古地図

2009年12月24日 (木)

「地図中心」に江川達也登場!!

091224_212045 地図マニアのバイブルのひとつ、日本地図センター発行の月刊「地図中心」に革命が起こった!!

定期購読してるんで今日、郵便受に入ってた雑誌に、ああ地図中心が来たな、と思ったらなにやら見慣れぬ表紙が。
お堅い誌面で頭から最後まで綴られてるこの本にしては、突然マンガチックな子供ウケでもしそうな表紙に、正直見た瞬間は愕然とガッカリしてしまった。

ところがよくよく見ると、「特集 江川達也連載開始 地図漫画 脳内散歩地図」
ええっ、するとこの表紙は江川達也デザイン??

漫画家江川達也は知る人ぞ知る地理地形地図フェチ。あのタモリ倶楽部にも準レギュラーで、東京の地形探訪の回には必ず顔を出している。
そうか、その江川達也が「地図中心」に描いてくれるんだな。

ページを開くともっとオドロイタ!Macを駆使して東京の1/10000地形図や明治の測量原図に等高線などを加工して、延々と30ページに亘って用水の歴史やそれにまつわる想像図を面白く紹介してる。僕らが手軽にできない地図上での夢想イメージを、彼の手で具体的にカラー画像とマンガで見せてくれる。元々それが永年の趣味だった、というからもっとビックリだ。

地図を加工する時間も能力も少ないけど、同じ趣味を求めてる人がこんな有名人でもいるんだと思うとスゴクうれしいですよね。全48ページしかないのに30ページも江川達也のマンガで占めさせるなんて、地図センターの英断にもオドロキましたが、これは一回目のスペシャル。これからの連載は4ページくらいだって。

NHKの「ブラタモリ」など、最近は江戸の地誌を追う街あるきが流行ってるみたいだし、またゆっくりあちこち歩き回ってみたくなりましたよ。この週末は空いた時間どうしようか、まだ未定なんだけどw。

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2009年9月23日 (水)

日本の水準はどこにあるのか?

Img_118680z その後は永田町へ。週が明けて水曜には新しい内閣が出来る、今一番ホットなスポットを目前に、一体何しに来たんだ?というと別に国会議事堂に用があったわけではありません。
しかし新政府誕生を前に、なにやら工事してますな。

Img_118684z 僕が用事あったのはここ。国会議事堂前庭の、憲政記念館がある側に、あったありました。
地図マニアの聖地のひとつ、日本水準原点標庫
水準原点とは、日本全体の標高を決めるために、その元となる高さの基準を設けたもの。この国会前の、国土地理院の前身、旧陸軍参謀本部陸地測量部のあった安定した台地の上に、明治24年に竣工設置されました。
Img_118687z 安定した、というくせに、関東大震災で地盤がわずかに沈下し、設置時点の標高(東京湾平均海面T.P.)24.5mから現在は、24.414mになっています。
原点はこの建物の中にあり、これはそれを保護するための標庫。石造りのローマ風神殿建築のすばらしさから、千代田区の特別登録有形文化財として登録されています。
「點原準水」というレリーフと、扉の菊の御紋が厳かですね。
Img_118691z 小雨がきつくなってきました。予定してませんでしたが、隣接する憲政記念館に入ることにします。今ちょうど国会が盛り上がることになるでしょうしね。
土曜午前では来場する人もまばらで、ゆっくり静かに落ち着いて見ることができましたが、それでいいんでしょうか?
Img_118694z 中は基本的に撮影禁止でしたが、一部OKのところだけちょっと。
国会議事堂の現在の模型です。左脇の衆議院の一部が現在工事中でしたね。自民党・民主党の議員控室のレイアウト変更にも関係してるんでしょうか。


Img_118695z 議場の中の模型です。展示では、国会開設からの歴史がつぶさに紹介されてましたが、もちろん教科書以上に貴重な写真映像や書物、肖像画などもあって大変興味深い。これも国立で当然運営されてるわけで、もっと外向けにアピールしてほしいですね。

Img_118697z 撮影OKのブースに模擬議場がありました。7/10のスケールでコンパクトですがモノホンに近いです。





Img_118701z どっかの町議会議場にピッタリかも知れませんが、雰囲気は出てますねw。






Img_118703z 実際、このモケットに座ってみました。テレビではあんな狭いとこに・・、とか思ってたんですが、意外に余裕ありました。
ふっかりしてても90度なんでシャキッとしますし、居眠りなんてね・・w。
名札は出席時に立てて退場時に倒すようになってます。賛成票の白票、反対票の青票は机に数枚ずつ用意されてるんですね。

数日後には新しい日本の政治が始まる時に、タイムリーな体験ができて面白かったです。

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2009年7月 5日 (日)

映画「劔岳 点の記」に感動☆

090705_210721 待望の映画「劔岳」点の記、を見てきました。地図フェチとしては外せない作品で、2年前の地図力検定を富山でやったときから注目してました。
新田次郎原作で、明治時代に三角点測量のため今の国土地理院の前身である陸軍参謀本部陸地測量部の測量官が未踏の剣岳を踏破するという実話に基づいた作品。
邦画の歴史ともいえる50作もの映画の撮影をしてきた木村大作氏初の監督。既報のとおり2年に亘ってCGや空撮を使わず実際にキャストとともに登山を続けて撮った、超リアルな映像。過酷な天候や大自然の山々の迫力に立ち向かう執念は、映画の原点を思わせる圧倒的なスケールを観るものに与えてくれた。
浅野忠信のとつとつとした中にある強い意志、香川照之の深い演技の幅。長い過酷なロケで、男たちに芽生えた高い仲間意識はスクリーン越しにも強烈に伝わってきました。

山のすばらしさ、怖さを改めて教えられました。そして三角測量では、何万点もの標柱が山々に埋められているわけで、明治以来の先人の努力で今の地図があるんだなぁと、いまさらながらに思い起こされました。2年前の雑誌「地図中心」にも特集され、主人公の柴崎芳太郎は知ってましたが、当時から軍部で評価されなかった彼の業績は、新田次郎の小説を経てこの映画で見事世間に認知されたと思います。「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大事です。」という古田盛作の言葉が心に残りました。

ところでこれは、すばらしい富山県の映画になりました。まったくうらやましいです。けど8月にはオール石川県ロケで、パラグライダーがテーマの青春映画「RISE UP」が公開します。パラグライダーといえば獅子吼高原。予告では空からの金沢平野と日本海がきれいでした。今までめったに劇場に行かなかったのに、去年あたりからちょくちよく観るようになりました。また次が楽しみです。

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2009年1月 4日 (日)

「金沢は"城下町"じゃ」小京都にあらず

Img_70176s  地元の「北國新聞」に2年に亘って連載してた、北陸新幹線開業後の問題提起をした「ふるさと探査2014年」が年末に終わりました。そこで今年からはその北國新聞が出版してる雑誌「アクタス」で大西巷一が連載中の漫画、「おてんば珠姫さま!」主人公の珠姫が活躍?する、「金沢は"城下町"じゃ」が今日から始まりましたよ。
戦災に逢わずに、藩政期の遺構が街並の各所に反映している城下町金沢の魅力をあますところなく伝えてくれる、新聞一面にデッカク載ってる連載コラム。第一回は金沢の街に二重に張り巡らせていた惣構堀という金沢城の外堀機構。今でもその七割方が残ってますよ。

珠姫とは、前田家三代利常に幼少から嫁いだ、二代将軍秀忠とお江与の娘のこと。漫画ではまだまだ子供でおてんば振りを発揮する元気なお姫様を演じてて、コラムでもその調子で読者に金沢の歴史を教えてくれるみたい。
珠姫が言うには、城を中心として、堀と土居で防御された遺構の残る金沢の街は、京都とは全く違う武家の街じゃ!ということ。小京都と言われる面々もいらっしゃるがお門違い。
写真の「加賀国金沢之絵図」でもその構造ははっきりお分かりいただけるでしょうか。

これから珠姫がどんな金沢の魅力を伝えてくれるのか、連載が楽しみになってきましたよ。

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2008年11月20日 (木)

新「南町」探訪会

Img_102084z フォーラムが終わったあと、参加者を半分の50人にして、南町探訪会に出発しました。前石川近代文学館長の香村幸作氏を先生に、新しい南町を一周します。こういった歴史探訪のイベントに常に参加されてる方も多いようで、先生は「私が解説しなくても充分ご存知の方の顔も何人もいますなw」。僕のようなサラリーマンの若輩者には真似できませんな。
Img_102090z 南町とは、金沢城が加賀一国を治めた一向宗の拠点「尾山御坊」のころからの寺内町で、御坊の南にあったことからついた名です。前田利家が入城し金沢城になり、城の西側に移転されても「南町」の名は残したまま、城下の中枢を形成する町の格付け最高位の「本町」のひとつであった最も古い町のひとつでした。
天保年間・大正時代・昭和初期の古地図のコピーを見ながら、狭い路地を大集団でそぞろ歩く探訪会です。
Img_102093z 文化ホールの裏です。明治期になって、このあたりにはりんご畠が作られ、長野、青森に負けないくらい古い栽培地になる可能性があったそうです。しかしうまく育たず断念。このお宅に唯一、カイドウリンゴという2~3センチのかわいい実がなる当時からのリンゴの木が残されていました。
江戸期の金沢の古地図、特に今回参考にした天保年間の金府大絵図は、その縮尺の正確さも一級品で、長い距離間でも数メートルしか狂ってないそうです。江戸期から太平洋戦争にかけても一度も戦災に遭ってない金沢では、古地図と近代・現代の地図を重ねても、道路がそのまま残っているのが多く、かつての場所が特定しやすいのです。
Img_102094z 表通り、国道157号線に出ました。今も昔も商店・事業所のビルが建ち並ぶ、金沢のビジネス街の中心です。なぜここに企業が集まったのか、実は正確な理由は定かではないといいます。南町交差点ですがしかし、このすぐ北側はもう上堤町(予定地)です。
Img_102097z 南町バス停です。バス停があるので最近までてっきり南町の町名は現行だと思ってました。金沢のバス停は古い町名を名乗っている箇所がたくさんあります。それも町名復活の呼び水になっているかも。
そんな金沢でも、実は2エリアほど、昭和30年代の新住居表示に反対して旧町名が残った区域があります。当時の政治力もあったんでしょうか。片町の隣、大工町から池田町・水溜町・里見町・杉浦町あたり一帯と、日吉町・折違町・柳町・玉井町・木の新保町など金沢駅周辺です。
Img_102099z 尾山神社の前、「南町」のまちしるべに来ました。[旧]の字が埋められ、新しく「南町」だけとなりました。先々週埋めた部分にカバーされてたやつです。旧町名が復活しても、「旧」文字を埋めただけで、しかも色も違ってわりと目立ったままなのが不自然に思ってましたが、単に予算をケチっただけでなく、「旧」だったのがなくなって復活したんだぞ!というのをアピールするためだという、市長の深謀遠慮の結果だそうで、それは恐れ入りましたww。
ここんとこ、取材に来てた北國新聞のカメラに写され、新聞に写真が掲載されてしまいました。フォーラムの写真とともに、僕の後姿が載っかっていますw。
Img_102102z 尾山神社の境内で、ひととおり解説後解散です。小一時間ほどでしたが、気がつくとあたりはもう薄暗くなってきました。北陸の晩秋は日が落ちるのが早いです。
この尾山神社は、正確には旧金沢城内であったここ金谷出丸に、明治6年に藩祖前田利家を祀るために建てられました。なので江戸時代にはなかったのに、よく小説で書かれることがあるようです。
Img_102105z 写真の神門は、明治8年に造立され、オランダ人による設計ですが津田吉之助によって建てられた、和・洋・唐様混在の珍しいデザインです。
見えるように、避雷針が立てられた日本最初の建造物で、重要文化財に指定されています。城の出丸ですから一段高いところにあり、往時は海からの灯台代わりになったともいいます。
夕方5時にちょうどなりました。ステンドグラスの中から明かりが点ってきましたよ。







Img_102106z_2 数分で明るくなりました。水銀灯でも入ってるんですね。こんなちょうどいいタイミング、偶然でも初めて見ることが出来ました。
曇ってますが、一日なんとか降らずにもってくれましたね。充実した、金沢の再発見のできた休日でした。












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2008年11月12日 (水)

古地図とめぐり合い、空

Img_101553z S氏と別れて、金沢駅へ行く前に、教えてもらった香林坊の古書店に寄りました。地元石川の歴史書(市史とかも)も多かったですが、古地図はなかったですね。それでもなんとか、古い石川県の地図があったので買ってしまいました。
昭和13年の石川県全図です。大阪の駸々堂書店発行1/250000図。紙寸法は一尺八寸に一尺三寸、定価金拾銭とあります。
当時の集落、村、郡域が緻密に書き込んであります。鉄道線が太く赤で描かれていて、往時は鉄道がより重要であったことがよくわかります。
裏には石川県の地誌や名勝が郡ごとに、戦前の文字・言葉で解説されて、とても趣きがあります。じっくり読むには時間がかかりますね。とてもいい買い物をしました。
081101_163619 古地図といえば先日、近所のスーパーで塾のオーナーが秘蔵の肉筆の古地図を展示していました。金沢城や加賀藩領の絵図などその他さまざまにありました。
肉筆というのもたいへん珍しく、しかも詳細に描かれているので興味深く拝見しました。
081101_163706 加賀藩士の子孫から7年前に譲り受けたということで、こういう小規模な展示会でしか見られないのはもったいないので、ぜひどこかで常時公開してほしいですね。ちょっと無断で写メしてしまいましたが、広く紹介するということでご勘弁くださいw。



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2008年8月16日 (土)

「絵図でみる金沢城」

Img_90350k 16日から雨模様です。せっかくの休みでもまぁ最初からどこへ行くつもりもしてなかったので、家で読書ですな。撮り溜めてたテレビ番組も見ながらエアコンがんがんかけてたら、頭が痛くなってきましたww。
さて、県庁に行ったのは、写真の本を買うため。県が発刊している、石川県金沢城調査研究所の成果、金沢城史料叢書6「金沢城全域絵図と三御門絵図」と7「戸室石切丁場確認調査報告書Ⅰ」です。
Img_90334k 金沢城の絵図は以前にも、金沢市史の別冊資料編で複製を手にしてますが、この本は金沢城全体をカバーしている絵図を年代とその用途別に、かなりふんだんに掲載しています。一口に城絵図と言っても、初期の簡略化した図や、幕府に提出する必要のあった図、城の修理を願い出た図、内部の建物を配した図など、多岐にわたり、それらが火災などで消失してしまわないよう、写しも多数残されたりしています。城下の地図はその秘匿性から、幕末まであまり出回らないものでしたが、城の図はそういう必要性から、かなりの種類が作られ、各家老家などにも残されてたようです。金沢城は江戸期に亘って、大きなものでも3度火災に逢っています。その都度城域の構造が改変され、櫓や長屋など再建、創建されています。天守など残念ながら、江戸初期の1602年の火災から再建されていません。
Img_90340k 江戸期から現在まで現存している建物は、石川門三十間長屋、そして先日内部を見た鶴丸倉庫で、いずれも国の重要文化財となりました。初期の石川門は現在と違い、二の門は南向きだったようです。時代による構造物などの変化も、このおびただしい城図の変遷を見比べて、研究する楽しみがありますね。
写真は県庁19階の展望スペースからの眺め。14日はスッキリ晴れてたんですがね。

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2008年8月14日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」27 達成!

Img_90239k 東山周辺へチャリを飛ばすのに、先日の被害のあった浅野川を跨いだ。川の水は普段どおりの少なさになったのに、まだまだ濁ってたので、それで上流域を見に行こうと思ったわけで・・。主計町中の橋の橋げたの木製の覆いがかなりひどくはがれていた。ひと月前来た時には美しい姿だったのに。
主計町も復旧して営業再開の店がほとんど。夏休みなので客足も早く戻ってほしい。
Img_90240k [旧金屋町(かなやちょう)]No155 もと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造したのでこの名がつけられ、元和の初め、この地に移されたという。金谷町とも書いた。


Img_90243k 森山の路地裏に入って。
[旧大衆免(だいじゅめ)]No157 この付近は昔、神宮寺の大衆の免田で、税が免除されていたのでこの名がついたといわれ、明治初年には大衆免を冠する町が十八あった。
ここは大衆免竪町。18町を代表してここだけ石碑が置かれた。
Img_90248k 東山寺院群の中に入って、来教寺の前。
[旧小川町(おがわまち)]No154 藩政時代は、川(河)端町、西養寺前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治の初め、上、下小川町に改められた。
東山寺院群はさまざまな宗派の寺があり、ここは天台真盛宗。神社は興味があっても、お寺にあまり興味もてないのは、宗派が乱立してるからだろうか。キリスト教でも、カトリックがプロテスタントの教会へ行くことはないだろう。日本はそのへんがあいまいなのがどうかと思う。
Img_90249k さらに自転車がやっとの路地を通り抜け、結構奥まできましたよ。
[鴬町(うぐいすまち)]No152 この地はかつて幽谷で、鶯が多く、鶯谷と呼ばれていたことにちなみ、明治になってこの名がついた。
この上は松尾神社です。「夏子の酒」でもあったように、酒蔵が崇拝するお酒の神様、「松尾さま」ですな。
Img_90252k まだ11時ごろだと言うのに、ここまで登ってきて汗だくだく。鳥居前は朝顔のトンネルを作って少しでも涼の気分を、ということだろうが、それにしてはまだ貧弱だった。こんな暑い日に誰も訪れる人は居ないw。



Img_90255k 東山界隈でのラスト。宇多須神社の裏を廻って坂の途中から入った。
[子来坂(こきざか)]No325 慶応3年卯辰山が開拓された時、作業に出た住民多数が子供が来るようににぎやかに登ったのでこの名がついた。今はこらい坂と呼んでいる。
町名も今は[こらいまち]。この坂を登りきったらまだまだ寺や景観などみどころはあるようだけど、そういうのは今度別のテーマで廻ろう。今日はなんせ暑い!
Img_90272k 東山からチャリで午前のうちに一度家に戻って一服。午後から車で浅野川上流へ向かう。その前に現在建ってる石碑のラストをいよいよ撮ることに。錦町にある
[大瀧坂(おおたきざか)]No307 かつてこの坂の脇には、辰巳用水から台地下の田畑を潤す流れが、大きな滝のように流れ落ちていたことから、この名がついた。
今は瀧はないですな。
これでとうとう[まちしるべ]全制覇!216種219箇所。あとは現在歩道工事中や破損中で建ってない[河内町][同心町]だけ。復活したら撮りに行かねばならないね。
また、この後もいくつか建てられるだろうから、チェックは必要。けどこれで、金沢検定に出ても、どの町がどこだったかしっかり頭には入ったから大丈夫。

あなたも、金沢へお越しの際は、この細長いグレーの石碑を探してみてください!

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2008年8月13日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」26

Img_90188k さて、長かった「まちしるべ」のレポートもあと2回ほどです。今年の夏は毎日暑いですが、なんとか午前中、しかもチャリで廻るぶんには前回より楽です。ホントは秋にじっくりと思いましたが、S氏も制覇されたので急いで達成することにしました。
長町武家屋敷の端のほうに来ました。
[旧穴水町(あなみずまち)]No94 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。
Img_90189k 穴水公園の中に石碑があったんですが、ここは昔の女学校があったところ。ばぁちゃんもここを出たようですが、それを記念した石碑が建ってます。平成になってから、こういう記念碑が多くなったような気がします。昭和は遠くなってるんですね。

Img_90192k 玉川公園の北側、金沢玉川図書館の脇です。
[旧宗叔町(そうしゅくちょう)]No99 元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。
以前は専売公社の工場だったんですが、敷地のほとんどを市に開放し、その後残ったJTの事務所も今、玉川こども図書館として工事中です。西金沢に移ったたばこの工場も先日閉鎖が決まり、たばこ離れの勢いは激しいですね。能登にはたばこの有名な産地もあるんですが、時代の趨勢です。僕は吸わないのでいいんですけど。
Img_90195k 金沢文化ホールの裏です。
[高岡町(たかおかまち)]No82 越中高岡に隠居していた二代藩主前田利長が、家臣を高岡からかえし、この地に住まわせたため、この名がついた。
ここにあった高岡町中学校は、郊外の神田に移転したけれど、校名は約そのままの高岡中学校ですw。
Img_90199k 尾山神社の前へ来ました。この前を流れる辰巳用水は暗渠にされていましたが、先日から開渠化する工事が始まり、今月中には完成です。
様子はかねがね気になってましたが、だいたい想像どおり。しかしもう少し幅広く開けてほしかったですかね。初詣のときに落ちないように気をつけてくださいw。






Img_90205k 江戸時代から続く老舗料亭大友楼の敷地にあります。
[旧松原町(まつばらちょう)]No87 もと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち御門前松原町といった。
大友楼は金沢駅の駅弁を作った最初の店でもあり、4月の金沢駅開業110周年イベントでも、特製駅弁を売ってました。江戸時代の弁当箱など、古い伝統ある道具なども多く所有され、よくテレビで紹介されたりしてます。
Img_90206k 金沢城の丸の内駐車場の脇です。
[旧西町(にしちょう)]No86 金沢御坊の西にできたのでこの名がついたといわれ、のち尾山城(金沢城)になってからできたという説もある。佐久間盛政が金沢御坊を攻め取って西町口を城の大手とした。
写真の建物は金沢商工会議所です。市からの説明会を聞きに何度か訪れています。
Img_90209k 50mほど北へ行くと目的の坂ですが、ガイド本の地図だと坂の途中にあるはずの石碑を覗こうとしたら、写真のガードマンに一般立入禁止といわれました。たしか県の施設があったはずです。「石碑を探してるんで・・」と言って坂の下にあるのをすぐに見つけました。
[甚右衛門坂(じんえもんざか)]No321 天正八年佐久間盛政の攻撃をうけたとき、本願寺方の浪士、平野甚右衛門が奮戦、討死した坂なのでこの名がついた。

さてここから、一気に東山まで走ります!

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2008年8月12日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」25

Img_90163k では石碑を追ってチャリで駆け抜けよう。目標はやはり2時間、午前のうちに廻りきること。
犀川鉄橋からすぐの長土塀町内。
[旧竹田町(たけだまち)]No90 加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた。
全くの住宅地の中で、朝からカメラで道を撮ってると、あやしいことこの上ないですねw。ちゃっちゃっと済まして次いきます。
Img_90168k 北陸本線の高架脇に来ました。
[旧藺田町(いだまち)]No102 古くから、金沢地方でも広く藺(い)草を栽培して畳表を作っていたが、慶長以前頃から小松表を用いるようになったので、城下の作付は廃止された。当時このあたりは藺田であったため、これを町名としたという。
Img_90171k 北陸本線南側には、新幹線の高架建設の真っ最中です。金沢駅から白山車両基地までの用地買収も進み、市内でもこのように工事が始まりました。
この金沢駅から犀川橋梁までの区間は、在来線が平地を走っていたころの土地なので、収用の必要はなく、高架の工事も本格化していますが、一転犀川以西はまだ住宅が細かく密集。まだまだ時間はかかります。
Img_90173k 三社町の通り。ここから市中心部へ戻ります。
[旧蔦町(つたまち)]No101 加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治の初めこの名がついた。
いまさらですが、この旧町名碑を建てる基準を。大正13年以降の金沢市編入地域は当分の間除く。明治25年の改訂区画を基本とする。昭和38年に、新住居表示制度が施行された、以前の町名。
なので、まだいくつかこれからも新たに設置されると思います。
Img_90180k そこから狭い路地に入りました。
[旧七曲り(ななまがり)]No95 藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった町筋であることからこの名がついた。三社七曲りともいった。


Img_90183k 県の女性センターの横へ出ました。
[旧三社五十人町(さんじゃごじゅうにんまち)]No98 藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことからこれを冠称にこの名がついた。
ここ一帯は三社町以外に十町が三社を冠していたので、代表して五十人町に石碑が置かれました。
Img_90186k 昭和大通りに出ました。
[長土塀(ながどへ)]No91 藩政時代、この付近に長、村井、今枝などの武士の下屋敷があり、外囲いの土塀が長く続いていたので、この名で呼ばれている。
石碑の隣に、なにやら碑が建っています。「金澤市長 徳田与吉郎」とあるので、かなり古いと思いますが、車道側になにか書いてあるだろうという意識までなかったので、確認せずにやり過ごしてしまいました。後日再確認ですかねw。

では、明日に続きます。

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