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2008年6月18日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」20

Img_88025z 忍者寺で有名な妙立寺の先、鶴来街道の起点ともいえる、六斗の広見に来ました。
[六斗の広見(ろくとのひろみ)]No501 広見というのは藩政時代、延焼を防ぎ大火としないための町づくりの一つとして設けられたものであり、金沢のあちこちにあった。地名は、加賀国住人林六郎光明の郎等六動太郎光景に由来し、ここから六動林、六斗になったといわれている。
Img_88030z この広見に立派な鳥居があって、泉野菅原神社と銘もありますが、境内に入るとなんと、プレハブ小屋がポツンとあるじゃないですか。本殿はどうも、火事で焼けたみたい。小学校の真横ですが、再建のメドは立ってないみたいです。そんな姿は初めて見ましたね。びっくりしてちょっとさみしいですね。
Img_88032z 六斗の広見のもう反対側の角、鶴来街道の先に
[旧六斗林(ろくとばやし)]No13 平安時代の末に六動太郎光景という武士が住み、その付近に樹木が生い茂っていたので六動林と称され、転じてこの名になった。
まだ石碑のない町名はたくさんあるのに、六斗の由来の石碑は一つあれば充分と思うのですが・・。
Img_88034z 鶴来街道から外れて、寺町の地内に入ってきました。細い路地が入り組んでて迷路のようで、チャリで廻るのは正解です。
[旧笹下町(ささかまち)]No12 もと泉野村の地であたり一帯が竹藪であったことからこの名がついたという。笹ヶ町とも書いた。
鬼子母神のある興徳寺の門前です。寺町は日蓮宗の寺が多く、一向宗を尾山御坊(金沢城の前身)から追い出した織田勢力であった佐久間、のち前田家の配慮があったからです。
Img_88036z [旧沼田町(ぬまだまち)]No9 もと石川郡泉野村の地内であったが、文政6年町立てされた。もとは沼地であったことからこの名がついたといわれる。
鶴来街道の新道は、寺町通りからは、元この道が引かれていました。桜橋から真っ直ぐな道が新たに出来たので、この道は住宅地の単なる生活道路となってしまいました。
沼田町はバス停にも名があり、北鉄バスは、案外に旧町名のバス停をたくさん、今に残しています。
Img_88039z さらに細い道を探し回ります。
[旧茶畠(ちゃばたけ)]No6 この地はもと泉野村領で、藩政時代に茶の木を多く植えたので、この名で呼ばれたという。
寺町台地の寺町からすぐ南は、江戸時代は金沢でなくほかの村で、明治期前後までに町地となって金沢に組み入れられたところが多いです。石碑は、少なくとも明治前期に金沢エリアだった町に順次建てられているようで、有松が南限というわけです。
Img_88044z [旧桜木小路(さくらぎしょうじ)]No4 もと泉野村の地で藩政期末までは越中屋小路・玄光院前通りと呼ばれていたが、このあたりから犀川河岸にかけて、桜の木が多く植えられていたので、明治の初め、この名がついた。
この石碑も完全に民家の敷地内ですw。
○○小路というのも町名なんですね。
Img_88045z 実は犀川沿いの寺町台の崖に沿って、高級住宅地が建ち並び、その入り組んだ小路に石碑があるはずなんですが、とうとう見つけられませんでした。後でS氏にもらった詳細な見取り図を見たのですが、その位置にも確かになかったはずです。
少々後ろ髪をひかれながら、本日の最後
[寺町(てらまち)]No10 加賀藩初期、城下町整備のため前田利常の命により、主に犀川周辺の寺をこの地に集めたので、この名がついた。

さて、ここまで172箇所達成。現在あと46箇所となりました。金沢市のHPの地図に載ってない石碑もリストにあり、既に廻ったエリアでも残したところがポツポツとあります。この先梅雨で週末も雨の可能性があり、到達ペースは落ちるでしょうが、今後も根気よく続けたいと思ってます!

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