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2008年8月

2008年8月31日 (日)

夏の最後の快晴に、鉄と稲穂

Img_90577z 最近は雨続きだったが、いわゆる夏休みの最後にお天道様はプレゼントをくれた。これはもう撮り鉄するしかない。そこでいつもの松任「石松踏切」に来た。
明日から始まる富山の「越中八尾おわら風の盆」のため、非電化の高山線の臨時列車充当に毎年、山陰本線で活躍する気動車が応援に駆けつける。鉄道ダイヤ情報で事前に調べた今年は、キハ65形改造車「旧エーデル鳥取」がやってきた。
Img_90579z 前面展望室改造された「エーデル」シリーズは他に「丹後」「北近畿」とあるが、これらの活躍する山陰本線、兵庫・京都の日本海側は、ここから近くて遠い。のでまだ行ったことがない。同様にキハ65形改造の地元の七尾線旧「ゆぅトピア和倉」は、七尾線電化ののち廃車された。
特急銀座で全国から撮り鉄の多く来る北陸本線だが、ここに他線区の列車を見る機会は少ない。
Img_90610z 今日はなんとも、北陸には似つかわしくない快晴で、空の青も鮮やかだった。来年度から順次工事の始まる、ここ白山車両基地予定地近傍では、今年も稲穂がこうべを垂れて、稲刈りの日を待ちわびていた。雷鳥運用に就く485系国鉄色とともに、あと数年でこの景色は全く見られなくなる。
Img_90602z JA全農で「田んぼ」の写真を公募してたので、まもなく観られなくなるこの風景を投稿しようと思ってたら、本日が締切だった。
今年の稲刈り前の快晴の週末は今日しかないはずだから、このチャンスは二度とないんだけどなぁ。





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2008年8月28日 (木)

Canon EOS50D 発表!

50d キヤノンがいよいよ、ミドルクラスデジタル一眼レフの新機種として、EOS 50Dの発売を発表した。
40Dがもはやあからさまなディスカウントに入ってたので、よもやと思ったけど、とうとう待望のニューマシンの登場だ。
40Dと外見はさほど変わらないが、いくつか最新の高性能な機能が内包されている。
APS-Cサイズの1510万画素CMOSセンサーとDIGIC4の組み合わせで、高い解像度と豊かな階調性を進化させ、低ノイズ化もはかった。ISOは常用で100~3200で、拡張で12800もの高感度を実現。UDMA対応のCFカードで6.3コマ/秒の連写、視野角160度の3.0型92万ドット高精彩液晶でのライブビューなど。
同時発売の高倍率ズームレンズ「EF-S 18-200mm F3.5-5.6 IS」とともに、9月下旬にお目見えする。
愛機の20Dは、耐用シャッター数10万ショット目前で、決して壊れたわけではないが、センサーのゴミは常に清掃が必要で、液晶モニターの確認も小さく暗くおぼつかない。清掃のしすぎか、露出アンダーで飛んでるドットも見つけられる。もはや買い替え時なのだが、費用と機能を検討する中でいまいち踏ん切りがつかなかった。ホントは5Dの後継を期待するところだが、多分価格はやさしくない。50Dは本体実売15万が予想され、買うならここまでが限界だろう。年内もう1機種の発表が、おそらく5Dの後継だろうが、もうそれは待てないと思う。この後より情報を集めながら、購入を真剣に検討したいと思ってます。

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2008年8月27日 (水)

「ずんだもち」にチャレンジ!

Img_90518s 今日は久しぶりに新しい料理にチャレンジしてみる。と言っても仙台名物「ずんだもち」だがね。
永く講談社「モーニング」で連載を持ってた4コマ漫画家須賀原洋行が、自分の家族の日々の生活を題材に日記コミックを連載中。3度に亘ってその発表の場を代え、今は「よしえサン日記」として先月2巻目が出た。奥さんのオマヌケぶりと子供たちの成長がとてもおもしろくてほほえましい。
Img_90521s さてその中に、料理好きの作者がお手軽な「ずんだもち」の作り方を紹介してくれた。
学生時代に仙台に居たが、「ずんだもち」など当時全く口にしてなかった。数年前久しぶりに仙台に行って初めて食べた感動が忘れられず、それで思い切って挑戦したよ。

枝豆は冷凍のもので充分。作者は一家5人なので、量はその半分で作る。一人ではちょっと多いが、あまり少ない量では却って作りづらい。
一袋400gの枝豆を早速解凍。このために買ったすり鉢に豆をむき出しておく。
Img_90525s もち米は一合。僕は電子レンジでいつも炊いてるから、同じ要領で。もち米は水を吸いやすいから洗ってすぐに炊く。
炊けたらすぐに突きだす。自力で米から餅にするのは初めてだが、だんだん粘り気がでてまとまってくるとなかなかおもしろい。乗ってくると、涼しくなったとはいえ汗がでてきたw。あまり突き過ぎると食感がおちるのでこのくらいにしとく。
Img_90527s 枝豆は、砂糖100gをお湯100ccで溶かした砂糖水を少しずつ混ぜながら砕いていく。なかなかすりつぶすまでいかなく、ちょっとずつ砕きながら、というのがうまくいかないw。けっこう豆の形が残ったままだが、これくらいの粗いので充分だそうだ。
餅をテキトーな大きさに分けたら6つくらいになって、その上にずんだをかけて完成!
Img_90528s ちょっと砂糖水が多すぎたか、水っぽい汁が余分になったが、見た目はうまそうだ。マンガでも子供たちがメチャメチャうまい!って。
んでさっそく、食べてみると、これがまたウマイ! 仙台で食べた味と同じだ、ってまぁ誰が作ってもそう変わらないもんだろうけどね。
しかしさすがに、一人で甘~い一合もの餅を食べてると、最後のほうはもうウェって感じになってきたw。やっぱり多すぎたな。

でも手軽に簡単にテキトーに作れる「ずんだもち」。仙台名物をご家庭みんなでチャレンジしてみてください。それと日常のみんなの(あるある)体験ができる「よしえサン日記」もおもしろいよ。


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2008年8月23日 (土)

手塚治虫漫画全集ストラップ★

R0010407s ここんとこドタバタ続きや遅くまで帰れなかったから、久しぶりに書店に寄ったら、こんなの販売してました。
手塚治虫生誕80年記念?のストラップですが、講談社の手塚治虫漫画全集のカバーをあしらったミニミニコミック。たて60mmよこ40mmほどの小さい単行本がホンモノそのままの内容でそのまま読めちゃう。税込み367円でホンモノより安く単行本が読める?とあって3冊も衝動買いしてしまいましたw。
しかし文字もそのまま小さいので、やはり読みにくいですねw。携帯ストラップにするには大きいし、もったいないです。やっぱり保存用でストッカー行きでしょうか。
やはり手塚治虫は偉大な漫画家で、今でも神様です。この方が突然なくなったのは平成になってすぐ。そういや20年たちましたね。あの頃はビデオレンタル店に勤めてて、昭和天皇崩御の忙しさのパニックから抜け出せてないままの突然の訃報に、アニメビデオの手塚コーナーを追悼モードに作り換えるのもつらかったのを覚えてます。
今改めて手塚治虫の偉業を偲んで、この珍しいストラップを探してみてください。

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2008年8月19日 (火)

白山ろくをちょっとドライブ3

Img_90460k 鳥越城を降りて、手取川をもう少し上流へ向かって走ります。手取峡谷、綿ヶ滝キャンプ場へ。駐車場の前はサイクリングロード。旧北陸鉄道金名線の跡です。金沢市の野町から旧尾口村の白山下駅まで、はるか名古屋を目指した鉄道でしたが、昭和59年の大雨で鉄橋が破損し運休。そのまま昭和62年に加賀一の宮駅以南が廃止されたのです。子供のころ一度だけ電車で終点まで行った思い出があります。今はこのサイクリングロードは並木橋通りアオバ自転車店でも紹介されるほど有名です。
Img_90479k 綿ヶ滝を見に峡谷の下まで降りました。急で段差のある階段は上り下り優しくないですが、子供はもちろんおばあさんまで元気に登ってきました。負けられません。
手近に来られる大きな滝ということで、以前からキャンプ場になるくらいここは夏になると賑やかです。崖の上から流れるレインフォールシャワーのような滝はそのやさしく白くふわっとした姿から綿を名前に形容されました。
銀塩の時代から何度も撮りに来たところでしたが、去年の大雨で崖から落石があり、ゴムボートの遊覧など水辺は立ち入り禁止になってしまいました。


Img_90507k 左手前の岩が当の落石のようです。この手前にフェンスがあってこの先行けません。
今時分子供たちが半裸で水辺でおおはしゃぎしてたもんですが。。犀川の駒帰も、昔は川原まで降りられて、今は亡き父たちとキャンプした思い出がありますが、あそこも増水で川原が乱れ、進入禁止になっています。
でも渓谷を撮るのは好きな画題のひとつですね。いずれ立山峡谷も行ってみたいです。
Img_90514k 帰り道に、だまって素通りするのもなんなので、白山比咩神社へお参りしました。この加賀一の宮へは、まだ一度も初詣には行ってません。全国に2000社はある白山神社の総本社です。
この間から、せめて金沢市にある神社のすべては廻ってみようと思い、地図に記録しています。山から海まで広い市域の、全部を巡れる日はくるでしょうか?
暑さも一段落してきたこのごろ、休みも終わってまた忙しい日々になりますね。

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2008年8月18日 (月)

白山ろくをちょっとドライブ2

Img_90425k ダムのあとは、念願の鳥越城に登りました。登ると言ってもここまで車で行けるんですが、平地から一気に山頂まで登る山道、すれ違いもしにくい急坂と聞いていたので、ちょっと怖くて敬遠していたんですが、この陽気に負けて行ってしまえと。
登ってみると実際はたいしたことなく、対向車もなく夏休みの日曜なのに来訪者は僕だけでしたw。
Img_90431k 一向一揆の最後の重要な砦だったのに、そして地元で立派に復元して丁寧な整備がされているのに、普段訪れる人が少なくてザンネンです。
一世紀近く百姓の持ちたる国として、最後まで織田勢力と戦った由緒あるこの鳥越城なんだから、もっとアピールが必要なんでしょうか。ふもとにある一向一揆歴史館は以前にも行きましたが、ちゃんとした立派な枡形門のあるこの本丸だけでなく、二の丸や三の丸が複数もあるこの山頂山城。当時としてもかなりスゴイものです。
Img_90450k 山頂標高は312m。ふもとははるか眼下です。150mほどは一気に登ったでしょうか。整備したときに城のまわりの木々を伐採したので、東西のふもとからこの城の位置がはっきりと見えます。当時もこんなふうにしっかり目印になったんでしょう。戦国時代の山城の重要性がわかりますね。
Img_90427k ひとつ山向こうに、この鳥越城の支城ともいうべき、二曲城(ふとげじょう)がありました。左端の尾根に平たい部分があるのがわかりますか?
城からの眺めもこのように鮮明で、支城との連絡もとれ、また敵の動きも逐一つかめたことでしょう。
Img_90445k それでも、尾山御坊(金沢)落城後も、3度に亘って織田方に攻略され、天正10年についに落ちたときには、300余名が磔(はりつけ)になったそうです。
歴史に長い間埋もれていたこの鳥越城も、しかしこうやって復元整備され、今や国の史跡に指定されています。山頂は涼しい風が吹いていました。ぜひ、たくさんの人に往時を偲んで訪れてほしいですね。
しかし僕はいつも、人の行かないところばかり行きますね~w。

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2008年8月17日 (日)

白山ろくをちょっとドライブ1

Img_90386k 盆休み最終日、昨日の雨も上がって、せっかく晴れたのに行くとこないからと自宅で冷房病にかかってもしょうがないので、久しぶりにダムを観にいく。
先日NHKのBS熱中夜話で、巨大建造物特集ダムナイトがあり、世間にこんなにダムマニアがいたのか、と改めて驚いた。まず、財団法人日本ダム協会なるものがあり、日本各地のダムについて研究、情報提供している団体があると。ダム年鑑や月刊ダム日本など書籍も発行していて、ダム日本は至急取り寄せたいと思う。
Img_90381k またダム便覧のコーナーでは、日本中のダムについての解説もあるし、ダムファンのプライベートサイトへのリンクもある。この世界も濃いこだわりがあるんだな~としみじみ。
僕はまだまだかじった程度なので、これから先あちこちへ行く楽しみが増えたかな?
Img_90375k 今日行ったのは、旧河内村の手取川第三ダム。手取川水系直海谷川にある重力式コンクリートダム。国道157号線から旧河内村のセイモアへ行くように左に曲がってすぐのところ。谷はまだ深くないから、最大高も50mだけど、幅は広くて354mもある。
昭和53年に出来た、すべて発電用に使われる北陸電力のダムだ。
Img_90364k 電力会社のダムは近寄れないことも多く、重力式ダムの洪水吐ゲートに間近で撮影できるのもうれしい。ここのゲートはラジアルゲート。円弧状のゲートが中心軸の回転によって上下に動いて開閉します。写真の右奥に扇の要が見えるでしょうか。
この手取川第三ダムは堤高のわりには減勢工が長いです。地盤の下が土砂だかららしく、下部の水路(減勢工)が奥まで延びているでしょう。







Img_90394k 下からみるとこんな感じ。手取川水系のダムでも下流に近いから軽く思ってましたが、案外に重厚なダムですね。
手取川水系は、単なる砂防ダムを除くと8つのダムがあり、そのほとんどは水力発電に使われるので、大小23もの発電所があります。あとで紹介します。
しかし今日は、陽射しのわりには風もあってか、気温の高さはさほど感じず、汗もそんなには出なかった。もう夏も終わりに近付いた?そういえば、天端の上ではトンボが乱舞してましたよ。





Img_90388k ゲートをちょっとアップにしました。扇状の洪水吐がわかるでしょう。このように堤頂部にあるゲートをクレストゲートともいいます。
通常堤頂部にあるゲートは非常用で、非常用洪水吐ともいい、常用洪水吐コンジットゲートと言って放流管が堤体の下部に設置されています。
Img_90405k ちょっと専門サイトをかじったものだから、専門用語に偏りすぎちゃいましたw。
157号線に戻り、ちょっと上流に向かうと、手取川沿いに大きなレンガ造りの建物と出会いました。
これが福岡第一発電所です。明治44年に創られた、いまでも現役の水力発電所。写真の左上から、国道を挟んで水圧鉄管が山肌を下りています。
Img_90411k この瀟洒なレンガ造りで、平成13年に国の登録有形文化財に指定されました。3台の水車発電機で3900kWの発電をしています。
ちょっと専門的なダムの回になってしまいしまたが、白山ろくにはまだまだ楽しいスポットがたくさんあります。金沢から車で30分内外なので、ガソリン高騰の折、手近で済ませるにはちょうどいいんじゃないでしょうか。
この後は鳥越城綿ヶ滝へ行きましたよ。

つづく

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2008年8月16日 (土)

「絵図でみる金沢城」

Img_90350k 16日から雨模様です。せっかくの休みでもまぁ最初からどこへ行くつもりもしてなかったので、家で読書ですな。撮り溜めてたテレビ番組も見ながらエアコンがんがんかけてたら、頭が痛くなってきましたww。
さて、県庁に行ったのは、写真の本を買うため。県が発刊している、石川県金沢城調査研究所の成果、金沢城史料叢書6「金沢城全域絵図と三御門絵図」と7「戸室石切丁場確認調査報告書Ⅰ」です。
Img_90334k 金沢城の絵図は以前にも、金沢市史の別冊資料編で複製を手にしてますが、この本は金沢城全体をカバーしている絵図を年代とその用途別に、かなりふんだんに掲載しています。一口に城絵図と言っても、初期の簡略化した図や、幕府に提出する必要のあった図、城の修理を願い出た図、内部の建物を配した図など、多岐にわたり、それらが火災などで消失してしまわないよう、写しも多数残されたりしています。城下の地図はその秘匿性から、幕末まであまり出回らないものでしたが、城の図はそういう必要性から、かなりの種類が作られ、各家老家などにも残されてたようです。金沢城は江戸期に亘って、大きなものでも3度火災に逢っています。その都度城域の構造が改変され、櫓や長屋など再建、創建されています。天守など残念ながら、江戸初期の1602年の火災から再建されていません。
Img_90340k 江戸期から現在まで現存している建物は、石川門三十間長屋、そして先日内部を見た鶴丸倉庫で、いずれも国の重要文化財となりました。初期の石川門は現在と違い、二の門は南向きだったようです。時代による構造物などの変化も、このおびただしい城図の変遷を見比べて、研究する楽しみがありますね。
写真は県庁19階の展望スペースからの眺め。14日はスッキリ晴れてたんですがね。

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2008年8月15日 (金)

鶴丸倉庫の内部公開!

Img_90301k やっと会社も盆休みに入ったけど、今年は世間の皆さん同様節約でどこにも行きません。せいぜいが街中。けど元々観光地の金沢、あいかわらずの金沢城へ。
14日は国の重要文化財にも先日指定された、鶴丸倉庫(金沢城土蔵)の内部特別公開。早速朝から出かけることに。
Img_90305k 毎年夏に金沢では、「かなざわ・まち博」と題していろんな企業や博物館など市の機関がタイアップして、体験会やセミナーなどが市内各所で毎日開催されています。鶴丸倉庫の公開もその一環として本日だけ。S氏と時間を約束して朝から歩いて向かいましたが、さっきまで大雨の市内、湿度でもう早くも汗まみれです。
Img_90306k 約束の9時半になりましたが、S氏はみあたらず、そのうち来るだろうと思い先に中に入ることに。
藩政期の全国の城には、こういった土蔵が珍しくなく、金沢城内にも複数あったようですが、明治になって石垣上の土塀が破却され松などが植えられたように、新政府によって隠匿性の高い建物は次々壊されていきました。
Img_90307k 金沢城でも唯一残ったこの土蔵も近年まで、藩主が立ち去った明治初期に、代りに主となった陸軍が建てたものと理解されていました。最近の研究でようやく江戸後期のものと確認され、このたび国の重要文化財に指定されたわけです。
この種の土蔵で残っているものは全国でも数が少なく、また最大規模なもので、その文化的価値の高さが認められました。
Img_90315k 内部は2階建てで急な階段があり、壁面もすべて板が張られています。
弘化5年(1848年)に建てられた鶴丸倉庫は当初武具土蔵として使われ、陸軍時代には被服庫だったと当時の資料にあります。戦後の金沢大学時代にも、資料保管庫として近年まで使われていたそうで、本来の倉としての役割は長い年月経っても有効であることの証明ですね。
Img_90317k 格子窓から外の眺めです。なにしろ暑い日ですが、そんなときでも窓を全開にして風を通せば、中の物も保ったもんでしょうか。しかしそれでも汗は止まりません。




Img_90319k 22m×15mの、かなり広い蔵です。2間ごとに9本のかなり太い柱で支え、構造も独特です。すこし埃っぽい古い木の匂いがする暗い空間は、三十間長屋などとも共通ですね。蛍光灯やコードがむき出しで梁などに直接釘打ち付けられているのが、やむなしといえばそうですがザンネンかな。
結局S氏を待てず、暑さに耐え切れなくなって出てしまいました。
Img_90328k 鶴丸から本丸に登る途中で、石垣をくりぬいた内側を煉瓦で囲われた穴があります。
明治になって入った陸軍が、通行の便として石垣を壊して作ったトンネルです。こういう遺構も他になく珍しいですね。
河北門の石垣も最後の8段目まで積まれてましたが、暑さで撮りに戻るのを忘れました。この日はこの後鉄撮りのつもりでしたが、またいつ雨模様になるかわからず、しょうがなくバスで県庁へ本を買いに行って早々と帰途につくことにしますw。

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2008年8月14日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」27 達成!

Img_90239k 東山周辺へチャリを飛ばすのに、先日の被害のあった浅野川を跨いだ。川の水は普段どおりの少なさになったのに、まだまだ濁ってたので、それで上流域を見に行こうと思ったわけで・・。主計町中の橋の橋げたの木製の覆いがかなりひどくはがれていた。ひと月前来た時には美しい姿だったのに。
主計町も復旧して営業再開の店がほとんど。夏休みなので客足も早く戻ってほしい。
Img_90240k [旧金屋町(かなやちょう)]No155 もと今の尾山神社の地あたりにあった。藩の初め、銀座役金屋彦四郎らが居住し、金銀貨を鋳造したのでこの名がつけられ、元和の初め、この地に移されたという。金谷町とも書いた。


Img_90243k 森山の路地裏に入って。
[旧大衆免(だいじゅめ)]No157 この付近は昔、神宮寺の大衆の免田で、税が免除されていたのでこの名がついたといわれ、明治初年には大衆免を冠する町が十八あった。
ここは大衆免竪町。18町を代表してここだけ石碑が置かれた。
Img_90248k 東山寺院群の中に入って、来教寺の前。
[旧小川町(おがわまち)]No154 藩政時代は、川(河)端町、西養寺前、誓願寺前、玄門寺前などのまちであったが、小川に沿ったまちなので、明治の初め、上、下小川町に改められた。
東山寺院群はさまざまな宗派の寺があり、ここは天台真盛宗。神社は興味があっても、お寺にあまり興味もてないのは、宗派が乱立してるからだろうか。キリスト教でも、カトリックがプロテスタントの教会へ行くことはないだろう。日本はそのへんがあいまいなのがどうかと思う。
Img_90249k さらに自転車がやっとの路地を通り抜け、結構奥まできましたよ。
[鴬町(うぐいすまち)]No152 この地はかつて幽谷で、鶯が多く、鶯谷と呼ばれていたことにちなみ、明治になってこの名がついた。
この上は松尾神社です。「夏子の酒」でもあったように、酒蔵が崇拝するお酒の神様、「松尾さま」ですな。
Img_90252k まだ11時ごろだと言うのに、ここまで登ってきて汗だくだく。鳥居前は朝顔のトンネルを作って少しでも涼の気分を、ということだろうが、それにしてはまだ貧弱だった。こんな暑い日に誰も訪れる人は居ないw。



Img_90255k 東山界隈でのラスト。宇多須神社の裏を廻って坂の途中から入った。
[子来坂(こきざか)]No325 慶応3年卯辰山が開拓された時、作業に出た住民多数が子供が来るようににぎやかに登ったのでこの名がついた。今はこらい坂と呼んでいる。
町名も今は[こらいまち]。この坂を登りきったらまだまだ寺や景観などみどころはあるようだけど、そういうのは今度別のテーマで廻ろう。今日はなんせ暑い!
Img_90272k 東山からチャリで午前のうちに一度家に戻って一服。午後から車で浅野川上流へ向かう。その前に現在建ってる石碑のラストをいよいよ撮ることに。錦町にある
[大瀧坂(おおたきざか)]No307 かつてこの坂の脇には、辰巳用水から台地下の田畑を潤す流れが、大きな滝のように流れ落ちていたことから、この名がついた。
今は瀧はないですな。
これでとうとう[まちしるべ]全制覇!216種219箇所。あとは現在歩道工事中や破損中で建ってない[河内町][同心町]だけ。復活したら撮りに行かねばならないね。
また、この後もいくつか建てられるだろうから、チェックは必要。けどこれで、金沢検定に出ても、どの町がどこだったかしっかり頭には入ったから大丈夫。

あなたも、金沢へお越しの際は、この細長いグレーの石碑を探してみてください!

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2008年8月13日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」26

Img_90188k さて、長かった「まちしるべ」のレポートもあと2回ほどです。今年の夏は毎日暑いですが、なんとか午前中、しかもチャリで廻るぶんには前回より楽です。ホントは秋にじっくりと思いましたが、S氏も制覇されたので急いで達成することにしました。
長町武家屋敷の端のほうに来ました。
[旧穴水町(あなみずまち)]No94 加賀藩老臣、長氏の上級家臣らが住み、上家中町と呼ばれたが、長氏の祖先が能登の穴水城に居たことにちなみ、明治になって、この名がつけられた。
Img_90189k 穴水公園の中に石碑があったんですが、ここは昔の女学校があったところ。ばぁちゃんもここを出たようですが、それを記念した石碑が建ってます。平成になってから、こういう記念碑が多くなったような気がします。昭和は遠くなってるんですね。

Img_90192k 玉川公園の北側、金沢玉川図書館の脇です。
[旧宗叔町(そうしゅくちょう)]No99 元禄のころ堀宗叔という医師が住んでいたのでこの名がついた。堀家は代々藩医をつとめていた。
以前は専売公社の工場だったんですが、敷地のほとんどを市に開放し、その後残ったJTの事務所も今、玉川こども図書館として工事中です。西金沢に移ったたばこの工場も先日閉鎖が決まり、たばこ離れの勢いは激しいですね。能登にはたばこの有名な産地もあるんですが、時代の趨勢です。僕は吸わないのでいいんですけど。
Img_90195k 金沢文化ホールの裏です。
[高岡町(たかおかまち)]No82 越中高岡に隠居していた二代藩主前田利長が、家臣を高岡からかえし、この地に住まわせたため、この名がついた。
ここにあった高岡町中学校は、郊外の神田に移転したけれど、校名は約そのままの高岡中学校ですw。
Img_90199k 尾山神社の前へ来ました。この前を流れる辰巳用水は暗渠にされていましたが、先日から開渠化する工事が始まり、今月中には完成です。
様子はかねがね気になってましたが、だいたい想像どおり。しかしもう少し幅広く開けてほしかったですかね。初詣のときに落ちないように気をつけてくださいw。






Img_90205k 江戸時代から続く老舗料亭大友楼の敷地にあります。
[旧松原町(まつばらちょう)]No87 もと松原口門の前にあったことからこの名がついたという。藩政期には権現堂御門前町ともいい、のち御門前松原町といった。
大友楼は金沢駅の駅弁を作った最初の店でもあり、4月の金沢駅開業110周年イベントでも、特製駅弁を売ってました。江戸時代の弁当箱など、古い伝統ある道具なども多く所有され、よくテレビで紹介されたりしてます。
Img_90206k 金沢城の丸の内駐車場の脇です。
[旧西町(にしちょう)]No86 金沢御坊の西にできたのでこの名がついたといわれ、のち尾山城(金沢城)になってからできたという説もある。佐久間盛政が金沢御坊を攻め取って西町口を城の大手とした。
写真の建物は金沢商工会議所です。市からの説明会を聞きに何度か訪れています。
Img_90209k 50mほど北へ行くと目的の坂ですが、ガイド本の地図だと坂の途中にあるはずの石碑を覗こうとしたら、写真のガードマンに一般立入禁止といわれました。たしか県の施設があったはずです。「石碑を探してるんで・・」と言って坂の下にあるのをすぐに見つけました。
[甚右衛門坂(じんえもんざか)]No321 天正八年佐久間盛政の攻撃をうけたとき、本願寺方の浪士、平野甚右衛門が奮戦、討死した坂なのでこの名がついた。

さてここから、一気に東山まで走ります!

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2008年8月12日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」25

Img_90163k では石碑を追ってチャリで駆け抜けよう。目標はやはり2時間、午前のうちに廻りきること。
犀川鉄橋からすぐの長土塀町内。
[旧竹田町(たけだまち)]No90 加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた。
全くの住宅地の中で、朝からカメラで道を撮ってると、あやしいことこの上ないですねw。ちゃっちゃっと済まして次いきます。
Img_90168k 北陸本線の高架脇に来ました。
[旧藺田町(いだまち)]No102 古くから、金沢地方でも広く藺(い)草を栽培して畳表を作っていたが、慶長以前頃から小松表を用いるようになったので、城下の作付は廃止された。当時このあたりは藺田であったため、これを町名としたという。
Img_90171k 北陸本線南側には、新幹線の高架建設の真っ最中です。金沢駅から白山車両基地までの用地買収も進み、市内でもこのように工事が始まりました。
この金沢駅から犀川橋梁までの区間は、在来線が平地を走っていたころの土地なので、収用の必要はなく、高架の工事も本格化していますが、一転犀川以西はまだ住宅が細かく密集。まだまだ時間はかかります。
Img_90173k 三社町の通り。ここから市中心部へ戻ります。
[旧蔦町(つたまち)]No101 加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治の初めこの名がついた。
いまさらですが、この旧町名碑を建てる基準を。大正13年以降の金沢市編入地域は当分の間除く。明治25年の改訂区画を基本とする。昭和38年に、新住居表示制度が施行された、以前の町名。
なので、まだいくつかこれからも新たに設置されると思います。
Img_90180k そこから狭い路地に入りました。
[旧七曲り(ななまがり)]No95 藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった町筋であることからこの名がついた。三社七曲りともいった。


Img_90183k 県の女性センターの横へ出ました。
[旧三社五十人町(さんじゃごじゅうにんまち)]No98 藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことからこれを冠称にこの名がついた。
ここ一帯は三社町以外に十町が三社を冠していたので、代表して五十人町に石碑が置かれました。
Img_90186k 昭和大通りに出ました。
[長土塀(ながどへ)]No91 藩政時代、この付近に長、村井、今枝などの武士の下屋敷があり、外囲いの土塀が長く続いていたので、この名で呼ばれている。
石碑の隣に、なにやら碑が建っています。「金澤市長 徳田与吉郎」とあるので、かなり古いと思いますが、車道側になにか書いてあるだろうという意識までなかったので、確認せずにやり過ごしてしまいました。後日再確認ですかねw。

では、明日に続きます。

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2008年8月11日 (月)

夏の朝、犀川鉄橋で撮り鉄

Img_90083k 10日は、残りの石碑を全部廻ってしまおうと思い、朝の涼しい?うちにと早くから出た。長土塀あたりからなのでチャリで犀川の川原を下り、犀川鉄橋から鉄撮りでスタートすることにする。
世間は夏休みになり、北陸の鉄道は夏の団体臨時列車、いわゆる「団臨」が多く行き交う季節だ。他にも多客臨時が多く設定され、普段夜行急行能登に就く489系ボンネット車「ふるさと雷鳥」などいい例だ。
七尾線を走る415系が、この832Mをはじめ何本かは松任や小松まで足を伸ばす。
Img_90086k 犀川鉄橋の山側には、北陸新幹線用の橋脚が一本だけ出来上がっていた。白山車両基地までの工事が、用地取得次第順次始まっているが、橋梁工事が開始されてだいぶ経つのでどうかと思ったら、どうもテスト的に1本橋脚作っただけという感じ。
でもこの前後の用地は更地も多かった。
Img_90088k 北陸本線の犀川橋梁。よく見ると右の海側のほうが古そうだ。先に単線としてできたろう。橋脚の補強の歴史が3次に亘ってうかがい知れる。
そして先日の大雨の名残がここにも見える。足元の白くなっているところまで水がきたようだ。犀川も、いつ氾濫するかわからないね。
Img_90094k 8時52分金沢駅発の、トワイライトエクスプレス上り便が来るまで待っていよう。
JR貨物EF510が、コンテナを曳いてやってきた。仕事柄、コンテナ輸送にはおおいにお世話になっている。北陸新幹線開業後の在来線第三セクター化が検討されているが、路線を借りる立場のJR貨物にはいい迷惑だろう。東北本線[盛岡-八戸]間のように、負担がただ増えるだけのようだし。
Img_90102k 583系を改造したこの列車、419系など古い車両が北陸本線の各停で使われている。特にこの雨漏りするような419系は、乗降扉も折り戸で狭く、寝台車改造なので居住性も最悪。通勤には全く向かない。一時しのぎならと我慢してたけど、もう車齢も改造後の方が長いというありさま。
まぁ僕は通勤に利用してないけど。
Img_90128k かと言って特急銀座の北陸本線には、最新鋭の在来線最速車両が特急として日常走っています。
これは683系、しらさぎ56号。米原行きの旧加越タイプなので5両編成と短い。同じ683系でも、しらさぎサンダーバードは共通運用はしない。名古屋行きは米原でスイッチバックしたり、基本編成の両数が違ったり、増結編成の上下向きも違うから。なによりしらさぎはサイドラインにJR東海を示すオレンジ色が配されている。
Img_90137k やっとトワイライトエクスプレスがやってきた。
札幌を前日の14:05に出たこの列車は、金沢を先ほど8:52に出発。終点大阪は12:52着。週4往復なので日曜は上りだけ。豪華寝台列車は、上野-札幌間の「カシオペア」「北斗星」が有名だけど、もうひとつ日本海縦貫列車の「トワイライトエクスプレス」を忘れてはいけない。
Img_90138k このトワイライト・・用のモスグリーンのEF81は空き運用で青森行きの寝台「日本海」にも使われる。
ここも目の高さがレールより下なので、もうひとつ画角が満足できないね。



Img_90157k まぁこの列車には、一生かかっても乗れないだろうね。しかしこの左の橋が完成して、新幹線とともに走る姿を拝めることができるだろうか?そのときまで、廃止されないで頑張って運行していてほしい!

さて、今日は石碑を一気に廻ってみますか。

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2008年8月10日 (日)

浅野川上流の現状 緊急レポート!

Img_90275k 10日は朝から活動しました。撮り鉄に石碑制覇とか。ホントは時系列にお伝えしようと思ったのですが、午後、最後の石碑を撮りに車で錦町へ行って、その足で浅野川洪水その後の現状を見に、上流を走ったら、その爪あとは深くまだまだ残っていたので、とりあえず先にレポートします。
案内看板では、富山県境の道は寸断されたまま。赤バッテンがしてありました。
Img_90276k 東浅川小学校前で。看板やガードレールがひしゃげています。路肩にドロの跡が、砂浜の砂のようになってずっと残っていました。
田上の街からすぐのこんなところで、いきなり見せられましたが、こんなのは、実はまだ序章にすぎなかったのです。
Img_90280k 浅川橋周辺には、流されてきた流木があちこちに山積みされてました。ニュースにも出てた梨農家はこのあたりです。川の法面は寸断されたりドロにうずもったりしています。
左奥が東浅川小学校です。川からかなり離れたところまで砂が残っています。
Img_90283k 少し上流へ走ったところ、激しい崖崩れの跡が生々しく残ってました。
こういった川沿いの崖はあちらこちらに崩れた跡があり、山肌も、かなり高い位置で崩れているのも数え切れないほど見ることが出来ました。
午前に浅野川大橋周辺を撮り、穏やかながらもまだ茶色い流れだったので、いつ清流に戻るのかと考えてましたが、当分それは望むべくもないということですね。
Img_90285k こちらでは、法面が完全に崩され、道路がなくなっていました。この先何キロにも亘って、上流に行くに従い、濁流の爪あとはさらに深くなっていきました。これは、完全復旧にはかなりの時間と費用がかかりそうです。

Img_90287k 写真のすぐ左外が浅野川ですが、ここまで道路がえぐれています。手前はこれでも田圃なんですが、跡形もありません。
農業被害もかなりのようです。中流域の観光地などは、洗って営業再開すれば、なんとか復旧?を見込めますし、見た目にも大丈夫、と思えますが、農業は一年がかり。上流域の被害は、こうして実際見てみないとわからない部分が多いですよね。
Img_90290k こちらは応急の土嚢がたくさん積まれています。農地の法面もあちこちで崩されていました。別のところでは川よりだいぶ離れたところまで流木が積まれている田圃がありました。


Img_90299k ここも道路まで水が溢れた地点です。玉石が散乱しています。近在の方たちが集会所?に集まっているようで、今後について話し合いでしょうか。僕は遠慮しがちに、それでも川にカメラを向けます。好奇というより、現状をこうやって伝える意味があると思うからです。
Img_90293k_2 湯涌温泉まで来ました。営業再開した宿も多くなったようですが、温泉街入口の橋からみると、より一層被害の状況がわかりました。川床は既にブルが入って均されていますが、本来川底の玉石が散在しています。奥のピンクの保育園は1階が浸かったようです。橋の上も砂まみれなんですが、この地点でこれだけの川幅があるにもかかわらず、あの日午前だけで一気に増水したわけで、改めて水の怖さを感じました。
Img_90295k 湯涌温泉観光協会ホームページでは、それでもほとんどの旅館が営業再開しているのをアピールしています。能登の地震でもそうでしたが、風評被害が一番の悩み。夏休みの書き入れ時なのでなおさらの、来客の回復を待ち望んでいます。
金沢方面へ戻っていく車も多かったです。ぜひ立ち寄っていただきたいですね。

しかしこれほど大規模な被害とは思ってませんでした。また余裕のなくなることですが、石川県や金沢市にも、手厚い復旧や保護の手を期待しています。


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2008年8月 7日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」24

Img_90049k じゃあ、片町周辺の残した石碑を片っ端から踏破します。
片町ラブロ裏の、木倉町と小路ひとつ隣。
[旧大藪小路(おおやぶしょうじ)]No63 藩政前期、加賀藩士、禄高七百石の大藪勘右衛門にはじまり、以降代々の居邸がこの付近にあったので、この名がついた。
今は飲食店が多い路地裏の一つです。
Img_90051k 香林坊109の表へ出ました。ここも前回見逃してましたね。
[旧石浦町(いしうらまち)]No66 もと石川郡石浦庄下石浦村であったが、慶長年間、町地となりこの名がつけられた。城下町の本町の一つに数えられた。
今は旧県庁や市役所もある金沢の中心地。かつては金沢城の裏手にあたり、石浦神社があるように、一帯は石浦庄でしたが本町のひとつ「石浦町」となり、戦後まで栄えました。今も町名復活にふさわしい場所だと思うのですが。。
Img_90054k 若者の街タテマチ通りを横切り、街中なのに閑静な旧家の並ぶ路地に入りました。
[里見町(さとみちょう)]No52 加賀藩士、禄高千二百石の里見氏の屋敷があったことから、この名がついた。
この家も立派な門構えですが、表札など確認しませんでした。なにしろ暑くて余分なことする気力はなかったですねw。
Img_90055k さらに犀川大通りに出て、飲食店の入っている大きなビルの前。
[旧大工町(だいくまち)]No51 寛永の大火のあと、ここに拝領地を受けて藩の御大工衆が住んだことからこの名がついた。
金沢のバス停は、以前にも言いましたが旧町名のついてるものも多いです。100円の「ふらっとバス」の停留所に[大工町]が付けられ、ここがそうだと知りました。いっそ、バス停を全部そうしたらどうでしょうか。
Img_90059k 飲食街の路地に入り、犀川大橋に近付いて、さっき見つけられなかったのをやっと探し当てました。
[旧河原町(かわらまち)]No48 この付近は、もと犀川の河原で、藩政初期、犀川の改修に伴って新たに作られた町の一つであるところから、はじめ、後河原町と呼ばれたが、のち、この名がつけられた。
江戸初期の犀川はこのあたり、流れがふた筋に分かれていました。一筋を改修して陸地にし、町割りをしたんでしょうね。
Img_90061k 犀川大通りに戻って、少しずつ上流へ向かいます。
[池田町(いけだまち)]No45 蔵宿業の池田屋長右衛門が居住していた池田屋小路を、明治4年、池田町一番町と改名したことからこの名がついた。
この路地裏一帯は、古い町名のままの町が続きます。石碑は二つしかないんですけどね。まだまだ増える余地があるということですね。
Img_90062k その路地裏です。車がやっと進入できる幅しかありません。
[水溜町(みずためまち)]No38 犀川の河原であったが、川跡を追い追い埋め立て、埋め残りに水溜堀があったのでこの名がついた。元禄年間、60メートル余のこの堀は水溜と呼ばれ、消防に役立った。
今はなんの名残もありません。
Img_90066k [杉浦町(すぎうらまち)]No35 藩政初期、加賀藩士、杉浦仁右衛門の預り足軽の組地であったことからこの名がついた。
古い町名は結果、人の名前が多いことにもなります。このへんが金沢検定でもポイントですよ。


Img_90073k さて、本多町の遊学館高校の裏に来ました。ここの坂を忘れてました。
[大乗寺坂(だいじょうじざか)]No313 慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。
野田山墓地に今はあります。
金沢の橋や坂をモチーフにした、金沢出身の作家「子母澤類」の短編小説が、地元新聞が出してる月刊誌に毎月掲載されています。この大乗寺坂を舞台にした、学生のほのかな恋ものがたりはちょっとお気に入りでしたね。
Img_90074k やっと本日最後の石碑を探し当てました。一度チャリで来たとき見つけられず、市のHPの地図はホント見づらいし場所もいい加減ですw。
[旧手木町(てこまち)]No31 藩政時代、城中の露地方として庭造りをしたり、藩主の行列の際に荷物を運搬する手木足軽の組地であったので、お手木町、御手木ノ町と称され、明治4年、手木町となった。てこのまちとも呼ばれた。
近くを流れる用水の勘太郎川にかかる橋の名も手木橋でした。車に倒されることもあると言うので、こんな電柱のそばだと安心ですね。

ここまで目標どおり、2時間で廻りました。暑い昼ではこれが限界ですw。
あと残り20箇所(そのうち二つは現在建ってない)となり、終わりがやっと見えてきました。来週末も、暑さに係わらず踏破してみたいです。またレポートをお楽しみに。

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2008年8月 6日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」23

Img_90004k 先週の浅野川の被害は思いのほか甚大だったけど、ここ犀川も中州の森が壊滅状態。大木も林立してたこの島も、根こそぎ倒されてる。28日(月)は早朝通った時はそれほどでもなかった。午前のうちに一気に水かさが増してここ下菊橋も一瞬警戒水位に達したそうだ。ダムが出来てから洪水はないけど、何度も氾濫した犀川、これからも気をつけていきたい。
Img_90022k さて日曜は、暑いのをわかってて12時から石碑めぐりに出かけた。同好のS氏がほぼ制覇してて、なんとか夏のうちに達成したいと思い、中途半端に残ってる自宅から南のエリアや片町周辺をチャリで短時間に廻ることにした。
犀川対岸の法島から寺町台地に登る坂。別の地蔵堂のある坂を登っていきなり間違えてムダな汗をかいてしまったw。
[御参詣坂(ごさんけいざか)]No301 藩政時代、法島村から祇陀寺の向こうへ至る坂と、今一つ崖の下から桃雲寺手前の野田往来へ至る坂をこう呼んだ。野田山墓地に参詣することからこの名がついた。
かなり急な坂を自転車曳いて登る。上部は車両通行止めの人道だ。金沢の小さい急な坂は、この御参詣坂のように半分以下のスペースが階段になってるのが多い。街の見晴らしもいいよね。
Img_90030k 登りついた平和町から、寺町通りを下る。3丁目あたりで、地図の位置から移されて公園に建てられた石碑をようやく発見!
[旧桜畠(さくらばたけ)]No11 もと泉野村の地で、城からの眺めをよくするため、桜の木が多く植えられたので、この名で呼ばれたという。
実際は元の地図どおり、寺町台地の崖沿いでないと城から桜なぞ見られなかったはず。石碑はたびたび移設を余儀なくされたり車がぶつかって破損したりするようだ。
Img_90035k 野町小学校の裏道を抜けてやっと見つけた。これも元の公園から100m近く離れた広場入口に設置しなおされたもの。S氏に教えてもらわなきゃ、見つけられないよなぁ。
[旧桃畠町(ももばたけまち)]No8 もと泉野村の地で藩政期に桃の木が多く植えられたので桃畠と呼ばれたという。また、古くからこの地に桃畠があったからともいわれる。のち、民家が建ち、明治4年、町名になった。
Img_90036k では六斗の広見から広小路方面へ次を目指すと、忍者寺で有名な妙立寺の前を通った。中に入ったのは30年ほど前か?
寺の中にさまざまなカラクリの仕掛けがある部屋があり、まるで忍者の住処という。金沢城からここまでの抜け道が仕込まれている、とまことしやかに謂われて観光地になってるが、僕は3畳(4畳?)の切腹の部屋が思い出に残ってるかな。
Img_90037k 広小路から蛤坂を下る。犀川を台地の上から望める位置で一枚。手前の変な鉄塔はとりあえずムシして、川の水はまた普段より少なくなったようだ。鮎釣りはいつ復活できるのかな。


Img_90040k [蛤坂(はまぐりざか)]No306 加賀藩前期に妙慶寺坂といったが、享保18年の火災後、蛤が口を開いたようになったのでこの名がついた。
奥が犀川大橋。


Img_90041k とうとう塗装色変更の工事が開始された犀川大橋。15年ぶりにカラーリングを替えます。1924年架橋の国の登録有形文化財に指定されたワーレントラス橋。
もっと深い青になるんだったっけ?秋にお色直しが完成したら、またレポートします。

Img_90047k さて、やっと片町へ出ました。なんせ暑くて、この手前でコンビニで氷水を買って冷やしながら走りました。ここは旧大和百貨店の、やはり金沢一番の繁華街。
[片町(かたまち)]No56 藩政初期、この地は犀川が分流し河原になっていたが、片側に掛作りしてすまいをしたためこの名がついた。はじめこのあたり一帯を河原町と呼んだ。
河原町の石碑はまた別にあります。それ含めて明日は一気に10箇所紹介です。

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2008年8月 5日 (火)

夏の江戸探訪、表編4 江戸東京博物館

Img_90766z 午後に夕方の予定まで中途半端な時間があいたので、M氏と思案して江戸東京博物館へ行きましたよ。僕は4度目くらいですが、通常展示は2度目なので付き合いました。1階で開催されて見た特別展は、水木しげる展大江戸展だったかな。去年開かれた大徳川展は超満員で、篤姫展も大盛況だったよう。行けなくてザンネン!
Img_90763z 写真の変な形の外観の建物を、3階から一気にエスカレーターで6階まで上がると常設展の入口。日本橋中村座などが復元されています。展示を劣化から守るためとはいえ、あまりに館内は暗く、撮影OKの一部展示もシャッタースピードが得られません。
夏休みに入ったなりだからか、かなりの入館者で溢れてました。でも東洋人の顔してるハングルや中国語も飛び交ってます。
Img_90759z 越後屋、つまり三越の模型です。駿河町にあったこの店先の道から、まっすぐに富士山が見えたのが浮世絵にもありますが、先日出たCGの本でそれが間違いないと確認されました。昔はどこからも見通しがよく、富士は江戸の風景の一部だったんでしょうね。
さてしかし、歳からか疲れた二人は、明治の展示を見ずに椅子に身を委ねて休憩です。
Img_90843z 外に出ると雨が降ってきました。小雨ながら湿度の高い日にはいやな雨です。最後の目的地の四谷では、不覚にも方角を間違え反対方向へ歩いてしまうし、さんざんでした。それでも間に合って外で待っていると、防衛省の空は異様な色に染まって不気味でした。翌日の大雨や浅野川の被害を予告するかのように・・・。

とりあえず今回の江戸探訪記はこんなところ・・w。

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2008年8月 4日 (月)

夏の江戸探訪、表編3 品川宿

Img_90087z さて先日のタモリ倶楽部のオマージュとして、旧東海道筋が残っている品川宿跡を辿ってみます。八ツ山橋の入口には、街道を案内する小公園?がありました。タモリ倶楽部でもここをスタートとしてました。


Img_90088z 案内地図の看板もあります。品川宿は目黒川を挟んで北品川・南品川と別れ、現在はずっと商店街が続いてます。町興し、でもないでしょうが、商店街では品川宿が偲ばれる街路造りに取り組んでました。
緑の線が旧東海道。その上、つまり東側はすぐ海でした。
Img_90089z 街道の入口です。「従是南 品川宿 地内」。京急の踏切が塞ぎ、写真のすぐ右側が北品川駅です。宿場としての北品川はここで間違いないわけですが、実は港区にあるJRの品川駅に隣接させた京急の品川駅は、北品川駅より北になってしまった、というわけです。

Img_90098z 商店街の様子です。「東海道 品川宿」の旗が街灯に連なってます。まだ8時前なのでどこの店も開いてませんが、和菓子屋さんだけ開いてましたね。しかしこの日は、曇ってて気温は30度そこそこだったけど、湿度が高くてこの早い時間でも外に居るだけで汗だくです。ハンドタオルを3枚持っていきましたが、結局かわるがわるビショビショに使い切ってしまいました。






Img_90099z タモリ倶楽部でもしてましたが、街道のすぐ東側は、このように下り坂になってます。ここが海沿いの沿岸だった名残のようです。今では埋め立ても進み、昔から住宅地だったとしか思えませんw。


Img_90100z 東海道品川宿お休み処。まちづくり協議会の出してるお店で、駄菓子屋さんですけどゆかりのグッズとか売ってそうです。こういうお店がいくつかありますが、早い時間なのであきらめてます。ホントなら目がないんですけどね。
ポイントには、店の前にあるように石碑?が建ってます。まるで金沢みたいですw。
Img_90101z このように。ここは品海公園とありますが、この松は由緒があるみたい。小さいんで代替わりでしょうが。
こういうのも複数箇所ありますが、由緒自体はあまり興味がないのでパスしますw。

Img_90104z 「品川宿おばぁちゃんち」というのもしゃれてますね。子育て交流ルームと休憩処を兼ねてるみたいです。




Img_90111z 早朝、人通りの少なかった街道に突然人だかりが。地元スーパーの朝市のようです。目黒川の品川橋たもとまで来ました。江戸の昔からここでは朝市もあったでしょうか。ジョージ秋山の浮浪雲の舞台は丁度この辺になりますね。

Img_90112z 品川橋です。ここが北品川南品川の境になります。旧くは、目黒川はここを急に北に折れ曲がり、海に流れるまで砂嘴(さし)が塞いでたはずです。今は埋め立ても進み、真っ直ぐ海に向かい天王洲運河に注ぎ、川跡は道路となり八ツ山通りの一部になっています。
Img_90126z 南品川に入ったところ、タモリ倶楽部でもしていた畳屋さんがありました。昔ながらというか、畳屋さんがあれば何処でもそうでしょうが、畳表をよく切れる包丁でスパスパ切ってましたね。マンションでもどんな家屋でも、和室が健在なうちは畳屋さんはなくならないでしょうね。
Img_90129z 青物横丁の交差点です。石碑や街灯に旧東海道というアピールを忘れません。こんなトマソン?も当たり前になってきたものの、十三番とあるようにひとつひとつ踏破する趣味は関東の人にもあるでしょうか。だとしたらぜひ頑張ってほしいですね。

Img_90130z 品川寺です。表に大仏?も鎮座してます。由緒ありそうですが、寺はそれぞれ宗派があるもの。あまり由緒の興味はありません。まぁ神社もそうですが、まだ神社のほうが興味あります。先の品川橋脇には荏原神社があり、天王祭が品川橋周辺で賑わうようです。そういう寺社も数多い品川宿です。
Img_90134z 最後に側溝の蓋にも「旧東海道」のアピールが。こんな何気ないトマソンが好きですね。
鮫洲の駅まで来て、品川駅から約4km。これだけ歩いただけなのに、もう左ひざは切れるように痛くなってしまい、ここで打ち切ります。早い時間なのに汗だくなので、だいぶ痩せたかな?
みなさんも旧東海道を訪ねる旅、涼しくなったら日中、お店も訪れながらだと楽しいと思うので、ぜひ行ってみてください。
さて、みんなと合流しますか。

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2008年8月 3日 (日)

夏の江戸探訪、表編2 京浜急行

Img_90066z 大崎の後は、タモリ倶楽部でやってた旧東海道を歩こうと、品川までやってきました。品川の東海道沿いといえば京浜急行なので、今日のレポートはしばらく京急を追っかけてみます。
八ツ山橋梁では、JR線の上を京急がオーバークロス。仕事で出張のときは、羽田から京急でそのまま都営浅草線。このルートも使ってますが、それまでなかなか縁がなかったですね。
Img_90077z その都営の車両5300系です。ここは羽田ルートがあることから、複雑に各社が乗り入れることになり、このほか京成や北総線の車両もやってきます。



Img_90081z 2100系です。この日は昨年デビューの新1000系は見られませんでしたが、それまでの最新鋭車。京急は古い形式の車両も平気で特急など優等列車として走ってるので、何にあたるかめぐり合わせの運次第です。

Img_90137z 旧東海道の歩きははしょって、鮫洲駅で駅撮りです。
600系は、浅草線・京成線・北総線も乗り入れる、長距離を意識したオールクロスシートでしたが、通勤利用には不便かロングシート改造も進んでいます。まぁこれで各駅停車で新逗子まで行くのは疲れるでしょうから、ゆったりクロスシートの方が落ち着きますよね。
Img_90162z 京成電鉄の3700系です。このルートは各種乗り入れの中でも特に長距離ですが、始点から終点まで利用する乗客はいるでしょうか? 関東乗り鉄するなら、その通し乗車を一斉にやってみたいものです。


Img_90181z 1500系は今いちばんオーソドックスでしょうか。各停仕様で6両編成。京急は古い形式でも優等列車対応もできるので、編成両数が2・4・6・8とまちまちです。



Img_90185z 品川へ戻りしな、「旧1000系1309編成ありがとうギャラリー号」に偶然出くわしました。京急110年を記念した旧塗色にカラーリングしなおした車両です。
時間があれば乗ってみたかったですが、いずれまた京急は乗り倒してみましょう。

Img_90190z さて品川に着いたら、今度は北総鉄道の古い7250系が待っていました。まだ走ってるんですね。この京成からのリース車両はもう貴重の部類に入ってますね。これで羽田まで行くと言うんですから、羽田空港駅も車両の展覧会が開けますよ。
じゃ、この辺で。この次は旧東海道のレポートです。



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2008年8月 2日 (土)

夏の江戸探訪、表編1 大崎

Img_89950z 本当はしばらく江戸参勤は控えようと思ってましたが、まだ若干の時間的余裕があったので、今のうちと思って急遽日帰りしましたよ。日帰りと言っても前日の夜行「北陸」ですけど。
もう慣れて2段ベッドでもすぐに寝られますが、この日は2時過ぎに目があいたらあとはレム睡眠、寝汗もひどくて着く前から疲れが残る旅になってしまうようです。
Img_90006z さて江戸へ着いたら、早朝のアキ時間に大崎の大トライアングルへ行きましたよ。ここは山手線・品鶴線・りんかい線・新幹線の集う絶景ポイント。撮るにも適してるかと思い訪ねましたが、新幹線はまだ高いし平地は架線が複雑にジャマして撮り鉄にはイマイチでしたね。

Img_89966z それでも車両的には、山手線・成田エクスプレス・埼京線・りんかい線・湘南新宿ライン・横須賀線・新幹線と、このトライアングル中心の「百反歩道橋」から短時間にさまざまな車両が撮られて、田舎者にはよかったですね。









Img_89988z それにしてもこの十数年の大崎の発展はすごいの一言です。湘南新宿ラインや埼京線の乗り入れで、大企業も進出してビジネスの拠点にもなり、街は突然近代化しました。まだまだ江戸の街は奥が深いですね。
この日はこれから、旧東海道を巡りに京急も訪ねます。


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