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2008年5月15日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」6

Img_85344z まちしるべを訪ねる散策も、興味のない人には飽きてきたかも知れませんが、まぁ自分の記録や日記でもあるので、もう少しお付き合いくださいw。
5月4日は、夕方になって思いついて、音楽祭を聴きに金沢駅へ向かいました。S氏との五社めぐりで最初自宅のあるここ[菊川町(きくがわちょう)]No21 で当然カメラを構えましたが、なんと電池が入ってませんでした。やむなく引き返して後日撮影。んでこの日です。
菊川町小学校の敷地内にありますが、小学校時代よく聴かされたのが、ここは昔菊川松之助一座の芝居小屋があったからと。犀川の雅名を菊水川と言ったからともありますが、芝居小屋の方が赴きあっていいですよね。
Img_85357z 金沢駅前の音楽堂でベートーベンを聴いた後、隣の全日空ホテルに[旧玉井町(たまのいまち)]No137 5,000石の藩士玉井氏の屋敷地一帯があったことから。
周囲の歩道全体の石質にあわせて、この石碑は茶色い石が使用されています。時折、そういう景観配慮がされるようになっています。
Img_85361z 六枚町交差点に向かって歩きます。このあたりは石碑が集中しています。写真の奥にも一つ見えますよ。
[旧島田町(しまだまち)]No125 元禄のころまで島田勘兵衛の屋敷があったが後に返上。すでに江戸時代、享保のころには島田町と呼ばれていました。

Img_85364z その奥の石碑。反対向きから駅前に向かって撮りました。全日空・日航両ホテルが見えます。
[旧柳町(やなぎまち)]No124 かつて伊予西条城主だった一柳監物の預所があったから。付近は駅前からの道で近代化され、旧町名を偲ぶものは何もありませんね。島田町とともに早くから面影がなく、僕もこの石碑を観るまで知りませんでした。
Img_85367z 交差点まで来ました。[六枚町(ろくまいまち)]No121 この町の宅地税である地子銀が年間6枚だったことから。ここも平成16年6月に復活した旧町名で、石碑の「旧」の字が消されています。バス停も六枚町の名でずっと残っているほどの、アーケードのある商店街でしたが、老朽化と商店の多様化で数年前に取り払われてしまいました。
Img_85368z 宮腰往還(金石街道)を避けて石碑が林立します。[旧古道(ふるみち)]No120 元和2年に宮腰往還が出来るまで、この道が街道でしたが、その後新道に対して古道と謂われました。
右から写真真ん中奥に向かう道のことです。高架になるまで、金沢駅に程近いので大きな踏切がありました。
Img_85371z ここは地図の印とおりの位置になく、探すのに難儀した[折違町(すじかいまち)]No122 古道のすぐそばでした。
この近くを流れる鞍月用水に斜めに橋を架けたので、すじかい橋と呼んだことから町名になりました。

Img_85372z 宮腰往還と線路を跨いで、金沢駅寄りに来ました。[旧日吉町(ひよしまち)]No128 近くの広岡山王社への山王道が日吉町と謂われましたが、今は鉄道高架下になって消滅してしまいました。
石碑は明らかに放生寺の敷地内ですよねw。

Img_85375z 放生寺のすぐ裏の公園に、二つの石碑がありました。[旧広岡町(ひろおかまち)]No132 平安末期から、平岡野・弘岡と呼ばれ、藩政期には北広岡村となったようです。
公園で写真を撮っていると、小さい女の子が寄ってきて、「何を写してるの・・?」。お母さんと思しき人が遠巻きに見ているので、変な人と怪しまれないように、「石碑を撮ってるんだよ。金沢にいっぱいあるんだよ!」と大きな声で説明してあげましたw。それでも普通の人からすると、充分変なことしてる人に違いありませんww。
Img_85377z その公園の反対角に、[旧醒ヶ井町(さめがいちょう)]No131 北広岡村の請地で、前田土佐守家の下屋敷があった。目の醒めるような綺麗な井戸があったので。
「前田土佐守家資料館」へ行ったときに、その屋敷地一帯の古地図が展示してありました。
この日はこの後も含め、夕方からだったのに、長くなった陽が翳るまでの1時間くらいの間に、一気に20基の石碑を発見できました。続きは明日の日付で。

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