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2010年10月27日 (水)

伊能忠敬に逢ってきた!

Img_703273z 地図マニアの崇拝対象、伊能忠敬の測量210年を記念しての「完全復元伊能図全国巡回フロア展」に行ってきました。
去年から全国を順次廻ってるのは知ってましたが、ここ金沢では今回、金沢工業大学の学園祭にあわせて、23・24日に同校第二体育館で開かれたのを、矢も立てもたまらず一番で乗り込みましたよ。
Img_703274z 地図ネタも久しぶりですが、このビッグイベントを取り逃がすともう二度とお目にかかれないでしょうし、伊能忠敬研究会名誉代表渡辺一郎氏の講演とあわせてみっちり2時間堪能しました。

開館時間ちょうどに乗り込んだのに、関係者や研究者、報道など含めもう会場はたくさんの人。早速ながら加賀能登周辺も人だかり。
Img_703277z 一口に伊能図と言ってもピンとこないでしょうが、伊能忠敬がメインとなって10次17年にもわたる測量の成果としての地図は、正式には「大日本沿海輿地全図」。
大図1/36,000・214枚 中図1/216,000・8枚 小図1/432,000・3枚 というもの。
大図を正しくすべて広げるには、50m四方も必要となる膨大なものです。
Img_703280z さらには何をそんなに興奮するべきことなのかというと、伊能図は幕府提出の正本以外に、その製作意図や模写の程度によって、副本・写本・稿本・模写本などさまざまなバージョがある。
しかし正本は維新時に明治政府に引き継がれた後焼失してしまい現存せず、そのほかの図も関東大震災などで失われたりバラバラに散逸して、半分以上は不明のままでした。
Img_703292z しかし2001年になんとアメリカの議会図書館に大図の模写図が207図も発見され、俄然その全貌に近づきました。
そしてまだ未発見だった6図も全く近年になって、国立歴史民俗博物館や海上保安庁で見つかり、とうとうほぼそのすべての図貌が明らかになったってわけです。
そしてそれらを一望できるチャンスは、ごらんのようにこんな体育館とかを使わなきゃならんということで、その希少さをわかっていただけたでしょうか?
Img_703295z 伊能忠敬の事績は、もう語る必要もないくらいでしょうけど、50歳で隠居して天文学の道に進んだこと、10次の測量のうち最初の2次は自費で発ったこと、足掛け17年、35,000km5,000万歩にも及んだこと、そしてなにより、日本の国土の姿を明らかにして、国家百年の計を地でいったことなど、他に比するものがありません。
Img_703301z ではその一部を早速見て行きましょう。

まず当地金沢です。沿海ってからには、基本は海岸線を測量し、必要に応じて内陸の街道や山の方角も測りましたが、金沢の場合宮腰(金石)から金沢城下に入ったものの、近在の村の名もないところ、加賀藩では最低限の協力しかしなかったのではないかという説があります。
Img_703302z もっと言うと非協力的って。けど金沢以外、こうやって能登とかは詳細になっていますから、決してそうではなかっのでは。
畳3畳ほどの能登半島は豪快ですね。




Img_703306z 七尾湾の海岸線も複雑なのがよくわかります。
写真を拡大したら、村の名前とかも読めますか?




Img_703311z 大図の中でいちばん美しいと言われる富士山です。
アメリカで見つかった大図は旧陸軍が模写したものでほぼモノクロでした。それに彩色を施してみたわけですが、山肌の緑が美しいこの国会図書館蔵の図を参考にしたそうです。

Img_703312z 江戸周辺です。ここも精緻でサスガ大都会を当時からも思わせますね。

右側に二つある丸いカラフルなマークはコンパスローズと言って、実はあそこで隣の図と分かれています。図の端に半分ずつ描いて、つなぎ合わせる目印になる接合記号というわけです。
それぞれが微妙に違って、そのマークの緻密な美しさにも見とれてしまいます。
Img_703317z_2 こちらは名古屋周辺です。名古屋の読者も多いものでw。
尾州居城とあるのが名古屋城。1803年当時なのに名護屋と書いてありますね。熱田神宮まで海のそばだったのは古地図で知ってましたが、名古屋の方たちも御存知でした?

Img_703346z_2 10次に亘る伊能忠敬の測量の中でも、あまりに海岸線が複雑なため、10数人の測量隊を二手に分けて進んだところもかなりあります。
奥能登においては七尾周辺は忠敬が、輪島一帯は平山郡蔵が廻っています。


Img_703353z_2 この大図の他に中図・小図があって、それは極端に小さくて中図で8枚で済みます。
しかしこれも数奇な運命のもとで発見されました。

それはフランスの片田舎の粗末な別荘の屋根裏から偶然見つかったというもの。

Img_703354z_2 1970年ころに家の持ち主のペイレ博士が屋根裏を整理していたら発見。珍しいものということでとっておかれたのを、渡辺氏が本物の中図の副本であることを確認。しかしそのまま所蔵されていて数年たったら、保存状態が悪く急激に劣化。


Img_703355z_3 急いで日本国内で買い取ってもらえる会社を探して、今は日本写真印刷㈱が所有されることに。そしてなんとか修復してこうやって皆さんの目に入るようになりました。

元の地図はたくさんの種類が複写含めて存在したものの、多くが焼失や散逸するなど不遇な運命の下だったようですが、その再発見も度重なる偶然の産物。そんな数奇な運命には、なにか忠敬の想いも深く込められているような気がしてなりません。
Img_703332z_3 最後に、伊能忠敬がいかにすごい人だったかの究極を。

この伊能図の複写を元に、明治17年以降になって輯製二十万分の一図が陸軍参謀局によって作られました。内陸は明治になって調査したものの、沿岸と街道は伊能図に依存。
そしてその後三角測量の上新しい帝国図として順次置き換えていったわけですが、それは明治後期から大正期にかけて、そして最後まで残ったのは昭和4年。なんと伊能図は108年も残ったということなのです。

他に地図に使用した紙は3層に漉いた特殊な和紙だったとか一度ぬらして完全に乾かしてから描いたとか、語りつくすにはまだまだ誌面が足りません。

けど渡辺氏の話の中で一番印象に残ったのは、伊能忠敬は戦前の修身の教科書に載ったとおりの、なにも特別な天才とか能力のあった人ではない。物覚えも良いほうではなかったようだし、言われるような特殊な商才で巨万の富を残したわけでもない。
ただ、50歳を越えての新しいことにチャレンジした勇気、長年かかって日本全土を測った根気と執念、精度を高めるために払った工夫と努力の跡を思って、混迷の現代を生き抜く元気をもらって欲しい、ということ。まさにそのとおりと思いました。

この度外れた彼の業績を靴下の下に踏みしめながらww、身近に逢えて教えをいただいたような気がして、少しばかりの勇気が出てきた想いです。

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