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2008年6月13日 (金)

「金沢市歴史のまちしるべ」18

Img_87625z 卯辰山の登り口の車道とは別に、
[帰厚坂(きこうざか)]No323 加賀藩主、前田慶寧が慶応3年卯辰山を開拓したときの坂で、「藩主の厚き徳に帰する」の意味から名づけられた。
横に公園があり、やわらかい新緑の光に包まれたおだやかな空間です。しかしもう足が痛くて、坂の上まで登る元気は全くありません。
Img_87628z 東山界隈に入って、寿経寺です。「心の道」卯辰山山麓寺院群のひとつ。
幕末、安政5年(1858)に大地震があったとき、米価暴騰に苦しんだ庶民らが卯辰山から大声で藩主に直訴。暴徒として5人が処刑され2人が獄死しました。

Img_87630z 彼らの供養に稲穂を抱いた「七稲地蔵尊」が建立され奉られています。
これらが第一回の金沢検定に出ましたが、当時は知らなかったので間違えてしまいました。

Img_87633z その奥です。[観音坂(かんのんざか)]No324 観音院の門前の坂で、加賀藩初期、同院の参道として作られた。明治42年北側に新しい坂路ができた。
観音院はこの階段の坂を登りきったところにありますが、ヒザ痛は登りより下りが折れるように痛いです。今日はここでガマンです。Img_87638z
すこし浅野川方向へ戻って、[旧御歩町(おかちまち)]No148 藩政時代、藩主を警護する歩(かち)が住んでいたので、この名がついた。はじめ観音下御歩(徒)町などと呼ばれていた。
この板塀も立派です。向かいの家も武士系建築がよく保存されているとして、金沢市が「こまちなみ保存建造物」として指定したプレートが玄関に貼られ、保護されています。
Img_87641z 浅野川まで来ると、徳田秋声記念館がありました。最近作られ、これで室生犀星・泉鏡花、と金沢三文豪の記念館が揃いました。
今日は入りませんでしたが、犀星には以前入ったので、あとの2人は検定対策もありいずれチェックしましょう。
Img_87645z その目の前に「梅の橋」です。3月に修繕された人道橋ですが、外観は木造でも、橋脚や基礎はしっかり鐵骨製でした。それが修理ではっきりと判明したというので、昔の架橋時の資料はなかなか残らないものですね。
しかし欄干など、早くも大きなヒビだらけになっています。大丈夫でしょうか?
Img_87661z 梅の橋を渡って並木町に入ると、泉鏡花の名作、「義血侠血」のヒロイン、[瀧の白糸]像です。この像はなんと水芸よろしく、スイッチで扇子の先から水を噴射します!
春に行われる浅野川園遊会では、川の流れの上に演台を設け、水芸が再現されます。この悲劇の物語は、戦前から6度も映画化され、京マチ子や若尾文子が瀧の白糸を演じました。
Img_87664z そのすぐ隣に石碑はあります。
[並木町(なみきまち)]No100 藩政時代、浅野川の護岸のために川沿いに植えられた松並木にちなんで、この名がついたという。
平成17年に旧町名が復活しました。このあたり、昔は川沿いに映画館が並び、モダンな雰囲気もあったんですが、今は高層マンションが建ち並び、卯辰山からの甍(いらか)の波の眺めがかき消されてザンネンです。
Img_87668z 観音院の前の道に戻り、ひがし茶屋街のそば[旧観音町(かんのんまち)]No149 元和二年、観音院が卯辰山から移されたとき、観音院から浅野川大橋までの道を拡張し、この通りを観音町と称した。
この旧涌波家は、金沢市指定文化財。藩政期の町屋建築を復元し公開されています。しかし天井が低く床の間も省略されたコンパクトな造りでした。
Img_87694z さてそろそろ疲れてきたので、主計町再訪もはしょり、対岸の住宅地にポツンとある石碑をこの日の最後にします。
[関助馬場(せきすけばば)]No511 加賀藩初期、佐賀関助が開いた長さ約300メートル、幅約24メートルの藩士の調馬場があったのでそれを地名にした。
このうしろ、公園の前に不自然な広い真っすぐな道があります。これが馬場の跡の一部だったでしょうか。道路と道路の間にあり、ここが見つけにくかった要因です。銭湯から出てきたおじさんに教えてもらい、ようやくわかりました。
あとこの日はS氏の初めて石碑を周り、武蔵が辻で打ち止め。一日で50箇所は廻ったでしょうか。とてつもなく疲れました。足がよく最後まで保ったものです。
次回8日に13箇所チャリで廻ったのはまた後日にします。

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コメント

サムじいさんさん、ありがとうございます。
早速直させていただきました。当然踏破のときに視認して「歩」であることは理解してるのですが、文字変換の時に気づかずすごしていました。

これからもよろしくお願いします。

投稿: joker | 2009年8月19日 (水) 23時37分

5枚目の写真の説明の中に「旧御徒町」あるいは「観音下御歩(徒)町」という表記があります。「加賀藩」では「御歩」という表記を使っています。なお、加賀藩以外のほとんどの藩では「御徒」を使っているようです。すなわち、説明文中の表記は誤っているということで、訂正されるといいと思いますが。ちなみに、写真の電柱の脇の石柱には「旧御歩町」と彫ってあります。

投稿: サムじいさん | 2009年8月19日 (水) 20時56分

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