般の方は作られないでしょうが、そういえば学生のころ姫路城を作った覚えがあるな~。芝生のところなど接着剤を塗ってから緑の粉を撒いて表現。英語教室の若い外人教師にプレゼントしたっけ。日本のミニチュア(実際に作ってるのは中国だが・・)は今や世界に誇れるアイテムの一つですからね。

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2007年6月27日 (水)

100名城「川越城」には入れず!

Img_53721s 記事更新が遅れてましたが、週末に立て続けで出かけていて、平日はあまり時間が取れず遅くなりました。先週末は夜行で出かけたため朝時間があったので、日本100名城のひとつ、川越城までやってきました。
川越城は丁度今、大河ドラマ「風林火山」の舞台、上杉と北条の激戦の地としても出てきました。今年は彦根城など、築城400年祭の城が各地でありますが、ここ川越城には550年祭の幟が。太田道灌が築城して以来、江戸時代には譜代の大名が立ち代り入り、「小江戸」と称されています。本丸御殿の一部が今も残っていますが、あまりに早く着いたため入館はあきらめました。せっかく先週100名城のスタンプ帳を手に入れていたのに。
Img_53759s やむなく市内を散策。なんやかやと5キロ以上歩いてしまいました。朝とはいえ梅雨の晴れ間のピーカンな日に、早くも汗だくに。富士見櫓跡から成田山、喜多院と廻り、有名な「蔵造りの街」へ。電柱を廃しすっきりとした街並は、古い蔵の商家が並びます。てっきり江戸時代のしわざと思ったのに、明治になって大火があり、蔵は焼けなかったことから皆商家が蔵造りに変えていったのが成り立ちだそう。「小江戸」ではないですね。でもシャトルバスや景観的に統一した家並など、観光に対して徹底したところは、学ぶべき点も多いなと感心しました。
Img_53772s これは有名な「時の鐘」。さっきの通りから一本東に入ったところ。400年前から街に時を知らせていたそう。今でも6時・12時・15時・18時に鐘を鳴らしてるようだが、昼まで待てません。
早朝には人が居ないのかとひっそりとした通りも多かったけど、9時ころになるとチラホラ観光客も見えてきました。でもお店はだいたい10時開店。まだ街をぐるぐる歩いてるだけで、早くも疲れてきました。





Img_53800s 10時開店の「菓子屋横丁」。昭和初期から駄菓子の製造・卸などを数十軒がしていたそうです。テレビにも何度も取り上げられてるみたいで、フランスパンのような大きな麩菓子は「でぶや」の石坂がくわえてる写真が各店で展示してました。
夕べ偶然列車の中で見ていたビデオpodcastで日テレの「ぐぐっとジョブ」が、この川越の飴屋さんを紹介。昔ながらに店内の奥の工場で飴つくりをレポーターが体験。そこで僕もお店に入り飴を購入。ご主人にipodの映像をお見せしたところ喜んでいただけました。
このあとは疲れたので駅へ直行。東武東上線に揺られて都内へ。

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2007年6月15日 (金)

「辰巳櫓」再建直前で幻に

Img_9365s_1 金沢城の、街の目抜きからちょうど見上げて目立つ位置に、かつて「辰巳櫓」があった。1759年(宝暦9年)の大火で焼失後、1839年(天保10年)に再建のために設計図を作成したり資材を調達していたにもかかわらず、直前で断念していたことが、石川県金沢城調査研究所の調べでこのほど判明した。
「天保の再建計画」の断念を示すのは、金沢市立玉川図書館所蔵の「清水文庫」にある、資材調達簿にあたる「巽御櫓御入用銀指引書」などの古文書や設計図群。文書にある「亥年」の特定がこのほど1839年のことであると突き止めた。宝暦以前の辰巳櫓に完全復元するべく進められていたが、石垣が既に大規模に改修され、作事を担当する大工方の苦心が設計図の複数の朱引きにも表れている。
平成の現代も復元の可能性の調査が進められているが、天保当時の断念の理由は主に加賀藩の財政難によるものと金沢城調査研究所では分析している。そのころは肝心の本丸には建造物は建っておらず、加賀藩の威信をかけて願っていた再建を断腸の思いで断念したことは、想像に難くない。
まだ暫く待つから、ぜひ平成の御世には見事な再建を願ってやまない・・。

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2007年6月 3日 (日)

一週早い「百万石まつり」

Img_51558s 今年も「百万石まつり」がやってきました。6月14日に前田利家が能登から金沢に入城してきたのを祝うまつりで、10年くらい前までその日に市祭として実施されてたけど、週末に開催をずらし、尚今年は梅雨をさけて6月第一週末の2日(土)に行列日を迎えました。
昨年からルートも、金沢城を一周するものから、きれいに整備されたJR金沢駅東口から目抜き通りを半周して金沢城内に入る、本来の入城シーンを再現するものとされ、好評を得ていました。
Img_51632s 行列も、大正時代からの始まりに由来する商工祭の色あいのあった企業パレードを排除し、市民約2000人が参加する(先頭からの各学校などの演じる音楽パレードは良しとして)、時代絵巻が主体となる本来の趣旨にあった行列となってスッキリした。
昨年は武蔵が辻交差点に陣取ったけど、今年はルートの後半、百間堀通りに座った。ここは地元テレビもメインステージがあるところで一番賑やかしいエリアだけど、ちょっと早く着き過ぎたか(駅でスタートする15時)、まだ閑散としてたので、ipodのポッドキャストラジオを聴いて時間つぶし。
今日は日向は暑くしかも逆光になるので、日陰の城側に廻って、結果痛し痒し。加賀鳶梯子登りはこちら向きに演じてくれたけど、行列の後半は陽がかなり傾いてシャッタースピードが得られなかった。

Img_51680s 行列の内容を列挙しよう。
「音楽パレード」「ミス百万石」「獅子舞行列」「加賀鳶行列」「尾山神社御鳳輦(ごほうれん)」「かぶき者行列」「子供奴行列」「大人奴行列」「珠姫お輿入れ行列」「お松の方行列」「加賀八家老行列」「前田利家入城行列」「赤母衣衆」。
[珠姫]は3代利常の正室として徳川秀忠・お江の娘が5歳で嫁いできたのを、地元の子から募集して再現。写真は[お松の方]で言わずもがな利家の正室。毎年市内2つのデパートの女性が交代で選出される。
Img_51719s いよいよ利家の登場。20年くらい前から俳優を呼んで演じてもらっている。今年は[的場浩司]。大河の「利家とまつ」では唐沢利家の最初からの家来[村井長頼]を好演した。なんでも父の実家は能登だそうで、子供のころは何度も金沢に来ていたらしい。
やはり俳優効果はバツグンで、子供を含めて黄色い声で祭りは最高潮に達する。最近は警備がたくさんで廻りを囲むのが趣きを削ぐが、以前は混乱もあったようだからしかたなしか。

Img_51746s 行列は全般的にいいペースで進んだと思うが、途中多少間隔が空いたりしたか、進行時間は少し遅れた。目の前を最後の赤母衣衆が過ぎたのが18時30分。いかに陽が長い6月とは言え、さすがにシャッタースピードは遅い。開始時間が15時なのを、もう少し早められないものか。今年は去年と違ってここから動かなかったが、しかし去年見たようなこの後の金沢城内のイベントは、薄暮のほうが確かに雰囲気はあるだろう。
各行列は、ところどころで動的に演じるんだけれど、今日は疲れてて写真ではちょっとお見せ出来ませんでした。

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2007年5月25日 (金)

「河北門」復元設計案まとまる

Img_25493s 金沢城「河北門」の、主な復元設計案がこのたびまとまった。
地盤強度に課題のあった城内側の二の門の石垣の在来工法では、結局鋼製の杭を内部に設置して石垣上の櫓を支えることにした。杭は外側からは見えず、石垣内部も在来工法に近いものになる。
またその櫓の構造は、建築基準法の条件を満たすため、床と天井の梁をつなぐ中柱を六本設置するが、下をくぐる際に見えないようにする検討を加える。
一の門の門の高さは現存する石川門や一部復元した橋爪門を参考に4mとする。ニラミ櫓台下の石垣はレーザー測量・地質調査などの結果強度に問題なく、上段部分の積みなおしが可能となった。
また、「二の門」にバリアフリー対策として長い木造スロープを設け、踊り場には新丸広場などを一望できる展望スペースも用意される。
今年は秋から二の門の石垣積みの作業をはじめ、2009年度末の完成を目指す。
完成が待ちきれない。

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2007年5月 6日 (日)

湖東の旅[城と鉄道めぐり] 3

Img_50468s 湖東の旅、最後は長浜に寄ったよ。何度か仕事で来てるけどプライベートでは初めて。長浜は鉄道関係でも歴史あるポイント。駅も近年橋上駅に建て替えられ、西口はまだ整備中。彦根・米原と近代的なイメージにガラッと変わってしまった。それでも今から訪れる現存する旧駅舎の雰囲気に合わせたデザインに工夫されている。

Img_50305s 駅に程近く、「長浜鉄道スクエア」。ここは現存する日本最古の駅舎、旧長浜駅と博物館の「長浜鉄道文化館」、そして2003年7月に開館した「北陸線電化記念館」をあわせて「長浜鉄道スクエア」としてオープン。
東海道本線は最初、大津・長浜間を琵琶湖汽船で渡っていた。長浜はその東の基点として栄えたのです。しかし早くも1889年の全線鉄道開通の折にはルートを換えられて今では単なる通過駅となっている。
Img_50299s しかし近年には、直流電化の東海道本線と交流の北陸本線とのデッドセクションとして脚光も浴びました。平成3年に、田村から長浜まで直流区間が伸び、大阪方面からの新快速の終点として利便が図られたのです。しかし去年それも敦賀まで伸びたのですが、長浜駅ではおもしろい線形が組まれることになりました。
写真は日本初の実用交流機関車ED70 1号機とD51 793号。昔は交直流のデッドセクションは蒸機が牽いていました。

Img_50307s さてこんどは長浜城へ。ここは復元というより創作天守で、昭和57年に戦国時代の天守を模して博物館を建設。徳川の世になって秀吉ゆかりのものは徹底的に破壊されたので(部材は前述したように彦根城などにも使われた)、こういった城があったかどうかもわかっていない。
内部はコンクリート造りで大阪城のミニタイプといった感じ。展示も湖北の当時の様子が窺えておもしろかった。
下からの写真で雲がうまい具合に天守を映えさせているでしょう。創った天守のわりには気に入りました。金沢城天守も少ない史料の中、忠実さを守ろうとするのもいいけど、ある程度創作しないと再建はおぼつかないように思うが・・。



Img_50341s 最上階の望楼からの見晴らしもよかった。やはり少し霞みかかって遠くは見られないが、さっきまで居た彦根城がかすかに望める。このへんはのどかで住まうにもよいところだな。
しかしのんびりはしていられない。駆け足で古い時代を懐古した街並、「黒壁スクエア」へ向かう。だがこのころには僕の左ひざはもう折れんばかりに激痛がはしっていた。足を引きずって街へ。
Img_50351s 旧北国街道ぞいのこの一角で明治時代の銀行の壁が黒壁だったことから「黒壁銀行」と呼ばれた建物を改装した「黒壁ガラス館」を中心に、古い町並みを再現して観光客を呼んでいる。その真ん中に黒ならぬ「白壁」の異色な建物、「海洋堂ミュージアム」だ。食玩のフィギュアで一般にも名を馳せた「海洋堂」のここはほぼ全ての作品を網羅している。実際ここが子供から大人まで一番集客して混雑していた。ダイキャストのガレージキットの時代からソフビ、そして食玩まで、商品化されたキャラクター作品やその造形師の紹介、またここに展示するために造った大型の恐竜や動物など、スミソニアン博物館をはじめ各地の博物館に採用された実力をここで間近に見ることが出来る。
Img_50377s 僕もガレキのころからお世話になっている。今もソフビのビオゴジなどが自宅のショーケースに居る。当然自己塗装だ。
近年は塗装済みキットが手ごろな価格で大量に販売されるようになって一気に広まった。食玩の勢いもあるだろう。なにより一般化したのが大きい。こんな博物館を建てて大勢の来客があるようになるなど、当時は想像もつかなかった。
1階のショップでまたも食玩などいろいろ買ってしまった。20cmの川本三国志の武将たちは9,250円もしてたので断念した。孔明はやはり売り切れていたし。Img_50492s
ようやく帰路につくため長浜駅へ。しかし急ぎすぎたか次の特急まで1時間もある。北陸方面への接続はあまりよくなさそうだ。いい例がこれ。せっかく敦賀まで直流になったのに、手前の近江塩津まで直通する新快速は極めて限られる。敦賀からの新快速は湖西線廻りだ。
そこで長浜始発の近江塩津行きの2両編成、小浜線でも使われている125系がこの区間だけ走ることとなった。ここはそのための頭端ホームである。こういった近代的な新製車はやはり直流区間だけだろうか。ならば早く新幹線が繋がってほしいものだ。

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2007年5月 3日 (木)

湖東の旅[城と鉄道めぐり] 1

Img_50038s GWがいよいよスタートして、30日には日帰りでかねてから行きたかった彦根長浜に行ってきました。両地とも城と鉄道の知る人ぞ知るスポット、滋賀には縁もあるのに今まで行かなかったほうが不思議。
6:25のしらさぎ2号(1番電車)目掛けて金沢駅へ着くと485系雷鳥が。ボンネットタイプの定期運用が引退すると、大阪方はクロ481のパノラマグリーン車となっている。この姿もいつまで見られるかわからない。JR西日本で唯一の交流電化区間である北陸本線では北陸新幹線開通を見越してか新製車は導入してくれない。写真のクハ455系や583系改造の419系などがいまも普通車の主流である。朝早いというのにGWとあってメッカの新疋田周辺ではしらさぎ683系を撮りに鉄ちゃんが列をなしていた。
Img_50067s 彦根へ初めて降り立つと、駅のロータリーでは井伊直政の銅像が迎えていた。家康は好きでないので正直ここもいままで興味がなかった。しかし今年は彦根城400年祭。ここ数年各地の城は400年を迎える。これを潮に各城を巡りたいと思ってとうとうここにも来た。
駅から10分程度の徒歩で城内へ。かなり広い堀が道の両側で待ち構える。博物館である表御殿と城内入場共通券を1,400円で購入してまず表御殿へ入る。
400年祭のイベントとしてGW中の特別展示で「彦根城と城下町」と題して大量の古地図が展示されていた。琵琶湖東岸は戦国時代は今と違って湿地や入り江(内湖)が今陸地の部分にかなり入り込んでいた。そのわりに小山も数多く、その水辺に囲まれた山を天然の要害として利用した城が湖東には多い。ここのすぐ北側の石田三成の旧城「佐和山城」を破壊して、この地に天下普請で城を築いた。
御殿は全て復元されたものだが、総面積はかなり広い。しかしかなり入り組んでいて今どこにいるのかわからなくなるくらい。ただ天井が低かったり奥向きは各部屋は狭く、金沢城二の丸御殿を復元するときどれくらいの規模になるものか、参考になるだろうか。
Img_50099s いよいよ城に登るが、まだ10時前というのに陽気もよく、不規則な上り坂で一気に汗が出てしまった。どうも彦根城を甘くみていたようだ。こんなに登るとは思っていなかった。しかしバリアフリーを標榜する昨今、早くも大勢の観光客が訪れる中お年寄りも多く、こんなにキツくてはどうなんだろう。
今はもう新緑ばかりだが、桜が多く植えられ、一月前ならなお見事な景色になっていたろう。






Img_50108s そう距離はなかったがやっとの思いで本丸に到着。念願の国宝「彦根城天守」を望む。復元天守でない、江戸時代のままの天守に登るのはもしかして初めてじゃないかな。石垣をみると切り出しの楔(くさび)の跡もなまなましい。野面積みとまでは言わないがかなり乱雑で、間に詰める小石の数も多い。
外観はかなり修復がされていて金の装飾も美しい。






Img_50126s 中に入ると梁の木材も各所で時代を感じさせる豪胆なつくりだ。
城を作るときは旧西軍側の佐和山城や長浜城・大津城などの遺材を使ったというが、明治の旧城破却のときは大隈重信の上奏によって免れた。
三層の最上階から観る琵琶湖の眺めはよかったが、今日もやはり霞みかかって遠くの山や対岸は見えなかった。
Img_50131s しかしやはりこの天守は登りにくい。階段がまるで梯子なのだ。角度が急でやはりお年寄りにキツイ。手すりをつけて段にも滑り止めを貼ってあるが、危険なのでそれぞれの階段の下には常に係りの人が居る。国宝なのに釘打ち付けていいのか?ってところだが安全のためそうも言っていられない。
しかしこんな急な階段を作って、攻め込まれても守り有利なように、ということだろうが、もしそんな場面、つまり天守を敵に包囲されたとしたら、城主は自害して天守に火を放つだろうに、結局意味ないんじゃないかとも思う。自分が登るのだって危険だ。江戸時代を通じてどこの天守も城主の住むところでなく、一度も登らなかった藩主もいるほどだ、という話も聴いたことがあるが、充分納得できる。

Img_50137s 天守から降りると外では「ひこにゃん」が待っていた。この彦根城築城400年祭にあわせて作られたキャラクターだ。かわいいにゃん。
しかし長浜では「島左近」をもじって「しまさこにゃん」が居るってどれくらい知られてるだろう。一度対決してほしいものだ。

Img_50144s 北側から天守を写す。このアングルが勇壮だ。朝早くから大勢の人で賑わっているが、この一角はあまり人がいない。この左下、黒門に向けて坂を下りたがここも登るとしたらかなりしんどいぞ。下りではやくも左膝が痛くなってきた。関節が持病のように痛むのだけど、朝からハードとなった。まだまだ今日はいっぱい歩くのに・・。
これから彦根駅へ戻って「近江鉄道」を訪れる。。

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2007年4月 8日 (日)

今年の金沢の桜!

Img_47100s 土曜日に街に桜を撮りに行った。ちょっとくもりがちだったけど、夕方から21世紀美術館の講演会を観るための合間に、昼で終わった仕事のあと急いで帰ってからチャリで出直し。日曜まで無料開放の兼六園の前はすでに大勢の観光客などで賑やか。んで僕は金沢城から入ることにした。
といっても途中までは兼六園側の登り道、満開の桜のトンネルから辰巳櫓下石垣(本丸南東隅から四段の石垣)を撮る。広坂から注目度一番のここに櫓が建つのはいつの日か?熊本城では全ての櫓が復元中というのに・・。





Img_47125s 昨日までぐずついていて気温も低かったので、まだ総じて満開とはいかない。明日もいい天気のようだし、明日の午後は一番の見頃をむかえるのだろう。今日はまだ雲も多く、桜もより白く見えてイマイチ。
石川門の櫓の漆喰は風雨に汚れてちょっと景観を損ねているがこれも近年に修復する予定。
Img_47139s 鶴丸倉庫を下から見上げる。この建物は日本の城郭内の建物として現存するのはきわめて希で、しかもこの大きさや二階建てというのはここが唯一である。石川門や三十間長屋は重要文化財となっているが、これは明治になってから旧陸軍が建てたという説もあったりして全く注目されていなかった。金沢城周辺を世界遺産に、という動きもある中で、鶴丸倉庫の存在意義を高め、重文認定への働きかけもこれからである。よく視ると屋根と壁の間に隙間があり、風通しよいようにしてある。