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2011年5月31日 (火)

「加賀八家と本多家」特別講演会

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29日は加賀八家の筆頭である本多家にまつわる講演会に友人と大雨の中行ってきたよ。
加賀藩には一万石以上の家臣が幾家もあり、中でも由緒ある家柄の八家を加賀八家と呼して特別な家格と扱われていた。
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今回のテーマは二部構成で、まず本多家末裔当代のご子息、本多俊彦高岡法科大准教授「知行宛行状と叙爵にみる『加賀八家』」から。
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最初に当代、本多政光氏のごあいさつが。最初の写真の藩老本多蔵品館の館長である。
今回は当館での特別展を記念しての講演。
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続いて本多俊彦氏。本多家は代々『政』の字が継がれてきたのに、突然関係ない名前に。それにこの親子全然似てないww。
まぁそれはさておき本題に。

知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)とは藩内において主君から家臣に与えられた知行(領地や給与)の割り当てを示す文書。知行地の場所や知行高が明示されている。代が替わるごとにも発行された。
これに加賀藩独特の特徴があると解説。

形態が折紙から五代綱紀時に竪紙になったり、紙質も米粉を混入した白い奉書紙から檀紙、そして黄色い料紙になるなど。時代が下るにつれ大きな変化があった。
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そして与えられる者の身分によって、形式や文言、果ては文字の崩しまで厳密に決められ差を付けていた。
「殿」の字のバリエーションにもいくつもの崩しがあるとは。下位の者には「方へ」とかで済まされてるとか・・。
加賀藩はかなり公式の文書が各家に残されている(戦災に遭っていないのも大きい)ので、最近は博物館で見る機会も増えてきたが、まだまだ古文書の崩し字はよく読めない。同じ字でもこれだけ違うのだからムリもない。
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書面にはもちろん、藩主の署名にも差をつけてる。八家には実名と花押がちゃんとあるが、平士には印判だけとか。
宛名書の高さも細かいほんの僅かの段差をつけている。

それと叙爵。武蔵守とかいうあれだが、参議もしくは従三位以上の高級貴族を公卿というが、公卿は宮中に参内する際、諸大夫に任官した家臣を供奉する。大名が公卿になると、その必要性から大名家家臣が従五位下に叙されて諸大夫に任じられた。
これを陪臣叙爵(ばいしんじょしゃく)という。江戸時代通してとなるとその陪臣叙爵があったのは、徳川御三家と加賀前田家だけだった。
前田家当主は極官で従三位参議[宰相]。最大4名の叙爵陪臣を持てた。
そして八家の中で最大五万石の本多家と、宗家に近い前田土佐守家の二家が別格として優先されてほぼ常に叙爵されていた。
本多家は主に安房守。前田土佐守家はもちろんその通称どおり土佐守だ。土佐守資料館には歴代の、朝廷よりの任命書である「口宣案」と「宣旨」がいつも陳列されているよ。
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後半は長谷川孝徳、北陸大学教授の「八家の職務内容」。
他藩ではナンバー2以下を家老と言うが、加賀藩では年寄とか人持組頭という。江戸時代は軍政。戦国時代の軍制をそのままに行政組織として整え臨戦体制に応じられるようにしたので、そういう軍役の名称がついた。
加賀藩の家老とはその下にいて、いわゆる官僚の仕事をしていたし、年寄が合議で重要な決定事項を決めていた。時代が下るにつれ藩主の意志は直接には反映されず、そういった官僚構造は幕府の老中機構はもちろん、明治から現代に至るまで、なんとも変わらないものだったよう。

話はそれるが江戸期も九十歳以上生きた者も多かったようだし、今と同様老齢報奨金みたいのがあった。
藩財政のうち半分、多い藩で7割もが参勤交代や江戸藩邸での経費で、地方の藩は財政難になりながらも、道中や江戸にかなりの金を落とし経済に貢献してきた(週刊『江戸』によると加賀藩は参勤交代だけで銀330貫、約8億2500万円にも及んだって)。今、東京都に地方へ文句言われる筋合いないってww。

最後は脱線したけど、ちょっと専門的すぎて難しかったかな?
たまにはいいでしょう。それでも、古文書はゆくゆくはもっと読めるようになりたいね。

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コメント

本多さんは入り婿ですよ

投稿: | 2011年6月23日 (木) 16時35分

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