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2008年6月 4日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」12

Img_85686z 18日(日)は、昼3時間!と区切ってチャリで出かけました。
犀川を上って近所の城南1丁目から、[旧藤棚(ふじだな)]No19 この地はもともと成福寺・白山社の旧地で成福寺門前といわれていました。境内に大きな藤棚があったので、通称藤棚とも呼ばれていたが明治4年町名になった。洪水で神社は流され今はもう少し下流にあり、白山藤棚神社として立派な藤棚もあります。以前にもご紹介しましたね。
Img_85692z 次の石碑を求めて小立野台に登る前に、勘太郎川の水源でもある大清水(おおしょうず)を探しましたが、下調べなしだったので見つけられません。後にパレットの裏とわかりましたから後日再訪します。
三口新町をうろつくと、複数の日吉神社に出くわしました。日吉神社や住吉神社など、金沢にいくつもあるので、全踏破をいずれ目論見たいと思いますw。
Img_85698z いよいよ小立野台に登ります。[善光寺坂(ぜんこうじざか)]No308 そのまんま、善光寺という寺があったから。右の坂の下から来ました。




Img_85702z そこから僅か後ろに[旧上野町(うえのまち)]No20 もと石川郡上野村の村地で、馬坂や牛坂など坂の上の野であったことからこの名がついたといわれ、文政4年に町地に加えられた。



Img_85703z [旧上弓ノ町(かみゆみのまち)]No24 天和のころから足軽弓組の組地で、如来寺組、経王寺組と射場があり、小立野弓ノ町と呼ばれた。明治になって、如来寺組は上弓ノ町、経王寺組は中弓ノ町に、また、横山同心組の組地が下弓ノ町となった。
さてここも、地図の位置とはだいぶ違って探しました。金沢商業高校の敷地内でしたが、ここいらも今まで用がなかったので来たことがありません。姉は金商出身でしたが。
Img_85707z 三代藩主利常の正室、二代将軍秀忠の娘「珠姫」を奉る天徳院です。寺内は藩政期もっと広かったそうですが(今の真っ直ぐな石引通りは、元々天徳院への参詣道)、今でもその静謐な寺域の奥は深遠としています。ここから先有料なので入りませんw。


Img_85708z 金沢大学病院まで来ました。[旧土取場(つちとりば)]No37 藩政前期から、このあたりの土を取って瓦を焼いたところからこの名がついたといわれ、また、土居や堤防を築くときにも使われたといわれる。かつては土取場を冠する町が三町あった。
ガードレールがジャマして、病院をバックにいい画が撮れません。左手前から病院の駐車場進入口です。父は僕の物心ついてからずっとこの大学病院で入退院を繰り返していました。学校帰り、自転車で新聞を届けるのが日課のときもありました。
Img_85713z 病院の前を横切って、[旧百々女木町(どどめきちょう)]No42 藩政時代、木曽谷に注ぎ込む川の流れが急で、高い音をたてていたところから、ここに架けられた橋をどどめき橋と呼び、この名が町名になったという。
公衆電話をはさんで向こうの石碑は、紀元二千六百年(昭和15年)記念舗装とあります。余談ですが、零戦とは零式艦上戦闘機。零は紀元2,600年の末尾0を指し、昭和15年に開発されたことを意味します。
Img_85715z [旧大音町(おとうまち)]No41 藩政時代、加賀藩士大音主馬の下屋敷があったので、大音家中と呼ばれていたが、明治の初め、この名がついた。
これも探し辛かった。ここへ来るまで、ものすごい狭い路地を入って、さらに右へは行き止まりなので、なぜこんなところに石碑を建てたのかわかりませんw。
Img_85717z 大学病院へのエントランス道路ですが、この位置に[旧河内町(かわちまち)]No34 の石碑があるはずですが、工事中のため外されたと見受けます。改めて建てられたときに紹介します。



Img_85727z 小立野台の崖近くの入り組んだ路地に侵入します。突然、辰巳用水から分流した勘太郎川の崖が現われました。急傾斜地崩壊危険区域とあります。なんとも住宅地の脇に危険な場所でしょう。



Img_85728z そこからすぐ、ふらっとバス通りに[旧二十人町(にじゅうにんまち)]No33 鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。ここを後ろに下ると二十人坂ですが、坂の石碑はありません。


Img_85733z 一本上手の坂[旧白山町(しらやまちょう)]No28 藩政時代、波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であるところから、明治4年、この名に改められた。
左に波着寺があります。救急車の降りていく坂が白山坂ですが、やはり石碑はありません。
Img_85737z ふらっとバスの登る二十人坂に、一本松陸橋のバス停があり、右奥に見えるその陸橋の下[旧一本松(いっぽんまつ)]No27 もと笠舞一本松、小立野一本松とも呼ばれていた。片側町で、一方町といったのが、一本松になったともいわれる。
陸橋の上から探しましたが、やっと見つけた古い住宅地の路地にポツンと建つのは、ちょっと違和感ありますね。
今日はここまで、明日続きです。

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