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2008年5月

2008年5月31日 (土)

「消防博物館」

Dvc00006 先日のタモリ倶楽部で、玉川上水をやってましたが、上流から行き着いた先は四谷大木戸のこのあたり。今でも水道局があるこの四谷三丁目に、東京消防庁の「消防博物館」がありました。
さっそくこの穴場に潜入。僕らもタモリ倶楽部みたいになってきたぞw。
火事とけんかは江戸の華。破壊消防から明治の放水消防、そして現代と、幅広く消防や災害救助の歴史が展示。写真は江戸町火消しの纏。
Dvc00008 郵便バイクじゃなくて、消防バイクってのがあったようですね。ホンダ製です。
3階は子供向け(実際、親子連ればかりだったw)なのでパスしてて、4階以上を受付で薦められました。5階屋外では消防ヘリに座るための子供の行列を尻目に、歩き疲れたおじさんたちは、ベンチに座り込んで休憩。合間の時間にあちこち動き回る元気や根気がなくなってきましたねw。

Dvc00010 んでもN氏は地下のミュージアムショップに並ぶ消防車の列に興奮?消防服を着てカメラに収まってご満悦。当ブログ初登場ですね。
こういう地味な博物館が、都内に星の数ほどあります。昔は専売公社のやってた「塩とたばこの博物館」とかも観にいきましたね。そういうとこは、えてして交通の便も悪かったりしますが、ここは地下に丸の内線四谷三丁目の駅が併設。ぜひ関東の方々にオススメですね。
またいろいろ巡ってみたいと思います。









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2008年5月30日 (金)

「東京みなと館」

Img_86569z 先週の江戸でのレポートを少しずつお伝えします。
いつもよくお台場周辺に行くのに、「船の科学館」など並み居る施設を目の前に、中々入る機会なかったんですが、今回イレギュラーに「東京みなと館」に潜入しました。普段は有料の東京都港湾局の施設ですが、今日は無料開放。東京港の歴史と現在を模型やパネル、眺望まじえて展示してる、あまり知られてない展示館ですね。
Img_86431z 江戸期の港の賑わいがジオラマで展示。細かい人形の表情がいきいきとしてました。壁面の絵地図とともに、江戸東京博物館に居るような錯覚を覚えました。
江戸港は家康の開闢以来、埋め立ての繰り返し、今の中央区などほとんどは海の中でした。神田の山を切り崩して銀座などできてるわけです。
Img_86450z 戦後になっても埋め立ては進み、今は中央防波堤の外側にゴミを捨てて造成中ですね。




Img_86618z 「臨海副都心」の開発は、第一段階が終了したところだそうで、そういえば有明から東地区はまだ更地から工事中。卸売市場も本当に移転してくるでしょうか?ゆりかもめの駅は早々と市場前としてますが。
この精巧な模型はスイッチで上へせり上がり、地下の配管システムも見せてくれる、ビックリするほど細かくできています。
Img_86611z 「東京みなと館」は、ゆりかもめ「テレコムセンター駅」前、青海フロンティアビル20階にあります。この日はこの後小雨が降るあいにくの天気でしたが、ここからの東京湾岸の景色は都会に魅せられる人には最高でしょうね。そう、隣には青島刑事のいる湾岸署もありますw。
正面の建物は科学未来館です。今エイリアン展してますが、何度も近くに来てるのに、まだ入ったことありませんw。

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2008年5月28日 (水)

金沢城の史跡指定と辰巳用水は来年

Img_62379z 文化審議会は16日に、金沢城跡を国登録記念物に登録するよう、文部科学省に答申しました。ほぼそのまま答申がとおり、指定・登録が近々あります。
世界遺産を目指す「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の核をなす金沢城が、文化財未指定という課題がこれで解消され、今年度の世界遺産暫定リスト追加選定の前になんとか条件のひとつをクリアしました。
金沢城は天守など、主要な建物はいずれも火災でほとんどが失われましたが、石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫など江戸時代の建造物や、なにより「石垣の博物館」といわれる高度な技術を要する多様な石垣遺構が保存されています。
金沢城は明治になって陸軍が第九師団を置き、戦後は金沢大学キャンパスと、一環して国が一般に開放しませんでした。1995年の金沢大学移転を期に石川県に移管され、ようやく史跡公園として整備され、今「河北門」など、数々の復元工事が実施・計画されています。
そのためすでに城や城跡の国史跡指定は207件もある中、金沢城跡は全国的にみても後発となってしまいました。しかし今回の答申が、北陸新幹線開業を見据えた魅力ある街づくりの一環の中、世界遺産の指定も目指しながらの復元・整備の早い進捗と、市民のより深い理解と協力が進むことを期待したいと思います。

Img_78272z ところで、来年度の国史跡指定申請を目指す、辰巳用水について、金沢市辰巳用水調査指導委員会がこのたび、史跡指定区域を写真の東岩取水口から兼六園までの、10.9kmとする方針を示しました。
東岩取水口から末町までの上流部では、隧道や横穴だけでなく、管理通路までの土地を含めて区域とする。
Img_78294z 写真の全長260mにも及ぶ三段石垣も史跡指定の対象となります。
この上部に暗渠として流れています。




Img_70218s この末町から錦町までの中流部の水路と管理道路も対象です。
遊歩道が落ち着いた風情を演出しています。



Img_78314z 下流部では水路のみとなります。正面突き当たりは兼六園です。
辰巳用水は兼六園に曲水として流れ、また分流して浅野川まで流れていますが、この兼六園の手前までが史跡対象となります。
金沢市が今年度中にまとめる調査報告書では、4年間の測量・発掘調査の成果や、辰巳用水の歴史や文献・絵図など資料編含め、200ページ以上の大作となる予定。今からとても楽しみです。

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2008年5月27日 (火)

「修悦体」にコンタクト!

Dvc00018 江戸でのレポートはデータ整理もあるので順不同でお届けします。
今回は密かなブーム、「修悦体」に出会ってきました。「修悦体」とは、東京JRの駅の工事警備員、佐藤修悦氏が考案した、独特のゴシック風の書体のこと。2003年に新宿駅で警備中、自主的にガムテープで案内表示を作りだしたことから始まります。
Dvc00017 そのユニークかつ見やすく、デザイン性のあるサインは、瞬く間に各マスコミに取り上げられ、今回little by littleの5月28日ReleaseのNewSingle「Pray」のジャケットやPVにも登場されました。
現在は一大ステーションとして工事中の日暮里駅にて各種掲出中。先月「舎人ライナー」試乗のため訪れたのにスルーしてしまったリベンジを果たしに、やっと念願かなってご対面しました。
Dvc00016 しかも、佐藤修悦さん? という後ろ姿も見かけましたし。
「舎人ライナー」も完成し、東口のエスカレーターが全通、JRのコンコースもかなりの部分が露出された今となっては「修悦体」はどこ? と探しましたが、いやいやまだまだ活躍中でした(ちなみにこの人は佐藤修悦氏ではありません)。しかしよほど有名になったのか、撮らせてくださいと、携帯カメラを向けたのにぜんぜん訝しがられませんでした。
Dvc00015 このサイン、すべてガムテープで作られているんですよ。表面が絹目のザラザラのやつ。
佐藤修悦氏の公式サイトブログもいよいよ始まり、今年のブレイクの一つになるかも知れません。ぜひチェックしてみてください。
要注目です!!



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2008年5月26日 (月)

「金沢城 河北門」壁板・平瓦寄進申込書

Img_87416s 週末はまた江戸へ行ってましたが、そのレポートは後日として、深夜に帰ってきたら、石川県の土木部公園緑地課から郵便が来てました。なんだろう?と思ったら、以前予約していた河北門復元整備の「壁板・平瓦寄進」の申込書でした。
やっと届いたか、ってとこで、申込内容を見てみると、壁板・平瓦、それぞれ一口5,000円。記名会が第一回が今年12月頃、第二回来年5月頃、第三回来年秋頃の、3回のうち希望する時期を明記の上提出。
Img_82110s 記名会の2ヶ月前にお知らせと納入通知書が来て支払。当日壁板と平瓦に記名して「寄進の証」をもらうという段取り。
早くに申し込んだんだから、記名も早くしたいですね。12月のにしようと思います。しかし土日か平日かわかりませんが、一般の県民に広く募集してましたから、土日に懸けてみますw。
これは自治体への寄付行為の一環とみなされ、寄付金控除の対象になります。また、「ふるさと納税制度」にも該当するって。まぁ小額なんで、どうってことないですがね。やっと手続きが始まったので、いまから12月が楽しみですね。

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2008年5月23日 (金)

積読コミック解禁! 2

メディアファクトリーの「コミックフラッパー」はご存知だろうか。数年前に創刊された、ちょっとマイナーな月刊誌だ。発刊当初は、白泉社から移った和田慎二の超少女明日香や、新谷かおるの新連載、島本和彦のスカルマンなど有名どころも多かったので毎月購入していたが、マイナー好きの僕の琴線にふれる作家も多く、ほとんどの掲載作がおもしろく楽しませてくれた。中でもアフタヌーンで「菫画報」を発表、その独特のヘタウマタッチでなぜか物語にぐんと引き込む力のある小原慎司「二十面相の娘」は群を抜いていた。
両親を失い、それによって財産目当てに叔父夫婦から命も狙われた家庭生活から、二十面相に「盗まれる」ことによって救い出された主人公の少女チコ。尊敬するおじさん=二十面相との衝撃と驚きに満ちた冒険の日々が始まった!
世界を又に駆けた"どろぼう"の旅は、ルパン三世とともに暮らす願いのかなったクラリスのようでもある。しかし敵の多い二十面相の過去の謎とともに、行方不明となった彼を追いかけるチコと仲間たちの冒険は、度重なる危険の中意外なクライマックスを迎えた。
8巻で終わった本編の魅力に、今フジテレビで深夜アニメが放送中。しかしここ地方では観させてくれない。あまりの人気に、二十面相とチコが繰り広げた冒険の日々を描く番外編「二十面相の娘 うつしよの夜」が今連載中。このたび1巻が上梓された。
ストーリーとタッチにフシギな魅力を醸し出す、小原慎司の作品に、あなたも触れてみてください!


二十面相の娘 うつしよの夜1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

二十面相の娘 うつしよの夜1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

著者:小原愼司

二十面相の娘 うつしよの夜1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

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2008年5月22日 (木)

積読コミック解禁! 1

久しぶりに、マンガネタをお届けします。と言っても、一回目は歴史物になってしまいますがw。
「六三四の剣」などでも有名な村上もとか「JIN-仁-」。永くビッグコミックオリジナルで「RON-龍-」を連載していた後、主力をこちらにシフトしたスーパージャンプ掲載の人気作品(タイトルの構造が一緒。彼の連作の意識を思わせる)。幕末へタイムスリップした現代の医師が、危ういバランスの中自分の医による居場所を得、奇跡的な現代医療を器材のない当時の技術を越えてなしとげ、歴史の重要人物と絡みながら己のこの時代での生き方を模索するヒューマンストーリー。
並み居る医学界の監修に頼るとは言え、最新11巻の帯には、かの解剖学者養老孟司氏の推薦をもらうほど、確かな医学・歴史学の考証がある。これほどに緻密な医療描写と幕末の背景に、もちろん手塚治虫ブラックジャック陽だまりの樹がオーバーラップする。
安易なヒューマンストーリーマンガが相次いでドラマ化される中で、この作品が話題に上らないのはおかしいくらいだ。ぜひ再現は難しいだろうがどこかでやってほしい!
しかしストーリーは、11巻のラストで意外な局面を迎えた。この時代で生抜く覚悟をせっかく決めた主人公なのに・・・。連載は読まないようにしてるが、もしかしてラストが近づいているかも知れない。



JIN(仁) 第11巻 (11) (ジャンプコミックスデラックス)

JIN(仁) 第11巻 (11) (ジャンプコミックスデラックス)

著者:村上 もとか

JIN(仁) 第11巻 (11) (ジャンプコミックスデラックス)

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2008年5月20日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」10

Img_85575z GWレポートもいよいよ最後です。この日も結局3時間、歩き回ってくたくたになりました。
橋場町緑地の前は浅野川大橋。金沢市都市美文化賞のレンガのプレートがあります。川沿いの道は[泉鏡花のみち]と称されています。この写真の左側の道をこれから辿ります。
Img_85579z 金沢三茶屋街、主計町(かずえまち)の入口です。大きな石碑は「乃木将軍と孝子辻占売少年、今越清三朗翁出生の地」とあります。雪の広坂通り、乃木将軍来訪の折、健気に辻占を売っていた少年が励まされ、後に立身したという金沢では有名な逸話です。東京の乃木旧宅の庭にも銅像がありました。
Img_85582z [主計町(かずえまち)]No109 大阪夏冬の陣に功をたてた富田主計の邸地があった。
平成11年10月、復活町名第一号として、その名は燦然と輝いています。



Img_85587z 川沿いのこの趣が、京都を題材にした映画のロケで、京都のつもりで撮影されたという曰くつきです。京都より京都らしい一角。あまりうれしくありませんがw。




Img_85600z なかなか次が見つからないので、先に普通の路地に入ります。[旧母衣町(ほろまち)]No115 利家も若い頃信長に仕えていた「母衣衆」の金沢版の武士たちが住んでいたから。
また主計町に下りなおします。
風情のある園地や、木橋があり、写真もたくさん撮りましたが、時間がないのですっ飛ばしますw。
Img_85601z ホントに狭い路地に入って、暗がり坂の下にきました。お茶屋街に来たのって先日と今回が初めてのようなものですが、こういう情緒が観光客の心をくすぐるのでしょうね。住んでてなかなか入ろうとまでは思いません。


Img_85603z [暗がり坂(くらがりざか)]No322 日中も陽があたらない暗い坂だから。
正面の坂を登ると、久保市乙剣宮があります。泉鏡花の小説に出てきそうなロケーションです。



Img_85609z 久保市乙剣宮です。泉鏡花の生家が近く、子供のころ境内で遊んでいたそうです。昔は金沢の中心だったようですね。





Img_85610z ほど近く[彦三町(ひこそまち)]No118 加賀藩の重臣、不破彦三の屋敷地があったから。
ここ彦三町は昔大火があり、その近辺は早くから大きな通りが作られ、彦三大通りと言われていました。今は先に続く道が作られ、ただの通りですが、ずっとその太い道が数百mだけあって不思議でした。
Img_85614z [旧桶町(おけちょう)]No117 藩御用の桶職人たちが住んでいたから。
このあたりはずっと、尾張町と彦三町の内側の狭い路地をうろついています。




Img_85617z 彦三大通りに出ました。[袋町(ふくろまち)]No114 去年復活したばかりの、新しい旧町名です。
道の両端がまがって袋のようだったから。藩政期はこの町筋が北国街道で、主要な町[本町]のひとつでした。
正面の柵で囲われてるのは、旧ダイエーで取り壊され更地になっています。
Img_85620z 袋町を走る「ふらっとバス」材木町ルートです。菊川ルート・此花町ルート、と3ルートあります。15分ごとに狭い路地とかも巡る100円の循環バスです。




Img_85622z [旧博労町(ばくろまち)]No112 馬を売買するかたわら、藩士の稽古用の賃馬を飼育する博労たちが住んでいたから。
うしろは老舗、精進料理の壽屋です。こんな建物が今でも当たり前にあって違和感ありません。


Img_85626z 尾張町通りを渡って近江町市場の裏に来ました。[十間町(じゅっけんまち)]No103 今でも現役の町名です。寛永の時代からあり、当時の戸数が10軒だったから。
同業某社のあるところですw。



Img_85628z 道路の反対側は、高級料亭「浅田屋」です。しかしこういうところに、一度も入ったことありません。金沢人のほとんどはそうじゃないですかねw。




Img_85629z あと3つです。エムザの裏通りに来ました。[旧榮町(さかえまち)]No105 明治の初め、諸藩士の邸宅が商家となり、繁栄を願って栄町とした。
周りは商店だらけです。栄えてるでしょうか?今は通称「武蔵スタジオ通り」となってるみたいですね。

Img_85632z そのエムザの真裏ですが、[佐古市場跡地]の石碑があります。これは金沢市が建てたものでなく、近在の有志企業や商業組合が建てたようです。このような石碑もいつくかあるようで、公式な数にはくわえません。


Img_85634z その裏路地を入って[旧石屋小路(いしやしょうじ)]No113 もと安江町横丁といわれていた。藩御用の石工たちが住んでいたから。
やっと終わりました。この日は3時間で27基。ここまで4日間で91基巡りました。GWのレポートに長く費やしてしまったので、これからしばらくは別のテーマをお送りします。
しかし味をしめて、17日・18日も石碑めぐりしてしまいましたw。現在計123基制覇。なんとか次の金沢検定までに、全制覇したいものです。この分野はだいぶ身についてきましたよ。そのレポートはまた後日といたしましょう。。

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2008年5月19日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」9

Img_85542z 6日のパート2です。[旧淵上町(ふちのえまち)]No144 浅野川の淵の上にできた町で、藩政期には堀川川除町、堀川淵上町と呼ばれていたが、明治の初めにこの名に改められた。
右が中島大橋です。この時間になるとかなり暑くなって、スーパーでアイスを求めました。さらにアイスで物足りなくて、500mmペットのジュースもお供に。長時間の歩きは久しぶりなので、今回のような探索はとても健康的ですw。
Img_85545z [堀川町(ほりかわまち)]No145 路地に入りました。元和期に浅野川のこのあたりを掘り開いて、粟ヶ崎・大野などの港から舟で物資を運び込み、大いに賑わったそうです。
金沢駅東部の現町名で、石碑がまだないのは此花町だけです。なぜだかわかりません。
Img_85558z 堀川町から「ふらっとバス」此花町ルート彦三緑地まで来ました。藩士遠田氏の屋敷跡で、園内にあふれるさまざまなツツジのちょうど見頃でした。
江戸時代からの古木もあるらしく、蔵づくりのツツジ資料館もあったのですが、目的は石碑。ちょっとの中休みだったので先を急ぎますw。
Img_85559z ほど近くに[旧西内惣構堀(にしうちそうがまえぼり)]No413 二代利長の時代に高山右近に命じて掘らせた1,600mにおよぶ内堀。城側に土居を盛り、竹薮を配してたけれど今はその面影なし。
どころか、多少の側溝はあるけれど、堀というにはあまりになにもない。内側のこの石垣が往時を思わせるのか?それともこれほど遺構はなくなったということでしょうか。
Img_85562z [旧新町(しんちょう)]No108 次に行く尾張町に町屋が増え、新しくこの一帯を町立てしたため。
今の尾張町通りの北裏一帯を今廻っています。


Img_85564z [尾張町(おわりちょう)]No106 表通りに出ました。前田利家は尾張の人。そこから連れてきた商人たちを住まわせたから。大手門から北国街道に続くいわゆる藩政期の金沢正面。経済の中心地はここでした。
この黒い建物は明治40年建築の旧金沢貯蓄銀行金沢町民文化館として開放されています。
Img_85566z 大手門に向かってちょっと歩いてみました。[旧中町(なかまち)]No104 大手門からの本通りに位置していたので中町という名がつくほど重要視されていました。今はNHK金沢放送局がありますね。


Img_85567z 少し東に入ります。[旧殿町(とのまち)]No97 元は十間町の地内だったが、その中の武家地を昔は殿町と呼んだことから。
今ここは大手町の一角です。後ろの建物も風格がある塀ですね。


Img_85570z 橋場町の交差点まで来ました。ここは北国街道、金沢の基点です。以前にも書きましたが石川県の里程元標の碑があり、ここが金沢の表玄関でした。江戸へ行く場合も北回りが基本で、それは今でもそうですが、市内の中心部は広坂や香林坊に移り、県庁は郊外に出てしまいました。
賑やかだった江戸時代の頃を想像すると、そんなCGでも誰か作ってくれませんかね。
Img_85572z 浅野川大橋のたもと、橋場町緑地に来ました[懸作(かけづくり)]No506 ここで掛作の仮屋を設けて商売するものがいたことから。
29日に訪れた橋場町の石碑のところです。この石碑を撮るのを忘れてました。同じところに2つ以上石碑が建ってるのがたまにあります。また、こういう町名でないのが字名(あざめい)として区別され、番号も500番台です。
Img_85573z 29日の夕暮れの写真を反対から見ると、この日のこんな感じ。この緑地に橋場町懸作二つ見えますか。
金沢市では、橋のたもとを主に、こういった緑地整備するのが増えてきました。規模の大小あれ、わが上菊橋・下菊橋にもあります。

さて続きはまた次回。

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2008年5月18日 (日)

「金沢市歴史のまちしるべ」8

Img_85512z 5月6日、GW最終日に、よせばいいのに天気に誘われまた出てしまいました。24日の江戸の切符も買わねばならなかったので、金沢駅周辺から西に向かって3時間、早く来た暑い陽気の中、じっくり廻ることにしました。
[旧田丸町(たまるまち)]No129 加賀藩士田丸兵庫が住んでいたので。日航ホテルの裏です。
後ろに見えるは白髭神社。市内をこうやって廻るついでに、神社もなるべく全て踏破したいと思っています。
Img_85517z 発心寺の横[旧弓ノ町(ゆみのまち)]No126 弓組の侍が住んでいたから。市内に数箇所、同様に弓ノ町があり、地名を冠していました。ここは後弓ノ町あるいは枡形弓ノ町とも謂われてました。
いかし地図の印と位置が違ったり、向こう側から通ったのでなかなか見つけられませんでした。
Img_85520z 笠市の商店街の通りにやってきて、[旧象眼町(ぞうがねまち)]No135 地子町のひとつで、象嵌師が住んでいたから。地子町(じしまち)とは、町人居住地の区分のひとつで、土地に対する税である地子銀を払っていた町で、金沢は22町ありました。
象嵌(ぞうがん)とは、たとえば木製の花器の表面を彫って金属をはめ込む伝統工芸で、今では京都・熊本、そして金沢でしか造られていません。
Img_85523z [旧荒町(あらまち)]No138 此花町の光専寺の前まで来ました。駅前の木ノ新保の新しい町という意味で[あらまち]・・荒町となった。



Img_85527z [旧鍛冶町(かじまち)]No143 もうひとつ隣の路地、乗善寺の前です。三代利常から刀鍛冶で宅地を給わった者が住んだことから。
石碑は道路や公園という公共の土地より、寺社地や宅地など私有地に建てられることも多そうです。そういったとき、どういう依頼や費用の話が出るんでしょう?ちょっと気になりますね。
Img_85530z [旧巴町(ともえまち)]No133 加賀藩士伴八矢の下屋敷があり、その家紋「左三つ巴」にちなんで。これは道路の広見にありましたね。
下屋敷のある藩士の家紋にちなむ町名も多いです。下屋敷と言ってもそれは[家中町]といい、その藩士の家臣の住居が連なっているのをイメージしてもらうといいです。
Img_85531z [瓢箪町(ひょうたんまち)]No136 29日に寄った塩屋町の南側です。塩屋町の一部でしたが名のとおり瓢箪を作る者が住んでいたから。
ここは以前は瓢箪町小学校。3校が合併して明成小学校となりました。新しい校舎で新しい歴史が始まるのでしょう。明成とは味気ないですが、ここは今でも瓢箪町です。
Img_85538z 浅野川まで出ました。[堀川揚場(ほりかわあげば)]No510 藩政期から大正初期まで、浅野川を川舟で運んできた物資を荷揚げした場所だったから。
向こうに見える鉄橋は中島大橋です。浅野川は犀川と違って川原があまりありません。

Img_85539z [旧五宝町(ごぼうまち)]No141 真宗本願寺金沢西別院の前です。西御坊町とも呼ばれていたことから。
カメラを構えていると、近所のお年寄りから、「御坊の中入って撮りゃいいがいね」と謂われましたが、「いや、この石碑が目的なんで」と応えたら、はぁ、とちょっとあっけにとられてしまいましたww。

つづく・・。

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2008年5月16日 (金)

「金沢市歴史のまちしるべ」7

Img_85379z さて、現在の宮腰往還です。[中橋町(なかばしまち)]No130 宮腰往還を横切る3本の用水に架けた橋の中央の橋を中橋と呼んだことから。
北陸本線が高架になる前は、線路を越える陸橋があり、中橋陸橋と呼んで、空いた空間が遊び場になっていたり、勾配のゆるい地下道などもよく通った思い出があります。またちょうどこの位置に、金石まで行く北陸鉄道の線路が通っていました。起点の中橋駅もこの付近です。
Img_85381z 宮腰往還をまた西に跨ぎました。藩政期で言えばこのあたりから、いよいよ町地から北部の農地へと農業用水としても大いに活用されていた鞍月用水です。
[旧古道木揚場(ふるみちきあげば)]No509 藩政期には、宮腰(金石)から舟で材木を運搬し、陸揚げしたところなので。

Img_85384z ここはちょうど、鞍月用水大野庄用水が合流し、また右手樋俣用水と左手木曳川に分かれていく場所です。ふた筋が合わさるので水量も豊富で、往時は水のおかげで繁栄したところと容易に想像できます。そんなことを思い偲ぶのも楽しいですね。

Img_85389z 古道木揚場の写真の対岸、正面反対から見ると[旧大隅町(おおすみちょう)]No127 加賀八家のひとつ、(ちょう)大隅守の家臣たちが住んだ新たな屋敷地だったので。
鞍月用水、左大野庄用水の合流地点です。こんなダイナミックな場所だったとは知りませんでした。今でも舟を浮かべられそうですね。
しかし石碑が、ゴミ集積所になっているのはどうかと思いますww。
Img_85395z 再び線路をくぐって街中に向かいます。主要道の内側は入り組んでいて、地図の印はあまりあてにならなくなってきました。
[三社町(さんじゃまち)]No110 は、中央郵便局の裏でようやく見つけました。結局豊田白山神社の前でした。旧石川郡戸板郷三社村で、三社とは、この豊田白山神社の祀る白山神・菊理媛、八幡神・応仁天皇、春日神・タケミカヅチのことを指します。
Img_85403z 郵便局の前を渡って、また細い路地を巡ります。鞍月用水の前に高巌禅寺があります。[旧三構(みつがまえ)]No111 もと高巌寺前といいましたが、これを光岩寺前とも書き、のちに光岩前と略して「みつがんまえ」と呼んだことから。
ここもゴミ捨て場のそばです。。

Img_85409z ここは地図どおりでしたが、この位置では見落としてしまいがちです。[芳斉町(ほうさいまち)]No116 上杉景勝、松平忠直に仕え勇名を馳せた青木新兵衛芳斉が三代藩主前田利常に5,000石で招かれここに住んだことから。
後ろは旧芳斉町小学校です。金沢もドーナッツ現象で中心部に子供がいなくなり、4つの小学校が統合して中央小学校となり、伝統ある名の学び舎はいくつも消えていきました。
Img_85411z 表通りに出て、陽もそろそろ暗くなってきたので駆け足で参ります。
[旧英町(はなぶさちょう)]No123 もと安江木町の一部で、町内に英田広済寺があり、文政4年、町名改めのときにその一字「英」を使ったことから。

Img_85412z [旧白銀町(しろがねちょう)]No119 英町同様、安江木町の一角で、白銀細工師がいたことから。
十数年前まで、武蔵が辻と金沢駅を結ぶ直線の道路がなく、バスは全てこの交差点を通りました。以前は「白銀町」バス停でしたが、いつからか味気なく、新町名の「本町」になっていました。
Img_85416z 白銀町から武蔵へ行く途中、[升形(ますがた)]No508 宮腰へ繋がる道の要衝で、門と堀と石垣が配された「升形」(城の枡形門のようなもの?)があった。枡形は他にもあったが、ここだけが地名として残った。

Img_85418z とうとう暗くなってきました。本日の最後[武蔵辻(むさしがつじ)]No507 藩の重臣中川武蔵守の屋敷があったり、家柄町人武蔵庄兵衛や矢師の武蔵が住んでいたとか。
藩政期初めから現代に至るまで、交通・商業の要衝の地です。戦前までこの後ろは大きな田守呉服店があり、今はめいてつエムザです。左奥は丸越百貨店の覚えがありますが、その後ダイエーになり、閉店更地になってしまいました。武蔵は今は大規模な再開発中で、左枠外はでかいマンション、右奥は近江町市場が大規模な商業ビルとして工事中です。あと数年で様変わりする武蔵が辻は、新幹線開業に向けて準備OKです。

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2008年5月15日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」6

Img_85344z まちしるべを訪ねる散策も、興味のない人には飽きてきたかも知れませんが、まぁ自分の記録や日記でもあるので、もう少しお付き合いくださいw。
5月4日は、夕方になって思いついて、音楽祭を聴きに金沢駅へ向かいました。S氏との五社めぐりで最初自宅のあるここ[菊川町(きくがわちょう)]No21 で当然カメラを構えましたが、なんと電池が入ってませんでした。やむなく引き返して後日撮影。んでこの日です。
菊川町小学校の敷地内にありますが、小学校時代よく聴かされたのが、ここは昔菊川松之助一座の芝居小屋があったからと。犀川の雅名を菊水川と言ったからともありますが、芝居小屋の方が赴きあっていいですよね。
Img_85357z 金沢駅前の音楽堂でベートーベンを聴いた後、隣の全日空ホテルに[旧玉井町(たまのいまち)]No137 5,000石の藩士玉井氏の屋敷地一帯があったことから。
周囲の歩道全体の石質にあわせて、この石碑は茶色い石が使用されています。時折、そういう景観配慮がされるようになっています。
Img_85361z 六枚町交差点に向かって歩きます。このあたりは石碑が集中しています。写真の奥にも一つ見えますよ。
[旧島田町(しまだまち)]No125 元禄のころまで島田勘兵衛の屋敷があったが後に返上。すでに江戸時代、享保のころには島田町と呼ばれていました。

Img_85364z その奥の石碑。反対向きから駅前に向かって撮りました。全日空・日航両ホテルが見えます。
[旧柳町(やなぎまち)]No124 かつて伊予西条城主だった一柳監物の預所があったから。付近は駅前からの道で近代化され、旧町名を偲ぶものは何もありませんね。島田町とともに早くから面影がなく、僕もこの石碑を観るまで知りませんでした。
Img_85367z 交差点まで来ました。[六枚町(ろくまいまち)]No121 この町の宅地税である地子銀が年間6枚だったことから。ここも平成16年6月に復活した旧町名で、石碑の「旧」の字が消されています。バス停も六枚町の名でずっと残っているほどの、アーケードのある商店街でしたが、老朽化と商店の多様化で数年前に取り払われてしまいました。
Img_85368z 宮腰往還(金石街道)を避けて石碑が林立します。[旧古道(ふるみち)]No120 元和2年に宮腰往還が出来るまで、この道が街道でしたが、その後新道に対して古道と謂われました。
右から写真真ん中奥に向かう道のことです。高架になるまで、金沢駅に程近いので大きな踏切がありました。
Img_85371z ここは地図の印とおりの位置になく、探すのに難儀した[折違町(すじかいまち)]No122 古道のすぐそばでした。
この近くを流れる鞍月用水に斜めに橋を架けたので、すじかい橋と呼んだことから町名になりました。

Img_85372z 宮腰往還と線路を跨いで、金沢駅寄りに来ました。[旧日吉町(ひよしまち)]No128 近くの広岡山王社への山王道が日吉町と謂われましたが、今は鉄道高架下になって消滅してしまいました。
石碑は明らかに放生寺の敷地内ですよねw。

Img_85375z 放生寺のすぐ裏の公園に、二つの石碑がありました。[旧広岡町(ひろおかまち)]No132 平安末期から、平岡野・弘岡と呼ばれ、藩政期には北広岡村となったようです。
公園で写真を撮っていると、小さい女の子が寄ってきて、「何を写してるの・・?」。お母さんと思しき人が遠巻きに見ているので、変な人と怪しまれないように、「石碑を撮ってるんだよ。金沢にいっぱいあるんだよ!」と大きな声で説明してあげましたw。それでも普通の人からすると、充分変なことしてる人に違いありませんww。
Img_85377z その公園の反対角に、[旧醒ヶ井町(さめがいちょう)]No131 北広岡村の請地で、前田土佐守家の下屋敷があった。目の醒めるような綺麗な井戸があったので。
「前田土佐守家資料館」へ行ったときに、その屋敷地一帯の古地図が展示してありました。
この日はこの後も含め、夕方からだったのに、長くなった陽が翳るまでの1時間くらいの間に、一気に20基の石碑を発見できました。続きは明日の日付で。

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2008年5月14日 (水)

「金沢市歴史のまちしるべ」5

Img_85297z 5月3日は石浦神社の祭りと金沢城菓子百工展を観にいくのにチャリで出かけました。家の近所から未到達の石碑を潰していこう。
[旧長柄町(ながえまち)]No22 参勤交代などのとき、長柄の槍を持つ人たちが住んでいた。地元菊川校下の各町会に、こういう旧町名が他にも残っています。道路の向かいは菊川郵便局。
Img_85299z [旧台所町(だいどころまち)]No23 台所付足軽の組地があったことから。
菊川1丁目の内側の小路で、短冊形に細かく区分けられた一帯が古地図でもはっきりとわかります。そこが台所町でした。


Img_85303z 犀川大通りに出て、思案橋バス停のところ[川御亭(かわおちん)]No502 付近は藩老本多安房守の御亭があり、近くに鞍月用水が流れていたことから。
道路の向かい側は、加賀八家筆頭、本多家の屋敷地一帯でした。詳しくは本多町の項で。
Img_85305z その向かい側、思案橋に来ました。[勘太郎川(かんたろうがわ)]No406 この用水は辰巳用水からの分流で、石引町で分かれるところに勘太郎という人が住んでいたからというが定かでない。笠舞の湧水、大清水(おおしょうず)も水源になっています。
思案橋の名は、この地の主、本多の殿様が歩きながら酒にしようか茶にしようかと思案したことからだって。
Img_85308z また菊川の方に戻って、幸町との境の小路[旧早道町(はやみちまち)]No26 足軽飛脚が住んでいた組地だったことから。飛脚のことを早道と言ったそうです。
この石碑も堂々と、個人宅の敷地内にデンと建っています。正面は僕の愛機の「爽」です。誰かさんに名をつけてもらいましたw。
Img_85310z 少し菊川側に戻って[旧主馬町(しゅめまち)]No25 鉄砲頭をしていた本庄主馬の邸地があったので、主馬殿町から転じて。
ここは細い小路が三叉集まって広見になっています。空襲のなかった金沢で、江戸期からの城下町の街並そのままのこういう路地が、たくさん残っています。街に歩いて出る道として、僕もよくここは通っています。
Img_85311z 幸町の県庁分室の前まで来て[旧山田屋小路(やまだやしょうじ)]No30 山田屋という魚屋が、数代に亘って住んでいたから。




Img_85316z 幸町のバス停まで戻って[旧百姓町(ひゃくしょうまち)]No29 石川郡石浦村の農地だったのが町立てされた。農民が多く住んでいたから。
わかりにくいかも知れませんが、厳密に言うとこの辺、行ったり来たりしています。それは石碑がなかなか見つからなかったから。金沢市のHPにも地図は載っているんですが、これがプリントすると薄くて何が書いてあるか読みづらいし、印の位置も微妙にずれています。金沢城までのこの近辺でも、結局2箇所はこの日あきらめて逃しています。
Img_85319z 鱗町交差点を過ぎて、中警察署の裏あたりに来ました。[油車(あぶらぐるま)]No46 油屋与助という油屋が、この地に水車を設け灯油などを製造していたから。
頭に「旧」のつく町名は、今は違う名なわけですが、ここはつまり今でも油車というわけです。入り組んだ境の古いままの町名も多く残っています。
Img_85321z 油車に程近いここもそうです。[茨木町(いばらきちょう)]No43 加賀藩士、禄高2,050石の茨木氏の屋敷があったことから。藩士や家老の屋敷地で、その名が付いた町名が残っているのが多く今でもあります。


Img_85323z 本日の町名碑最後は[本多町(ほんだまち)]No47 加賀八家筆頭の本多氏は禄高5万石。並みの大名以上あります。その屋敷地は上屋敷・下屋敷、家臣の組地など広大で、城下町の中の複合城下町の体を成しています。それは本多氏に限らず金沢に30ものそういった構造があったと言います。
今は本多町と言えば主にこの北陸放送MRO会館が有名です。ここの石碑は珍しく、横型になっていますね。
Img_85326z 金沢城に入る前に、氏子になってる石浦神社の祭りに奉賛金を納めに来ました。
飛鳥時代創建の由緒ある神社で、その間社地は転々としながらも、一環して領地主に崇敬され、金沢城に近いこともあり藩主前田家や地内の本多家から篤く守られていました。僕の家まであるように氏子地域も広大なものでした。
今も兼六園と21世紀美術館の隣で、一番目立った位置にある神社と言えましょう。

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2008年5月13日 (火)

「金沢市歴史のまちしるべ」4

Img_85159z さて、29日のラストをお伝えします。森山へ向かって[旧上田町(うえだまち)]No161 山ノ上町から分立して、用水の上方にある田地だったことから。




Img_85163z 五社のひとつ小坂神社の参道口まで来ました。[山ノ上町(やまのうえまち)]No162 室町期からある名ですが、河北郡小坂庄山ノ上村の一部だったことから。
ここにちょうど、五社めぐりの案内板と卯辰山山麓寺院群を巡る「心の道」地図があります。寺院群はまたいずれかの機会で。
Img_85189z 小坂神社から内側の道は意外に険しく、東山へ向かうのに結局159号線へ降りてきました。
[旧高道町(たかみちまち)]No158 藩政期には、北陸道はもう少し西側にあり、ここは山側ですこし高いところにあったのでこの名がついた。

Img_85192z [旧森下町(もりもとまち)]No153 馬場小学校の目前です。森下村の郷士亀田大隅の子孫が染工になって住んでいたから。
馬場小は、泉鏡花、徳田秋声がOBとしている歴史ある学校です。


Img_85196z 五社のラスト、宇多須神社の前まで来ました。[旧八幡町(はちまんまち)]No151 旧宮名が卯辰八幡宮だったので。
だいぶん陽が翳ってきました。そろそろラストスパートです。



Img_85265z 東廓を廻ったあと、円長寺の前にて、[旧木町(きまち)]No150 材木問屋が集まっていたので。最初卯辰ノ木町、四丁木町などと呼ばれていた。
石碑は、寺の表敷地内に建てられることもよくありました。この後多く見かけます。

Img_85269z さて、この日最後は[橋場町(はしばちょう)]No107 天正年間に、懸作(かけづくり。仮屋のこと)を作って商人がこの浅野川の川原で商売をしていた。藩政期に橋爪町・橋端町とも呼んだことから。
浅野川大橋のたもとです。実はこの園内にもうひとつ、字名で[懸作]の石碑があったのですが、やり過ごしてしまいました。後日GW中に訪れてちゃんとゲット。後にレポートします。
Img_85275z これが浅野川大橋。3連アーチも美しい古い石橋です。以前にも書きましたが1922年建造の国の登録有形文化財です。

やっと29日のレポートが終わりました。次からは5月GW中です。


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2008年5月12日 (月)

「金沢市歴史のまちしるべ」3

Img_85097z 金沢大学病院の裏の急な坂を下りたら、五社のひとつ椿原天満宮なんだけど、その坂は[天神坂(てんじんざか)]No314 昔は田井天神って言ってたそうで。
小立野から桜町は、10年ほど前の小立野トンネル開通までは、この急で危険な坂が唯一のルート。しかし古くからさまざまな人の思い出や曰くがありそうで、懐かしい坂のようです。
Img_85112z さて、桜町に下りてから、一気に金沢駅前までバスで来ました。安江八幡宮へ行くためですが、新しい金沢駅東口は、これでも旧町名の宝庫。大きな構造物は、本来複数の町名に分かれていました。
[旧木ノ新保(きのしんぼ)]No139 藩政初期の金沢城西側にあった石川郡石浦庄木ノ新保村がこの地に移されたことから。
Img_85114z なんと今確認したら、金沢市のHPでここが抜けてました。[笠市町(かさいちまち)]No不明 したがって現在総数は218箇所、踏破は92箇所です。Tadashiさん、あの本でNoわかりますか?
このあたりに笠問屋が並び、加賀の菅笠と諸国に広まった笠の市が開かれたことから。
Img_85133z 笠市から小路の住宅地を入って、浅野川沿いに上ります。[旧塩屋町(しおやまち)]No142 は、なんと民家の敷地内に石碑がありました。ガーデニングに隠れて、下までよく見えませんw。この先もこういった石碑がときどきあります。
藩政初期には、塩問屋が大手門付近にあったが、この地に移転してきたため。そういう移転した類の町名がたくさんありますね。
Img_85138z 小橋の堰のところの公園に、[旧岩根町(いわねまち)]No134 藩政初期、馬術の名人岩根十蔵が開いた馬場があったので。
この下に、辰巳用水の浅野川への放水口があります。

Img_85143z 兼六園の手前で二筋に分かれた辰巳用水は、ひとつは西外総構堀となって鞍月用水と柿木畠付近で合流します。もう一筋は広坂通り・尾山神社前・近江町市場を流れて、ここに到達します。
対岸から放水口を撮りましたが魚道と重なって判別しにくいです。ここまで全長16.5km。犀川の水がまちなかを潤しながら、浅野川に注ぎます。
Img_85150z [小橋町(こばしまち)]No156 浅野川のこの橋が小橋です。藩政時代には、犀川大橋・浅野川大橋とともに、金沢の三ツ橋と呼ばれていました。
付近には江戸期からの老舗、飴の俵屋さんがあります。

Img_85155z [旧水車町(みずぐるままち)]No159 松任から来た油屋が用水に水車を掛けて灯油などの製造を行っていました。
小橋からここまで、新しい道路が出来て判別しにくかったのですが、S氏が持っていた古いガイド本には、この後ろの個人宅が名前入りで載っていたのでわかりました。個人情報保護にこだわる現在では考えられませんねw。
Img_85157z 森山へ向かってその新しい道の交差点。[旧御仲間町(おちゅうげんまち)]No160 元禄のころは御馬屋町と呼ばれ、藩の馬の世話をする仲間(ちゅうげん)の組地があったことから。

今日はここまでとします。次回はいよいよ東山へ向かいます。


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2008年5月11日 (日)

母の日の葬儀

Img_66208s 今日は葬儀に行ってまいりました。会社の若い営業の奥さんで、ミス○○になったこともある33歳の美人の気立てのいい人でした。5年前の結婚パーティに呼ばれたときは、みんなから羨まれた仲睦まじい若い2人の未来は輝いて見えました。
しかしほどなく、奥さんの乳ガンがみつかり、それからの闘病生活は辛いものがあったと思うのに、ダンナの営業くんは会社でもメッタに様子は話さず、苦しみをこらえ続けていたと思います。
そして今日の葬儀の挨拶で、「妻は病気に感謝してました。日々の当たり前に過ごせることが、こんなにもありがたいことだと気づかせてくれたから・・」と語る立派な姿に皆涙しました。
自分より若い人を送ることはあまりにも辛いことですよね。皆さんも身体にお気をつけて、日々を大切に過ごしましょう。
このブログをお読みいただいている関係各位の皆様。ご臨席、弔電などありがとうございました。ご報告とこの場を借りてお礼申し上げます。

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2008年5月10日 (土)

「金沢市歴史のまちしるべ」2

Img_84998z 香林坊から、広坂と片町の間の裏道に入ると、[柿木畠(かきのきばたけ)]No53 
江戸初期の火災の教訓から、ここ一帯を火除地にするため空地とし、柿の木を植えたことから。金沢検定に理由が問題になりました。ここも復活町名として平成15年10月にこの名に戻りました。石碑の上の部分、「旧」の字が消されているのがわかりますか?
向かいには老舗の書店があって、鞍月用水や広い歩道など、一帯は街中にあって明るい広場のようになっています。
Img_85016z 四高記念館に寄ったあと、香林坊大和との間に[旧仙石町(せんごくまち)]No67 千石町とも書いたようですが、藩政初期から、どうしてこの名になったか由来はわからないそうです。そういうこともあるみたいですね。

Img_85018z 尾山神社の前まで来て[旧南町(みなみちょう)]No80 前田利家以前、佐久間盛政が城主のころ、ここが城の南だったことから。
町名は消えましたがバス停でずっと名前が残ってました。ここも町名復活の予定があります。次に訪れたときには「旧」の文字は消えてるかな?
Img_85024z せっかくなんで、尾山神社の境内に入りました。前田利家を祀る尾山神社は、嘗ては金沢城内。初詣は行列で賑やかになりますが、そんなときのたまにしか寄ってないので、出店もなにもないこういう空間は初めてですw。
利家の金鯰尾兜の像です。フランス人(勝手にそう思ったw)の親子もカメラに収めています。
Img_85051z 金沢城をひと回りして、兼六園脇から石引通りまで登りました。僕も入院したことのある出羽町の国立病院(今は医療センターって言うんだっけ)は、加賀八家の奥村宗家の屋敷跡。病院を囲むように板塀が続いています。こういうのも珍しいですよね。
板塀の外側は辰巳用水が流れています。

Img_85054z 石引通り、奥村家の屋敷地の隣には、[飛梅町(とびうめちょう)]No50 加賀八家前田家長種系の下屋敷があったところで、同家の家紋「角の内梅輪」にちなんで。
ここも平成12年4月に、隣の下石引町とともに町名復活しています。

Img_85057z [石引町(いしびきまち)]No44 (下)石引町として町名復活しています。
金沢城築城の際、石垣に適した郊外の戸室山から戸室石を切り出し、引いて運んだ道筋だったことから。
現在は片側2車線の立派な真っ直ぐな道が、三代藩主利常の正室で徳川家から嫁いだ珠姫の菩提寺「天徳院」まで続いています。国立病院・松原病院・金沢大学病院、と病院が連なっているし、父はよく大学病院に入院してたし、僕も国立に何度もお世話になったし、そんなイメージがある通りですねw。
Img_85060z [辰巳用水(たつみようすい)]No407 
何度か当ブログで紹介している辰巳用水です。石碑のある位置は、もうすぐ兼六園という最後の方ですが、犀川上流旧辰巳村から約10km、長いトンネルなども掘り、寛永年間(1632ころ)に短期間で作られました。火事の多い金沢城の上水としても利用され、現在でも兼六園や市内中心部を潤しています。工事指揮にあたった板屋兵四郎はサイフォンの原理で城内に水を引き込んだなど、金沢の偉人に今はなっています。
Img_85064z さらに石引通りを上がると[旧安藤町(あんどうまち)]No40 鉄砲組頭 安藤長左衛門の組地があったことから。
このあたり、南北の台地下への下りには、由緒ある坂が数多く、石碑もたくさんあるのですが、この日は五社めぐりがメイン。そのルートに沿うのを優先にして、坂はいずれかの機会にします。
Img_85066z さてそうこうしていると、金沢に3ルートあるコミュニティバス、わが菊川ルートの「ふらっとバス」が来ました。100円で1周約1時間の、古く狭い昔ながらの住宅地と街中をゆっくりとした足取りで巡ってくれます。だもんでお年寄りの利用が多いですね。僕もたまに乗りますが、のんびりとしていいものです。フォルクスワーゲン製のバスが多いんですが、この車は日野自動車製の新型です。こいつのほうが広く感じます。こういうのが全国で今広まってますよね。
Img_85074z 今日の最後は[亀坂(かめざか)]No309 この付近は昔深い谷だったけど、戸室石を運ぶのに、次第に坂の勾配をゆるくしていきました。しかし亀坂の名の由来はわからないそうです。
坂自体の特定が出来ぬままきたのですが、ガイドパンフの写真からこの坂と思い、上から下まで降りたのに石碑が見つかりません。もう一度上まで戻ると、坂の上の道、あまり関係なさそうなところに建ってました。坂は写真の左の階段を下ったところから始まります。

ここまでで、29日S氏と廻った発見石碑の半分くらいです。まだまだ続きますよ!

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2008年5月 8日 (木)

「金沢市歴史のまちしるべ」1

Img_84939z GW中に金沢市内を廻ったのは、五社のみならず、町名碑を探索することでした。金沢市では、「歴史のまちしるべ標示事業」として、町の辻辻に由緒ある(旧)町名・坂名・用水名などを標した石柱を建て、その土地の歴史や由来、情景を現代に伝えようと、昭和54年度から順次設置されています。
また金沢市では昭和38年からの新住居表示制度で、城下町特有の昔ながらの古く入り組んだ町名を廃し、整理された現代風の町名が多用されましたが、近年古い伝統の旧町名を復活させようという機運のもと条例が制定され、既に8箇所もの旧町名が復活しています。一口に復活といっても問題は多く、登記変更費用など住民に負担が掛かる中、住民総意の要望がまとまる場合に限るなど道のりは大変でした。現在旧町名を復活させた自治体は金沢以外にほとんどなく、それもこの「歴史のまちしるべ」が大きな影響を与えたのは想像に難くありません。
現在その数217基。天気のよかった今年のGW、4日間のうちに91基を発見、記録しました。そのレポートを数日に亘りお伝えしたいと思います。
Img_84942z 29日はS氏と自宅から犀川沿いを下りながら出発しました。桜橋の寺町側たもとに、二つの坂があります。1枚目の写真は[石伐坂(いしきりざか)]No305 形から通称W坂と呼ばれ、井上靖の碑もあります。坂の上に職人町がありました。
次は[桜坂(さくらざか)]No304 金沢城からの眺めをよくするため、桜が多く植えられました。二つの坂の名が一つの碑に併記されています。
Img_84968z 犀川大橋たもとの神明宮へ寄り、その横の雨宝院に[千日町(せんにちまち)]No17 雨宝院の山号が千日山であるところから。室生犀星が子供のころ養われていた寺でも有名ですね。



Img_84970z 犀川大橋を渡って、すぐ左の細い路地を入ると、今は個性的な飲食店が並ぶ街、[旧伝馬町(てんままち)]No53 藩用の人や荷物を運ぶため、66頭の伝馬が置かれていました。
対岸のにし茶屋街の方たちにも古くから親しまれていたそうで、付近は今「片町伝馬商店街」として盛り上げています。
Img_84973z 碑から正面の犀川には、大野庄用水の取水口があり、ここから長町武家屋敷の土塀沿いを流れ、北部の農地を潤していました。
この石造りも古く「念記典大御」と書かれていますw。


Img_84975z 飲み屋街が密集する一角、ビルに囲まれた狭いトンネルを抜けると、突然あらわれた赤い神社。小橋菅原神社は学問の神様菅原道真を祀った天神さまの一種。
金沢真中三寺社(ほか石浦神社・犀川神社)のひとつです。



Img_84983z ここからは、片町の裏道を駆け足で。
[旧長門町(ながとまち)]No59 加賀藩士、山崎長門の邸地があったことから。向かいは日本三地蔵のおわす養智院




Img_84988z その養智院の並びに[旧古寺町(ふるでらまち)]No55 藩政初期にこのあたりに寺が多く集められていましたが、元和期(1615~1623)に、今の寺町にほとんどが移されました。
養智院はそのさい、五代藩主前田綱紀の夢枕に地蔵尊があらわれて、大野庄用水守護のためこの地に残すように、とお告げがあって移転を免れました。
Img_84990z [木倉町(きぐらまち)]No62 藩の材木蔵があってついた名。今は飲食店街で、平成15年8月に4番目の旧町名復活となりました。




Img_84993z 今日お伝えする最後は有名な[香林坊(こうりんぼう)]No504 藩政初期、比叡山の僧「香林坊」が還俗して、この地で目薬屋を営んでいました。
ここは北陸道の要衝の地で、金沢城の外郭の惣構門があり、番人が夜間通行の取締りをしていたそうです。今は109大和など、金沢一の繁華街で、重要な地は変わりありませんね。この標柱は特に巨大な石で出来ています。

さて、こんな感じで明日以降もお楽しみにしていただけますでしょうか?

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2008年5月 7日 (水)

GWの金沢のイベントあれこれ

Img_85342z みなさん、GWはいかがお過ごしだったでしょうか。僕は4月の週末に江戸で散財したので、5月はおとなしく金沢市内であまりお金のかからないことをしました。29日はS氏との五社めぐりと町名碑探索。それに味をしめた僕は彼に黙って5月の連休もチャリと徒歩で町名碑を探し回ってしまいましたw。
とりあえずそれ以外の市内のイベントをお伝えします。
Img_85332z 3日は、姫路の菓子博には及びませんが、和菓子どころの金沢ならではで、毎年行われる「百万石菓子百工展」が金沢城内で開かれました。普段有料の五十間長屋内で[お菓子でめぐる、加賀藩参勤交代道中記]と題した無料ギャラリーがあり、初めて中に入りました。五十間長屋・21世紀美術館の有料ゾーン・近代文学館など、新しく建てられた物の有料スペースに、なかなか入る気になれませんw。
Img_85330z 道中の宿場の歴史ある和菓子が展示。今でも作られてるものも多く、その土地らしい興味深い内容でした。
外では県内の和菓子舗がずらり並んで展示販売や菓子づくり体験など、子供たちや観光客もこぞって楽しんでました。
七尾が生んだ世界的パティシエ辻口博啓氏も5日に来場予定でもりあがったでしょう。







Img_85333z 内部では通常展示してある城づくりに関する模型もあって、ついでながら得した気分。
でも3日の城内は、まだまだ観光客は少なめかな?

このあと、21世紀美術館で第39回「日展」を観てきました。絵画はどうにも大きい号数のものばかりだったなぁ。
Img_85355s 4日は音楽会。今年から始まった「ラ・フォル・ジュルネ金沢『熱狂の日』音楽祭2008」へ。一週間かけて、金沢駅周辺の主要会場で、有料・無料117公演が世界各国や市内から1000人もの音楽家が参加する一大セレモニー。最終的に83,000人も観客が来場したそうです。
これも初めて石川県立音楽堂コンサートホールへ入りました。
Img_85350s 夕方ふいっと思い立ってギリギリで来たので、すでに客席は満杯。いちばん後ろで立ち見でした。ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)と監督井上道義氏指揮の渾身の演奏。今音楽祭のメインイベントと言ってもいいだろう。
久しぶりに生の美しい音楽を、ちゃんとした舞台で聴きました。OEKは小編成ながら、それを感じさせない迫力のサウンドでした。ステージにまで観客を入れ、間近でプロの技を体感させるのも心憎い演出です。
Img_85352s 4楽章45分。あっという間で立っている疲れも感じません。監督井上氏のダイナミックな指揮ぶりにも魅せられ、久しぶりの、なんともいえぬ感動がありましたね。たまにはクラシックもいいもんだ。
演奏終了後、アンコールがあるわけでもないのに、拍手が鳴り止みません。
東京でも同時開催だったこのイベントも、音楽ジャーナリストに金沢の方が熱気がすごい!とうならせたそうです。
資金難や人気低迷の時期もあったOEK。ホームグラウンドやビッグイベントも手にして、これからより盛んになって、金沢の芸術文化の一翼をこれからも担ってくれるでしょう。来年も楽しみだ!

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2008年5月 6日 (火)

金沢を歩き通した29日

Img_85000z 29日はこのほかにもいろいろなところを廻りました。町名碑関係は後日にするとして、いくつか紹介します。
香林坊にある旧制第四高等中学校本館がリニュアルオープン。以前からあった石川近代文学館を有料部分として右に、新たに無料ゾーンとして左半分が「石川四高記念館」となりました。鬱蒼として暗かった周辺の木々を、裏の中央公園部も同時に間引きして明るくイメージチェンジ。
Img_85001z 明治26年から約60年間、旧制高等学校として学都金沢の中核をなした第四高等学校の歴史を展示してあります。
今の金沢大学の流れを汲む学生たちの生き生きとした様子が、古い写真や復元模型、資料などとともに甦ります。以前の郷土資料館時代にも入ったことありますが、今回はよりすっきりして見やすくなったと思います。
Img_85006z 今流行りのレトロな空間も演出されて、小奇麗でかっこよくなりましたよ。このレンガ造りの建物は、国の重要文化財にも指定されています。
四高といえば、井上靖や正力松太郎、西田幾多郎などが有名ですね。
バリアフリー化工事もされ、中央公園側にはエレベータも設置されました。それには二階建てなのにG階というのもあります。何なのかは行って確かめてみてくださいw。






Img_85010z 2階は教室が多目的利用室として一般にも貸し出されています。往時のままに再現された、木製の机もなつかしいこの教室も、午前3時間1,800円より利用可能です。




Img_85043z この後金沢城内に入り、今一度河北門の工事の様子を見学しました。旗日でも作業は進められ、クレーンで石垣内部の丸い石(栗石)を積んでいました。
石工がノミで石垣の切り出し加工もしていて、積み上げは思いのほか早いピッチで進んでいます。掲示してあった日程表からすると、あと2月もすれば二の門の石垣積みは完了してしまいそう。その間に見学会は果たして開催されるのでしょうか?
Img_85152z それから五社と町名碑を探索するため石引から桜町へ降り、バスで金沢駅へ行ってから浅野川沿いを上って小橋へ出ました。
小橋といえば「飴の俵屋」です。江戸時代からある老舗の品は、穀物のみの原料で砂糖など使わず、素朴でなつかしい味のするやわらかい飴です。何度も前は通ったことありますが、江戸のあの人のために初めてこの本店で買い物しました。
Img_85222z 最後に東山界隈で五社目を廻ると、もう18時でしたが陽はまだ空にありました。そこで観光地化に整備されてから初めて、東廓にやってきました。
夕方だったのでもう観光客は少なく、静かな通りだったのでよかったですねw。

Img_85228z なんだか金沢にあって、金沢でないような、別の土地の観光地に迷い込んだような錯覚を覚えました。およそ自分の普段の金沢の印象と全く違う風景です。




Img_85232z 会社の昼食時間は13:30に摂るのですが、食堂で昼ドラを見ながらで、以前も紹介した今やってる「花衣夢衣」。先日もこの場所のロケシーンが映ってました。昭和30年頃というわけで、街中はもう時代にあわないでしょうから必然こことなりますが、反対側突き当りの「デザインパーマ」の古い看板の店、ロケ用かと思ったらホントに今古い看板で営業してました。
Img_85252z いつもお世話になってる印刷オペの妹さんが勤めてる金箔ショップ「箔座」です。
女性に人気の金箔アイテムで、化粧品やあぶらとり紙がほとんどだったので、臆して何も買いませんでしたがw。



Img_85271z 陽もだいぶ落ちてきて、橋場町でバスに乗って帰ります。
この日は9時から18時30分、バスも使いましたがほぼ歩き通し。疲れましたが新しい金沢の再発見の出来た日でした。町名碑もたくさん確認しましたが、後日GW中も待ちきれず探索。それらは別カテゴリーで紹介していきます。
Img_85277z 橋場町で望む浅野川の「梅の橋」。人道橋ですが、先月修理再開通したばかり。木製の欄干や梁の内側は、鉄筋コンクリートで頑丈に造られていました。安全第一ですからね。



Img_85295z 夕暮れの橋場町バス停と浅野川大橋。この石造りの橋も、犀川大橋同様、国の登録有形文化財で1922年建造の三段アーチ橋です。
同行S氏もお疲れ様でした&ありがとう。またたまに一緒に歩きたいですね。



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2008年5月 5日 (月)

金沢五社めぐり!

Img_84932z 今日は29日のレポートをします。この日は歴史好きのS氏と一緒に金沢散策。
金沢五社めぐりと町名碑探索、他盛りだくさんに、市内を15kmほども歩き通したんですが、最後はへろへろになりました。
町名碑など数多いので、今回は金沢五社を重点にご案内します。出発前に、自宅前の犀川の川原で、鴨たちがお出迎えしてくれました。ホントにここの鳥は人間に近付いても動じませんw。
Img_84944z 川原を歩いて通称W坂から寺町台に上がります。昭和の日の今日は快晴、過ごしやすい陽気に、どこかのウォーキングの団体が集団で降りてきました。回も重ねたいろんな世代が参加のイベントで、地元新聞にも告知は見なかったけどなぁ。
寺町の高台からの犀川と街の眺めは、アマ画家がこぞって題材にする風景です。犀川でもよく見かけます。
Img_84954z さて、最初の目的地、犀川大橋たもとの「神明宮」へやってきました。五社めぐりとは、藩政期の前田家の厚い待遇をうけ、藩主自ら参詣を奨励して、すべて巡れば開運招諸願成就なるということです。五社とも僕は今回初めて訪れます。
「神明宮」は全国三神明に数えられるそうです。春秋のあぶりもち神事や、金沢の左義長の元祖もここと言われます。
Img_84956z 境内には、樹齢1,000年を越える大ケヤキがあり、金沢市の天然記念物になって親しまれています。高さ33m、周囲8mほどもあります。昔は境内は大祭でにぎわい、幼年期にいた中原中也の「サーカス」の詩の元だったり、裏に住んでいた室生犀星の遊び場だったそうです。
そんな有名な社(やしろ)に、そんなに遠くないのに一度も来たことなかったとは!今日の五社は全部そうなんですけどねw。






Img_85080z さて次は、ここまで繁華街から金沢城をじっくり廻って石引通りを上ったうえでやってきた、大学病院裏の「椿原天満宮」です。
ここはかつて金沢城の出城の砦の役割もしてました。社殿の後ろの鬱蒼とした森の中に本殿があるようで、石垣の上に建つ社の前の急な階段は、威厳と隠密性を感じさせます。
Img_85093z 境内脇の急な天神坂は、かつて小立野台から桜町方面へ抜ける貴重な街道(今は立派なトンネルが出来た)。僕も昔はよく通ってたのに、やはり急な階段で上る広い境内のある天満宮の中には今日初めてでした。社殿の中には、由緒ありそうな縁起絵とかあったけど、かすれてほとんど見えませんでした。
Img_85119z 桜町からバスに乗って、一気に金沢駅前まで来ましたよ。「安江八幡宮」です。
金沢の郷土玩具「加賀八幡起上りこぼし」の発祥の地だそうです。




Img_85124z 社殿の横には、見事なサツキの花が満開!氏子総代が、樹齢100年を越えるサツキをちょうど10日ほど前に寄進したばかりだそうだ。1本で美しい紅白の花を咲かせるのはとても珍しいらしい。挙式利用が増えた神社で宮司も喜んでいる、と偶然数日後の新聞に載ってましたw。

Img_85163z さて、五社めぐりも佳境。ここまで浅野川ぞいも散策して、いよいよ東山の「小坂神社」前まできました。ちょうど[県社]の碑の横に、同時に探索している町名碑[山の上町]もありました。これも町の辻辻にたくさん建っているので、このレポートも後日報告します。

Img_85177z 小坂神社の上まで登ってきました。左右には四社の末社があり、芭蕉の句碑などもいくつもありました。末社のひとつ鳴滝社では、義経に付き従う弁慶がこの前で「鳴るは滝の水」を舞ったとか。
伊勢神宮の式年遷宮まであと5年。僕が氏子になってる県社の石浦神社でも奉賛金を納入しろと袋が廻ってきたが、ここにも幟が立ってましたw。
Img_85200z いよいよ最後の「宇多須神社」。歴史は古いがかつては卯辰神社といって、江戸時代初期には前田利家を祀っていました。
18時近くなりだいぶ陽も翳ってきました。しかしそれでも陽は長くなったね。この後は観光地化して初めて訪れる東廓とかも歩きましたが、それらは明日またお届けします。
なにせこの日は、金沢に長く住んでても、まだまだ行ったことのない地も多いのの再確認をしましたw。金沢、かなり奥が深いですよ! 五社めぐりのご利益あるかな。。

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2008年5月 4日 (日)

春の江戸、鉄道レポート 2

Img_82880z さて、都電荒川線との交点、「熊野前」駅に来ました。以前ここで都電を撮ったときには、もちろんこの巨大な高架はありませんでしたが、案外に周りの風景にマッチしてるようにも見えます。駅の造りも簡素だからでしょうか。
今はツツジが盛りで美しいです。

Img_82888z 都電の駅との位置関係はこんな感じ。何度か都電をやり過ごしたのですが、「日暮里・舎人ライナー」の入線とコラボすることはできませんでした。
ここはそのうち新旧の列車を写せるスポットとして有名になるでしょう。

Img_82908z 都電に乗り換えて王子から尾久へ向かいます。休日の朝から観光客でなく地元の足として満員になる都電は、新型車両投入のニュースもあり、もう廃止の心配のない貴重な産業遺産ですよね。


Img_82986z 尾久駅に来ました。ここは車両センターのある東はずれに東北本線を移設したことでできた駅です。車両基地にはさまざまな列車の休んでいるところが観られます。
この日はGW前の休日、本線には北関東向けの特別列車が多数設定されていました。これは185系の特急草津だけど。

Img_82975z 尾久の車両センターには、ブルートレインもたくさん休んでいます。先ほどまで乗っていた北陸の14系も。一番手前はこれまた貴重な青森行き「あけぼの」24系客車。



Img_83017z 今年の年末年始にだけ運行された特別快速列車「エアポート常磐」がこの週末も特別に運行されたようです。183系の6両編成。
京成のスカイライナーより安いがJRエアポート成田よりは高い。我孫子からの成田線運行なので時間も少し掛かるという、ふしぎな列車です。
Img_83031z E231系が席巻して久しい近郊線ですが、高崎線ではまだ211系が一部頑張っています。今ここで写しておかないともう見られないかも知れないなw。
ホームの呼び鈴を押す車掌の足元が愛らしい。
東京では、結局わずかの開き時間で鉄道訪問するのが日課のようになってしまいましたw。


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2008年5月 3日 (土)

春の江戸、鉄道レポート 1

Img_82796z 世間はもうGW後半に入ったようですが、長らくお待たせしました。先週の活動報告のようなものです。データを溜めに溜めたので、4連休は加工とブログアップでつぶれそうですw。江戸・金沢と、順にレポートしていきますのでよろしくお願いします。

例によって夜行「北陸」で早朝上野に着いて、その足で開通したばかりの「日暮里・舎人ライナー」へ。JR日暮里駅前は、工事中にも何度も来ているとはいえ、やはり突如現われた感のある巨大な構造物は壮観です。
Img_82800z JRのコンコースや京成線もかなり工事が進み、数年後には近代的な最先端の駅になる日暮里の新しい顔に相応しい造りに内部はなっています。早朝6時台ということもあり、人影はまばら。開通間もない週末なので、日中は混雑が予想されるのですが、じっくり探索できそうです。

Img_82808z 5両編成の新都市交通車両がやってきました。同じタイヤ走行、第三軌条の「ゆりかもめ」のチープ版と言ったところでしょうか。結局東京都交通局の運用となり、都バスや都電と共通の一日フリーパス700円也が使えます。


Img_82815z 車内も極力装飾を避け、シートも乗り心地よりコンパクトに大人数座れるように、ロングシートの試作車からクロスシート仕様に変更されました。座席もゆりかもめ同様硬いです。機能性とコストダウン重視ですね。
しかしバリアフリーは充分配慮されてるようです。ちょっと話は逸れますが、今回「ゆりかもめ」で貴重な体験をさせてもらいました。撮影仲間のTさんを車椅子介助しながら「ゆりかもめ」乗車したのですが、切符購入から案内の人が付き、身障者手帳で半額購入の後、渡し板を準備してもらうため目的地に連絡して、ホームでも車椅子対応車両の前の所定位置で待ち、車両ではわざわざ座っている人を退け、車椅子ポジションに案内してもらいました。無人化が進む新交通でも、こういう案内人や、モニター監視で誘導してくれるなど、人の手はとても重要なのだと再確認できました。「日暮里・・」では案内人は見えなかったけど・・w。
Img_82823z さて、いよいよ出発です。日暮里を出てすぐ左折し、ビル群のせまい谷間を走る様子は都会の土地の狭さを如実に感じますね。圧迫感がすごいです。しかしこのビルの上から鉄道を撮れるのはすごくうらやましいですねw。

Img_82836z 西日暮里から右折して、一路尾久橋通りを北上です。途中隅田川と荒川を相次いで渡るときに、首都高の中央環状線も渡り越すのにかなり勾配があるところがダイナミックです。


Img_82835z 目を横にやると、都会の眩しい朝でもたくさんの車が走っています。






Img_82844z この尾久橋通りの慢性渋滞緩和のために、永年新都市交通の検討がなされ、遅れながらもやっと開通にこぎつけたのは、地元の篤い陳情もあってのことと思いますが、当初予測より半分の乗車数予測では将来の延伸も見越した黒字経営はどうなるのか注視されるところです。

Img_82867z 足立区に入る頃には、周りの建物も低くなり、一般民家の割合も増えた、閑静な昔ながらの住宅地の様相ですが、びっちり建物で埋まった見渡す限りの平野を見ると、この費用の掛かる複雑な構造物を金沢に造るのはゼッタイにムリと、あきらめの気持ちが増していきましたww。

Img_82849z 終点、見沼代親水公園に着きました。ここまで約10km、わずか20分の乗車です。この短い道のりを造るために計画から20年以上掛かりました。
ゆりかもめに比べて駅の構造なども簡素化されていますが、ホームドアや登りのみのエスカなど、基本的な機能はほぼ同系ですね。

Img_82850z_2 駅前です。すれ違った上り列車は立客も多かったように見受けますが、周りは舎人氷川神社があるくらいの、静かな住宅地。今後の利用者数が気になるところです。
バスではラッシュ時一時間も掛かってたようですから、便利は便利になったと思います。でも、江戸に住むならこういうところもいいかもw。

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