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2008年6月

2008年6月22日 (日)

加賀毛針も伝統工芸

Img_88141z 16日に犀川の鮎釣りが解禁になって初の日曜です。今日も家の前でたくさんの太公望が・・というわけでもないですね。今朝は梅雨のそぼ降る雨が。そんなに多く降ってないのですが、もう9時ごろではみなさん終了、ってことすか?
鮎釣りには、毛針と友釣りとあるようですが、ちょうど今朝の地元新聞に特集が載ってました。以前から気になってたので、今回はこの話題を。
Img_88143z 「加賀毛針」は江戸時代から続く伝統工芸。虫を模した疑似餌となる毛針は、今の有名な産地は加賀のほか播州(兵庫県)と土佐(高知県)だけど、天保時代の史料に残るのは加賀のほかに上州(群馬県)と秋田で、江戸時代から続くのは加賀のみ。
かつて加賀藩では、許可なく川で釣りができるのは武士に限られ、武芸を磨く心身鍛錬のひとつとされていました。そのためおとりを使う友釣りは卑怯とされ、石川・富山では今でも友釣りは邪道として、毛針がさかんに使われました。
そこで新聞でも紹介された、安江町にある「目細八郎兵衛商店」に行ってきました。
Img_88152z 加賀毛針は「返し」という外れないための内側のとんがりがありません。だから油断するとすぐに鮎に逃げられてしまうのは、今でも修練につながっているのでしょうか。
キジやヤマドリ・クジャクの羽毛を巻き付け、漆で接合部の玉を作って金箔を貼る、全長1cmほどの小さな芸術作品です。
熟練した職人でも1日30本造るのがやっとという素晴らしさに、釣りをしないのに思わず買ってしまいました。関東の釣り好きのM君にでもあげましょうかね。
金沢城下図屏風にも、毛針を使って鮎釣りする絵が描かれている加賀毛針、全国のファンにもたくさん販売されているようです。

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2008年6月21日 (土)

リコール、やられました!

Sanyourenji いままで、自動車や電化製品など、さまざまな性能不良によるリコール・無償修理の事例がありましたが、いつも対岸の火事とばかりに人事でした。
しかしとうとう、やられてしまいましたw!
昨日発表のあった、三洋電機のオーブンレンジ。生活家電のリコールとしては最大規模に匹敵する、88万台が対象だって。新聞に出てたレンジの写真を見て、なんだかうちにあるのに似てるなぁ、と思って品番確認したらビンゴ!
2000年6月から2007年9月までに製造の31機種、ともなると、今三洋のオーブン持ってる方ならほとんどじゃないでしょうか。
写真は三洋電機のページからもってきた現行の大丈夫な製品。僕のはEMO-CH8でした。三洋電機の修理案内ページによると、配達業者を呼んで送ってくれ、とあり、修理から戻ってくるまでレンジが使えないってのはどうしてくれるんでしょう。
オーブン機能を使わなければ問題なさそうですが、事故につながるといけないのでいずれ送らなければならないでしょうが、そういえばこれ買ったときに、最初空焚きしてくださいとマニュアルにあったけどスイッチ入らなくて不良交換したんでした。
まったく、どうしましょうか・・・。

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2008年6月20日 (金)

金沢城史跡指定と「まち博08」

Img_66113z 金沢城跡が、ようやく国史跡に決定しました。
17日の官報で、文部科学省が金沢城跡を文化審議会の答申どおり、国史跡に指定する、と告示しました。世界遺産暫定リスト入りの条件の一つとして、文化庁が「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の中核をなす金沢城跡の史跡指定を課題に挙げており、その関門をひとつクリアしたことになります。
Img_82129s  また、金沢市中心部を博覧会場に見立てて行われる「かなざわ・まち博2008」が今年も夏季7月26日から8月24日まで開かれますが、6月9日に国の重要文化財に指定されたばかりの鶴丸倉庫が、今回特別に内部公開されます。
公開日は8月14日。お盆休みのはずで、絶対に見逃せません。
まち博ではこの他に、加賀友禅の体験講座や茶屋遊びの体験講座、街の老舗店舗でのイベントや体験など、60講座7イベントが予定されています。
この夏、熱い金沢に、みなさんぜひいらっしま!

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2008年6月18日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」20

Img_88025z 忍者寺で有名な妙立寺の先、鶴来街道の起点ともいえる、六斗の広見に来ました。
[六斗の広見(ろくとのひろみ)]No501 広見というのは藩政時代、延焼を防ぎ大火としないための町づくりの一つとして設けられたものであり、金沢のあちこちにあった。地名は、加賀国住人林六郎光明の郎等六動太郎光景に由来し、ここから六動林、六斗になったといわれている。
Img_88030z この広見に立派な鳥居があって、泉野菅原神社と銘もありますが、境内に入るとなんと、プレハブ小屋がポツンとあるじゃないですか。本殿はどうも、火事で焼けたみたい。小学校の真横ですが、再建のメドは立ってないみたいです。そんな姿は初めて見ましたね。びっくりしてちょっとさみしいですね。
Img_88032z 六斗の広見のもう反対側の角、鶴来街道の先に
[旧六斗林(ろくとばやし)]No13 平安時代の末に六動太郎光景という武士が住み、その付近に樹木が生い茂っていたので六動林と称され、転じてこの名になった。
まだ石碑のない町名はたくさんあるのに、六斗の由来の石碑は一つあれば充分と思うのですが・・。
Img_88034z 鶴来街道から外れて、寺町の地内に入ってきました。細い路地が入り組んでて迷路のようで、チャリで廻るのは正解です。
[旧笹下町(ささかまち)]No12 もと泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いた。
鬼子母神のある興徳寺の門前です。寺町は日蓮宗の寺が多く、一向宗を尾山御坊(金沢城の前身)から追い出した織田勢力であった佐久間、のち前田家の配慮があったからです。
Img_88036z [旧沼田町(ぬまだまち)]No9 もと石川郡泉野村の地内であったが、文政6年町立てされた。もとは沼地であったことからこの名がついたといわれる。
鶴来街道の新道は、寺町通りからは、元この道が引かれていました。桜橋から真っ直ぐな道が新たに出来たので、この道は住宅地の単なる生活道路となってしまいました。
沼田町はバス停にも名があり、北鉄バスは、案外に旧町名のバス停をたくさん、今に残しています。
Img_88039z さらに細い道を探し回ります。
[旧茶畠(ちゃばたけ)]No6 この地はもと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。
寺町台地の寺町からすぐ南は、江戸時代は金沢でなくほかの村で、明治期前後までに町地となって金沢に組み入れられたところが多いです。石碑は、少なくとも明治前期に金沢エリアだった町に順次建てられているようで、有松が南限というわけです。
Img_88044z [旧桜木小路(さくらぎしょうじ)]No4 もと泉野村の地で藩政期末までは越中屋小路・玄光院前通りと呼ばれていたが、このあたりから犀川河岸にかけて、桜の木が多く植えられていたので、明治の初め、この名がついた。
この石碑も完全に民家の敷地内ですw。
○○小路というのも町名なんですね。
Img_88045z 実は犀川沿いの寺町台の崖に沿って、高級住宅地が建ち並び、その入り組んだ小路に石碑があるはずなんですが、とうとう見つけられませんでした。後でS氏にもらった詳細な見取り図を見たのですが、その位置にも確かになかったはずです。
少々後ろ髪をひかれながら、本日の最後
[寺町(てらまち)]No10 加賀藩初期、城下町整備のため前田利常の命により、主に犀川周辺の寺をこの地に集めたので、この名がついた。

さて、ここまで172箇所達成。現在あと46箇所となりました。金沢市のHPの地図に載ってない石碑もリストにあり、既に廻ったエリアでも残したところがポツポツとあります。この先梅雨で週末も雨の可能性があり、到達ペースは落ちるでしょうが、今後も根気よく続けたいと思ってます!

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2008年6月17日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」19

Img_87974z 百万石行列の翌日、金沢旧市内南部をチャリで廻りました。
上菊橋から寺町台を登ってきた坂[不老坂(ふろうさか)]No302 細く急な坂道であったが、明治の中ごろ上菊橋とつながり、のち拡張整備され縁起の良いこの名がつけられたという。近くに風呂屋があり、不老長寿によいというので、この名で呼ばれたともいう。
そういえば昔、坂の下に「法島湯」という銭湯がありました。
Img_87977z 坂を上がり切った道路を挟んで、祇陀寺というお寺がありました。およそ寺とは思えない民家のような建物に、「三十三観音の寺めぐり」の幟と「第十一番札所」の札が。
三十三観音めぐりは知らなかったので、後で調べてまた廻ってみようかな?金沢には、まだまだ奥深いヒミツがあるようです。

Img_87980z さて、石碑を探しに泉が丘まできました。地黄八幡神社には、長い参道がありますが、神社本殿のすぐ手前で新道にスパッと切られています。参道の始まりは、鶴来街道の旧道にありました。ちょっとした石垣もあり、由緒ありそうですが、鳥居の内側の大木の跡が、ちょっとさみしそうです。
Img_87981z その鶴来街道に石碑があります。
[旧地黄煎町(じおうせんまち)]No2 藩政初期、泉野新村から発達した町で、地黄という薬草を採取して地黄煎という飴薬を売り出したことから、この名がついたという。
今の旧道はまったく住宅地の普通の道。後でその発端の場所へ行きます。
Img_88007z 現在も交通の大交差点、有松へ着きました。国道157号線が屈折するところ。石碑の1番です。
[有松町(ありまつまち)]No1 もと石川郡有松村の地内で、享保のころから次々と家が建ち、文政4年その一部が有松町と称され、金沢町奉行の支配となった。明治12年、金沢に編入された。
石碑は特有の茶色です。
Img_88009z 有松交差点から、片町へ向かう国道157号線です。
[旧芦中町(あしなかまち)]No3 藩政時代からの町名「足半町といふは並び短く、尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のち芦中町と書いた。
この付近に昔、自衛隊機が落ちました。僕は記憶がありません。
ここから路地に入ったところにある石碑は、この日は見つけられませんでしたよ。
Img_88013z 国道から西に外れて、旧北國街道に
[泉町(いずみまち)]No7 もと泉野の地で、このあたりが北国街道筋であったため藩政の初めころから次第に家が増加し、この名で呼ばれた。明治22年泉町と泉新町に分けられ町名となった。
泉八幡神社は1502年創建。付近の末社を従えた大きな神社で、今日たまたま総代会とかやってますね。
Img_88020z 157号線に戻って、
[野町(のまち)]No14 藩政の初め、松林や雑木林などの地であったが、城下町の拡大に伴い町地となったので、はじめ泉野町といわれ、のち、略されてこの名で呼ばれるようになった。
北陸鉄道の現在の起点「野町駅」があり、野町広小路は主要な交差点、犀川大橋で街中心部と繋ぐ重要な町名ですが、「泉野町」の略とは知りませんでしたw。
Img_88021z さて、そこから路地に入ると、落雁で有名な諸江屋の本店があります。看板に「菓子」と「らくがんや」。小さい表札のようなものに「諸江屋」と記されてます。
嘉永2年(1849)創業の落雁にこだわった老舗です。金沢駅や百貨店にもお店があるのでぜひ立ち寄ってみてください。

さてこのあと、六斗の広見へ向かいます。


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2008年6月14日 (土)

金沢で「ほたる」をみまっしま!

Img_88047z 6月も中旬なのに、ここ金沢ではまだ梅雨に入ってません。6月といえば「ほたる」の季節です。ここのところほたるの生息環境も保全されてきて、なんと金沢では、街のど真ん中でほたるが鑑賞できるのですよ!!


Img_88062z 今日は鑑賞会ということで撮りに行ってきました。金沢城外周、旧堀の白鳥路にせせらぎが整備され、そこにほたるが群舞していました。
こんなに観るのは子供のとき自宅の庭以来ですかね。

Img_88075z たよりなざげにひらひら舞うはかない光、というのがピッタリでしょうか。
わざと真っ暗にしたものの、月明かりで足元ははっきり見える中、たくさんの子供づれとかで賑やかしいのが興ざめですが、水路をはみ出し高く飛んだり、人の身体にも平気で止まるほたるに皆さん興奮! けど落ち着いて撮れません。携帯で動画を構わず撮る人も居ますが、その携帯の明かりでほたるをジャマしてます。
Img_88076z こんな騒がしい場所は、yさんなら絶対来ないでしょうが、行動力の乏しい僕ではここが精一杯です。
夜のきまったわずかの時間にしか光らないというほたるたち、大勢押しかけてゴメンネ。今こういう環境保全の場所は増えているみたいですね。
ほたるを撮ったのは初めてですが、なかなか思うところに飛んでくれません。バルブで30秒がやっとですかね。
皆さんもほたるを観に、金沢へいらっしま!

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2008年6月13日 (金)

「金沢市歴史のまちしるべ」18

Img_87625z 卯辰山の登り口の車道とは別に、
[帰厚坂(きこうざか)]No323 加賀藩主、前田慶寧が慶応3年卯辰山を開拓したときの坂で、「藩主の厚き徳に帰する」の意味から名づけられた。
横に公園があり、やわらかい新緑の光に包まれたおだやかな空間です。しかしもう足が痛くて、坂の上まで登る元気は全くありません。
Img_87628z 東山界隈に入って、寿経寺です。「心の道」卯辰山山麓寺院群のひとつ。
幕末、安政5年(1858)に大地震があったとき、米価暴騰に苦しんだ庶民らが卯辰山から大声で藩主に直訴。暴徒として5人が処刑され2人が獄死しました。

Img_87630z 彼らの供養に稲穂を抱いた「七稲地蔵尊」が建立され奉られています。
これらが第一回の金沢検定に出ましたが、当時は知らなかったので間違えてしまいました。

Img_87633z その奥です。[観音坂(かんのんざか)]No324 観音院の門前の坂で、加賀藩初期、同院の参道として作られた。明治42年北側に新しい坂路ができた。
観音院はこの階段の坂を登りきったところにありますが、ヒザ痛は登りより下りが折れるように痛いです。今日はここでガマンです。Img_87638z
すこし浅野川方向へ戻って、[旧御歩町(おかちまち)]No148 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた。
この板塀も立派です。向かいの家も武士系建築がよく保存されているとして、金沢市が「こまちなみ保存建造物」として指定したプレートが玄関に貼られ、保護されています。
Img_87641z 浅野川まで来ると、徳田秋声記念館がありました。最近作られ、これで室生犀星・泉鏡花、と金沢三文豪の記念館が揃いました。
今日は入りませんでしたが、犀星には以前入ったので、あとの2人は検定対策もありいずれチェックしましょう。
Img_87645z その目の前に「梅の橋」です。3月に修繕された人道橋ですが、外観は木造でも、橋脚や基礎はしっかり鐵骨製でした。それが修理ではっきりと判明したというので、昔の架橋時の資料はなかなか残らないものですね。
しかし欄干など、早くも大きなヒビだらけになっています。大丈夫でしょうか?
Img_87661z 梅の橋を渡って並木町に入ると、泉鏡花の名作、「義血侠血」のヒロイン、[瀧の白糸]像です。この像はなんと水芸よろしく、スイッチで扇子の先から水を噴射します!
春に行われる浅野川園遊会では、川の流れの上に演台を設け、水芸が再現されます。この悲劇の物語は、戦前から6度も映画化され、京マチ子や若尾文子が瀧の白糸を演じました。
Img_87664z そのすぐ隣に石碑はあります。
[並木町(なみきまち)]No100 藩政時代、浅野川の護岸のために川沿いに植えられた松並木にちなんで、この名がついたという。
平成17年に旧町名が復活しました。このあたり、昔は川沿いに映画館が並び、モダンな雰囲気もあったんですが、今は高層マンションが建ち並び、卯辰山からの甍(いらか)の波の眺めがかき消されてザンネンです。
Img_87668z 観音院の前の道に戻り、ひがし茶屋街のそば[旧観音町(かんのんまち)]No149 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。
この旧涌波家は、金沢市指定文化財。藩政期の町屋建築を復元し公開されています。しかし天井が低く床の間も省略されたコンパクトな造りでした。
Img_87694z さてそろそろ疲れてきたので、主計町再訪もはしょり、対岸の住宅地にポツンとある石碑をこの日の最後にします。
[関助馬場(せきすけばば)]No511 加賀藩初期、佐賀関助が開いた長さ約300メートル、幅約24メートルの藩士の調馬場があったのでそれを地名にした。
このうしろ、公園の前に不自然な広い真っすぐな道があります。これが馬場の跡の一部だったでしょうか。道路と道路の間にあり、ここが見つけにくかった要因です。銭湯から出てきたおじさんに教えてもらい、ようやくわかりました。
あとこの日はS氏の初めて石碑を周り、武蔵が辻で打ち止め。一日で50箇所は廻ったでしょうか。とてつもなく疲れました。足がよく最後まで保ったものです。
次回8日に13箇所チャリで廻ったのはまた後日にします。

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2008年6月12日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」17

Img_87582z 遅々として進まないので、石碑に集中しますね。
[旧九人橋下通(くにんばししたどおり)]No88 九人橋は東内惣構堀に架けられた橋で、橋番が置かれていた。十人並んで渡ると九人の影しか映らないという伝説から、橋の名がついたという。
兼六元町の光誓寺前の通りです。今は橋の面影もありません。
Img_87592z 天神橋前の通りです。
[旧東外惣構堀(ひがしそとそうがまえぼり)]No412 慶長15年、三代藩主利常が篠原出羽守一孝に命じて掘らせた金沢城の外堀で、城の東側にある。八坂から始まり材木町を経て浅野川まで、長さ約1,400メートル、城側に土居を盛り、竹藪を配していた。
水量は現在極限まで少ないです。
Img_87593z 材木町小学校のそばまできました。
[材木町(ざいもくちょう)]No83 元和2年、紺屋坂付近にいた町民が城郭修築用木材を宮腰港から運搬した功で材木を与えられ、この地に移転したためこの名がついたといわれる。
ずっと現役の町名です。市内中心部は、旧町名のついた小学校は多いですが、ここはいまでも現役。
Img_87600z その材木町小学校の北側。
[旧又五郎町(またごろうちょう)]No84 加賀藩士、横山又五郎の邸地があったので、明治の初め、この名がついた。
例によって、ゴミステです。ここのは折りたたみ式ですね。こういうスチール製は、10万クラスするそうで、町会で出費するかしないかで、導入が決められるみたいです。うちの町会はネットだけですw。
Img_87603z すこし南へ向かい、横山町児童公園へ。
[横山町(よこやまちょう)]No77 加賀藩の老臣横山氏が、下屋敷のあったこの地に元禄から藩末まで代々家臣とともに住んでいたので、この名がついた。
加賀八家のひとりです。そういや奥村町ってのだけ聞いたことありません。
公園ではお年寄りが、似つかわしくないPCの話をさかんにされてました。XPの保証期間がどうのこうのとw。
Img_87606z もう一度材木町に戻って、やはり地図と位置が違うここを探します。近所の方に尋ねましたが、やっぱり石碑など知らない方も多いようです。
[旧備中町(びっちゅうまち)]No85 加賀藩士、岡島備中の下屋敷があったところで、元禄ころは備中上地町といいい、のち、この名となった。
Img_87609z ここでちょっとだけ寄り道。材木町、裏が浅野川という静明寺に、徳田秋声の墓碑がありました。わが犀川沿いは、圧倒的に室生犀星にまつわるものが多いので、徳田秋声や泉鏡花は埒外です。文学の点も勉強しないと、金沢検定中級はなかなか合格させてもらえないでしょう。
Img_87612z_2 天神橋の前近くです。
[旧玄蕃町(げんばまち)]No93 加賀藩重臣、津田玄蕃の下屋敷があったところで、明治の初め、この名がつけられた。



Img_87615z これが天神橋です。浅野川にかかる鉄橋でちょっと有名ですね。
卯辰山に登る玄関口。昭和28年に洪水で、鉄道橋以外の浅野川の橋はすべて流され、昭和30年に今の鉄橋が架けられました。以降、この橋の下に測水所が設けられ、昭和50年にはここから上流の田上地区に浅野川放水路が造られ、洪水時に犀川へ河水を分流して被害を防ぐ方法がとられました。
Img_87618z おとこ川と言われる犀川に対して、おんな川という浅野川のおだやかな流れです。
6月6日の百万石まつりでは、ここから下流の浅野川大橋に向けて、灯籠流しが行われました。金曜の夕方なので、なかなか見ることができません。

Img_87620z 天神橋を渡りました。
[旧豊国町(とよくにまち)]No147 観音山下町が改称されたもの。豊国神社社殿の麓にあったことから、明治元年、この名がついた。

今日はここまで、明日はこの日の最後、東山界隈を歩いたのをレポートします。



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2008年6月11日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」16

Img_87503z さて、兼六坂の上から、石碑を探しました。当然尻垂坂に石碑があるものと思ったらそうではなく、脇から細い坂が湾曲して降りていく道にありました。
[小尻谷坂(こじりたにざか)]No319 藩政期の中ごろ尻谷坂(汁谷坂・尻垂坂等)より小さいところから、この名がついたといわれている。
僕も今日まで坂の存在に気づきませんでしたw。
Img_87510z 兼六園下交差点まで降りてきました。
[旧胡桃町(くるみちょう)]No78 この地の東外惣構堀にかかる橋を、橋詰の染師黒梅屋の名によって黒梅橋といったが、俗にくるみ橋と呼んだことから、明治4年この名で町立てされた。
金沢に観光に来られた方なら、必ずこの交差点に降りられたことでしょう。正面に石川門隅櫓が見えます。
Img_87519z 石川橋を渡るために、兼六園側のみやげ物屋の前の坂を登ります。
[紺屋坂(こんやざか)]No320 加賀藩初期に藩の御用染商、館紺屋孫十郎が坂の付近に住んでいたので、この名がついた。
兼六園と金沢城入口のピークです。この石碑をご覧になったことありますか?
さて、では金沢城に入りましょう。
Img_87529z 工事中の河北門二の門石垣です。だいぶ高くまで積まれました。金沢の石工だけで仕上げられている美しい切込みハギです。
急ピッチで積まれている石垣造りの現地説明会が、いずれかのタイミングで開かれるはずですが、まだ情報がありません。

Img_87540z 大手門側の新丸に降りるのに、従来の河北門一の門正面の通路は閉鎖されていて、この裏側から造られた木道を通ることになりました。でもここからの工事現場と五十間長屋の見晴らしはかなりGoodです!


Img_87548z 木道の先端まできました。手前の石垣は一の門の石垣。工事前はでかい松の木が生えていました。そういった植生や経年で、石垣はかなりズレが生じています。それを直すと、新しいものにも負けないくらいのピチッとした切込みハギが戻るはずです。
再来年の完成が待ち遠しい!
Img_87564z 新丸に降りて大手門から城外に出ます。大手門はよほど用がないと通らないので、まるで初めてのように本日まじまじと石垣を観ましたが、藩政期のままの大きな石垣造は、ここが城の正面にふさわしい、というのを充分に体現していました。城の中で一番大きな石もこのあたりで使用されています。
早くに櫓や長屋などを焼失しているので、史料など少ないですが、ここにそれが再現されると間違いなく、内外の注目に値する巨大建造物となるでしょう。
Img_87567z その大手門を出たなり、現在金沢城唯一の水掘、大手掘があります。
[大手町(おおてまち)]No92 藩政時代は金沢城の大手口であったのでこの名がついた。大手先、小坂口とも呼ばれ、大身の武士が住んでいた。

Img_87568z 大手門を出て次の石碑を探していると、金沢の名士、科学者の高峰譲吉博士の家がありました。明治期の人ですから、今のこの家がそうだとは思えませんが。
高峰博士は醸造学者として消化薬の「タカジアスターゼ」や手術に用いる「アドレナリン」の発明者で、医薬会社の「三共」の初代社長でもあります。
Img_87571z その向かいあたり。
[旧梅本町(うめもとちょう)]No96 廃藩直後、加賀藩の老臣一万八千石前田孝敬の邸地を東西に二分して作られた町で、その家紋「角の内梅輪」にちなんで、この名がついたという。
どうも旧町名といえど、明治初期に町割された名前が主に石碑になっているようです。
Img_87577z 裁判所の前の道まで出ました。
[旧味噌蔵町(みそぐらちょう)]No89 藩政初期に軍用の味噌蔵が建てられていたところから、この名がついたという。
正面は味噌蔵消防派出所です。

今日は城のレポートもあったのでここまでとします。明日は石碑に集中しようかな。



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2008年6月10日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」15

Img_87473z 兼六園下へ繋がる大通りの主要?交差点
[賢坂辻(けんさかつじ)]No505 久保市乙剣宮と椿原神社の氏子の地境であり、また丘陵地の先端でもあることから昔は剱先が辻と呼んだが、明治4年、賢坂辻と改めた。
昔は氏子の境とか、そういう土着なのものってはっきりしてたでしょうね。石碑は見にくいですが、対面の電柱脇にあります。
Img_87470z 次の御小人町を探していたら、また地図どおりではありませんでした。すると成瀬町の近く、東外惣構堀沿いの石垣がまだ健在でした。小路との角、小さな祠もずっと守られているようです。上の家は以前はお寺であったろうか、というほどです。
橋の名前は賢坂橋

Img_87465z しかしこの辺の東外惣構堀の水はあまりにも少ない。この溝をわずかにチョロチョロと流れています。
コンクリートで升形に仕切られ、以前は洗い場として利用されてたでしょうか。








Img_87477z ようやく見つけました。[旧御小人町(おこびとまち)]No71 藩政時代、藩主の行列の際にその身のまわり品の茶弁当、矢箱、提灯などを運ぶ御小人の組地であったので、この名がついた。
地図の印は小路の側についてましたが、大通りに面しています。移動でもあったでしょうか。不可解ですw。
Img_87480z もうしばらく兼六園側に進んで、小将町中学校あたりまで来ました。[旧東内惣構堀(ひがしうちそうがまえぼり)]No410 金沢城防備のため、二代藩主利長が慶長4年に高山右近に命じて掘らせた東側の内堀である。旧小尻谷町から始まり橋場町を経て浅野川まで長さ約1,300メートル、城側に土居を盛り竹藪を配していたが、今はその面影は殆どない。 とあります。
内はまだ水の流れは用水のようです。概して東側は、西の水量の豊富さに比べたら(犀川の水が元になっている)、少々おとなしいですね。



Img_87482z 小将町中学校の前まで来ましたが、石碑の前にお地蔵さんを。
金沢市内で三十三観音めぐりというのがあるようですが、地蔵もあるでしょうか。第二十九番札所と書かれてます。
子供の病気など、祈れば治していた地蔵も、江戸初期には橋の下に埋もれていて、地上に引き上げ安置しようとした藩老の夢枕に立ち、「自分は橋の下にて踏まれて通る人を済度する」とお告げがあって、更に多くの信仰を集めたそうです。
Img_87484z そのすぐ隣、小将町中学校で[小将町(こしょうまち)]No73 藩政時代、藩主の身辺を護衛する小姓頭や小姓組の侍がここに置かれたので、御小姓町、小姓衆町、小姓町などと呼ばれた。加賀藩では小姓を小将とも書いたので、明治になって小将町となった。
Img_87486z このあたりは由緒ある寺も多く、古い静かな住宅地が続きます。こんな和洋折衷のモダンな雰囲気のある家も珍しくありません。



Img_87487z かと言えば、このしゃれた建物はこれでお寺です。真宗大谷派 法旬寺とあります。
加賀は言わずと知れた一向一揆の百姓の持ちたる国でした。そこに織田信長の勢力が入り、前田利家が入城したわけですが、そのため金沢を防備する目的も併せ持った「寺町」には、日蓮宗の寺が多く、真宗の寺は分散されたのです。
それでも後年、本願寺別院が東西あるように、真宗の信者は根強く金沢中に広まり、今でも僕らを始め、石を投げたら真宗信徒に当るくらいでしょうww。
Img_87491z 藩士の屋敷地の土塀がありました。今では逆に珍しくなった、トタンで覆われた土塀です。
長町武家屋敷の通りでは、観光地化整備が進み、景観保護のため土塀も修理復元され、冬は塀面保護のため「こも」と言って藁を編んで吊るしたもので覆っています。しかし実は以前はこのようなトタンで覆って年中保護していました(僕の記憶では)。
Img_87494z さて東兼六町、国立金沢医療センター下の坂まできました。
[八坂(はっさか)]No317 昔、付近に木こりが通う八つの坂があったのでこの名がついた。のち、一つが残り、宝憧寺坂、伊予殿坂とも呼ばれた。
かなり長く急で、息があがってしまいます。自動車もいちおう通れるようになってますね。
Img_87499z 上から見た図です。急に見えるでしょう。右は奥村家上屋敷を利用した国立医療センターです。
左枠外は今では兼六坂といって、兼六園の脇を通る金沢で一番長い坂です。昔はあまりに長いので尻垂坂と言いましたが、現在石碑は置かれていません。

先はまだ長いので、今日はここまでw。

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2008年6月 9日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」14

Img_87422z さて、6月1日には、歴史好きのS氏とまた待ち合わせて、一日中市内を歩きました。この日は「ふらっとバス」に乗って小立野台まで登り、そこからスタートしたものの、坂のアップダウンも多く、わりと早い目にヒザ痛が始まりました。後半は足を引きずるか、ムリヤリヒザを上げて歩いてかなり苦しみましたw。もう長距離歩けない身体になってしまったでしょうか??
Img_87425z さて、今日の最初は[木曽坂(きそざか)]No315 金沢大学病院の北西脇から、木曽谷を降りて行ったところ。
木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。
小立野台の中に、さらに谷があるとは知りませんでした。そして前の写真の右から登って、左の写真で降りていくのが木曽坂です。このあたりは鬱蒼として、昼なお暗しです。夜は通りたくありませんね。





Img_87432z 扇町に降りて上手(かみて)に戻り、今度は馬坂を登り返します。
[馬坂(うまざか)]No316 昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた。
自動車は登れない歩道になっています。見晴らしもいいです。この背中には不動尊もある寺域になっています。
Img_87434z 掟として、石碑の写真は必ず載せたいのですが、曲がりくねって登りきったところにそれはありました。生垣に全く隠れて・・。かろうじで「馬」の字が見えるでしょうか? これでは意味ありませんねw。



Img_87438z 降りなおして天神町の住宅地の中を探しました。
[旧品川町(しながわちょう)]No54 加賀藩士品川氏の邸地があったところなので。
左枠外には、天神町緑地という大きな公園があります。住宅地の中に突然巨大な空間があると、なにやらいわくを知りたがるものですが、見つけられませんw。山の上には近代的なビルとなった"金大"病院が。
Img_87441z 兼六園下から桜町へ至るこの大通り沿いに、いくつか石碑が連なっています。
[旧吹屋町(ふきやまち)]No64 もと石川郡田井村の地内で、鋳物師や職人が住んだので、この名がついた。
大通りに建っていると、この町名は果たしてどっち岸の町なのか、古地図があってもわからない時がありますね。
Img_87445z [旧銀杏町(ぎんなんちょう)]No65 藩士本多家の家士であった茨木氏の邸地が当地にあり、同所にはイチョウの古木があったことに因むという。
しばし続けましょう。



Img_87446z [旧火除町(ひよけまち)]No69 藩政時代、防火のため城下町の所々に空地を設けて火除地としたが、ここもその一つであったのでこの名で呼ばれた。火避町とも書かれた。
そういったところを「広見」とも言いました。近所にも「川上広見」というのがあります。
Img_87449z 途中路地にも入りながら、大通りを兼六園下に向かって歩いています。
[旧馬場崎町(ばばさきちょう)]No75 藩政時代、藩の老臣横山氏上屋敷の馬場の横通りを馬場先と呼んでいたので、明治の初め、この名がついた。
実際、江戸期からの町名というより、それを元にして明治初期につけられた町名が多く石碑に表されています。
Img_87451z 大通りに戻って[旧九枚町(くまいまち)]No68 加賀藩の老臣奥村氏(一万二千石)の下屋敷地であり、同家の家紋九枚笹にちなみ、明治の初め、この名がつけられた。



Img_87460z 扇町の住宅地にまた戻ってきました。
[旧柿木町(かきのきまち)]No61 三代藩主前田利常のときに火除地として城下の各地に柿木畠が設けられた。柿本人麻呂をもじり、柿の木のもとでは火が止まるに因んだといわれる。この地にも柿が植えられたが、後に町立てされてこの名がついた。
この話って知ってました?
Img_87464z さらにすぐそば、ミミズクガーデンという公園に、[旧板前町(いたまえまち)]No57 藩政の初めころ、藩の台所奉行に属する板前足軽組地であったので、この名がついたといわれる。
自宅の近所は台所付足軽組地で台所町でした。
Img_87468z 東兼六町に入って、[旧成瀬町(なるせまち)]No60 加賀藩重臣、成瀬氏邸地があったのでこの名がついた。昔は高石垣の上に楼門、長屋などがあり、俗に加賀の小城と呼ばれた。
それに相応しいと思える場所は、賢坂辻に向かう常福寺の隣にありましたが、今では悲しきかな石碑がゴミステーションになっていますw。
本日はとりあえずここまで・・。

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2008年6月 8日 (日)

金沢南運動公園のバラ!

Img_87986z 今日は雨降りかと思ったら、昼から晴れてきたので、また「まちしるべ」を撮りに出ました。南の方をチャリで・・、ってそうだ!金沢南運動公園のバラはまだ咲いてるだろう。
去年に引き続き激写です。しかし、結構峠は過ぎてますね。でもプールとグラウンドはスポーツ真っ盛り!大勢の人たちがバラ園にも寄って堪能されてます。
Img_87990z 50mmマクロで撮るんですが、風にあおられたり、三脚なしだからブレブレにも気をつけながらです。
それでも陽射しが出てきたので、シャッタースピードは充分得られました。


Img_87995z 以前からも言ってますが、花の名前はぜひにも覚えたいものですが、特にバラは細かい品種の名前がさまざまあって、端から覚える気にならないのは僕だけでしょうか?


Img_87997z 今日はちょっと開放目に撮ってしまいました。最近20Dの調子がイマイチのような気がします。この後のまちしるべも仕上がりが??です。
オーバー88000ショットも打つと、老朽化がくるでしょうかね。レンズの中の汚れもずっと気にはなってます。
キタムラに久しぶりに寄ったんですが、フイルム全盛の頃より、中の商品構成が大幅に変わっちゃいましたね。
Img_88003z 40Dは本体97,000円の店頭価格、さらに今なら10,000円キャッシュバック。今までなら、ゼヒにほしいと悩むところですが、今は江戸へのお足にも事欠くありさま。なんとか20Dを永く使っていきたいですな。
地味なものばかり撮らずに、もう少し華やかなものも撮っていけば、少しはご機嫌治してくれるでしょうかw。



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2008年6月 7日 (土)

金沢百万石まつり'08

Img_87712z 今年も百万石行列の日がやってきました。前田利家の金沢入城を記念して、今年で57回目を迎えます。金沢城を囲む市内一周ルートから、金沢駅から繁華街を廻って金沢城に入城するルートに変わって3年目。城内でもステージイベントなどが加わり、ストーリー性もあっていままで以上にかなり好評なパレードになりました。
Img_87721z 去年に続いて百間堀通りでの観覧になりましたが、午前の仕事の後、遅く着いたけどルートの最後半、まだまだスペースはありました。
時代行列の前に、小中学校や消防・自衛隊など、さまざまな団体の音楽パレード。僕らの頃あまり参加する機会はありませんでしたが(長姉は高校時代に参加)、昔より充実して大勢の子たちが加わっています。
ここまでスタートから約5km、子供たちも散々疲れたでしょう、結構演奏もへろへろ。しかし晴れがましく一心に奏でるその姿に、なんだかジーンとして涙ぐみました・・。
Img_87733z さて、毎年この時期から選考される、ミス百万石の3人です。これから一年、全国に金沢をアピールして、さまざまなイベントに駆け巡る予定です。20代前半の子がいつも選ばれますが、彼女たちの将来も気になりますねw。


Img_87740z 来年、隣の富山県高岡市が開町400年を迎えます。前田利家の長男、利長が隠居城として高岡の町を造って以来、加賀藩の重要な都市として栄えました。PR隊が行列に参加です。
高岡は最近、高岡コロッケで町おこしに成功しています。宇都宮のギョーザのようなものですが、うらやましいです。食べに行きたいですね。
Img_87774z 加賀鳶ハシゴ登りです。金沢にある49の消防団員の勇気ある演技に拍手喝さいです。
江戸で制度化された大名火消しで一番の活躍をした加賀藩。本来大名屋敷のみの消火でしたが、江戸の他地区にも応援に駆けつけ、その人気で有名になり、金沢にも凱旋したのが始まりとか。
Img_87860z 利家の奥方、お松の方です。今年から女優を呼ぶことになり、石野真子さんです。まさに、僕ら世代のアイドルですねw。
以前は金沢のデパートの店員から選ばれましたが、申し訳ないけどやはり華があります。しかし枠で囲った車の上から手を振るだけなので、少し物足りないですね。

Img_87874z 時代行列では、加賀八家という家老集団の行列も。行列が長く、流れが止まっているタイミングのときもあり、この武将?が僕の隣の、横浜から来たというおばさんたちとしばし歓談。「朝10時から駅前で着替えて、少しの弁当だけで水分の支給なし。脱水症状になるわいやw。」「このあと城の中に入ったらいいがいや、ステージで演技があるさかい。ただ歩いとるの見とってもおもしないやろw。」いやいや充分面白いですよ。。






Img_87900z さて、本日のメインエベント、前田利家公の山下真司さんです。俳優が利家公をするようになってから、もうおばさんたちがいつもキャーキャーですw。馬上で両側の観客席に近付きながら廻るので、みなさん案外よく撮れたのでは?
この後僕に向かって寄って目線も呉れましたが、ザンネンながらピンボケてしまったので非公開ですw。
Img_87922z またしばし停滞したので、金沢城をバックにたくさん撮れました。
このあと城内ステージでセレモニーですが、ここに居ると大回りしないと城内に入れないので、今日は去年に続きここまでとします。一昨年高嶋政宏さんのときは、武蔵が辻で見てから城内へ行って迎えましたが、そうでもしないとよく見れませんから。
毎年6月第一週土曜に行われる、一大歴史ページェント。隣のおばさんのように、遠くからでもぜひ観にいらっしゃいませんか?

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2008年6月 5日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」13

Img_85740z 一本松周辺の小立野台の崖下には、細くくねった生活道路で行き止まりが多く、ようやく崖にへばりつくように建っている菅原神社まで登ってきました。
[旧欠原町(かけはらまち)]No32 崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。
細くて車が通れるのか?ってくらいです。
Img_85744z 崖をつたって北西に向かい、崖を横切る坂を下りてきました。
[新坂(しんさか)]No310 加賀藩前期、嫁坂のあとにできたのでこの名がついた。昔は、小立野新坂、笠舞新坂ともよばれた。
ここも左枠外はゴミステーションです。道は広いですが、後ろの坂上から狭い道になっています。ここいらは自宅からそう遠くない場所ですが、用がないので一度も来たことがありません。
Img_85748z その嫁坂です。小立野台の崖は街からもよく見えるので、崖から見る街の眺めは素晴らしいと思ってました。この方角はどうしても住宅しか見えませんが、坂上の公園からは、新緑がジャマしなければこの角度右外側の、街の繁華街を一望できるはずです。









Img_85750z_2 そうそう、石碑が必要でしたね。特に坂になると、石碑が建っている位置でその坂の特徴を撮るのが難しい箇所もあります。
[嫁坂(よめざか)]No311 加賀藩初期、坂の上に住んでいた藩の重臣、篠原出羽守が、娘を本庄主馬へ嫁がせる時つけた坂なのでこの名がついた。
Img_85753z 小立野台に登り返しましたが、この石碑も地図の位置と違ってました。結局幼稚園の敷地内です。
[旧鷹匠町(たかじょうまち)]No36 寛文の初めころから、藩の鷹匠の邸地や鷹部屋がここにあったので、この名がついた。

Img_85756z 小立野台の先端、石川県立歴史博物館のところまで来ました。
[出羽町(でわまち)]No49 藩政初期、藩の重臣、篠原出羽守一孝とその一族、家臣などが住んでいたので、この名がついたといわれる。昔は出羽殿町とも呼ばれていた。
県立歴博は、陸軍兵器庫から、戦後金沢美術工芸大学に使われていた赤煉瓦造りの明治後期の建物。横浜の赤煉瓦倉庫にも負けない90mもある左右対称の三棟もの建造物は、国の重要文化財にも指定されています。
Img_85761z 歴博から坂を下りてきました。右が兼六園、左が石浦神社です。正面の通りの名にもなってるこの坂が
[広坂(ひろさか)]No318 坂道の幅が広いのでこの名で呼ばれているが、加賀藩時代から明治中期頃までは安房殿坂、作事坂ともいわれていた。
今となっては、決して広いとは言えません。ちょっと急で、観光客が多く通るのに危ない気がします。
Img_85762z 広坂通りを、旧石川県庁前まで来ました。大正時代のこの石造りの県庁も、今保存作業中です。
[堂形前(どうがたまえ)]No503 加賀藩初期、京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場があり、これを堂形と呼んだ。のち、そこに米倉が建てられた。
ここは金沢城本丸の正面。いもり堀も段階的に復元工事が進められる予定です。
Img_85765z その隣、かつて金沢中警察署があったところです。今は広く広坂緑地として、町名同様の石碑が建ちました。
正面の森が本丸。右端が辰巳櫓跡です。ここに同面に破風が複数の種類ある全国的にも珍しい辰巳櫓を復元しようと計画中です。街から一番目立つ位置になり、市民が大いに期待しています。
Img_85768z さて、広坂から本多町を桜橋に向かって鱗町交差点に来ました。
[鱗町(うろこまち)]No39 藩政初期からの町名、新立町末うろこ町、犀川うろこ町、いろこ町などとも呼ばれた。当地に魚商が多く、鱗がよく見受けられたことによるとの伝承がある。
この名も現役です。ここから片町に向かって古い町名がいくつも、現役で活躍?していますよ。
Img_85771z 桜橋から犀川上流を望みます。この左岸に僕の自宅があります。おだやかでいい街だと思うんですが、いつもいると当たり前でありがたみが薄れますがね。




Img_85773z 対岸の清川町を下菊橋に向かって走ります。途中、お百度参りをする祠がありました。写真ではよく見えませんが、大木の両側の階段を上り下りしてお参りするようです。昔はそういった方が多くいたでしょうね。僕はもう、すぐにヒザが痛くなってムリですね。

Img_85778z まもなく下菊橋の犀川沿い[旧仙人町(せんにんまち)]No5 明治3年の町立て、町名の由来は不詳だが「こんな荒れたところに住むのは仙人しか居ないから仙人町としたらいい」と命名されたという。
すぐ近所なのに寂しい話ですw。たしかに右枠外は、すぐに寺町台の崖がせり出してます。
Img_85780z さて、いよいよこの日の最後、下菊橋の寺町側たもと[長良坂(ながらざか)]No303 旧長良町へ上がるのでこの名がついた。犀川のがけふちにあり、川風が吹き上げてくるので、吹上とも呼ばれていた。
昔は正面のこの坂、ちゃんとした車道で下りる一方通行でした。今はこの左側に立派な片側2車線の坂道が出来たので、階段を道幅半分使った生活道路にしてしまいました。
ここまでちょうど、目標どおりチャリで3時間、20箇所巡りました。
6月1日には、またS氏と"まちめぐり"しましたが、半日で新規36箇所。S氏の新規分混ぜると約50箇所も巡って日焼けとヒザ痛がひどかったです。でも残り約60箇所となり、俄然早期の全箇所制覇の意欲が涌いてきました。そのレポートはまたこの後お伝えします。

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2008年6月 4日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」12

Img_85686z 18日(日)は、昼3時間!と区切ってチャリで出かけました。
犀川を上って近所の城南1丁目から、[旧藤棚(ふじだな)]No19 この地はもともと成福寺・白山社の旧地で成福寺門前といわれていました。境内に大きな藤棚があったので、通称藤棚とも呼ばれていたが明治4年町名になった。洪水で神社は流され今はもう少し下流にあり、白山藤棚神社として立派な藤棚もあります。以前にもご紹介しましたね。
Img_85692z 次の石碑を求めて小立野台に登る前に、勘太郎川の水源でもある大清水(おおしょうず)を探しましたが、下調べなしだったので見つけられません。後にパレットの裏とわかりましたから後日再訪します。
三口新町をうろつくと、複数の日吉神社に出くわしました。日吉神社や住吉神社など、金沢にいくつもあるので、全踏破をいずれ目論見たいと思いますw。
Img_85698z いよいよ小立野台に登ります。[善光寺坂(ぜんこうじざか)]No308 そのまんま、善光寺という寺があったから。右の坂の下から来ました。




Img_85702z そこから僅か後ろに[旧上野町(うえのまち)]No20 もと石川郡上野村の村地で、馬坂や牛坂など坂の上の野であったことからこの名がついたといわれ、文政4年に町地に加えられた。



Img_85703z [旧上弓ノ町(かみゆみのまち)]No24 天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治になって、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地が下弓ノ町となった。
さてここも、地図の位置とはだいぶ違って探しました。金沢商業高校の敷地内でしたが、ここいらも今まで用がなかったので来たことがありません。姉は金商出身でしたが。
Img_85707z 三代藩主利常の正室、二代将軍秀忠の娘「珠姫」を奉る天徳院です。寺内は藩政期もっと広かったそうですが(今の真っ直ぐな石引通りは、元々天徳院への参詣道)、今でもその静謐な寺域の奥は深遠としています。ここから先有料なので入りませんw。


Img_85708z 金沢大学病院まで来ました。[旧土取場(つちとりば)]No37 藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった。
ガードレールがジャマして、病院をバックにいい画が撮れません。左手前から病院の駐車場進入口です。父は僕の物心ついてからずっとこの大学病院で入退院を繰り返していました。学校帰り、自転車で新聞を届けるのが日課のときもありました。
Img_85713z 病院の前を横切って、[旧百々女木町(どどめきちょう)]No42 藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。
公衆電話をはさんで向こうの石碑は、紀元二千六百年(昭和15年)記念舗装とあります。余談ですが、零戦とは零式艦上戦闘機。零は紀元2,600年の末尾0を指し、昭和15年に開発されたことを意味します。
Img_85715z [旧大音町(おとうまち)]No41 藩政時代、加賀藩士大音主馬の下屋敷があったので、大音家中と呼ばれていたが、明治の初め、この名がついた。
これも探し辛かった。ここへ来るまで、ものすごい狭い路地を入って、さらに右へは行き止まりなので、なぜこんなところに石碑を建てたのかわかりませんw。
Img_85717z 大学病院へのエントランス道路ですが、この位置に[旧河内町(かわちまち)]No34 の石碑があるはずですが、工事中のため外されたと見受けます。改めて建てられたときに紹介します。



Img_85727z 小立野台の崖近くの入り組んだ路地に侵入します。突然、辰巳用水から分流した勘太郎川の崖が現われました。急傾斜地崩壊危険区域とあります。なんとも住宅地の脇に危険な場所でしょう。



Img_85728z そこからすぐ、ふらっとバス通りに[旧二十人町(にじゅうにんまち)]No33 鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。ここを後ろに下ると二十人坂ですが、坂の石碑はありません。


Img_85733z 一本上手の坂[旧白山町(しらやまちょう)]No28 藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。
左に波着寺があります。救急車の降りていく坂が白山坂ですが、やはり石碑はありません。
Img_85737z ふらっとバスの登る二十人坂に、一本松陸橋のバス停があり、右奥に見えるその陸橋の下[旧一本松(いっぽんまつ)]No27 もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる。
陸橋の上から探しましたが、やっと見つけた古い住宅地の路地にポツンと建つのは、ちょっと違和感ありますね。
今日はここまで、明日続きです。

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2008年6月 3日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」11

Img_85636z この週末も、S氏と"まちあるき"してきました。しかしその前に5月17日18日のレポートがまだなので、それを3日間に分けてお伝えします。
土曜午前まで仕事のあと、中村町のアピタ金沢に車を停めて、白菊町周辺から廻りました。
瑞泉寺の前で[旧五十人町(ごじゅうにんまち)]No16 足軽五十人組が住んだので。近くには室生犀星記念館があります。
Img_85639z [泉用水(いづみようすい)]No402 藩政初期からある、犀川から取水する農業用水で、旧石川郡米丸村増泉、三馬村泉・西泉の田畑を潤していました。
本支流とも細かく枝分かれしていて、今でも街中を流れています。

Img_85643z [旧助九郎町(すけくろまち)]No15 本間助九郎または葛巻助九郎の邸があったから。この石碑が地図の印と違う位置にあって探すのに苦労(九郎)しましたw。なんのことはない、西インター大通(野田専光寺線)に面してました。

Img_85644z [白菊町(しらぎくちょう)]No18 藩士前田平太夫の下屋敷があり、その定紋[菊一文字]にちなんで。
今でも白菊町ですが、以前石川線の北陸鉄道は、この白菊町まで線路が延びていました。この日は探しませんでしたが、近年まで線路や駅の跡が想像できる遺構がありました。
Img_85647z [中村高畠用水(なかむらたかばたけようすい)]No403 泉用水同様、犀川から取水する農業用水で、石川郡米丸村中・高畠を灌漑していたが、大正7年に二つの水路が合併されました。
敬栄寺の敷地内に建っています。橋も裁断橋と名が付いてます。左の木も謂われがありそうですが、先を急ぐのであまり読みませんでした。興味のある方は調べてくださいw。
Img_85655z 新橋を渡って中央通に来ました。[旧塩川町(しおがわちょう)]No70 藩士塩川安佐衛門の屋敷があった。
植え込みのある歩道前の住宅の人は、どうしてなんでも私物の鉢植えとか平気で置くんでしょうねw。

Img_85657z 大野庄用水沿いに、長町武家屋敷に向かいます。右の建物は「前田土佐守家資料館」。利家とまつの次男、利政を祖とする加賀八家の前田土佐守家に伝わる貴重な資料を主に展示しています。僕も古地図を観に、何度か訪れました。

Img_85660z その向かいは老舗記念館。南町にあった老舗薬舗「中屋」の建物を移築しました。中屋は20年ほど前まで、今はオフィス街となった南町のビル群に囲まれていましたが、取り壊すのは惜しまれここに保存されることに。"な・か・や~の混元丹!"と、今もCMソングがTVに流れています。

Img_85662z [長町(ながまち)]No72 この一帯は全て藩士の邸地で、長い町筋だったことからや、加賀八家(ちょう)氏や山崎長門の名にも由来するといいます。
このあたりは観光地化するためかなり再整備され、武家屋敷の土塀や用水の開渠化など、古(いにしえ)の姿に美しく復元されました。用水の水を屋敷の庭に取り入れるための開口部もあります。
Img_85665z さらに先に進むと[大野庄用水(おおのしょうようすい)]No409 藩政期からある用水で、犀川から取水し、旧石川郡大野庄の灌漑、物資運搬、市街地の防火防ぎょ、融雪などのための多目的用水で、御荷川、鬼川、オホノヒ川の別名があり、下流は木曳川といいます。前回は鞍月用水との合流地点を紹介しましたね。
右の武家屋敷、野村家は内部を公開しています。
Img_85666z 一本わき道に入ると、「長町やすらぎ緑地」と出くわしました。近年、街中で住宅など空地ができると、市が買い取って突然そこを緑地化・整備して市民に開放することが増えてきました。意外なところにポツポツと緑地ができるので、戸惑うこともしばしばです。そしてまちしるべ石碑を真似して色の違う碑なども建っています。
Img_85669z もういちど中央通に出て[旧宝船路町(ほうせんじまち)]No74 寛永の大火のあと、犀川大橋詰にあった法船寺がこの地に再建されて、門前町をつくり法船寺町と呼ばれ、明治4年、宝船路町に改められた。


Img_85672z 元車交差点まで来ました。[旧富本町(とみもとちょう)]No76 文政6年に法船寺町から分立し、町内には鍔屋小路も含まれていました。明治4年、広小路と等雲寺門前を合併してこの名に。ところが町名の由来は不詳。
バス停でここは昔から富本町と心得てましたが、今は町名がありません。この緑地はずっと北國銀行で、駅からバスで正面に見えたビルが印象的でした。
Img_85674z 今の北國銀行は、奥のレンガ造りの建物。旧酒蔵で、地ビールブームのとき金沢第一号のビールを造ってレストランも営業していました。
[旧元車町(もとぐるままち)]No79 藩政初期、大豆田用水に水車を設け灯油を製造したところから、犀川油車、油車町とも呼ばれていたが、のち、この名がついた。
Img_85675z 道を挟んですぐ向かい[旧高儀町(こうぎまち)]No81 藩政前期に藩用地とし藩士の屋敷などを置いたので公儀町と呼ばれ、のち、公儀の文字をはばかりこの名に改められたという。
向かいの歩道に元車町の石碑が見えますか?
今日の石碑はここまで。
Img_85679z この12箇所を1時間で廻りました。だいぶ要領を得てきましたね。
アピタまで戻りしな、2年前架け替えられた御影大橋を撮りました。アーチが橋の片側にだけある、珍しい姿をしています。犀川の橋は架け替えが進み、自宅のそばの上菊橋も替わりましたが、一番古いのは一番交通量の多い犀川大橋ですね。登録文化財です。


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2008年6月 2日 (月)

江戸の鉄道は常に進化 2

Img_85872z 空いた時間に鉄道に乗る、と言っても、その線にも到達時間が掛かるし、案外にあちこち行けるわけではありません。
今回は大田区、世田谷区の東急未踏破線をいくつか乗るだけです。まず京浜東北線で蒲田へ。多摩川線はタモリ倶楽部でもやってた古墳へ行くのに以前乗りましたから「池上線」へ。昨年12月デビューの新7000系に出くわしました。
Img_85875z 車両軽量化で二酸化炭素排出量を減らすとか、バリアフリーにより対応するとか、現代のやさしさに配慮した新型車です。
池上線は線形が短いので18m車です。早々にラッキーな出会いでした。



Img_85882z 駅間も短く、次の駅が前の駅からも見えてしまいます。このあたりは、街の発展より、鉄道が先に形成されたのかなぁと思いますね。都内にいても、ローカル色の匂いただよう沿線です。
向こうからVVVF改造の7600系が走ってきました。


Img_85884z 一部地下区間はあるとはいえ、前面開放扉にハシゴ付きの、緊急避難仕様になっています。運転台の横ですが、日光をさえぎるスライド幕も用意されてます。至れり尽くせりですね。












Img_85887z 終点、五反田駅に着きました。JR山手線をオーバークロスする頭端ホーム上で、7000系と山手線線路の画はかっこいいですね。
ここは昭和3年に、初めて山手線を跨ぐ高架として完成。当時は池上電気鉄道で、この先白金まで路線延長の計画がありました。
Img_85911z 五反田駅へ降り立ったのは、この図を撮るのも目的のひとつ。「鉄道ファン」3月号にも掲載されてた、池上電気鉄道の門形ラーメン高架橋です。80年の長きにわたって活躍中。清水組から独立した、「東京鐵骨橋梁製作所」の記念すべき第一号でした。
橋桁の荷重を支える支承部分は、わずかなピンのみというからオドロキです。
Img_85916z 五反田駅ではもうひとつ、湾曲しているホームから、全編成が見える列車の撮影です。このほかここでは待ってる間、251系スーパービュー踊り子しか撮れませんでしたが、もう少し時間的余裕があったらじっくりチャレンジしたい場所ですね。


Img_85941z さて、渋谷へ出て田園都市線で二子玉川へ来ました。ホントならここで降りて、わが石川の誇る世界的パテシェ辻口博啓氏の店、高島屋にある和楽紅屋へ行きたかったのですが、まだ10時前、開店は待てないので、泣く泣くホームから降りず、大井町線へ乗り換えます。写真は多摩川を渡る半蔵門線経由の東武30000系。今となってはもう珍しい部類?
Img_85961z そして大井町線に乗り換えて大井町へ。この線形も短く、20m車を導入しているものの駅間は短いし駅のホームも短いです。このため、九品仏とあともう一つ(忘れました)ではドアが開かない車両があります。都内のど真ん中でそんなローカルチックな対応に驚きました。
そのくせ列車本数は多く、最後部で視てたら次の列車が一つ前の駅に着くのも見えました。これで急行も走らせてるから二度ビックリです。(残念ながら急行新型6000系は視られませんでした。)
Img_85988z 大井町駅では高架上から、JR線をながめていいシャッターチャンスを狙いましたが、なかなか思う車両に行き着きません。東海道線はこの「踊り子」がやっと。京浜東北線は日中ともなるとE233系には逢えずじまい。
結局今回の撮り鉄行脚はここでおしまい。最近日中の自由時間は充分には与えられませんのでww。
それでは、また次月頑張ります。

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2008年6月 1日 (日)

江戸の鉄道は常に進化 1

Img_85795z 江戸では朝、上野着が6時19分なので、待ち合わせ時間まで撮り鉄することにしました。
お目当ての一つは、運用開始後まだお目にかかれてなかった京浜東北線のE233系。まだ導入編成数は充分とは言えず、日中ともなると209系がほとんど。朝のいまなら1/3くらいの確率で会える感じでした。
Img_85807z 週末早朝なのに既に多くの乗客が降りてきましたね。やっと内回りだけでなくこの外回りホームにも入線してきました。走ってるのでシャッタースピードも速くしていたら、LED表示が追いつかなく、線しか見えないハメになってしまいました。

Img_85821z やっぱりこのE233系ヘッドのえもいえぬ曲線美はたまらないですねww。JR東日本はホントうらやましいです。我が北陸本線はいつになったら新型車が来るのでしょうか。もう二度と来ないかもしれませんね。
見惚れてて、乗るのを忘れてしまいましたw。やむなく次の209系で東京駅へ向かいます。
Img_85852z 東京駅に着いたら、「サンライズ瀬戸・出雲」285系が、その長旅の疲れから休憩してました。寝台列車が相次いで廃止・減便する中で、珍しい寝台電車の新型として、これからも活躍が期待されています。のびのび座席という、カプセルホテルのようなフラットな狭い座席も特筆で、寝台料金が要りません。しかし太平洋スジに縁がないので、見てるだけ~なのは変わりませんね。
Img_85861z デビュー25年を越えた、185系です。当時は大宮からだった東北新幹線の、上野からの「新幹線リレー号」でよく乗りました。リレーの必要なくなってからは伊豆へ行く特急「踊り子」として東海道特急で一際目立ってました。国鉄初の縦のラインは当時斬新でしたが、今は北関東の「草津」「水上」、はては写真のように一部普通列車にも使われ、ユーテリティ車両というより、現在ではアコモが陳腐となりJR東日本でももてあまし気味のような気がします。

Img_85865z 東京駅で今まで見たことないホーム表示案内を見ました。
この位置は何両目で、各駅では階段・エレベータの位置はここだよ、っていう表示です。今までもポケット地図やネットでそういう案内はありましたが、肝心のホームでは初めて見ました。バリアフリー対策が進む昨今、やっとサービスが追いついた感です。どの駅でも実施してほしいですね。







Img_85867z それとどの案内表示にも、英語と中文、ハングルが付くようになりました。金沢駅でもそれは進んでいて、国際化が当たり前になりましたね。東京駅は今八重洲口を中心に、大改造工事中。ホームの上屋もまだまだ古ぼかしいですが、開業以来常に改良を重ねて工事の槌音が鳴りやんだことがないと言います。全てが完成される時は未来永劫ないということでしょうか。
さてホントは中央線のE233系と京浜東北線のE233系のコラボ写真とかいろいろ撮りたかったんですが、なかなか出くわしません。そろそろ未踏破路線の穴埋めに、東急のローカル線に向かいます。




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