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2008年11月

2008年11月30日 (日)

同い年の「0系」最後の勇姿

Img_88237z とうとう新幹線「0系」いちおう最期の日がやってきてしまいました。ひととおりニュースも見ました。
前もってわかっていても、なかなか山陽道まで行くことが出来ず、指をくわえているしかありませんでした。なにしろダイヤ的にも新大阪口で、早朝深夜しか逢う事ができないのでは、遠くの者としては制約が多すぎです。
ザンネンながら廃止が話題になってからついに行けませんでしたが、僕と同様東京オリンピックの申し子として生まれてきたw新幹線「0系」、引退となると自分の身に重ねて衰えを感じずにはいられません。やむなく写真は東京駅のN700系と700系です。
0系は下に紹介した本を買ってDVDで懐かしむこととします。東海道スジとあまり縁がなく、0系に乗ったのも多分数えるほどしかありませんでしたが、みなさんの思い出はいかがなものでしょうか。

追憶 新幹線0系 (キャンDVDブックス)

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著者:持田 昭俊

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2008年11月26日 (水)

前田家墓所も国の史跡指定に

Img_102209z 雨を突いて、そのあと野田山に登り、「加賀藩主前田家墓所」にやってきました。
このたび文化庁文化審議会で、金沢市の前田家墓所と富山県高岡市の前田利長墓所をまとめて、ひとつの国史跡に指定するよう、文部科学相に答申されました。早ければ来年1月にも指定されることになります。
これを機に、家からすぐ近い野田山でしたが、まだ訪れたことのなかった前田家墓所に来てみたわけです。
Img_102221z 野田山は江戸期から墓地が営まれた土地で、歴代の加賀藩主とその正室などが葬られるだけでなく、多くの武家や町民、そして現代でも新たに造営される区域もある、一大メモリアルパークとなっています。でも、僕の一族は別のところに墓があるため、野田山は近くても縁のないところでした。前田家墓所も前田家私有地と思い、各墓地を訪れることができるようになってるとは思ってもみませんでした。
Img_102213z まず入口に一番近い、前田利長の墓です。野田山の前田家各墓地は神道様式で、正面に鳥居があり、三段方墳の姿をしたまるで古墳のようになっています。
藩主と正室・側室の墓が80基もあり、全国の近世大名の墓所でも異彩を放つ有数の規模で、深遠な森の中と相まって江戸時代最大大名の風格もただよっています。
Img_102216z 柵の中をライブビューで撮りました。先年より、国の史跡指定をにらんで、巨木の伐採・柴刈・掘割の発掘など、一部調査や整備がされ、想像よりはすっきりしてましたが、この落葉で墓や地面は一面に覆われ足元は雨にすべるほどでした。
墓石はなく墓碑が墳墓の正面に建っています。「贈正二位行権大納言兼肥前守菅原朝臣利長之墓」と読み取れます。
Img_102225z 前田家の家紋は梅鉢紋。菅原道真と同じく、その子孫を名乗ってましたから、墓碑には菅原氏の名前が刻まれいてるわけです。
芳春院、すなわち利家正室、「松」の墓です。見る人がみると、赤い落ち葉に覆われてキレイとなるんでしょうか。巨木の根が残されてますが、せめて墳墓についた木は、そこまで大きくなる前に取り除けなかったのかと思います。
Img_102229z 藩祖前田利家の墓です。この墓地だけは柵があって正面に行けませんでした。利長や他の墓よりかなり巨大で、その偉大さをつぶさに感じました。高尾の天皇家の墓所の厳かな雰囲気に負けないくらいとは言いすぎかも知れませんが、そのくらいスケールの深さを思わせる威厳があるようです。
しかし史跡として訪れる人を誘うのならば、もう少し足元を歩きやすくしてほしいですね。
Img_102237z 野田山の高い斜面に連なっている墓地群は、下の墓に下りる坂はかなり急で、今日は雨の落葉に滑りそうです。
そんな中やはり利家の墓は上の方にあるわけですが、一番最上段にあるのは、織田信長の娘で利長の正室「永」、つまり玉泉院の墓です。主君の娘を下にできないわけで、さらにその隣には、利家の長兄「利久」の墓があります。信長の命で家督を利家に譲り、後に客分として金沢に来て城代ともなった利久の、墓を最初にこの野田山に造営したのが始まりでした。
高岡にある利長の墓所と一括して国史跡指定される予定で、県境を越えてひとつの史跡となるのは全国で16例目だそうです。その利長の墓所は昨年訪れましたが、これも巨大な墓地で、大名個人の墓としては全国最大級の規模です。
米沢の上杉家墓地や、仙台の伊達家廟所など、大名の墓所は案外に史跡として訪れられるようになっていますが、金沢では整備されてませんでした。前田家の私有地の部分もあり、あまりおおっぴらには立ち入れませんが、ここも歴史を偲ぶ金沢のひとつの名所としてより広く認知されたらと思います。

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2008年11月25日 (火)

最新まちしるべ「あかり坂」完成

Img_102196z 連休最後の日は、おとなしくしようと思いましたが、これを逃すとまたいついけるか判らないので、冷たい雨の中市内を何箇所か廻ってみます。
まずは「あかり坂」。主計町の裏路地の小坂で、隣にある「暗がり坂」にあわせて、作家の五木寛之氏が命名しました。命名というか、小説にされたんですけどね。8月に、11月にまちしるべ標柱を建てると新聞記事にあったので、今か今かと待っていました。そしてこの20日に序幕され、五木寛之氏も来県して式に参加。この機を逃さず早めにチェックです!




Img_102200z 石碑は今までのと違ってさまざまな特徴が。まずは命名の由来が五木寛之氏自身の文章で書かれ、「あかり坂」の文字も氏の手によると思われます。また、碑の上部には、この主計町にゆかりのある泉鏡花の文学賞の正賞である「八稜鏡」がはめ込まれています。
「暗い夜のなかに明かりをともすような美しい作品を書いた鏡花を偲んで、あかり坂と名づけた。あかり坂は、また、上がり坂の意(こころ)でもある。 平成二十年秋 五木寛之」






Img_102203z_2 この「あかり坂」に通じる道は、主計町の茶屋の路地でもことのほか狭く、そぼ降る雨を突いて出てきたんですが、傘が家の壁や庇をつつくようで、やむなく閉じて歩いたくらいですw。
小説になるくらいに金沢の情緒がほのかに宿る、この狭い路地をみなさん、探しにきませんか。
小説「金沢ものがたり 主計町あかり坂」も探してみてくださいw。



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2008年11月24日 (月)

河北門復元寄進記銘会のご案内

Img_82110s 河北門復元の寄進事業で、ようやく記銘会の案内が来ました。それによると、当初12月だった日程が、来年1月10日(土)と正式決定。その日は休みなので、頑張っていってきます。
早速平瓦壁板の寄進、合わせて10,000円也を振り込んできました。金銭的余裕は全くないのに、ですw。
平瓦は一の門とニラミ櫓台の海鼠塀のもので350口しかなく、昨年の応募以来3ヶ月で完売。しかし壁板は2600口もあるので、先日の報道でようやく52%の1344口に達したとあります。まだ半分近く残っているので、一口5,000円、県民にどんどん応募してほしいです。というか、まだまだ石川県のアピールが足りませんね。
熊本城の復元寄付は全国に募って億という額が集まったといいます。金沢城はそれに比べると募集の規模も小さいのに、集まる口数も少ないです。まだこれからも、橋爪門二の門や玉泉丸庭園、辰巳櫓に二の丸御殿と、復元計画は目白押しなのだから、寄付を大々的に募ってもいいのにと思います。
さて、当日に目掛けて、毛書の練習でもしとかなきゃいけませんねww。

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2008年11月23日 (日)

日々進む景観整備

Img_101196z 先日の寒波で、北陸でも早い目の積雪があってあせりました。冬の準備はまだ誰もしてなかったくらいで、車もこの連休にスタッドレスに換えなくちゃ。けどミゾがつぶれてるので新たに買う必要があり、ここんとこの資材高騰でタイヤも例外なく、結局なんやかやで5万近く掛かってしまいました。22日は他に、通院で1万、書籍で6000円、そして某PCで35,000円と、10万ほど出費。またも江戸が遠くなりましたw。
Img_101290z それで23日はおとなしくしてるんですが、先日来のことをあれこれ。金沢城石垣回廊が、現在尾山神社である金谷出丸との間の鼠多門周辺の市道の部分まで完成。最初の写真の玉泉丸石垣の下部にも歩道ができたようです。ようですというのは、まだ行ってないからで、金沢の天気もいよいよ冬モード、冷たい雨続きで外歩きは思うにまかせません。
だもんで先月に城歩きしたときの写真で濁してますが、尾山神社の前の用水を開渠化したあとの写真を。戦後にここ一帯はかなりの距離ふさがれたんですが、最近のこまちなみ保存事業の一環で、金沢の歴史的景観のひとつである各地を流れる用水を再び見えるようにしようと開渠化工事が進んでいます。
しかし結局数メートル分のわずかな長さ。橋というほどのこともありません。
Img_101288z そこでこの用水についての解説板があります。しかしこれも、尾山神社に向けて正面にあるわけでなく、尾山神社側からしか見ることが出来ず、さぁ今から、と尾山神社に来られる人には気がつきません。
そして、「辰巳用水」と表記してあるのも問題視され、物議をかもしました。
用水が出来たときは、「西内惣構堀」とされ、辰巳用水完成後は、その水の一部がここに流されたことから、辰巳用水の分流扱いになったわけです。
Img_102109z 結局、「西内惣構堀」跡、と修正されることになり、先日の南町探訪会のときに確認しました。写真は一緒ですが、説明文はかなり変更されてましたよ。

それと、主計町から登る小さい坂に、「暗がり坂」と「明かり坂」がありますが(作家の五木寛之氏が命名)、暗がり坂だけだったまちしるべの石碑が、明かり坂にも先日設置されました。これも近いうちにチェックしに行かねばなりませんw。金沢の歴史的景観保護のための整備は、日夜進んでいるんですよ。

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2008年11月20日 (木)

新「南町」探訪会

Img_102084z フォーラムが終わったあと、参加者を半分の50人にして、南町探訪会に出発しました。前石川近代文学館長の香村幸作氏を先生に、新しい南町を一周します。こういった歴史探訪のイベントに常に参加されてる方も多いようで、先生は「私が解説しなくても充分ご存知の方の顔も何人もいますなw」。僕のようなサラリーマンの若輩者には真似できませんな。
Img_102090z 南町とは、金沢城が加賀一国を治めた一向宗の拠点「尾山御坊」のころからの寺内町で、御坊の南にあったことからついた名です。前田利家が入城し金沢城になり、城の西側に移転されても「南町」の名は残したまま、城下の中枢を形成する町の格付け最高位の「本町」のひとつであった最も古い町のひとつでした。
天保年間・大正時代・昭和初期の古地図のコピーを見ながら、狭い路地を大集団でそぞろ歩く探訪会です。
Img_102093z 文化ホールの裏です。明治期になって、このあたりにはりんご畠が作られ、長野、青森に負けないくらい古い栽培地になる可能性があったそうです。しかしうまく育たず断念。このお宅に唯一、カイドウリンゴという2~3センチのかわいい実がなる当時からのリンゴの木が残されていました。
江戸期の金沢の古地図、特に今回参考にした天保年間の金府大絵図は、その縮尺の正確さも一級品で、長い距離間でも数メートルしか狂ってないそうです。江戸期から太平洋戦争にかけても一度も戦災に遭ってない金沢では、古地図と近代・現代の地図を重ねても、道路がそのまま残っているのが多く、かつての場所が特定しやすいのです。
Img_102094z 表通り、国道157号線に出ました。今も昔も商店・事業所のビルが建ち並ぶ、金沢のビジネス街の中心です。なぜここに企業が集まったのか、実は正確な理由は定かではないといいます。南町交差点ですがしかし、このすぐ北側はもう上堤町(予定地)です。
Img_102097z 南町バス停です。バス停があるので最近までてっきり南町の町名は現行だと思ってました。金沢のバス停は古い町名を名乗っている箇所がたくさんあります。それも町名復活の呼び水になっているかも。
そんな金沢でも、実は2エリアほど、昭和30年代の新住居表示に反対して旧町名が残った区域があります。当時の政治力もあったんでしょうか。片町の隣、大工町から池田町・水溜町・里見町・杉浦町あたり一帯と、日吉町・折違町・柳町・玉井町・木の新保町など金沢駅周辺です。
Img_102099z 尾山神社の前、「南町」のまちしるべに来ました。[旧]の字が埋められ、新しく「南町」だけとなりました。先々週埋めた部分にカバーされてたやつです。旧町名が復活しても、「旧」文字を埋めただけで、しかも色も違ってわりと目立ったままなのが不自然に思ってましたが、単に予算をケチっただけでなく、「旧」だったのがなくなって復活したんだぞ!というのをアピールするためだという、市長の深謀遠慮の結果だそうで、それは恐れ入りましたww。
ここんとこ、取材に来てた北國新聞のカメラに写され、新聞に写真が掲載されてしまいました。フォーラムの写真とともに、僕の後姿が載っかっていますw。
Img_102102z 尾山神社の境内で、ひととおり解説後解散です。小一時間ほどでしたが、気がつくとあたりはもう薄暗くなってきました。北陸の晩秋は日が落ちるのが早いです。
この尾山神社は、正確には旧金沢城内であったここ金谷出丸に、明治6年に藩祖前田利家を祀るために建てられました。なので江戸時代にはなかったのに、よく小説で書かれることがあるようです。
Img_102105z 写真の神門は、明治8年に造立され、オランダ人による設計ですが津田吉之助によって建てられた、和・洋・唐様混在の珍しいデザインです。
見えるように、避雷針が立てられた日本最初の建造物で、重要文化財に指定されています。城の出丸ですから一段高いところにあり、往時は海からの灯台代わりになったともいいます。
夕方5時にちょうどなりました。ステンドグラスの中から明かりが点ってきましたよ。







Img_102106z_2 数分で明るくなりました。水銀灯でも入ってるんですね。こんなちょうどいいタイミング、偶然でも初めて見ることが出来ました。
曇ってますが、一日なんとか降らずにもってくれましたね。充実した、金沢の再発見のできた休日でした。












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2008年11月19日 (水)

「南町」町名復活フォーラム

Img_102057z 今月1日に金沢で9例目となった復活町名「南町」を記念して、フォーラムと探訪会が15日に開かれ、今年新しくできた地元「北國新聞」の交流ホールへ行ってきましたよ。
講演会場は100人ほどしか入れない大きさなので、出席応募には往復ハガキの抽選。前々日にやっと当選案内がきました。
この新しいホールは演劇のできる、創始者の名を採った赤羽ホールも併設。初めて入りました。
Img_102063z 新しくて明るいホール入口には「南町」の古い写真も展示。明治期から金沢のビジネス街の中心部として栄えた「南町」の発展の様子が残されていました。
今日の基調講演は作家の村松友視氏が50分カツカツ話してくれました。


Img_102066z ところが開会してまず、もりのみやこ少年少女合唱団の合唱でスタート。3曲もすがすがしい歌声を披露してくれて、心が洗われましたが、しかし唐突の場違いさ?にビックリ。テーマがテーマだけに、出席者はお年寄りが多く、子供たちの純真な歌は心に響かせる効果大なんでしょうか。
Img_102069z それでは早速村松氏の講演です。
氏は泉鏡花賞受賞後には、現在は審査員も勤め、毎年のように金沢を訪れて知己も多く、さまざまな縁から今年、金沢の茶屋街合同の「金沢おどり」の新曲「金沢風雅」の作詞もされ、金沢に深いかかわりを持たれた作家のお一人です。
氏の育った静岡での面白いエピソードを交え、地元の町のよい点の価値は気づきにくく、エトランゼ(異邦人)の視点こそその価値の再認識を喚起させてくれる、と教えてくれました。
Img_102070z 今回の南町は、その前の8町と違い、200社を超える一般事業所、特に全国組織の金沢支社が多く、単身赴任者の支店長などもいらっしゃる。まさにエトランゼが南町の町名復活のカギを握っていたわけですが、困難と思えた意見集約がみごと成し遂げられたのも、この金沢の魅力あればこそでした。
Img_102074z パネルディスカッションに移り、山出金沢市長なども出席。
昭和30年代の新住居表示法にともない、約300もの由緒ある町名がなくなりました。今般の町名復活は、単にノスタルジックだけでなく、地元への意識が離れていっていることから、地域への誇り、コミュニティの参加意欲などの回帰を目指し、その町の価値と魅力を再認識する意義があります。
しかし復活への道のりには課題も多く、費用や手続きも嵩む上、住民の総意が必要なのは言うまでもありません。
Img_102075z その中でポシャった町も少なく無いようですが、山出市長が最初に選んだ?主計町(かずえまち)と飛梅町(とびうめちょう)は、町の規模は決して大きくなく、意見集約に負担が少ないだろうという戦略?によるものでした。その考えは功を奏し、今では茶屋街や住宅地8町が復活してます。
そこで今回の南町は、初のビジネス街への挑戦。住居表示が変わってから40猶余年経っている今、昔日を知っている方が残っているうちに運動しないと、今後の復活はままなりません。
Img_102076z 200以上の事業所の説得にあたった商工会長の白尾歯科の白尾氏は、多かったであろう労苦を口にせず、復活運動という波風を立てたことで、南町の歴史や魅力を掘り起こせたと喜ばれていました。
町名復活による住民負担は、住所変更の各種手続や登記がありますが、市からの助成として、個人世帯には15,000円、事業所には100,000円が払われます。また、住民・印鑑登録、登記簿謄本の表題部、各種保険証などは、市が自動的に変更し、免許証・車検証、金融機関の口座や商業登記簿は、必要なときやなるべく早め、の届出でいいようです。
Img_102079z 金沢学院大の情報デザイン学科、高屋准教授は、南町は南北の商業繁華街、香林坊と武蔵が辻から、ぜひ歩いて訪れたいが、そのためにはちょっと休むところも必要。そういったサロンの場が、ビジネスマンにも憩いとなって、街を想う活性化のきっかけになるのでは、と提案。
金沢の街は歩きと自転車が相応しいとは、山出市長の主張でもある。エコも絡めて、新幹線後の市内交通のあり方は、ぜひガソリンバスにのみ頼る方法から脱却してほしい。
Img_102080z 旧町名復活の動きは、今のところ金沢独自のもの。郵便効率優先で国から推し進められた新住居表示に、率先して実施した金沢市だが、改めて町の歴史と文化の価値に気づき、町名復活による新たな刺激で魅力を高める活動が続けば、来る新幹線ルネッサンス?にも対応できるまちづくりができるでしょう。
ところで質疑応答の時間は取れなかったが、ぜひ山出市長に言いたかったのは、こうやって金沢の「まちしるべ」などblogやネットで採り上げるのは、僕と友人の2人だけ?なのが現実なので、ぜひもっとIT最先端の若者向けにも大いに発信し続けてほしい、ということですw。

次回はこのあと、新南町エリアの探訪会の様子を。。

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2008年11月18日 (火)

初の山口へ出張旅行4

Img_101920z さて山口のレポートも最終回です。萩では松本川の東岸、松下村塾一帯に来ました。松下村塾のホントすぐそばに、伊藤博文の旧宅があって国の史跡になっています。その隣の敷地は公園で博文の像が建っています。これは萩焼でつくられたいわば[陶像]。とても珍しいですね。小振りにも見えますが実際これくらい小さい人だったそうです。
Img_101922z こちらが旧宅。茅葺の小さな家ですが、7室もあります。ただの古い民家なのに、国の史跡にまでなるのは、初代総理大臣の家だからでしょうが、にしても萩は偉人の生家や旧家が多いですね。生家が残されるというのは、単なる歴史上の人物というより、先時代の権力者という部分も多分にあると思います。指定が昭和7年という戦前であることもそう思えるフシのひとつです。
Img_101925z [長州ファイブ]という案内板もありました。
文久3年(1863)に長州藩の後押しでイギリスに密航留学した若い5人を、現在イギリスでも顕彰してそう呼ぶそうです。
伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤勤助ですが、何人知ってますか?
クールファイブみたいな呼び方も初めて知りましたが、この密航が秘密裏に許可されたものなら、吉田松陰の捨て身の密航未遂はいったい何だったのか!と無念に思いますね。
Img_101931z 伊藤博文旧宅に隣接して、明治40年に東京に建てた別邸の一部が移築保存されています。広大なはずの別邸すべてでなく、玄関、大広間、離れ座敷の3棟を改造接続したものですが、その造りは有名な宮大工の手によるもので、精緻な造りや意匠が施されていました。
ここのボランティアガイドのおじいさんが、わりと熱心に解説されるので有名らしく、ガイドさんたちは常にここで時間オーバーを気にしなきゃいけないそうですw。
Img_101938z さて松陰神社の敷地です。ここには松下村塾もあります。
松陰の有名な辞世の句?である、「親思ふこころにまさる親ごころ けふのおとづれ 何ときくらん」の歌碑があります。
松陰の短くも波乱に満ちた一生はそれだけで大河一作にも匹敵しそうですが、みなもと太郎「風雲児たち」愛読者としては、早く松陰のクライマックスを読みたいものです。
Img_101942z 松下村塾全景です。「風雲児たち」で予備知識はありましたが、わずかの小屋を改造したところから始まったといいますから、想像のとおりとても小さく質素な建物です。ここのわずか2年半の間に、明治維新の立役者や新政府に活躍した多くの逸材が出たわけですからオドロキのものです。
Img_101945z この8畳の講義室からすべては始まりました。こうやって外から開け放しで見通せるわけで、今日は天気がいいからいいようなものの、悪天候だと中の畳や調度が湿気でやられないか心配です。
ここでガイドさんも言わなかったエピソードを、「風雲児たち」から引用。この建物は、門下生が増えたので増築したわけですが、松陰が門下生とともに増築工事中、屋根上から漆喰塗りしてたある門下生が、あやまって土を上から落とし、下を通りかかった松陰の顔を直撃してしまいました!
しかし松陰は怒るどころか、「ホントに師匠の顔にドロを塗った!」と大笑いしてウケたそうです。その後事あるたびにそのことを言いふらして、真面目一辺倒の松陰唯一の愉快な出来事として記録に残っています。
Img_101949z 隣接する松陰神社です。というか松下村塾を含む広い敷地が、松陰を顕彰して山口県から神域として奉納され、明治40年に伊藤博文他の手によって神社として祀られました。やはり日本人は、偉人となったら神として祀られるケースが多いですね。東京の東郷神社や乃木神社も行ってきました。往時はこのあたり畠だけだったらしいですが、今や一大観光エリアです。
Img_101956z さてそろそろ萩を離れますが、山口県のガードレールはそのほとんどが、こういうオレンジ色に塗られていました。注意喚起のためと思ったら、特産の夏みかんをイメージしたものらしく、条例で県管理の道はすべてこの色になってるようです。
今度山口に行くことがあったらぜひ注意してみてみてください。
Img_101960z ようやく丸二日間の長旅も終わりが近付いてきました。といっても帰宅まではまだ5時間以上かかります。旧小郡新山口駅まで来ました。ここから新幹線に乗って新大阪まで戻ります。新幹線ホームから広い在来線ヤードが一望なので、思わず撮りまくりです。
Img_101963z 新山口は山口線の基点の駅。山口線用のキハ40系も集結してるようです。
今回は山口市内は行くことが出来ませんでした。山口線はSLやまぐち号でも有名で、SLにも一度乗ってみたいものです。


Img_101986z N700系のぞみ44号が入線してきました。小郡時代は重視されてなかったこの駅も、県庁所在地の一部になったとたん、のぞみが12往復も停まるようになって、山陽新幹線沿線の各県に必ず停まってるわけで、山口県の面目も施されたことでしょう。

Img_102048z 薄暮の中、入線してきたN700系のえも言えぬ先頭車の微妙な曲線フォルムが、屈曲した光のラインも鮮やかに描いて、神々しくも美しく見えたのはひいきスギでしょうか。今回0系を見ることあたわずだったので、せめてこの未来の車両を堪能することにしましょう。
あぁ、言い忘れてましたが、行きで広島から新岩国まで100系こだまに乗り換えましたが、あの旧グリーン車の深いシートにはビックリしました。ぐっと沈み込むあの感触は、長く乗っていたい、という落ち着き感をかもし出しますね。かなりいいです。全シートあれにすればいいのに。
Img_102052z 帰りの車窓から、徳山でのコンビナートの夕景です。失敗しました。全く準備してなかったのでシャッタースピードを設定できませんでした。
今回の狙いのひとつに、工場を撮る!というのを想定してて、製紙工場は内部撮影禁止で、宇部の夜はセメント工場では光ってないだろうしと、半ばあきらめでしたが、ここでこんなシチュエーションが用意されているとは。徳山のコンビナートは美しいと思ってましたが、新幹線の車窓ではいいロケーションないだろうと思って心積もりしてませんでした。肉眼では夕闇せまる瀬戸内と、金属がライトに輝く構造物とのコントラストが、北陸ではなかなか見ることの出来ない情景となって、この旅行最後にプレゼントしてくれたおみやげに思われました。しかし撮れなかったのはザンネンな心残りです。

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2008年11月17日 (月)

初の山口へ出張旅行3

Img_101853z まだ13日です。山道をくねくね通って、やっと昼には萩に到着しました。橋本川と松本川に挟まれた、狭い三角州に築かれた萩の街は、関ヶ原で敗北?した毛利家が入城してから、広島から共についてきた約10万人の武士や町人で栄えました。藩政期の古い建物や路地も数多く残っている、典型的な城下町です。
写真は藩校の萩明倫館。当時の建物をまだ萩市立明倫小学校として使われてます。萩明倫館といえば小山ゆう「おれは直角」ですねw。その意味で見て感動しました!
Img_101856z 中心部には中央公園が整備中で、そこでバスが駐車できます。徒歩で細い路地を歩くと、幕末のままの家並みが続いてます。すると当たり前のように、青木周弼木戸孝允の旧宅が建っていました。
今でも一般の方が住まわれてるのも多く、最近まで無料で中を覗けましたが、10月から最低でも100円徴収するようになったそうです。
Img_101861z こちらは重要文化財の「菊屋家住宅」です。城下の真ん中にド~ンと2000坪もある敷地が残されてます。ここに見学に入りましょう。
藩政期初めから萩藩の御用商人として栄え、藩の用宅にも使われたことから、400年近くにわたりその体面と建物を大切に維持してきたそうです。
Img_101878z 見た目は金沢にも似たようなものはありそうですが、金沢は意外に古すぎる建物は少ないです。寛政11年(1799)の地震などで城下は火災や大破したからですが、萩は火災も少なかったでしょうか。すごいですね。



Img_101887z 高杉晋作の旧家に来ましたが、ここも一般の方が住まわれてます。華道の家元さんのようですが、写真の絵図は菊屋家の土蔵に大きな屏風でありました。その複製画を300円で売ってるってことで、受付のおばさん(この人が家元さんじゃないよねw)に買いにいったら、今品切れ中だって。夕方にはって言われてもねぇ。ザンネン。萩城は雲で隠してあります。サスガ。
Img_101889z 部屋はだいたいこうやってパネルとかが展示してあります。下の写真は高杉晋作ですが、光に反射してよく見えませんね。
駆け足で見るにはフラストレーションの溜まる充実ぶりです。この菊屋家や各旧宅のある一帯が萩城下町界隈として国の史跡指定を受けてます。
Img_101892z このあとお昼ごはんに行くんですが、バスは一旦、指月山のふもとで駐車、料亭?のマイクロバスに乗り換えです。
しかし街中からでもよく見えるはずの指月山を捉えるチャンスがなかなかありません。バスの中で橋本川を渡るときにやっとの思いで撮りました。今回は城跡に行く時間はありませんでしたよ。経年で崩れた石垣の修復現場も素通りしただけなので、撮りそこねてしまいました。
Img_101895z 「城下町」の中にある「北門屋敷」が昼食の場でしたが、一見和風の中、玄関内は洋風にアレンジされた宿泊施設。でもテーブルで和食のコースをいただきました。いちおう、山口に来たんだからカミングアウトしときますと、えぇ、[ふく]はいただきましたよ。昨晩とここでね。しかし、直径10cmほどの小皿で申し訳程度w。
写真はここにあった1mほどのでっかいカマキリの置物。
Img_101900z バスは今度は松陰神社などに向かうため、海沿いを走ってくれました。やっと指月山のナイスビューですw。しかし萩って沖合いにたくさん小島を従えてるんですね。天気もよくて、ものすごく綺麗に見えます。



Img_101903z 人が住んでる島には当然ながらフェリーも渡ってるとか。すごく行ってみたくなりますねぇ。石川は舳倉島とか能登の奥だし遠いしなにもないし、なのであまり経験無い、島へ渡るってのにあこがれますねw。あっ、どっかの島には2度ほど行きましたよ、ええ。


Img_101906z この島は相島ですね。海岸はほとんど岸壁。SAで買った地図によると、それでも人は住んでるようです。興味そそりますねw。





Img_101911z 松本川に架かる萩橋には、街灯が夏みかん。萩は夏みかんの産地だそうで、おみやげにも夏みかんを入れたものが多かったですね。後付で鳥害防止のピンが立ててあるのがわかりますか?



Img_101913z 川を渡ったところに東萩駅です。観光地にある山陰本線の駅ということで、1面2線の堂々の有人駅です(たぶん)。今回は団体行動なので、おとなしくしてますが、山陰本線なんてメッタにお目にかかれないですからじっくり探検したかったですね。でも最後新山口駅ではたっぷり撮ってしまいましたw。


つづきはまた明日にしましょう。

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2008年11月16日 (日)

初の山口へ出張旅行2

Img_101817z さてこの日一日は観光となりました。山口県の定番といえばここ秋芳洞でしょうね。
[しゅうほうどう]と理解してましたが[あきよしどう]と読むのが正しいらしい。上のカルスト台地「秋吉台」は[あきよしだい]で、[秋吉]は地名ですね。なぜ文字が違うかというと、昭和天皇が皇太子時代の秋真っ盛りに訪れて、「秋が芳(かんば)しいのう」と謂われたことから[秋芳洞]と文字を変えたそうです。
メインはこちらが入口だけど、中で1kmも登り歩くので、本来からは逆の黒谷口から入ります。





Img_101761z 二重の自動ドアで外気から遮断し、長いコンクリのトンネルを通ると、ようやく奇怪な世界に入ってきました。
さすがに日本一の鍾乳洞は迫力が違いますね。50Dは大活躍ですが、こういうときはフラッシュは焚かずにスローシャッターです。手ブレをこらえてなんとか画になったのを載せますが、実際の目にはもっと暗い空間に見えてます。








Img_101764z 上の石灰岩質のカルスト台地からの雨水が、今もこの鍾乳洞に滴り落ちています。だから、ところどころ濡れてるし、足元に気をつけねばなりません。たまに頭の上にも水滴が落ちてきました。
ご存知の向きも多いと思いますが、これらが数センチ伸びるのに200年ほどもかかるといいます。
おもしろい形になってるものには、岩窟王とかクラゲの滝登りとか、ヘンテコな名前を人間ってつけたがるものですね。




Img_101778z 広い空間に出てきました。洞内は約1kmの遊歩道があり、一部別料金で冒険コースとか未公開洞窟探検コースとかあってちょっとスリルも味わえるようです。なにしろ10kmまでは踏査済みで、まだ奥があるようだそうです。よく外国である水の中を進んでいくのとかテレビでみましたが、そんなのはゴメンですね。
Img_101784z 暗いのにも慣れてきて、手ブレもなんとかおさえられてきました。
しばらく洞窟のフシギな様子をご覧下さい。





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Img_101811z_2 やっと出口が見えてきました。ここまで1km歩いたようですが、あっという間でしたね。やはり下りは楽ですw。













Img_101813z こちら側は本来の入口でしょうけど、駐車場まで結構歩きます。その間、道の両側に観光地ならではでおみやげ物屋が連なってますが、 団体行動でみなさん早歩き、物色するヒマがありません。鍾乳石の切れ端100円とありますがホントでしょうか?









Img_101844z バスで、カルスト台地の秋吉台を走り抜けました。延々とこの荒涼な大地が続くんですが、何万年も経って岩が溶かされデコボコになってるわけで、さらに経つと崩れて溶けてなくなるんでしょうね。春の山焼きはもう下草刈りする人材が少なくて、いつ途切れるか判らないほどだそうです。

さて、このまま萩へ向かいます。

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2008年11月15日 (土)

初の山口へ出張旅行1

Img_101574z 今週は出張に行ってきました。それもほとんど観光旅行みたいでしたがw。
江戸以外の遠出はホント久しぶりです。山口県は足を踏み入れるのも初めてでしたが、山陽新幹線も5年ぶりくらいですね。
新大阪駅を8時30分くらいに行かなければならないので、北陸本線ではサンダーバードの一番電車でも間に合わないところ、待ち合わせの「のぞみ1号」に京都から乗り込むことでなんとか解決。
Img_101587z だからこの写真は京都駅です。のぞみ1号はもちろんN700系。あっ、この車両は1号じゃありませんよ。早朝に数分毎に入線してくる東海道スジの新幹線は、山手線並みの過密ダイヤですね。中間駅の京都でもそれはヒシッと感じます。北陸新幹線のダイヤグラムはどういう頻度になるでしょうか。
Img_101625z せっかくの山陽新幹線乗車ですから、今月にとうとうなくなってしまう「0系」を写したかったですが、新大阪でも早朝深夜しかお目にかかれないダイヤだし、今回は代理店主催の団体行動なので断念です。
ちょっと今月中にまた関西に来るのはムリっぽいですね。
Img_101664z 工場見学があるのですが、まずは広島で乗り換えた「こだま635号」で新岩国へ。
いきなり観光ですw。駅からすぐの、有名な錦帯橋です。ホントなら、そこからすぐ山頂に見える岩国城へ登りたかったですが、滞在わずか30分ではロープウェイにも乗れませんw。
しかしこの一泊二日の行程すべて快晴の、秋のさわやかな絶好の観光日和でした。さすが晴れ男ですな。
Img_101674z ところで、岩国といえばシロヘビだそうです。初めて知りました。藩政期になってから発見され、有益で幸運を呼ぶ守り神として大切に保護されてきました。今では国の天然記念物として、保存会が施設で飼育管理しています。なぜこの辺一帯だけで生息してるのかは謎のようですが。脱皮した全身の皮も展示してありました。キモイですか?
Img_101691z さて肝心の錦帯橋です。この錦川が度々増水するので、藩政期に毛利家の分家吉川家3代広嘉が、頑丈な湾曲した橋を造らせたのが始まりだそうです。
以来近代昭和25年の台風まで流されなかったようです。

Img_101696z それでも2001年から順次、このほとんど木だけで造られた橋の架け替え工事が行われ、そういやNHKでその伝統技術の特集番組していたのを思い出しました。
複雑なアーチの木組みを丹念に計算して組上げていく労苦は、橋桁の下の部分を見るとよくわかりますね。
橋は通るのが有料で、往復300円です。スロープの急なところは階段状になってました。
Img_101705z わりと早い時間だったので最初すいてましたが、戻りになると修学旅行生がわんさかやってきました。引率の先生たちが僕より明らかに年下なのにちょっと愕然??
奥の山頂に見えるのが岩国城です。行ってみたくなる距離でしょうw。ロープウェイ駅の向こうには、白山比咩神社があったと後で気づきました。これは行くべきでした。

このあと昼食をいただいて、さぁ工場見学です。
Img_101712z 工場とは、製紙工場で、岩国からすぐ隣の広島県境、広島県側の大竹市にある、日本大昭和板紙大竹(北)工場です。今年の春まで三島製紙のものだったんですが、日本製紙グループの複雑な合併経緯から、今年にグループ会社と生産工場分社化を整理統合、隣接する元々の日大板紙大竹工場と同一化されました。
工場内は撮影禁止なので外観だけですが、昨今の不況下から生産用紙のダブつきのため、現在休転中。倉庫内にもたくさん製造後の用紙があまってました。
Img_101720z 逆に今、休転を利用してオーバーホール中のマシンの作業を垣間見ることも出来たのでよかったですが、こんなのが何ヶ月も続くと大変なことになりますよ。
工場群のある大竹港です。ここから出荷することもあるようですが、近隣には別の業種の工場も林立し、北工場と本工場との1.5kmの間に、ボイラー蒸気を融通するパイプラインが他社の敷地を通っているのにはオドロキました!
バスからで撮れなかったですが、左枠外には宮島がでっかく見えます。
Img_101730z 日本大昭和板紙の大竹工場の方です。正面にみえる高い構造物は建設中のバイオマスボイラー。チップからパルプを精製するときに出る黒液を燃料として再利用する、近年はやりのエコな施設です。最近はバイオマスボイラーはどこの工場でも常識になってきました。
製紙工場って昔は臭いがひどいって印象だったですが、最近は処理が進んでてあまり匂いません。
Img_101738z さて一気に山口県の中央部、瀬戸内海に面した宇部市にやってきました。ここは宇部興産の企業城下町。専用道路もあって一般の人は利用できないといいます。ビックリですね。
翌朝のホテルの部屋からの眺め。沿岸は工場だらけです。この日も一日いい天気でスタートですw。


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2008年11月12日 (水)

古地図とめぐり合い、空

Img_101553z S氏と別れて、金沢駅へ行く前に、教えてもらった香林坊の古書店に寄りました。地元石川の歴史書(市史とかも)も多かったですが、古地図はなかったですね。それでもなんとか、古い石川県の地図があったので買ってしまいました。
昭和13年の石川県全図です。大阪の駸々堂書店発行1/250000図。紙寸法は一尺八寸に一尺三寸、定価金拾銭とあります。
当時の集落、村、郡域が緻密に書き込んであります。鉄道線が太く赤で描かれていて、往時は鉄道がより重要であったことがよくわかります。
裏には石川県の地誌や名勝が郡ごとに、戦前の文字・言葉で解説されて、とても趣きがあります。じっくり読むには時間がかかりますね。とてもいい買い物をしました。
081101_163619 古地図といえば先日、近所のスーパーで塾のオーナーが秘蔵の肉筆の古地図を展示していました。金沢城や加賀藩領の絵図などその他さまざまにありました。
肉筆というのもたいへん珍しく、しかも詳細に描かれているので興味深く拝見しました。
081101_163706 加賀藩士の子孫から7年前に譲り受けたということで、こういう小規模な展示会でしか見られないのはもったいないので、ぜひどこかで常時公開してほしいですね。ちょっと無断で写メしてしまいましたが、広く紹介するということでご勘弁くださいw。



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2008年11月11日 (火)

石川門、内部公開スクープ!

Img_101501z この日は石川門の内部も公開してました。次の週末まで開いてますから、みなさんも今がチャンスですw。
観光写真でも有名な石川門の、隅櫓の裏手になり、ここから進入です。
永い事住んでますが、石川門の中に入るのは今回が初めてです。
Img_101505z まずは櫓の一階です。急な階段が続いてますが、登るのは禁止でしたw。二層の櫓ですが、階段でいうと三階があるということですかね。
内部はすべて木造ですが、意外と、鶴丸倉庫や三十間長屋で匂った、ホコリ臭さというか、木の古い臭いはあまりしませんでした。
Img_101503z 石川門は現在修復工事中。門と言ってもホントの門部分だけでなく、左右の土塀や櫓、上屋も広義で門といいます。数十年前の修復の時に取り外した鬼瓦の部分でしょうか、展示してあります。金沢城はよく鉛瓦が使われますが、素焼きの瓦の代わりすべてが鉛というわけでなく、木の土台に薄い鉛板を貼っているわけで、それがよくわかりますよね。
Img_101508z 石川門の一の門の屋根です。同様の鬼瓦が見えますね。今回の修復では取り替える必要のないくらい綺麗ですね。





Img_101515z 内部はすごく暗いです。S氏は以前入ったときより暗いと言います。外側が修復工事中だからですかね。露出をあげて明るく撮りましたが、シャッタースピードが遅くてブレてますか。
屋根部の木組みも興味深いですが、建築の知識までは薄いので、今日のところは記録にとどめておきます。

Img_101527z 石川門の枡形の上屋をすべて廻ることができます。格子がジャマですが、窓からの一の門を上から撮る図はメッタに撮れません。ユニークな図柄になりました。もう少し天気がよければ、ちょうど奥に見える医王山もくっきりと映えたでしょうに。









Img_101533z 出口に戻って紅葉と橋爪門続櫓の図です。これもこの位置でしか撮れません。これも青空だったら言うことなしですが。
こうしてみると、金沢城はまだまだ見栄えのするスポットが意外と知られてない気がします。金沢市民でも何度も訪れるに値する金沢城の、北陸新幹線開通に向けて復元工事真っ盛りの様子をぜひ見に来てください!

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2008年11月10日 (月)

河北門の工事現場からお伝えします!

Img_101444z 次はS氏と河北門の工事現場へ。先日から風雪を防ぐ覆いの中に見学台が設けられたので、それに初めて潜入してみます。
昨日から兼六園のライトアップなど、深まった秋に金沢城エリアではイベント企画がたくさんありますが、あちこちに工事の足場で囲われてるのも事実。しかし今しか見られない姿でもあるので、ぜひ訪れてみてほしいですね。
Img_101446z 通路の奥には、危険防止のヘルメットが。定員25名ということで、ちょうどあります。ということは、9時から入場できるけど今は誰も中に入ってないわけで、やはり僕らの行動は一般的ではないのでしょうかw。



Img_101450z 中では二の門の上部の木工事の真っ最中。土曜だけど数人で作業されていて、その様子をじっくり見学できてラッキーでした。
大規模な石垣の積み上げと、人が通る門本体の柱も組みあがり、あとは上部の上屋部分です。来月にも予定される上棟式が非常に楽しみですが、ここまでくると日に日に進捗する姿をしょっちゅう見に来ないと、一気に出来上がってしまいそうです。
Img_101458z パネルもたくさん展示してあったので、ここで河北門とはどういうものか解説しましょう。
明治14年の陸軍による失火で焼失するまで、宝暦大火後安永元年(1772)に再建された河北門は、三の丸に繋がる実質の大手門でした。写真は明治期の河北門。右側の建物がそうで、中央は現在も再建した姿が見られる菱櫓です。
Img_101459z この写真はまさに河北門の二の門です。この古写真が残っていたので、現在復元する石垣のこの面は、この写真の石組のとおり忠実に再現したということです。




Img_101460z 復元の平面図です。観光写真でもよくご覧戴く石川門と同様、小さい門から入って左右どちらかに曲がって大きい門をくぐる、枡形門という形式です。金沢城の場合、外側からの小さい門を一の門、大きい上屋のある方を二の門といいます。熊本城の場合は逆に呼びます。
小さい門から進入した敵を、中央の枡形で足止めして、上屋の上から弓で狙い打つ、という機能があります。
Img_101461z 平面図です。大手側、今の新丸広場から上がってくる面になります。中央が一の門。門扉の控柱にも小さい瓦屋根がある高麗門という形式です。
右側はニラミ櫓台。宝暦大火以前は石川門のように二層の隅櫓が建っていましたが、安永の再建では建造されず、土塀となっています。金沢城の各場所の再建は、史実を尊重しなるべく木造で、過度に創造せず、藩政期のほとんどの時期にそうであったろう姿を再現するということから、大火以前の不詳な部分まで復元しないというスタンスが取られています。
Img_101465z 城ファンからすると本丸天守まで完全に復元してほしいものですが、多大なる費用と、時間を掛けた学術調査が必要ですから、いつになるかわからないほど未来の復元よりも、早いとこ多くの建造物を建ててほしいとも思うので、痛し痒しですね。
二の門の平面図です。広い芝生の三の丸広場に、この威風堂々の建物が来年度末にはお目見えします。
Img_101482z 復元デッサンです。右側に、二の門上屋に車椅子でも入れるスロープが用意される予定です。こうやって、バリアフリーにも配慮して常時見学できるようにする、というのも最近にないウリにもなっています。
完成イメージが掴んでもらえたでしょうか。


Img_101487z 角の柱をクレーンで吊り上げてはめ込んでいるところです。素材の保護もあり、クラフト紙を柱に巻いたまま組上げています。工事の様子をつぶさに見られてうれしいですが、この間何人かは見学に来ましたけど、興味なさげにすぐに立ち去っていきました。僕らは30分ほども熱心に見つめて撮りまくり、充分堪能しましたよw。
Img_101493z 表に出て、ニラミ櫓台の石垣です。正直、ここまで高いとは思いませんでしたが、この内側の枡形からの面は土居が築かれるので、これだけの石を見られるのは今のうちです。図面によるとこちら側に階段があり、台の上まで登れるかと思いますが、そうするとニラミ櫓台から菱櫓・五十間長屋を綺麗に撮れるいいアングルになります。楽しみですね。
しかし、河北門の寄進の払込票、記銘会の案内がまだ来ません。少し工事の予定も押してるようで、スケジュールが気になりますね。

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2008年11月 9日 (日)

金沢城本丸に、最古の庭園跡を見た!

Img_101432z_2 今日は金沢城に、発掘調査の現場説明会に行ってきました。
河北門の工事や石川門の修復と、あちこちでなにかと工事中の金沢城ですが、ここでは何の発掘かというと、本丸の北の端で、江戸時代初期の遺構が発見されたということなのです。
江戸時代中に数次にわたって造成されていたこの地点は、明治に入って陸軍の手によって写真のように切り通しにされ、弾薬庫になってました。
Img_101551z_2 そのためこの崖面を少し掘るだけで、江戸時代の造成の様子がまるで地層のように明確に判別できたというわけです。
するとここは三代前田利常のころの元和期には、庭園だったということが判りました。



Img_101426p 写真の大きな石は、その大きさやしわの景色などから庭石と予想され、一帯は池だったと見られます。
元和6年(1620)の本丸大火後に造営され、寛永8年(1631)の城下をも巻き込む大火後には再普請で埋め立てられ、わずか10年ほどの間の庭でした。
Img_101428p その後二の丸に御殿が造られたので、金沢城本丸は政庁としての機能を失い、現在は深い森になって自然保護の観点から発掘調査はなかなか進まず、金沢城の中でも特に謎に包まれたエリアになっています。早い時期に焼失した天守も、厳密に言えばどの位置に建っていたか詳しいことはわかっていません。
Img_101439z 発掘で発見された人工の石材です。落葉の季節なので横の松葉やケヤキ?の葉は大きさ比較のためではなく偶然にハコに落ちましたw。
今日の説明会の情報は地元新聞に載ってましたが、教えてくれたS氏は到着がギリギリだったので、石川県金沢城調査研究所の方の説明が一通り終わってから落ちあいました。

この後河北門の工事の様子や昨日から公開してる石川門の中を見学に行きます。

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2008年11月 8日 (土)

金石・大野にもまちしるべ

Img_101380z まだ先週末です。
姉を送ってから、母が用があるからと、母の実家の墓がある金石(かないわ)に連れて行かされました。
金石の街を通っている間、おやっ、と道角にあるなにかを発見。よく見ると[まちしるべ]の石碑じゃないですか。金沢のまちしるべより白くて小振りですが、明らかに旧町名の石碑です。
Img_101381z 石碑にも彫ってあるんですが、平成5年に、金沢市に編入されて50周年を記念して、金石の旧23町にこのまちしるべを設置したようです。隣接している大野町も同様です。
帰ってから金石町公民館のHPを調べたら、全23町の町名と謂われが載ってました。しかし設置場所の地図がないので簡単には探せません。いずれかの機会にゆっくり探訪したいと思います。
Img_101385z 母に結構待たされたので、この間に少し金石の住宅地を歩いて、いくつか石碑を見つけられました。厳密に見るとやはり私有地に建っていますね。
金石の街は金沢から真っ直ぐの道を延ばした先の、日本海に面した港町。昔は宮腰(みやのこし)と言い、江戸末期の豪商、銭屋五兵衛を輩して栄えてました。現在は約8,000人以上が暮らすひっそりとした漁港の住宅地。
Img_101387z 石碑の左右には設置年と町名の謂われが彫ってありますが、謂われは不明、というのがいくつかありますw。
それに、やはり金沢同様、ゴミステーションの脇にあるのも多い。設置から15年経ってるので、今現在の街の人からの扱いもぞんざいになってるのかも。

Img_101391z それに、金沢と違って(ここも今や金沢市内だけどね)、石碑が白いので、彫ってある謂われも正直読みにくいです。たとえば[下越前町]に町名と全然違うことが書いてあるので見間違いかと思いましたが、HPによると正解なようです。

Img_101394z_2 金石の街の中心部、金石公民館の前に来ました。中心部だからか、ここの石碑は[金石町]です。この前の道が、細いながらもメイン通り。金石には、太い道は全くなく、昔ながらの入り組んだ小路ばかりなので、初めて来た者はゼッタイに迷いますw。
この左枠外には、ご近所の数人が井戸端会話してましたが、公民館を外側からビシバシ撮ってるあやしげな男は注目の的ですww。
Img_101395z 海岸まで出ましたが、このあたりは今埋め立ての造成中。木塀の隙間から覗き見です。





Img_101399z いやもうちょっと先に行ったら、塀の外へ出られました。先日にも地元の新聞に載ってましたが、かなり広大な埋立地です。しかしまだ、用途は検討中ということで、用途を決めてないのに埋め立てるとは、順序が逆じゃないかと思いますw。
この日は白山のふもとから海まで、往復100kmも車を走らせてとても疲れました。
Img_101415z 金石と隣接してる大野にもまちしるべはありました。いくつか撮りましたが、いずれ再チェックしたときにでも紹介します。大野は全国にも知られた醤油の町。公開中の映画[しあわせのかおり]のロケ地です。
金沢港にも隣接しています。対岸の大浜埠頭は地元重機メーカーの[コマツ]が進出し、大深度岸壁として13mに掘り下げられ、大型貨物船も受け入れられるようになりました。金沢港の貨物取扱量も数年来で格段に増えています。この不況の波がなかったら今後とも順調なんでしょうけど。

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2008年11月 6日 (木)

連休最後の金沢駅☆

Img_101364z 姉を送りに金沢駅のホームに来たけど、レポート魂は忘れないw。
連休最後の文化の日では、街中も相変わらずイベント三昧のようだから、白山ろくから国道ぞいに大きく迂回して金沢駅に着いた。その方が早かったろう。ホームでは観光帰りの乗客で混雑中。
写真は北越急行所有の681系スノーラビット。9両全編成同系のキレイな編成。時々基本6・増結3がJR西と混成することがある。この直後この手前の増結3両が和倉温泉へと旅立った。
Img_101368z 先日から金沢駅では、ホームの列車案内係りとして、女性が各ホームに就いている。前日は姉を迎えに来たとき、金沢止まりのしらさぎの入線が、このホームで良かったか早速尋ねてみたところだ。電光掲示にその次の列車しか表示されなかったからだが、「直前に点きます」というお応えはホントだったw。
おやっ?その後ろの列車、珍しいねぇ。
Img_101374z 思わず、姉を送ったあと一人でこのホームにやってきた。こりゃキハ65「シュプール&リゾート」。今はまだシーズンじゃないから、いわゆる団臨だな。七尾線まで電化したから、金沢駅では気動車はめずらしくなってしまった。京都総合運転所所属で定員56名(1両あたり)とあるから、ちょっとした会社の団体旅行として、そうだ列車を貸しきるってのもいいなw。
Img_101378z 反対側では、サンダーバードの連結作業の真っ最中。和倉から来た増結編成との合体だけど、金沢駅では毎日何回も行われてる。しかし旅行者にはメッタに見られない機会だろうから大勢で取り囲んでるよ。けどこっちも何度見てもやっぱり注視しちゃうね。
家族と付き合う自由のない週末だったけど、ちょっとの隙をねらってシャッターチャンスを追っかけてました。まだ続くけどね。

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2008年11月 5日 (水)

加賀一の宮駅、栄枯盛衰?

Img_101321z 先日紹介した、廃止が決定的となった北陸鉄道石川線の終点、加賀一の宮駅へ行ってきた。と言ってもこの週末は仕事と法事があって、自由時間はほとんどなし。3日に長姉を送りがてら、母親と次姉と姪も連れてドライブとなったわけで。
旧国道ぞいにひっそりと建つ風格ある和風建築は、杉崎行恭氏の日本の名駅舎100選にも選ばれている。
Img_101323z 唐破風の玄関も貫禄のある駅舎は、昭和2年の建立。金名線の華々しさ、白山比咩神社への玄関口として、隆盛を誇ったよすがが偲ばれる。
何もなければタイムスリップした感覚も魅せられると思うけど、「テロ警戒中」はいただけないw。
昼間で、広角といえど18mmではここまでが限界だけど、yamaさんのブログでは幻想的な夜景の撮影をされています。サスガですw。
Img_101327z 連れがいるから駅舎を見るだけのつもりだったけど、運良く1時間に一本の電車が入ってきた。乗ってここまで来るのはまた次回にしようと思うので、あまり写さなかった。
しかし偶然には驚いたが、ここで以前の会社の同僚Y氏とばったり会った。わりと近在に住んでるので、逢わないこともないと思ってたけど、彼もシャシンが趣味のようで、Macのノートから白山の紅葉の画像をたくさん見せてもらった。やはりそんな雄大な画は、そこまで行かないと撮ることは出来ないw。
Img_101336z 廃線のニュースのおかげか、休日のこの日に鉄ちゃんらしき数名が降りてきて、にわかに賑やかな駅周辺に変わった。しかしそれでも数名が限度w。
駅舎前では、マーライオンばりにどこかの子供が車酔いのリバースを大量に披露。我が女どもは僕とY氏の話し込みにかまわず、駅横で長話。一気に騒々しくなった。まぁ時間の余裕はあるから、今日一日は姉にあげたつもりでゆっくり行きましょうか。
Img_101339z ホントは駅の上の白山比咩神社へ来るのが目的。姉に久しぶりに参詣させてあげたかった。初詣に来たことはないが、今年は最後の初詣列車で訪れてみたい。
あっ、忘れてたけど今は七五三の季節。ちっちゃい和装のお子ちゃまたちが入れ替わりでやってきてた。七五三はしてもらった記憶はかすかにあるが、和服など着たことないのは間違いないw。
Img_101340z せちがらいご時世なので、そんな子たちに何気にカメラを向けたら怪しまれるのでw、写してません。
しかしこのビッグな絵馬?には驚いた。版権ムシと思われるメジャーな主人公勢ぞろいで、こんなんアリでしょうか。

Img_101342z 白山比咩神社は今年御鎮座二千百年。10月にはさまざまな奉祝行事が行われてたけど、行く余裕はなかった。しかし今日は明治節。本殿では礼祭がひらかれてた。ちょうどいいタイミングだったのでこちらをちょっと失礼させてもらったよ。

このあと吉野谷まで手打ちそばを食べに行ってから金沢駅まで。


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2008年11月 2日 (日)

[上堤町]復活予定で[堤町]のまちしるべ

Img_101304z 「南町」に続いて来年には、すぐ北側に位置する「上堤町」が復活の予定だ。上堤町の町会がこのたび総会で復活を決議。市長に申し出て手続きが開始される。
現在、下堤町は消えずにあり、両町あわせての「堤町」の標柱がこのたび設置されたので撮りに行った。
[堤町(つつみちょう)]藩政期以前にできた寺内町の一つで、掘り上げた土の堤上に町地ができたことからこの名がついた。寛永十二年の火災を機に西内惣構堀の内からこの地に移された。
Img_101308z この上堤町も南町同様ビジネス街にあり、復活にはビル所有者やテナントの協力が不可欠。しかしここも町会の努力もあり順調に復活の準備が進んだ。正式には現地調査と市議会の議決を経て旧町名復活となる。ここの交差点名は新聞によると[下堤町南]と書いてあるが、現地を見たら既に[上堤町]になっていた。新聞より先にレポートできた!特ダネだww。
この[上堤町]で市内の標柱は222本目(旧北国街道は4本あるので219種)。現在工事などで撤去されてる2本を除いてすべて制覇している。今月はまた主計町の裏手の[暗がり坂]の隣に[あかり坂]が設置されるはず。逃すわけには行かないw。
あっとそれと、来年[上堤町]より先に尾張町に[下新町]が復活の予定、10例目と11例目となる。

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2008年11月 1日 (土)

復活!「南町」

Img_101297z 旧町名復活運動の盛んな金沢で(金沢唯一かもしれない)、9例目の「南町」が本日11月1日復活した。
昭和40年ころの新住居表示制度で消滅した「南町」は由緒ある町名で、一向一揆で有名な一向宗徒が金沢を治めたとき、今の金沢城に位置する尾山御坊を創建後、寺内町として永禄年間(1558-70年)にできた金沢で最も古い町のひとつ。当時は確かに御坊の南にあったが、前田家入城後金沢城の拡張に伴い町民ごと西側となるここに移転。藩政期は町の格付けの最高位である「本町」のひとつとして城下の憧れの土地だった。
現在は国道157号線ぞいの金沢市中心部のビジネス街。大企業の支店や地元有名企業のビルや商店が建ち並ぶ金沢の東京丸の内だ。今までバス停にのみ「南町」の名は残っていた。一口に旧町名に還すといっても諸問題は多い。登記や企業なら自社のすべての書類なども変更せねばならない。新町内になる地元の新聞、北國新聞も表紙の住所が香林坊2丁目から南町2に早速変わっていたが、各企業・住民らは町名の歴史的意義と誇りを重んじて一致協力。約120社すべての賛同を得て今回の復活となった。
写真はまちしるべの町名標柱。「旧南町」の「旧」をセメントで埋める作業後カバーで保護されている[レア]な状態だw。来週末の8日に記念セレモニーがあり改めて除幕される。
ビジネス街初の旧町名復活も、これを契機に街あげて活性化に向けて協力する金沢ならではの動きに、全国からも注目を浴びている。来年はここのすぐ北側の「上堤町」が待っている。

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