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2011年3月 3日 (木)

兼六園の成り立ちに大きな影響を及ぼした前田斉広★

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今日は「金沢城大学」。例によってお年寄りにまじって勉強会だ。

いつも木曜開催のとうとう来週で最後を迎える全8回中、参加6回に到達し修了証をいただけることになった。修了証はほしかったがホントにもらうことになるとは・・。

今回はまた広い県立美術館の大ホール。歴史・文化コースと合同の公開講座で200人くらい集まったけど、昼間雪が積もってやはり出足は遅かった。40分前で5人くらい。早めに到着するのに慣れちゃったねww。

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さて今日のテーマは兼六園の成り立ちについて加賀藩12代前田斉広(なりなが)と竹沢御殿に焦点。

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文政のころの絵図に、今の兼六園のところに「竹沢御殿」と「蓮池御庭」とある。なりたちはこうだ。

蓮池とはかつての百間堀のこと。それにそった上段の細長い場所に作事所があったが5代綱紀が移転させ庭を造営(蓮池の上)。今の瓢池などがあるところだ。

そのさらに上段の霞ヶ池などがある今の兼六園のメインのところは、かつて宝円寺と波着寺があったが移転し藩士たちの屋敷地だった。それも綱紀が火除け地として収公。しばらく藪地として放置されてた。
それをそこに11代治脩が明倫堂など学校を創設した。

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そして斉広の時代、病気を理由に国許で引きこもったうえ、隠居を幕府に願い出てその住居として学校を移転させて広大な屋敷を造営した。それが竹沢御殿。

写真の上が石引側で正面。60間半(110m)の堀と辰巳門(76間4尺3寸・139m)を構え、隠居と言えど幼い息子に代わり政務をここで執ったので表・中奥・奥と、江戸城本丸と同様の設備を持つ。

他に今の金沢神社である竹沢鎮守天満宮、金沢の名の由来の金城霊沢、馬場もあった。

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辰巳門の一部は今も成巽閣の正門の塀として現存している。

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ところで「兼六園」という名は、楽翁こと松平定信がつけたことで有名だが、文政5年(1822)9月のことで、そのとき藩主斉広は引きこもり中で江戸へ発っておらず、嫡子勝千代(斉泰)が相続願いのためも兼ねて将軍家斉にお目見えしている。そこで定信への揮毫依頼は斉泰一行に託された可能性がある。

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しかしこの時点では竹沢御殿は健在。今のようなすべて園地ではなかったわけで、はたして「兼六園」と命名された地域はいったいどこからどこまでなのか?

竹沢御殿の書院の前に、みごとな泉水の庭が見える。水の流れや石灯篭の配置まで、ほぼ今と同じだ。

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当時の絵も残されてるが、どこかで見たことないだろうか?

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そう、先週見た七福神山の景色だ。竹沢御殿健在のときも、すでに立派な庭園があったわけで。

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先ほどの竹沢御殿の絵図を見てもらうと、下部の蓮池御庭との間に門が見える。これが水樋上御門という長屋門で、「兼六園」の扁額はここに掛けられていた。別名「兼六園御門」と称されるここが、兼六園の入り口ではないか?
すると今は文句なく園内の瓢池周辺から蓮池門~桂坂あたりのいわゆる「蓮池御庭」が、実は兼六園じゃなかったことになる。

既知の人も多かったかも知れないが、僕には新鮮な話だった。

他にもこの特異な斉広の興味深い話題を講師の長山直治氏からいろいろ聴けておもしろかった。
気鬱の病が深く引きこもりで数年来参勤せず、ついに40歳で隠居。隠居所は金谷御殿(今の尾山神社の場所)と決まってるのに、陰地でイヤだと見晴らしのいい今の兼六園の場所を学校を退けても所望。
能を死ぬ前の1年半に105回も挙行。五十番囃子というぶっ通し演には自ら28番も舞う。
金沢では花火はかぶきもののひとつとして禁止してたのに、自ら城内で揚げさせて庶民を喜ばせたり。などなど・・。幕府で禁止されてた金箔製造の保護も斉広の実績のようだし。

まだまだ加賀藩史は奥が深いなぁと再確認したが、お年寄りに混じるのも最初のころより抵抗なくなってきたww。
なんとか惑わずにいきたいけどね。

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