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2008年8月12日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」25

Img_90163k では石碑を追ってチャリで駆け抜けよう。目標はやはり2時間、午前のうちに廻りきること。
犀川鉄橋からすぐの長土塀町内。
[旧竹田町(たけだまち)]No90 加賀藩士禄高三千五百三十石の竹田氏の下屋敷(家中町)があったところなので、明治2年、この名がついた。
全くの住宅地の中で、朝からカメラで道を撮ってると、あやしいことこの上ないですねw。ちゃっちゃっと済まして次いきます。
Img_90168k 北陸本線の高架脇に来ました。
[旧藺田町(いだまち)]No102 古くから、金沢地方でも広く藺(い)草を栽培して畳表を作っていたが、慶長以前頃から小松表を用いるようになったので、城下の作付は廃止された。当時このあたりは藺田であったため、これを町名としたという。
Img_90171k 北陸本線南側には、新幹線の高架建設の真っ最中です。金沢駅から白山車両基地までの用地買収も進み、市内でもこのように工事が始まりました。
この金沢駅から犀川橋梁までの区間は、在来線が平地を走っていたころの土地なので、収用の必要はなく、高架の工事も本格化していますが、一転犀川以西はまだ住宅が細かく密集。まだまだ時間はかかります。
Img_90173k 三社町の通り。ここから市中心部へ戻ります。
[旧蔦町(つたまち)]No101 加賀藩士禄高七千六百五十石の青山氏の下屋敷(家中町)があったところで、同家の家紋「丸の内蔦」にちなみ、明治の初めこの名がついた。
いまさらですが、この旧町名碑を建てる基準を。大正13年以降の金沢市編入地域は当分の間除く。明治25年の改訂区画を基本とする。昭和38年に、新住居表示制度が施行された、以前の町名。
なので、まだいくつかこれからも新たに設置されると思います。
Img_90180k そこから狭い路地に入りました。
[旧七曲り(ななまがり)]No95 藩政時代、侍町の西に続いて折れ曲がった町筋であることからこの名がついた。三社七曲りともいった。


Img_90183k 県の女性センターの横へ出ました。
[旧三社五十人町(さんじゃごじゅうにんまち)]No98 藩政時代、この地に足軽五十人組の組地の一つがあり、三社にあったことからこれを冠称にこの名がついた。
ここ一帯は三社町以外に十町が三社を冠していたので、代表して五十人町に石碑が置かれました。
Img_90186k 昭和大通りに出ました。
[長土塀(ながどへ)]No91 藩政時代、この付近に長、村井、今枝などの武士の下屋敷があり、外囲いの土塀が長く続いていたので、この名で呼ばれている。
石碑の隣に、なにやら碑が建っています。「金澤市長 徳田与吉郎」とあるので、かなり古いと思いますが、車道側になにか書いてあるだろうという意識までなかったので、確認せずにやり過ごしてしまいました。後日再確認ですかねw。

では、明日に続きます。

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